籠の鳥.10
宗方総合病院に久保田が勤務するという話は、葛西はガセだと思っていたようだが、久保田の元に医院長ではなく副院長の宇崎いう男から封書が届いた。
その内容は一般的な採用通知と変わらないものだったが、久保田は病院に勤務したいと申し出たことも試験も面接も受けたことは当たり前だがない。どうして、こんな封書が届いたのかは真田の言葉を思い出せば良かったが、問題は封書が出された事実を宗方が知っているかどうかだった。
封書をヒラヒラとさせながら久保田に手渡した葛西は、
『捨てちまえ』
と、眉をしかめて一言だけ言ったが、久保田はまだその封書を捨てていない。
医師として働くつもりはなかったが、やはり宗方の屋敷にいる時任のことがあった。
もしも、久保田の手を時任が握り返してくれるのなら、こんな封筒は見るまでもなくゴミ箱に放り込んでいたのに、時任は久保田の手を握り返してはくれないばかりか…、
今も屋敷で…、自ら望んで久保田以外の男の腕に抱かれていた。
まるで自分の想いを確認するかのように、久保田は封書とお守りをポケットに入れて時任の元に来ていたが、時任の身体には抱かれた痕跡がまるで誰かに見せ付けるかのように残されていて…、あの夜の雨に似たシャワーの音が耳を打つ。
けれど、何度も何度も時任の名前を呼びながら、何かにおびえるようにしがみついてくるその身体を抱きしめ続けていた。
「時任・・・・・」
ずっとずっとこうしてたいほど愛しいのか、それとも他の男に抱かれた身体ですがりついてくる時任を憎んでいるのか…、抱きしめれば抱きしめるほどわからなくなる。このままバスルームのタイルに押し付けて壊れるほど犯してやりたいのに…、時任の泣き声を聞いてるといつも『おかえり』と言ってくれてた姿が浮かんできて…、
その恋しさと愛しさが、狂おしいほどの嫉妬と憎しみを押さえつけた。
あの夜から降り止まない雨に降られながら、久保田はバスタオルで時任の身体を包み込むとぎゅっと強く抱き返す。すると時任は少しだけ身体をビクッと震わせたが、そのまま身体を久保田にあずけてきた。
けれどそれは、同じ強さで想ってくれているからでも抱かれたいからでもない。
身体に感じる重さとあたたかさを感じながら、久保田が優しく微笑みかけると時任も安心したように微笑み返した。
「その…、ごめんな…。妙なトコ見せちまって…」
そう言って少し頬を赤くした時任の瞳にはまだ涙が残っていたけれど、頬をとめどなく濡らしていた涙の訳は久保田にはわからない。だが、前に会った時のような警戒心のようなものは感じられなかった。
服を着せてやってから久保田が涙を指でぬぐってやると、時任は目を細めてくすぐったそうに笑う。けれど、久保田の着せた白いTシャツの襟元からは…、男の付けた鮮やかな赤い跡がのぞいていた。
どんなに抱きしめても抱きしめても、鮮やか過ぎる跡は消えてなくならない。
たとえ…、憎しみが愛しさを超えたとしても…。
再び抱き上げてベッドに連れて行って寝かしつけてやると、久保田はベッドのそばから…、時任のそばから離れようとする。そうしようとしたのは、ここに長くいると見つかるかもしれないということもあったが…、
時任にとって一番危険なのは自分だと、自覚していたせいかもしれなかった。
けれど、ベッドから久保田が離れようとすると、その袖をまるで行くなというように時任が引っ張ってきて離れることができない。久保田は苦笑しながら袖をつかんでいる時任の手を外そうとしたが、時任は強く握りしめて放そうとしなかった。
しかし、引き止められるままにここにいたら本当に見つかってしまう。
小さくため息をついて時任の頭を撫でながら、久保田は時任の顔をのぞき込んだ。
「長居できないから、もうそろそろ帰らないとね?」
「そうかもだけど、もうちょっとだけいてくれたっていいじゃんか…」
「でも、ココで俺が見つかるとマズイでしょ?」
「ま、マズイって…、やっぱお前ってドロボウ?」
「ドロボウ、ねぇ? まぁ、間違ってはいないかも?」
「げっ、じゃあなに盗みに来たんだよ? こないだの時はなにも盗らなかったじゃんっ」
「そうねぇ…」
「・・・・・って、ホントはなにしに来たんだよ?」
「さぁ…」
久保田は質問にあいまいに返事すると、眠るまで一緒にいると約束して毛布にもぐり込んだ時任の右手を握る。さっきまで眠っていたようたが、打たれている薬のせいなのかまた眠くなってしまっているようだった。
