籠の鳥.13



 
 雨が落ちてきそうな空を見ていると、なぜか憂鬱な気分になってくる。病院の窓から外を見ると、朝は晴れていたのにまた空を厚い雲が覆いかけていた。
 最近、雨の多い日が続いていたが、松本は地下の駐車場に自分の車を止めているのでカサは必要ない。けれど、今日はいつものように自分の車に乗ってきていないので、ロッカーに置いているカサを持って帰った方が良さそうだった。
 地下にある駐車場に車が無いのは橘の車に乗せてきてもらったせいだが、昨日、橘が松本の部屋に泊まった理由は白いシャツの下に隠れてしまっている。理解してくれる人はいるかもしれないが、やはり二人の関係を誰にも知られる訳にはいかなかった。
 それはお互いにわかっているし、松本から言い出した事で…、
 けれど、この病院で医師として働くようになってから仕事が忙しくなって一緒にいる時間が極端に減ると、一緒にいる時はわかっていたことも離れてしまうと途端わからなくなっていく気がした。
 少し前まではそんなことはないと思っていたが、今はどうしてもそう思うことができない。橘とは父親同士が友人だったので小学生の頃からの付き合いだが、この病院に来てから近くにいてもどこか遠く感じる。
 今日の診察を終えて帰るために医局に戻った松本は、自分のロッカーの中に貼られたメモを見て、小さく息を吐いた。

 『週末は急用が入ってしまいました。この埋め合わせはちゃんとしますから、許してください。 橘』

 青い万年筆で書かれた右上がりの特徴のある文字は、間違いなく橘の文字である。病院内では携帯は使えないので、わざわざ書いてここに貼ったらしかった。
 まるで直接会うのを避けるかのように、松本しか見ないこの場所に…。
 松本は無言で書いてある内容を読んで貼られたメモをはがすと、それをズボンのポケットの中に押し込んで白衣を脱いで上着を着る。そして同僚に挨拶をして医局を出ると、通りかかった看護婦が会釈したのに軽く頭を下げてから、帰るために玄関に向かって歩き出した。
 約束がキャンセルになるのは別に珍しくないし、実際に昨日は松本自身が当直が来なくて破りかけたのである。それに、今更これくらいのことで騒ぐ気にはなれなかった。
 実は病院内が騒がしくなる前からずっと嫌な予感がしてはいたが、それを探る気にも問いただす気にもなれないのは…、
 もしかしたら本当はわかっているのに、わかっていないフリをして自分を騙しつづけていたせいかもしれない。時々、病院内で姿が消えてしまうことも、携帯の電源が切られている時間が増えていく事実も…、

 いつも別れの予感と共に…、松本の目の前にぶら下がっていた。

 玄関の手前で看護婦に雨が降ってきたことを聞かされて、カサを持ってきて良かったと笑顔で答えたが…、ふと手に持った黒いカサに自分の名前ではなく橘の名前が書いてあるのを発見して苦笑する。ロッカーにあったこのカサだけではなく、今から帰る自分の部屋にも橘の持ち物が山のように置かれていた。
 今まで当たり前のように置かれているので気づかなかったが、まるで同棲でもしているかのような量である。けれど橘は松本に向かって、一度も一緒に暮らそうと言ったことがなかった。

 「あの日、お前に抱かれたことを…、後悔などしてないはずだったのにな」

 松本はそう呟くと、少し沈んだ表情で雨の降り始めた外を自動ドア越しに眺める。
 すると、開けようとした自動ドアが開いて、外から黒いスーツの男が入ってきた。
 その男は良く病院に出入りしていたるので知っていたが、男の横顔を見た瞬間、松本の視線が少し鋭くなる。けれど、男は松本の視線に気づいていないのか、そのまま前を通り過ぎて事務局の方に向かって歩いて行った。
 男は真田と言う名で製薬会社に勤務しているらしいが、私的に院長と懇意にしているらしいと噂で聞いた事がある。初めて見た時からあまり快く思ってはいなかったが、真田からはいつも何か危険な匂いを感じ取っていた。
 けれど、その危険な匂いは松本が感じ取っていた以上に危険なのかもしれない。
 今日の午後…、久保田に医局ではなく資料室に呼び出された時に渡されたリストは、真田のいる製薬会社に送られるために作られたらしかった。
 封筒に入れられていたリストを、久保田がどうやって見つからずにそれをコピーしたのかはわからない。だが、本気でこのリストについて調べる気のようだった。
 
『リストに載ってる患者サンのカルテみたらわかると思うんだけど、全員が記憶喪失で精神科にもかかってるんだよねぇ。だから精神科に知り合いがいたら、詳しい症状を聞いてきてくれない?』

