籠の鳥.9




 雨の中をカサもささずに戻ってきた久保田は、葛西の横を素通りして室内に入った。
 葛西はとっさに呼びとめようとしたが、雨に濡れたその背中があまりにも冷たくて…、伸ばされた手はそのままの形で空中で止まる。今の久保田は葛西だけではなく、何もかもを拒絶しているように見えた。
 時任と暮らすようになって何かが変わっていくのを感じていたはずなのに、空から降り注ぐ雨に心を濡らされて…、
 久保田の瞳には、冷ややかな凍りつくような暗闇が宿っていた。
 時任を連れずに一人で戻ってきたということは、やはり探しても見つからなかったのだろうと思ってはいたが、さっきからどうも様子がおかしい。久保田は室内に入ったものの濡れたまま着替えもせずに、そのまま窓際に立って夜の闇の中に降る雨をじっと静かに眺めていた。
 「あきらめたくねぇってのはわかるが・・・・、やっぱり時坊のことは夢だったと思ってあきらめろ」
 「・・・・・・」
 「一緒に暮らしたのは、たったの数週間じゃねぇか…。今はムリだろうが、時が過ぎればいつの間にかいい思い出になる…」
 「思い出…」
 「あぁ」
 小さく漏れた呟きに葛西が軽くうなづくと、久保田はゆっくりと暗闇に触れようとするかのように窓ガラスに手を置く。そして、まるで窓ガラスに何かうつっているのを見るようにすぅっと目を細めると、手のひらを拳に変えてガラスを叩いた。
 すると、その衝撃でわずかにガラスに亀裂が入る。
 久保田がその亀裂を眺めながら握りしめた拳を開くと、ガラスに叩きつけた部分には赤く血が滲んでいた。
 「いずれ、思い出になるだけしかない明日ならいらない。手を振ってサヨナラするしかないなら、そんな手とは手を繋いだりしない…」
 「・・・・・・誠人」
 「そんな明日なら、この手で…」
 「そのガラスみたいに壊したところで、どうにもならねぇだろ。もし壊したら、そこに明日の残骸と後悔が残るだけだ」
 
 「・・・・そうかもね」

 葛西の言葉にそう言った後、久保田は自嘲するように口元に笑みを浮かべた。
 その笑みを見た葛西は、眉間に皺を寄せて少し視線をそらせる。そうしたのは久保田が変わってくれることを願ってはいたが…、こんな笑みを浮かべさせてたくてそう願ったわけではなかったからだった。
 この部屋で続いて行くはずだった穏やかで優しい夢のような時間は終わりを告げ、夜の静けさと残酷な現実がやってくる。
 葛西は細く長く息を吐くと、久保田に橘からの電話の内容を伝えた。
 だが、宗方総合病院に久保田が医師として働くという噂は、答えを聞かなくてもガセネタだと思っている。しかし、久保田が宗方の血を引いていることを知っている人間は限られているため、その噂の出所が気になった。
 あの屋敷から連れ出したのは葛西だが、それは別に宗方の許可を取ったわけではない。葛西が久保田を引き取りたいと言った時、宗方は自分にそんな名の息子はいないと言い切ったのだった。

 『息子などというものは知らないが、この屋敷に住み着いている犬なら勝手に連れて行くがいい』

 そう葛西に向かって言った宗方は、葛西の隣に立っていた久保田に一瞬だけ視線を投げたが…、その視線は人間ではなく、物を見るような感情を含まない冷ややかな視線だった。
 その時のことを思い出していると、久保田は窓辺から離れて葛西の前に立つ。
 そして近くにある棚の上に置かれていたセッタを取って、その中から一本だけ取り出して口にくわえた。
 「ウワサは今のところガセだけど、後継者になるってのも悪くないかもね」
 「本気で言ってるのか? お前」
 「さぁ?」
 「・・・・・わざわざ抜け出した場所に戻ろうって、その理由はもしかしたら時坊に何か関係があんのか?」
 「・・・・・・」
 久保田の言葉に向かって葛西がそう言ったのは、何か理由や根拠があったわけではない。けれど、思わずそんな風に言ってしまったのは、久保田があの屋敷に戻ろうとする理由が他に見つからなかったからだった。
 今まで屋敷を出てから一回も、久保田の口から宗方の名前が出たことはない。
 だが…、すべてを忘れかけた今になって、思い出したように宗方の名前が橘の口から葛西の耳に届いた。

 『宗方院長が引退を考えておられるのは、信じられませんが事実のようです…』

 久保田は苗字からもわかる通り、宗方に認知されていない。なのに、久保田の名前が後継者として上がるというのには、やはり裏で何者かが動いているのに違いなかった。
 葛西はじっとさっきした質問の返事を待っていたが、久保田は黙ったままセッタに火をつける。そして白い煙をゆっくりと吐き出すと、質問には答えずにバスルームへと続いている廊下の方へと歩き始めた。