少しの間は不安そうに強く手を握りしめていたが、やがて安心したように指先から力が抜けていって…、やがて穏やかな寝息が聞こえ始める。目の前にある無防備な寝顔を見ていると、時任が望んでいなくても本当にこのまま連れ去りたい気分になった。
けれど…、連れ去ったとしても時任がここに戻りたいと言うかもしれない。
一緒に暮らしていた日々を忘れていなくなった日のように…、またいなくなってしまうかもしれない。
それを考えると、どうしても行動に移すことはできなかった。
久保田は服の下に隠し持っていたお守りがわりの拳銃を取り出すと、眠っている時任の額に向かって至近距離で銃口を構える。そして、それでも時任が起きないことを確認すると、カチリと音を立てて安全装置を外した。
「もしも後悔しないでいられたら…、この引き金を引いても許してくれる? ねぇ、時任?」
そう時任に向かって囁くと、久保田は引き金を引く指に力を込め始める。
もしも時任が背を向けて、自分ではない男の方に走っていくのなら…、心の奥から沸き起こってくる感情が、愛しさなのか憎しみなのかもわからなくても…、
拳銃に込めた二発の弾丸で、すべてを終わりにしたかった。
最初の弾丸を時任に…、そして二発目を自分に撃ち込んで…。
けれど、引き金を引きかけた指は途中で止まったまま動かなかった。
「くぼちゃ・・ん・・・・」
眠ったままの時任の口から漏れた言葉は…、久保田の名前で…、その名前はここに来てからはまだ教えていないはずだった。
けれど、時任は名前を呼びながら、そばにいる久保田の方に身を寄せてくる。なにもかも忘れてしまったはずなのに…、すべてなくなってしまったかと思っていたのに…、時任の唇は無意識の内に久保田の名を呼んでいた。
その声を聞いた久保田は、ゆっくりと震える銃口を下へと降ろす。
すると、止まっていたはずの時任の涙が…、一粒だけ頬を滑り落ちた。
「くぼちゃん・・・・・」
哀しく痛く胸の奥に響いてくる声に答えるように、時任の額に自分の額をゆっくりと寄せると、久保田は祈るように目を閉じて…、
拳銃を握りしめたまま…、毛布の上から時任を抱きしめた。
「・・・・・時任」
まだ、なにもかも失われてしまった訳じゃない…。
なにもかも無くなってしまった訳じゃない…。
時任の心の片隅にはまだ…、あの暖かい日々の欠片が残っていた。
こんな風に抱きしめあったことなんてなかったけれど、その記憶には愛しさだけがある。ここの住所が書かれた紙を見た時から、別れの日を予感していたとしても…、
すべてをあの部屋に閉じ込めてしまいたいほど、そのぬくもりが大切だった。
けれどあまりにも暖かくて…、そのぬくもりが恋しすぎて…、
拳銃に込めた弾丸を抱きしめながら愛しさと恋しさに…、心が想いが壊れていくのを感じていた。
「この世界に二人きりなら…、よかったのにね…」
その呟きに眠っていた時任の瞳がうっすらと開いたが、久保田はその瞳をまるでおやすみを言うように手のひらで覆った。そして、時任の唇にそっと触れるだけのキスをしたけれど、その瞬間に廊下から足音が聞こえてきて、男が帰ってきたことを久保田と時任に知らせる。
久保田は握りしめていた拳銃から銃弾を取り出すと、時任の手のひらに握らせた。
「俺の名前は久保田っていう名前だから、だからそれだけは…、たとえ誰よりも憎むことになったとしても…、忘れないでいて…」
この弾丸を打ち込んで、すべてを壊すにはまだ早い。
そう判断した久保田は時任の額に唇を落とすと、再びいつの間にか暮れてしまった闇の中にまぎれるように窓から外へと消える。
そのタイミングと男がドアの開くタイミングは…、ほぼ同時だった。
「予想外の展開という訳ではありませんが…、さて、これからどうしましょうか…」
白衣を着たまま病院の廊下でそう呟いた橘は、自分の担当である内科ではなく薬局のある方向へと向かっている。それは、そこに来るある人物に会うためだった。
その人物は以前から病院に頻繁に出入りしていたが、院長の引退が囁かれるようになってからは特に出入りが激しくなっている。そして病院内に不穏な空気が流れるようになったのも、それと同じくらいの頃からだった。
息子が跡を継ぐことは成り行きとして当然かもしれないが、その息子は二人いて…、しかもその内の一人は未だに橘も姿すら見たことがない。だが、知り合いである久保田の方ではなく、その人物の方が有力な候補だった。