 そう言った久保田はリストを簡単に松本に渡したが、そのリストとリストの行き先を考えると自然と浮かんでくる疑惑がある。けれど、この病院で誰がこの件に関わっているのかはわからなかった。
 つまり今の時点では、この病院の医師なら誰でも疑惑がある。
 だが、初めから久保田は松本はシロだと思ってくれているようで、渡されたリストは今も松本の手元にあった。

 『いいのか?これを俺に渡しても…』
 『いいから、渡してるんだけど?』
 『・・・・・・・努力はしてみるが、期待はしないでいてくれ』
 『じゃ、頼んだから』
 『ああ…、絶対にこの事は橘にも誰にも言わない』
 『橘にも?』
 『・・・・・その方がいいのだろう?』
 『まぁね』

 『やはり、そうだろうな…』

 今まで松本が久保田に頼み事をすることはあっても、久保田が松本に頼み事をすることはない。だからこそ、友人として協力したいという気持ちもあったが、病院内で不正や犯罪が行われているとしたら許せないという気持ちもあった。
 けれど、このリストの件で真田のいる製薬会社が背景にあることを考えると、前に一度だけ見た光景が脳裏に蘇ってくる。
 その日、病棟の回診を終えた松本が廊下を歩いていると、病院内の目立たない場所にある資料室から橘が出てくるのを見つけた。だが松本が声をかけようとした瞬間、その後ろから真田が出てきたのである。
 それを見た松本は何かここに用事があったのだと思おうとしたが、いつもと違う気だるい空気を漂わせた橘の瞳は欲情の色に濡れていた。
 そして皮肉な事にそれがわかるのは、橘とそういう関係を重ねていたからで…、
 濡れた瞳が見つめている先に立っている真田がその相手だということも、やはり間違えようもない事実だった。

 「俺はどうすればいい? 教えてくれ…、橘…」

 今まで続けてきた橘のとの関係を、やめたいとは思わない。
 それはたぶん身体を重ねてきた回数よりも…、まだ今のように橘が高くなく二人の身長が同じだった頃の思い出が深く心の中に住みついているせいかもしれなかった。
 松本は自動ドアをくぐって橘の名前の入ったカサを開くと、雨に濡れたアスファルトの上を一人で歩き出す。すると、その様子を病院の二階から見ていた橘が、
 「風邪をひかないように…、気をつけて…」
と、優しく微笑みながら声にはださず唇だけで言葉をつづった。
 けれど、その声は届くはずもなく、松本は振り返らずに雨に煙る街へと消える。
 見えなくなった後ろ姿を追うように、しばらくの間、橘はじっと窓から外を眺めていたが…、実はそんな橘を眺めている人物がいた。

 「うーん、雨降っても地固まりそうにないかもねぇ?」

 その声に驚いて橘が振り返ると、そこにはちゃんと医師のネームプレートを白衣の胸につけている久保田がドアの入り口に寄りかかって立っている。人の気配には敏感だと自負していただけに、久保田がいることに気づけなかった事実はやはりショックだった。
 らしくなく、驚きのあまり声を出せずにいると、久保田はそんな橘の様子を見て口元に薄く冷ややかな笑みを浮かべる。その表情を見た橘は背中に冷たい何かが走るのを感じたが、それを表には出さずに気を取り直して久保田に話しかけた。
 「さっきの言葉は、一体どういう意味ですか?」
 「ん〜、別にイミなんてないけど?」
 「なら、なぜそんなことを言うんです?」
 「最近、雨が多いからかも?」
 「・・・・・・・確かに、最近はずっと雨続きですね。一日置きに降っている気がしますよ」
 「明日も雨らしいしね」

 「ですが、雨の話をするために、ここに来た訳ではないのでしょう? 久保田君」

 そう言いながら橘が微笑むと、久保田は口元に笑みを浮かべたまま目を細める。すると、そんな二人の間を流れるただならぬ雰囲気に、通りかかった看護婦は顔色を変えてそそくさと立ち去った。
 二人の間で張りつめていく空気は、窓の外から漏れてくる雨音さえ冷たい静寂に変える。橘は細められた久保田の瞳を見て、ある人物のことを思い出して背中をゾクッと震わせたが…、

 そのある人物とはやはり…、久保田の父親であるこの病院の院長だった。

 苗字は違っているが、間違いなく久保田は院長の血を引いている。それを実感した橘は少し表情を引きしめて、久保田の出方を伺うためにじっと次の言葉を待った。
 しかし、久保田はそのまま寄りかかっていたドアから離れると、松本に向けられたのとは違う作りものの微笑みを浮かべた橘に背を向ける。てっきり時任のことで来たと思っていたので拍子抜けしたが、もしかしたらまだ主治医になったことを久保田は知らないのかもしれなかった。
 だが…、きっといずれ久保田の耳にも入るに違いない。
 その時までに手持ちカードの出し方を決めなくてはならなかったが、橘の視界から消える直前に聞えてきた久保田の言葉はカードを棄てろと警告していた。