 「おいっ、ちゃんと質問には答えていけっ」
 
 葛西はそう言ったのに久保田は何も言わずにドアを開けて視界から消えたが、この件について時任が関係している気がしてならない。それはたぶん…、時任に向かって穏やかに柔らかく微笑んでいる久保田を見ていたからかもしれなかった。
 穏やかに優しく過ぎて行った日々が、明るい光に包まれていいた分だけ、もしかしたら夜の闇は深く…、雨は冷たく痛く降りそそいで…、
 だから、雨音を聞きながら闇を見つめるだけで…、そこから痛みと冷たさが伝染していくのかもしれない。
 葛西は久保田の後を追わずに二人が暮らしていた部屋に背を向けると、やりきれない想いをぶつけるように、ちくしょう…と小さく呟いてから母屋へと戻って行った。












 『ミノル…』

 そう呼ばれながらベッドのきしむ音を聞いていたのはさっきだったばなのに、目を開けようとすると辺りがやけにまぶしくて、なぜか右の手のひらが熱い…。
 それを不思議に思った時任は、乱れたベッドの上でゆっくりと目を開いた。
 すると窓から入る陽の光はすでに沈みかけていて、夕日が赤く室内を照らしている。明け方に眠ったはずだったが、どうやら夕方まで眠ってしまっていたらしかった。
 手のひらまで届いた夕日を見つめながら包むように拳を握んだけれど、握りしめている内にそこにあったはずの暖かさはなくなって…、
 ただ沈んでいく夕日だけが、静かに静かに時任のいる部屋と空を照らしていた。
 
 「また…、夜が来るんだな…」

 時任はそう呟くと。毛布からはみ出してしまっていた自分の身体を眺める。すると、身体には無数の赤い痕がついていて、それを見たくなくて寝返りを打つとシーツのベタベタとした感触が気持ち悪かった。
 けれど…、何度も何度もひどく揺さぶられて、まだうまく立ち上がることができない。
 時任は抱かれた時の感覚を思い出して身体をぶるっと震わせると、枕を抱えるようにして丸くなった。
 毎日ここにいて天井を眺めて、夜になったら身体を深く犯されながら…、それを受け入れてベッドのきしみに合わせて身体を揺らすけれど…、
 昨日は何度もひどく突き上げられても、一度もアキラの背中に腕を回さなかった。
 その理由は自分でもわからなかったが、なぜか前みたいにアキラの熱を受け入れても心がそれについていかない。抱かれれば気持ち良くてたまらなくて、身体は深く奥まで犯されたがっているのに…、
 一週間前に一度しか会ったことのない男の顔が、抱かれるたびに脳裏に浮かんできて…、

 どうしようもなく…、哀しくて苦しかった。

 もう二度と会えないかもしれない男の姿は、腕に注射を打たれるたびにぼやけていくけれどそれでも今はまだ思い出せる。
 最初は忘れられないって思ってたはずなのに…、今は忘れたくなかった。
 そんな風に想うのがなぜなのか考えても考えてもわからなくても、抱きしめられた時の暖かさが恋しくてたまらない。けれどそれはベッドで抱かれる時に感じていた安心感とは違う感じで、天井ばかりを見つめていると恋しさが涙になってこぼれ落ちそうだった。
 
 「名前くらい聞けばよかった…、もう会えなくても…」

 名前を知っていても、きっと何も変わらない。
 けれど天井を見上げながらかみしめた唇が、男の名前を呼びたがっていた。
 ここにいられれば…、アキラのそばにいられればそれで良かったはずなのに…、
 時任の視線は天井から、外へと続いている窓へと向けられる。
 そこから差し込んでくる夕日を眺めていると、時任の唇がゆっくりと言葉を刻んだ。

 「・・・・・・・・・会いたい」

 そう呟いても、ここからは出られない。
 会いたいと想っていても、アキラのそばから離れることなんて考えられなかった。
 それが恐いからなのか好きなのか…、愛情なのか恐怖なのかわからないままに…、
 時任はベッドの上で注射針の跡のたくさん残る腕を撫でながら、また再び夜がやってくるのを静かに見つめていた。
 けれど…、そんな時任の目の前に夜よりも早く、何者かが部屋に忍び込んできて時任の前に立つ。その突然の侵入者の姿を見た時任は、大きく目を見開いて勢い良くベッドから起き上がった。
 「お、お前はこないだのっ!」
 「もしかして、ちゃんと俺のコト覚えててくれたんだ?」
 「当たり前だろっ!窓から入ってくる非常識なヤツは、お前くらいしかいねぇし…」
 「だぁね」
 「・・・・・・・・・っ!!」
 「どしたの?」
 いきなり驚いた様子で毛布を身体に巻きつけた時任に、男は不思議そうな顔をしていたが、毛布で身体を隠した理由は昨日の夜の痕跡を見られたくなかったからだった。
 それは恥ずかしかったのもあったけれど…、それよりも男に嫌われたくないという気持ちの方が強い。だが、もう赤い痕のついた身体を見られてしまっていて、いくら隠しても手遅れに違いなかった。
 時任は少しうつむいてぎゅっと毛布の端を握りしめたが、すぅっと息を吸い込んで明るい表情を作ると男の方に視線を向ける。
 強がりでもなんでも…、男の前では笑顔でいたかった…。けど、それは弱い所を見せたくないからじゃなくて、笑顔でいる自分を覚えていて欲しかったらかもしれない。
 まるで霧がかかったように次々と薄くなって消えていく記憶は、時任の中に思い出すら残してくれなかった。

