籠の鳥.11




 現在の内科部長の解任と、最近、囁かれるようになった院長の後継者の噂…。
 病院内部の状況の変化を一番感じ取っていたのは、現場で働いている看護婦達だったのかもしれないが、すべては闇の部分に隠れてしまっているのか不明なことばかりだった。
 解任されることになった内科部長は、看護婦達の間でも患者達の間でも診察が丁寧で親切だと評判は悪くない。特に医療ミスをしたとか、そんな解任につながる事故もないのになぜ解任されなくてはならないのかと誰もが不思議に思っていたが、当事者である内科部長も沈黙したままで何も語ろうとはしなかった。
 内科部長の後任と押されている松本は、まだ若くて経験不足ではあるが同じく評判は悪くない。少々、真面目すぎて融通のきかない面はあるが、それは同業である内科医師達からも好意的に取られていた。
 そのため、松本がなんらかの手段で自ら内科部長の座を手に入れたとは考え難い。それはこの話を聞いた時の松本の驚いた表情を見れば一目瞭然だったのかもしれないが、この件に関しては真面目を絵に描いたような人柄のため、周囲の疑いの視線が松本に向くことはなかった。

 『内科部長に選出されたのは、貴方の人徳の賜物ですよ』

 部長に選出されたことをとまどったような表情で伝えた松本に、優しく微笑んで橘はそう言ったが、やはりいくら恋人の言葉でも信じられるはずは無い。松本は自分と同じ内科医達のいる内科の医局ではなく、別の階にある外科の医局のソファーでコーヒーを飲みながらこれからのことを考えて小さく息を吐いた。
 そんな松本の視線の先には見知った友人の背中があったが…、その友人が医者として白衣を着ているのは見るのはかなり久しぶりのことである。この病院に来ることを後継者問題の件で進めたりはしたが、こうして本当に同じ病院で医師として働くことになるとは予想していなかった。
 「まさか…、本当にお前が来るとは思わなかった」
 松本がそう正直に言うと、ライトボックスにかけられたレントゲン写真を見ていた白衣の友人が振り返る。さっきから眺めていたライトボックスのレントゲン写真は患者の足を撮影したものだったが、素人の目にもわかるほど見事に折れていた。
 「ココに来いって言っといて、それはないんでない?」
 「それはそうだが…、しかしな…」
 「そんなに意外?」
 「ああは言ったものの、お前が院長の地位と財産を欲しがるとは思えん」
 「だぁね」

 「・・・・・一体、何を企んでるんだ? 誠人」

 まるで宗方の存在を否定するかのように、免許を持ちながらも医師として診療を行わなかった久保田が、なんの理由もなくこの病院に来るとは思えない。しかし久保田は松本の問いかけに、口元にわずかな笑みを浮かべただけで答えなかった。
 もしも急に地位や財産に興味が沸いたというのなら話は別だが、のほほんとしたいつもの調子で医師としての職務を無難にこなしている姿を見るとどうしてもそんな風には見えない。それに、初日から看護婦達は久保田を見てかなり騒いでいたようだが、それは院長の息子だということを知っていたからではなかった。
 久保田は同僚になる医師達や看護婦の前で自己紹介した時も、自分が宗方の息子だということは名乗っていない。そして、その場には院長である宗方も姿は見せず、副院長である宇崎が久保田の横に威張り散らしながら立っていた。
 そうすると、つまり病院に勤務することになったが…、院長である宗方は以前と同じように久保田を息子として認知してはいないということなのかもしれない。
 松本は少し眉間に皺を寄せてコーヒーをテーブルに置いて両手を組むと、何かを考え込むようにその上に額を乗せた。
 「俺はお前の側につくと決めているが、それは時と場合による…」
 「知ってるよ」
 「・・・・・できれば変わらずに、今のままのお前でいてくれ」
 「今のまま、ねぇ? それはかなり難しいかも?」
 「誠人」

 「なにもかも、もう手遅れってヤツだから…」

 そう言って軽く肩をすくめると、久保田はポケットからセッタを取り出して火をつける。だが、その仕草は白衣を着ていてもいなくてもいつもと変わりなかった。
 けれど、久保田は今のままではいられないらしい。
 少し前に病院に尋ねて来た時も様子がおかしかったが、セッタを吸いながら窓の外に視線を向けている今の表情も、以前とはわずかに雰囲気が違っていた。
 その横顔は無表情のように見えて…、どこか寂しさと切なさをはらんでいる。なぜそんな表情をするのか理由はわからなかったが、確かに久保田は少しずつ変わってきていた。
 松本はそんな久保田を見て眉間の皺を深くすると、部屋につけられているシンプルな丸い掛け時計を見る。すると、そろそろ内科の病棟へ回診に行かなくてはならない時間になっていた。
 机に残っていたコーヒーをすべて飲み干すと、松本は回診に行くために軽く息を吐いて立ち上がる。そしてセッタを吸っている久保田の前にある机に、テーブルの上に置かれていた灰皿を置いた。

