籠の鳥.12




 身体につけられた赤い痕と…、腕についた注射針の跡…。
 それを見ただけで、ここで何が行われているのかは診察しなくても明白だった。
 けれど瞳孔は開いていないし、言動がおかしかったり幻覚を見ている様子もないので、打たれているのがなんの薬なのかはくわしく血液検査をしてみなくてはわからない。打たれている薬に興味はあったが、なぜかこの部屋に注射器を持ち込む事は禁止されていたので、時任の血液を採取することはできなかった。
 橘は微笑みを絶やさずに診察を終えると、時任に脱いだ服を着るように言う。
 すると、時任は大きな瞳で橘を睨みつけながら、素早く少し大きめの白いシャツを着た。
 そのシャツはサイズが違うので時任のものではなさそうだったが、白い肌に付けられた赤い痕を見れば聞かなくてもわかる。だから、橘は何も言わずにその様子を横目で見ていたが、やはり自然にシャツを着ても隠しきれない痕が目に入ってしまっていた。
 まるで所有権を主張するかのようにつけられた痕を見ると、衝動的に時任をベッドに押さえ込みたい気分にならないでもなかったが、リスクを背負ってまで火遊びをする気分にはなれない。真田の口利きで主治医として屋敷内にもぐり込んだ理由は、久保田が執着しているという時任と会うためだったが、院長の後継者として有力視されている男に近づくためでもあった。
 
 『私に抱かれるのは恋人のためだと君は言ったが、本当にそれだけなのかね?』

 恋人である松本のいる病院で平然と別の男に抱かれる橘に向かって、真田はそう言ってあっさりと屋敷内にもぐり込む協力をすると約束した。そのおかげで、今こうして時任の部屋にいるのだが、特に見返りとして真田から何も要求されていない。
 しかしそれを不気味に思いながらも、橘は手引きされるままに時任の主治医になった。

 自分の望みと…、目的を果たすために…。

 真田の話によると時任は連れてこられたのではなく、もともと住んでいたこの屋敷に連れ戻されたという格好だったらしい。なぜ、屋敷から外に出ていたのかは謎だが、その時に久保田と知り合って一緒に暮らすようになったようだった。
 けれど、二人が一緒に暮らしたのはほんの数週間で…、あまりに短かすぎる。
 あまりにも短すぎて、久保田の行動の原因が時任だとは信じられなかった。
 だが、あれほど医者になることを拒否していたのに、屋敷どころかこの病院にも大ケガをした時だけしか寄りつかなかったのに…、
 時任があの屋敷にいると知った瞬間、久保田はあっさりとこの病院に来て白衣を着た。
 ここで時任が自分と半分だけ血の繋がった男に抱かれていることまでは知らないのかもしれないが、それでもあの久保田の心を動かすほどの何かが時任にはある。
 その何かに興味はあったが、それよりも重要なのは久保田の弱みを握ることだった。
 だが、つけられた痕からもわかる通り、時任に執着しているのは久保田だけではない。
 宗方家という場所で始まったゲームの中で、時任というカードを使える人物は二人いた。

 「予想以上に楽しいゲームになりそうですよ、時任君…」

 聞えないようにそう呟くと、橘は厳しい表情でまるで獲物を見るような鋭い瞳で時任を見つめる。けれどそれはほんの一瞬のことで、着替えた時任が橘の方を見た瞬間にはいつもの温和な柔らかい微笑みに戻っていた。
 それは、ゲームは始まったが、今はまだ表舞台に立つには早過ぎるからである。
 久保田も病院には来てはいるが医者として普通に勤務しているし、もう一人の男もまだ自分が院長になるかもしれない病院に一度も顔すら出していなかった。
 橘は微笑みを浮かべたまま診察に使った道具を黒いカバンにしまうと、医者らしく時任に向かって規則的な生活を心がけるように言う。しかし、大きなベッドが置かれているこの部屋にいる限り、早寝も早起きも無理だった。
 医者として時任の置かれている状況を考えて小さく息を吐くと、橘は用意していた薬袋にビタミン剤を入れて時任の名前と薬の用法を書く。そして、目の前にいる自分の患者に差し出したが、橘の患者である時任はその薬を受け取ろうとはしなかった。
 「薬を受け取らないのは、僕のことが信用できないからですか?」
 「・・・・・・」
 「置かれている状況が状況なので無理はありませんが…、僕は医者として貴方にこの薬を受け取って欲しいと思ってるんです。 本当は点滴を打ちたい所ですが、注射針のついている物は持込み禁止なので、この薬を置いて行きますから飲んでください」
 「イヤだ」
 「時任君」