 「わりぃけどさ、ちょっとだけ待っててくんねぇ? 汗でベタベタしてっから、シャワー浴びて着替えて来るからさっ」

 時任は笑顔で元気良く男に向かってそう言うと、毛布を身体に巻きつけたままベッドから床へと降りようした。
 だが、やはり足にあまり力が入らない上に毛布を身体に巻きつけているせいもあって、身体がバランスを失って倒れかかる。けれど、倒れる寸前で力強い腕が、時任の軽すぎる身体を抱き上げた。
 「なっ…、なにすんだよっ」
 「せっかくだから、ついでにバスルームまで連れてってあげようかと思って」
 「ちゃんと一人で歩けっから降ろせっ!」
 「イヤだ」

 「マジで降ろせって、言ってんだろっ!」

 時任は叫びながらじたばたと暴れたが、男は抱きかかえたまま離そうとしない。暴れた拍子に毛布が身体からはがれそうになったので、それを直している内にバスルームの中にまで連れて来られてしまった。
 ここで降ろしてくれると思っていたが、男は時任を降ろすとシャワーノズルを手に取る。時任が慌てて出ていけと言おうとしたが、あっという間に男の手に身体を覆っていた毛布が奪い取られた。
 「・・・・・・殴られない内に、こっから出てけ」
 「けど、一人で洗うのツライでしょ?」
 「そんなワケねぇだろっ!」
 「立ってるのがやっとなのに?」
 「うっせぇっ!」
 「もしかして…、俺がなにかすると思ってる?」
 「なにかってなにがだよ?」

 「エッチなコト」

 男にそう言われて顔を上げると、時任の瞳が男の瞳と近くでぶつかる。
 すると男の瞳は…、少しも笑ってはいなかった。
 真剣な瞳で見つめられて時任は、少し身体をこわばらせたが…、
 男はその緊張を解いて柔らかく微笑みかけると、シャワーのコックをひねってお湯を出すとそれを時任の顔をかけた。
 「うわっ!!!」
 「いいコだから、おとなしくしてなよ」
 「いいコって、俺はガキじゃねぇっ!」
 「それはちゃんと見てるから、わかってるけどね」
 「み、見てるって…、どこ見てんだよっ!!」
 「さぁねぇ?」
 勢いよくシャワーをかけられて、くすぐったくて時任が笑う。そして笑いながら男の方を見ると、男も時任を見て笑っていた。
 けれど…、どうしても身体に残されている痕が気になって手が、気づかない内にそれを隠そうとする。隠してもどうにもならないことはわかっていたが、男に見つめられるたびにそれがつらくて仕方がなかった。
 「なぁ…」
 「ん?」

 「あのさ…、俺…」

 男に向かって何かを言いかけたけれど、何を言おうとしたのかわかるなくなって…、
 どうしても言いたかったはすなのに、言葉にしようとすると記憶のように霧になって消える。
 すごくすごく…、会いたくて会いたくてたまらなくて…、
 もう一度だけもいいから声を聞きたかった…、その名前を呼びたかった…。

 そして、それから…。

 伝えたいことは何一つ言葉にならなくて、熱いシャワーだけが身体を濡らす。
 そうしてしばらくの間、その熱に犯されるようにされるがままになっていると、少し驚いたように男が時任の顔をのぞき込んできた。
 「どうかしたのか?」
 「・・・・・なんでもないよ?」
 時任は理由を尋ねたが、男はそう言って答えない。
 けれど、ゆっくりと濡れた時任の頭をそっと優しく撫でてきた。
 子供あつかいするなと怒鳴りたかったけれど、その手に撫でられていると目の奥が熱く痛くなってきて…、苦しくて声が出なくなる。それでも歯を食いしばってそれに耐えていると、男は時任の濡れた頭に手を伸ばして、自分の胸に抱きしめるように押し付けた。
 「大丈夫…、大丈夫だから…、なにも心配いらないから…」
 「・・・・・・」
 
 「だから…、涙に濡れた瞳で笑わないでいて…」

 その言葉を聞いた瞬間、時任の瞳から大きな涙がバスルームのタイルの上に落ちる…。泣きたくもなかったのに、泣くつもりもなかったのに…、次から次へと頬を伝っていく涙は止まらなかった。
 濡れていく男の胸に顔を押し付けながら、時任はアキラの背中に回さなかった両腕を男の背中に回す。そして、何度も何度も自分の名前を呼んでくれている声を聞いていた。

 「・・・・・・時任」

 その声を聞いていると恋しさで胸がいっぱいになるのに…、ミノルと呼ぶ声と時任と呼ぶ声が重なって聞こえて心が引き裂かれていく。
 時任は男の背中を抱きしめながら、身体の奥に残された熱を感じていた。
 


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