 「地位と名誉と財産…、お前の欲しいモノは何だ?」

 松本がじっと何かを探るように横顔を見つめながらそう言うと、久保田はまだ長さの十分残っている火のついたセッタを灰皿に押し付ける。すると、細長い白い煙が灰皿から立ち昇って…、久保田は目を細めながらその煙越しに松本の真剣な色を浮かべた瞳を見返した。
 「そんなコト、聞いてどうすんの?」
 「・・・・・・別に深い意味はない。ただ、聞いてみたかっただけだ」
 「ふーん」
 「もしかして、また質問に答えないつもりか?」
 「いんや」
 「・・・・・・」
 「俺が欲しいのは、そう想ったのはこの世でたった一つだけ…」
 「この世でたった一つ? それは何だ?」

 「籠の鳥…」
 
 久保田の言ったその言葉の意味はわからなかったが、見つめ返してきた瞳の色の深さに飲まれそうになって思わず松本は視線をそらせる。すると、久保田は机の上に置いていた患者のカルテをまとめると、松本の横をすり抜けて小脇に抱えて外科の医局を出て行った。
 医局に残された松本は、久保田と入れ違いに入ってきた外科の医師に軽く挨拶をすると後を追うようにドアを開けて部屋を出る。しかし、久保田の瞳にとらわれた時の余韻が残っていて、なぜか胸がズキズキと締めつけられるように痛んでいた。













 「くぼちゃん・・・・、くぼちゃ…ん…」
 
 昨日、窓から忍び込んできた男に会ってから…、時任は一つの名前ばかりを何度も何度も繰り返し呟いていた。名前を男に聞いた覚えはなかったが、アキラに起こされて目が覚ますとその名前が耳に残っていて…、
 けれど、それが男の名前だとは限らないにも関わらず、時任は何度も繰り返し呼んでいる内になぜか久保田という名前が男の名前だと確信していた。
 時任は珍しくベッドから起き上がって窓辺に立つと、青く遠い空を眺めながらもう一度久保田という男の名前を呟く…。そして右手を持ち上げて人差し指で自分の唇を撫でると、夢の中で久保田にキスされた時の感覚がよみがえってきた。
 そっと触れてきた唇の感触は一瞬で、すぐに消えてしまいそうだったが…、
 それでも夢の中で感じたキスの感触は、名前を呼べば呼ぶほど甘く切なくなる。
 初めて会った時もまた会いたいと思っていたが、もう一度あったら…、今度はもっともっとたくさん会いたくなった。
 けれど…、時任の身体には別の男の匂いが染みついてしまっている。
 そうなることを自ら望んでいたはずなのに、久保田のことを想うとなぜか哀しくて哀しくてたまらなかった。
 
 「なんでこんなにアイツの、久保ちゃんのことばっか考えてて…。なんで名前呼ぶと泣きたくなんかないのに…、泣きたくなんだろ…」

 アキラの熱に犯されるたびに…、久保田の名を呼ぶたびに痛くて苦しくて…、心の中がぐちゃぐちゃになって壊れそうになる。
 記憶が何もなくて…、いつも今しかなくて…、
 なのに、胸の中になぜか懐かしい暖かさがあった。
 それは久保田に抱きしめられた時に感じた…、夢から覚めた時に残っていた暖かさに似ていて…、その暖かさを感じているとこの窓からどこかへ飛び出したくなる。けれど、時の止まったようなこの部屋を飛び出してどこへ行きたいのかわからなかった。
 
 「ココにいればいいはずなのに…、悪いコトも嫌なコトもなにもないのに…」

 時任はそう呟くと、開けていた窓を閉じて青い空に背を向ける。そして少し沈んだ表情で着替えをして、いつもよりも少し身なりを整えると軽いノックが室内に響いてきた。
 実は時任のいるこの部屋には普段はアキラしか入って来ないが、週に一度だけ健康診断のために白衣を着た医者がやってくる。
 医者にあちこち身体を調べられるのは嫌だったが、診察はちゃんと受けるようにアキラに言われていたので仕方がなかった。
 ここに来る医者はいつも四十歳くらいの中年の男だったが、ドアを開けて入ってきた人物は今日はなぜか違っている。時任が不審に思って白衣の男に鋭い視線を向けると、男は時任の視線の先で大輪の花が咲くように優雅に微笑んだ。
 「こんにちは…。始めまして、時任君」
 「始めましてって…、いつものヤツはどうしたんだよ?」
 「さぁ、理由は知りませんが、病院を首になったそうですよ?」
 「・・・・・・・・」
 「ふふふ、そんなに警戒しないでください。僕は貴方を襲うために来たのではなく、診察しに来ただけなんですから」
 「て、てめぇ・・・・・・」

 「橘遥…、今日から僕が貴方の主治医です」

 そう言いながら、握手するために伸ばしてきた手を時任は払い落としたが…、
 橘は優雅な微笑みを浮かべたまま、医者らしく時任の診察を始める。
 身体がだるくて体調が悪いのはいつものことだったが、前に来ていた中年の男もそして橘も…、それがいつも打たれている薬のせいだとは一言も言わなかった。




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