結婚の条件.3
学校の一日が無事に終わり、これから帰ろうかと思っていた久保田に、時任は用事があるからと言って先に帰ってしまった。これはかなり珍しいことである。
24時間一緒だとまでは言わないが、特に何かある時以外は一緒に帰るのが普通だった。それはやはり一緒に住んでいるせいだというのもあるのだが、それ以前に二人でいるのが自然だからだろう。 そんな二人なのだが、ここ数日はいつもと違って、二人は別々に行動していることが多かった。 「また追いかけないの?」 今日もやはり帰ると言った時任を引き止めることも、追いかけることもしない久保田に、桂木が少し咎めるような口調でそう言う。 すると、久保田は、ぼーっと窓から帰って行く時任の後姿を眺めつつ、 「用事があるって言ってたから」 と、答えた。 久保田は時任の様子がおかしいことを知りつつも、放ったままにしている。 それはどうでもいいとかそんな風に思っているのではなく、実は久保田は別のことでらしくなく悩んでいたせいだった。けれどやはり、その悩みの原因は時任なのだが・・・・。 「ねぇ、桂木ちゃん」 久保田がぼんやりした感じで桂木を呼ぶと、桂木は視線を机の上の書類から久保田の方に向けた。 「なによ?」 「桂木ちゃんは、やっぱいずれ結婚しようとかって思ってたりする?」 「・・・まあ、いずれはって考えてるけど、絶対ってワケじゃないわね」 久保田の突然の質問に、少々驚いたような様子で桂木がそう答える。 そんな桂木の様子を気にせず、久保田は話を続けた。 「結婚って全然興味なかったケド、色々考えたらした方がいいかなぁって、ちょっと思ったりしてるんだよね」 「色々考えたって?」 「マンションとか、銀行口座に入ってる貯金とかのコト」 「それと結婚と何の関係があるのよ。全然、関係ないじゃない」 「ん〜、確かに一般的に言えばそうかもね。けど、俺には結婚したい理由が別にあるし」 「理由?」 「俺に何かあった時、そういうのが時任に渡るようにするのって、結婚するのが手っ取り早いんだよね」 「・・・けどそれって」 「うん。これ言ったら、時任は絶対俺と結婚してくれないだろうなぁって」 「でしょうね」 いずれマンションや貯金の名義を書きかえようと考えていたりはしたが、高額であるために、時任に妙な疑惑をかけられかねない。 それだけは絶対に避けなくてはならなかった。 けれど、名義の変更のことをまだそんなに真剣に考えていたわけでもないし、急がねばならないことでもないが、結婚のニュースを見てなんとなく考えてしまったのである。 だから久保田は、結婚は紙切れ一枚のことじゃないと時任に言ったのだった。 「確かに、そういうのはあるのかもしれないけど。でも、結婚てそういうもんじゃないんじゃないの?」 そんな久保田に対して、桂木は苦笑しながらそう言う。 けれど久保田は薄く笑みを浮かべただけだった。 桂木の言おうとしていることはなんとなくわかるが、それに賛同する気にはなれなかったからである。 紙に名前書いて印鑑押して、世間様に結婚しましたなんて知らせる必要も意義も無い。一緒にいようという約束を、紙切れに誓いたくはなかった。 結婚という言葉は、必要以上に人を縛り付ける。 それがどんな理由で誓われたものだとしても。 「それじゃあ俺も帰るわ。おつかれ、桂木ちゃん」 久保田は桂木にそう言うと、生徒会室を出て行こうとする。 だが、桂木がその背中に向かって、 「橘副会長の件だけど、単なるウワサってだけでもないみたいだから、気をつけた方がいいわよ」 と、言った。 だが、久保田は立ち止まらずにドアを開けて出て行った。
誰もいない部屋が寒く冷たく感じられるようになったのは、いつの頃からだっただろう? 時任と一緒に住むようになってから、久保田はこの部屋に一人でいるのが苦手になっていた。 元々一人で住んでいたはずの自分が、そんな風に感じてしまっている。自分の隣に、自分のそばにいると、そう当たり前に思ってしまっている自分に気づくのは、一人で部屋にいる時だった。 「七時か・・」 リビングにある時計を見ながら、久保田は吸っている煙草を灰皿に押し付けた。 別に子どもでないのだから、七時に帰って来ないからって、心配する必要はないのかもしれないが、久保田はさっきから時計ばかりを見ている。 しかも無意識に。 そんな自分自身に気づいて苦笑しながら、久保田は今日桂木に自分が言ったことを思い出していた。 確かに結婚ことを考えたとき、一番最初に頭にあったのはマンションの権利とかそういうことだった。 だが、やはりそれだけでなく、紙切れ一枚の絆だとしても、それで時任が自分に縛られてくれるならそうしたい。この部屋に閉じ込められるなら、そうできるならと、願っている自分がいる。 そういう自分に久保田は気づき始めていた。 「単なる言い訳・・かもね」 時任を探しに行こうと玄関に向かいつつ、久保田がそう呟く。 自分が思っているよりも、久保田は時任に執着してしまっていた。 マンションの権利とか、そんなことは言い訳としか思えないくらいに・・・。
「あれ?」
外に出ようと久保田が玄関を開けると、そこには時任が立っていた。 今、帰ってきた所かもしれない。 「おかえり、時任」 そう言って久保田が微笑むと、時任は沈んだ表情で、 「ただいま」 と、言った。 何かあったのは一目瞭然だが、久保田はやはり何も言わない。 橘とのウワサのことも知っていたが、あえて何も聞いたりはしなかった。 けれど、時任の方は昨日とは違うようで、じっと何かに耐えるような瞳で久保田を見つめている。久保田はそんな時任を静かに真っ直ぐ見返した。 「久保ちゃん」 「なに?」 「俺さ・・・」 「うん」 「・・・橘と結婚すっかもしんねぇ」 ウワサが本当だとか、嘘だとか、それを決めるのは時任自身だと思っていた。 だから、時任がそう言うのなら、それが事実なのかもしれない。 しかし、冷えていく気持ちとか、氷ついていくココロがその事実を否定しようとしていた。 「結婚したら、ここにはいらんねぇから、ダメだから・・・」 「・・・」 「ごめんな、久保ちゃん」 「・・・うん」 返事をした自分の声が遠くで聞こえる。
どうしてだとか、なんでだとか、そんなことを聞くことすらできなくて、久保田はただじっと静かに時任の言葉に耳を傾けていた。
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