 「・・・・気休めなんかいらねぇよ」

 時任はそう言うと早く帰れと言うように、この部屋にいながらも強い意思を感じさせる透き通った綺麗な瞳で橘を威圧する。やはり自分の身体が薬に蝕まれていることに、時任自身も気づいているようだった。
 打たれている薬が、時任にどんな影響を及ぼしているのかまではわからないが…、
 針の刺し跡がアザのように残るほど注射を打ちながら、わざわざ主治医をつけるという所に時任をここに閉じ込めている男の性質が見え隠れしている。
 久保田も一筋縄ではいかない相手だったが、やはりもう一人の男も同じのようだった。
 橘は時任の手に直接渡すことをあきらめると、持っていた薬袋をベッドの上に置く。けれど、この薬を飲んでもやはり時任の言うとおり気休めにすらならないに違いなかった。
 けれど、橘はドアを開けて部屋を出る瞬間に振り返って、
 「貴方が元気でいないと、久保田君が心配しますよ?」
と、優しく微笑みながら言う。すると、久保田の名前を聞いてとっさに呼び止めようとする時任の声が聞えてきたが、それを無視してドアを静かに閉じると…、
 橘はガチャリとこの屋敷の使用人から預かっていた金色のカギで、ドアに錠をかけた。
 
 ドンッ! ドンドンドンッ!!

 中からドアを叩く激しい音が聞えてきたが…、橘はその声を無視して屋敷内の長い廊下を歩き始めた。別に久保田の友人である松本の恋人だと名乗ってやっても良かったが、このまま去った方が一週間後の診察の時に歓迎してくれるに違いない。
 やはりゲームを自分に有利に進めるには、駆け引きが必要だった。
 橘は高そうな調度品や美術品で飾られている廊下を抜けて玄関までたどりつくと、そこにいた使用人にカギを返して屋敷を出る。すると、ふうっと軽く息を吐いた瞬間に、ポケットに入っていた携帯電話の着信音が鳴った。
 画面に出ていてる名前を確認して橘が通話ボタンを押すと、少し堅苦しい感じの聞きなれた声が聞えてくる。まるで橘の行動を見ていたかのようにタイミング良く電話をかけてきたその声の主は、同じ病院の同僚であり恋人である松本だった。
 「本当に、いつも貴方は絶妙なタイミングで電話をかけてくるので驚かされますよ」
 「いつも驚くのは、お前がいつも驚くようなことをしてるからじゃないのか?」
 「ふふふ…、そうかも知れませんね」
 「否定しないのか?」
 「・・・・して欲しいですか?」

 「いや」

 橘には自分のしていることを、松本がどこまで知っているのかはわからない。
 松本とこうして話しているとすべてを知っているようでもあり、知らないようでもあった。
 時々、携帯を鳴らしても出ないことのある橘を、松本は問い詰めたり詮索するような素振りを見せた事は一度もない。恋人として詮索されないのは信じてくれているということで良いことなのだが、信じてもらえるようなことは何一つしていないことを自覚している橘は…、
 他の男に抱かれた身体で松本を抱く時、わざとその男の抱き方を真似することがあった。けれど…、どんな抱き方をしても松本は受け入れるだけでやはり何も言わない。
 それはもしかしたら、言った瞬間にこの関係に終わりが来る事を感じているからかも知れなかった。
 わずかに二人の間に沈黙が流れたが、気を取り直したように松本が今の病院の状況を伝える。今日は松本の住むマンションに橘が泊まる予定だったが、どうやら当直医が来ないために勤務時間が延びてしまっているようだった。
 「患者を放り出して来るわけにはいきませんから、仕方ありませんね」
 「すまない。先に帰っていてくれ」
 「了解しました。二人分の夕食を作って待ってますから…」
 「ああ…、できるだけ早く帰る」
 「はい」

 「それじゃあ、また後で…」

 そう言って松本が通話を切る瞬間、あせった感じの看護婦らしき女の声が聞えてきたので、もしかしたら急患が来たのかもしれない。勤務時間が延びたり不規則になったりするのは医者の宿命とはいえ、予想以上に帰宅時間は遅くなりそうだった。
 橘は通話が切れても携帯を耳に当てたままで、大きな屋敷の前で立ち止まる。
 これから、松本のマンションまで行かなくてはならなかったが…、
 ここ数日、ずっと真田に抱かれているために、その余韻が身体に残ってしまっているのかなぜか足が重かった。

 「僕が好きなのは貴方だけなんです…。本当に貴方だけなんですよ…」

 橘が珍しく感情をあらわにした苦しそうな表情でそう呟くと、携帯を持った手がすっと力無く下へと落ちる。自分の目的のために誰かに身体を開くことも、誰かを欲望のままに抱くことも簡単で…、あまりにも簡単過ぎて…、
 だからなのか、自分から望んだことなのに時々…、心がギシギシと悲鳴をあげていた。