 「壊れた鳥籠にカギは必要ないし、鳥籠に二度と鳥は戻らない…。だから、鳥籠のカギなんて捨てちゃいなよ。歌を忘れたカナリアみたいに、自分が捨てられない内にね」
 
 橘が手に入れようとしていた、鳥籠のカギ…。
 それを久保田は必要ないと…、そんなものに利用価値などないと切り捨てた。
 自分の一人の手で鳥籠を壊してその中にいる鳥を手に入れると…、だから邪魔をするなと久保田は忠告ではなく警告している。
 橘は雨音を聞きながら今から真田と口付けを交わす濡れた赤い唇を噛むと、白衣の裾をひるがえして待ち合わせしているいつもの資料室へと向かった。













 また…、窓の外から雨音が聞える。

 時任はさっきから雨音を聞きながらベッドではなく床に寝転がっていたが、久保田と会った日は二回とも晴れていたので、雨が降る日は窓を開けて待っていても来ないような気がした。
 一度、抱かれた時のままの姿でいる所を久保田に見られてから、どんなに身体が辛くても朝には起きてシャワーを浴びて着替える習慣がついている。シャツの襟からは相変わらず赤い痕が見えていたが、それでも夜の名残り身にまとってベッドの上に寝転がっているのを見られるよりはマシだった。
 別に友達でも恋人でもなくて…、会ったのもまだ二回だけで…、
 けれど、名前を呼ぶと誰よりもそのぬくもりが恋しくなる。
 そんな自分の不思議な感情を持て余しながらも、時任は毎日来るか来ないかもわからない久保田の事を待っていた。

 「やっぱ…、男なのに男と寝てっから気持ち悪りぃとか思われたのかな…」

 自分でそう呟いて…、その自分の言葉に傷ついて…、
 バスルームで久保田に抱きしめられた日から、そんなことばかりを繰り返していた。
 忘れないように何度も何度も名前を呼んで…、抱きしめられた時の暖かさを思い出しながら…。
 けれど、橘という医者が久保田の事を知っているらしいことがわかったので、もしかしたら今度の診察の時に何か聞き出せるかもしれない。橘はあまり好きではなかったし診察も嫌いだったが、久保田のことを知っていると思うと来るのが待ち遠しかった。
 もしかしたら、居場所がわかれば会いに行く事ができるかもしれない。
 けれど…、それをアキラが許してくれるかどうかはわからなかった。

 「ドアにはカギがかかってんのは知ってっけど…、でも、なんで俺はココから出れねぇんだろ? それって、いつからだったっけ?」

 久保田に出会ってから前よりも色んな事を考えるようになったし、疑問に思うことも増えてきたが、そんな思考も浮かんでもまたすぐに消えてしまいそうになる。気を抜くと何もかもが、すべてが白く染まってしまいそうでどうしようもなく恐かった…。
 思い出せないのは記憶喪失のせいだと聞いていたが、なぜかこの間まで覚えていたことも次第に消えていくような気がして…、
 けれどそんな気がしたことも…、またそれを追うように薄らいでいく…。
 もしかしたらと腕についた注射針の跡を見て思ったりもしたが、それでも優しく微笑むアキラに見つめられると抵抗できなかった。

 こわい…、こわい…、こわい・・・・。

 腕の血管の中に吸い込まれていく液体を見ながら、心の中で何度もそう繰り返していると注射が恐いのかアキラが恐いのかわからなくなって…、
 恐怖が身体中を支配して、そのままベッドに押さえつけられて動けなくなる。
 けれど、身体に進入してきたアキラの熱に犯されていると、その熱に溶かされるように凍りついた恐怖が熱すぎる欲情にすり変わった。
 痛みも恐怖も何もかも、身体を激しく突き上げてくる熱に犯されている時だけ忘れることができる…。

 けれど…、今は違っていた。

 時任は少しずつ…、少しずつ色んな事を久保田のことを考え始めている。
 自分の胸の奥にある暖かい…、涙にも似た想いの事を…。
 久保田に抱きしめられたがっている…、キスしたがっている自分の事を…。
 そして…、血管の中に流し込まれている薬のことを…。
 ぼんやりとしてくる頭を振ったりしながら、必死に何かを感じ取ろうとしていた。

 まるで…、目覚めない夢から目覚めようとしているかのように…。

 明日は橘の診察日だったが…、やはり雨が降っているせいなのか…、
 それとも、もうここには来るつもりはないのか…、
 空が暗くなるまでじっと窓を見つめていたが、今日も久保田は部屋には来なかった。




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