それは名前からもわかる通り、久保田は院長の愛人の子供だからである。
限られた人間しか知らないその事実を橘が知っているのは、恋人である松本から聞いたからではなく、これから会おうとしている人物に聞いたからだった。
「最近、何か企まれてるご様子ですが、調子の方はいかがです?」
薬局から出てきた高そうなスーツに身を包んだ男に、橘が妖艶な微笑みを浮かべながらそう言う。すると、男は口の端をわずかにつりあげて笑みを作ると、誘うように微笑んでいる橘を見て目を細めた。
「相変わらず医者にして置くのがもったいないくらい美しいな、君は」
「もしかしてそれは、ほめ言葉のおつもりですか?」
「無論だ」
「ならば、甘んじてお受けしておきましょう」
病院内に勤務している者がこの二人の会話を聞けば、ただならぬ雰囲気に眉をひそめたかもしれないが、運の良いことに廊下には部外者しか見当たらない。橘は男を連れて薬局から少し離れた場所にある一室に入ると、後ろ手でドアのカギをかけた。
橘が連れてきたスーツの男は、製薬会社の真田という男だが…、この男については病院内で常に黒い噂が耐えない。しかし、それでも今まで一度も尻尾をつかまれたことがないのは、よほどやり方が巧妙なのか汚いのかのどっちかに違いなかった。
松本や葛西なら迷うことなく後者だと言うだろうが、そんな真田と橘は影でつながりを持っている。それは、真田の持っている病院内部の情報が欲しかったからだった。
橘はカギをかけたドアから離れて、明りの漏れていた窓にブラインドを引くと、薄闇の中で真田と向かい合う。
そして、院長引退と後継者の件について話し始めた。
「この前、貴方からお聞きした院長の引退の件…、やはり事実のようですね」
「私は君に話す時、嘘ではないと言ったはずだが?」
「ですが、あれは嘘ではないのではなく…、貴方がそう仕組んだのではありませんか?」
「ほう、なぜそう思うのかね?」
「久保田君がこの病院に来るという話…、あれも貴方がそうなるように糸を引いたのでしょう?」
橘がそう言うと、真田は見る者を不快にさせる嫌な笑みを浮かべる。だが橘は微笑みを崩すことなく、その笑みを見事にかわしていた。
院長引退はあり得るかもしれないが、久保田のことについては納得がいかない。
久保田の身に何があったのか詳しいことは知らないが、ガセだと言われていた病院の件はなぜか現実になろうとしていた。
あれほど、医師の免許を持っていながらも医者になることを拒絶していたのに、病院からの今回の申し出に久保田は首を縦に振っている。どういう心境の変化だろうかと思っていたが、松本と会った時に何か様子がおかしかったようだった。
「どうやってあの久保田君をくどき落としたのか、差し支えなければ僕に教えてくれませんか? 今後のためにも、ぜひ聞いておきたいんです」
「今後のためとは?」
「・・・・・・もしも事態が変わって、久保田君と敵対することになった時のためです」
「なるほど、相変わらず君は恋人想いというワケか」
「あの人のためなら、僕は何でもしてみせますよ」
「その何でもとは…、たとえば私に抱かれることも含まれてるのかね?」
「えぇ、もちろんです。 僕は攻めですから、抱かれるのは趣味ではありません」
橘は趣味じゃないと言いながらも、自分に向かって伸びてくる真田の手を避けようとはしない。それどころか真田の唇に自分の唇を近づけると、馴れた様子で自分からゆっくりと深く口付けた。
すると、真田はその口付けを受けながら、橘の着ている白衣を脱がしにかかる。
二人の頭上からは橘を呼び出す放送が流れていたが、口付けも始まったばかりの行為も止まらなかった。けれど、橘は近くにあった机に身体を押し付けられながら、
「何をしてもかまいませんが、跡だけはつけないでくださいね。今日の夜はあの人と一緒に、食事することになってますから…」
と、妖艶な笑みを浮かべたまま、真田に向かってそう言った。
久保田が宗方総合病院に医師として勤務することになったことは、病院内でもすでに知られていたが、久保田が院長の息子だということを知る人間はやはりまだ限られている。友人である松本は硬く口を閉ざしていたが、いずれこの噂は何者かの手によって故意に病院内に広められてしまうのかもしれない。
だが、あと一週間後に…、久保田はこの病院に来ることになっていた。
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