 「ただいま・・・・・」
 
 病院から深夜に帰宅すると返事が返ってこないと知っていながら、久保田はそう呟くと住んでいる離れの部屋にクツを脱いで入った。そして、まだ夕食も食べていないし風呂にも入っていないのに、服も着替えずに持っていた書類を床に放り出してそのままの姿でベッドへと倒れ込む。
 病院で働く前からそうだったが、診療所の離れに戻ってくるのは眠るためだけだった。
 朝起きたままの状態で放置されていたベッドにもぐり込んだ久保田は、かけているメガネをはずすとふうっと軽く息を吐きながらメガネを外して目を閉じる。けれど、どんなに疲れていても浅い眠りを繰り返すばかりで眠れなかった。
 その原因は、久保田の寝ているベッドにまだ時任の匂いが残っているせいで…、
 なのに、それがわかっていながらも久保田は別の場所で眠ろうとはしない。
 カーテンをしない窓から差し込む柔らかい月の光を薄目を開けて見ながら、セッタの入ったポケットに手を伸ばしかけたが…、その手は胸の上で止まった。
 
 「もしも夢の中で会えたら、もう目なんて覚めなくてもいいのに…。見えるのは現実ばかりで、どんなに目を閉じても夢すら見れないなんてね…」

 時任の手に銃弾を握らせた日から、実はまだ一度も会っていない。それは病院が忙しいせいもあったが、自分以外の男がつけた痕跡を平然と見ていられなかったからだった。
 眠る時任の唇がどんなに久保田の名前を刻んでも、その身体には他の男の欲望が深く刻まれている。だから、どんなに優しく抱きしめたいと想っても、腕に力が入りすぎて時任を傷つけてしまいそうだった。
 まだ、何もかもあきらめてはいなかったが…、自分の名を呼びながらも、他の男に抱かれる時任を見ていると押さえ込んだ殺意がよみがえってくる。
 誰よりも大切だから壊したかった…。
 誰よりも愛しいと感じていたから、その想いを込めるように拳銃に弾丸を込めた…。
 そんな想いがなくなる日は来ないのかもしれなかったが、今はその想いが何もかもを壊してしまう前にしなくてはならないことがある。

 それは…、時任を閉じ込めている籠を壊すことだった。

 けれど、それをおそらく時任は望んでいない…。
 時任は腕に薬を打たれながらも、あのベッドで立てなくなるほどひどく犯されても…、
 乱れたシーツの上で細くしなやかな身体を横たえて、男が部屋に来るのを待っていた。
 胸の上に置いた手を目の前にかざして指を開くと、そこにはガラスに手を叩きつけた時の傷がまだ残っている。この傷はいずれ跡形もなく消えてしまうかもしれないが、叩きつけた時の感情は今も鮮明で傷のように消えてはいかなかった。
 
 「籠を壊したとしても、空になんて飛ばせない…」

 暗い瞳でそう言うと、久保田は起き上がって床に散乱している書類を手に取る。
 その書類は病院で無断でコピーものだったが、そこに書かれていたのは宗方総合病院に入院したことのある患者の名前の羅列だった。
 名前が書かれている患者達は、同じ市内に住んではいるものの共通点はまるでない。しかし、患者達のカルテのコピーを見ると共通点がはっきりしてきた。
 ほとんどの患者が交通事故で入院していることもあげられるかもしれないが、実はそれよりも他に重要なことがある。それは交通事故よって、ある症状に陥ってしまっていたことにあった。
 全員が健忘症…、つまり記憶喪失症にかかっている。
 脳に外傷は見られなくても心身的ショックなどが原因とも考えられるが…、実は調べて見るとここに乗っている以外にも同じ症状の患者はいた。目の前にあるリストについて不明なのは、ここに載っている患者と載っていない患者の違いと、なぜこんなリストを作ったのかである。
 だが…、郵便局から発送予定の封筒の束から久保田が抜き取ったこのリストが、送れられた先がどこかを考えれば見えなかった何かが見えてくるかもしれなかった。
 
 実は封筒に書かれていた宛先は、真田のいる製薬会社だったのである。

 久保田はパラパラと手に持っていたコピーを床に落とすと、再びベッドに横になって目を閉じたが、暗闇に覆われた空には白く冷たく月が輝くばかりで…、
 久保田が眠りの中で朝日が昇っても覚めない、あの穏やかで暖かった日々のような…、そんな夢を見る日は、もしかしたら永遠に来ないのかもしれなかった。



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