籠の鳥.14




 真田の製薬会社に送るために作られたリストについて、松本からの調査の回答はすぐに返ってきた。それは松本と同期でこの病院に入った精神科医も、リストに載っている患者の診察で不審な点が多くあったことをすぐに認めたからである。
 だが、不審な点については、やはり何もわからないとのことだった。
 患者が健忘症…、記憶喪失の症状を発症したのは、確かに事故などによって入院してからだが、入院直後は家族の名前も自分の名前も言えた者が多い。そして、このリストに載っているほぼ全員が同じ事を問診の時に口にしていた。
 
 『記憶は忘れるのではなく、消えていく気がする』

 記憶の喪失状況は人によって異なるが、その微妙な表現の中に何かがあるような気がしてならない。それに極端なものでは、朝までは自分の娘の名前は言えたのに、夕方には完全に自分に娘がいたことすらわからなくなっていた例もあった。
 しかし、そうやって失った記憶を取り戻せた患者は一人もいないのである。
 失ったことすら意識しない…、させないでなくなる記憶は、やはり忘れるのではなく消えると表現した方が正しいのかもしれなかった。

 『病院にいながら記憶がこんな消え方をするなんて理解できない…、正直な話』

 松本にそう話した医師は、眉間に皺を寄せてそう言ったらしい。調べられることは調べ尽くしたらしいが、やはり記憶が消える前も消えた後も脳内も血管も正常で変化はなかった。考えられる要因はもしかしたら、まだ未知で予想もつかない事なのかもしれないが…、医師の証言と照らし合わせて改めて患者のカルテを見て見ると、記憶が消えたと患者本人ではなく家族や身近にいる者が報告してきた日に共通点がある。
 それは記憶が失われた日に、必ず何らかの薬を注射されていたということだった。
 その薬の名前はそれぞれの症状にあわせて多様だったが、薬の名前の横に小さく走り書きの落書きのような記述がある。それは気にしなければ見落としてしまう程度のものだったが、久保田はそれを見逃さなかった。
 
 ・・・・・W・A。

 カルテに書かれたアルファベット二文字が何を意味するのか…、
 それを考えると、やはり時任の腕に打たれた注射針の跡が目の前にちらつく。
 時任の記憶は完全に消失したわけではなさそうなので、カルテに書かれた患者達とは多少症状が異なるが、このW・Aと名づけられた薬が打たれている薬と同じものだという確証はなかったが確信はあった。
 だが確信だけで証拠がなければ、この件について立証はできない。
 だから、久保田は確信を確証に変えるために、深夜を過ぎた暗い病院内を一人で歩いていた。

 「今頃、時任はベッドの上…、だろうね…」

 窓から差し込む冷たい月光は、所々にしかついていない暗い照明の変わりにそう静かに呟いた久保田の足元を照らしている。
 夜になってから晴れた空には、少しだけ欠けた白い月が浮かんでいた。
 会いにこそ行ってはいなかったが、やはり心の中にあるのはいつも時任のことで…、
 夜になると暗闇が街を包み込むようにすべてが暗く冷たくなって、世界が時任だけを想って軋む心と一緒に凍り付いていく。今、この瞬間に時任があのベッドの上でしなやかな足を男の前に開いて…、欲望に突き動かされながら身体を揺らしているかと想うと、口の中に苦いものが広がっていくのを感じた。
 けれど…、いくら苦さに顔をしかめても、そうすることを時任が望んでいる。
 いつも時任は逃げることなど考えたこともない顔をして、あのベッドで男を待っていた。
 久保田がその苦さを誤魔化すように口にセッタをくわえて火をつけると、冴え渡る月光の下で凍りつく心の奥底から熱い焼けつくような殺意が顔を出す。
 だが…、その殺意は時任を犯している男に向いているのか…、それとも男に自ら望んで身体を開いている時任に向いているのか…、

 空を照らす白い月をいくら眺めても、やはりわからなかった。

 久保田がセッタをくわえたままで、廊下の行き止まりに月光も届かない地下への階段を下りると上の階よりも強い薬品臭が身体を包み込む。実は病院の地下には、薬品の在庫や今は使われていない医療用の機材が置かれていた。
 各部屋には厳重にカギがかけられており、そのカギを使用するには使用者名簿に記入して事務局から借りて来なくてはならない。それは医療用の機材の盗難やカギの閉め忘れを防ぐということもあるが、やはりそれよりも薬品の納められている部屋にある薬品が無断で持ち出されるのを防ぐためだった。
 だが、特に危険な麻薬類などは金庫にしまわれているが、それよりも危険なW・Aという薬が患者に使用されている可能性がある。
 久保田はその薬がここにあるかどうか調べに来たはずだが、その手には薬品のある部屋にはいるためのカギはなかった。
 しかし、ドアノブを軽くひねるとなぜか簡単に部屋のドアが開く。
 どうやら、久保田よりも先にここに来ていた人物がいたようだった。
 久保田が闇にまぎれるように暗いままの室内に入り込むと、やはり薬品の置かれている棚の辺りでごそごそと動いている人影がある。だが、その人影は久保田が入ってきた事に気づくと、身体をこわばらせて動きを止めた。
 「だっ、誰だ?!」
 「うーん、誰って聞かれても困るんですけど?」
 「お、お前は、外科に入ってきた久保田」
 「って、そーいうオタクは同じ外科医の…、なんて名前だっけ?」
 「・・・・・・・渋沢だ」
 「あぁ…、渋沢サンね」
 「こんな夜更けに、こんな場所になんの用だ?」
 「それはこっちのセリフなんだけどなぁ。こーんな夜更けに、コソコソとこんなトコでなにやってんの?」

 「そ、それはだな…」

 背の低い小太りの渋沢という外科医は、手に持ったアンプルを背後に隠しながら、言葉に詰まったまま額に汗を浮かべた。渋沢にとって宿直当番でもなんでもない久保田が、こんな場所に現れるなど予想もしていなかったことに違いない。
 しかし、久保田の方は渋沢が来ているかもしれないと、予測した上での行動だった。
 W・Aの文字が書かれたカルテの製作者、つまり主治医の名前と、この部屋のカギの貸し出し名簿で一番名前の多かった医者の名前が同じだったことと、今日の午後に真田のいる製薬会社からの薬品の入荷があったこと。そして、今夜の宿直当番が外科は渋沢、内科は橘だということから、この日に渋沢が何か行動を起こす可能性が高いと踏んでいたのである。
 だが、渋沢は久保田がここに来たのは偶然だと思っているのか気を取り直すと、曖昧な笑みを浮かべて、何事もなかったかのようにこの場を立ち去ろうとした。
 「私は薬が足りなくなって、ここに取りに来ただけだ。そ、それよりも、宿直でもなんでもない君がこんな所にいる方が不自然だろう? 妙な嫌疑をかけられたくなければ、さっさと病院を出て帰るんだな」
 「妙な嫌疑ねぇ?」
 「薬品を盗んで横流ししたとか…、色々とあるだろう?」
 「その色々って、製薬会社から頼まれて患者さんに妙なクスリを射っちゃうってのも入るのかなぁ?」
 「き、君は何を言っているっ?!」
 「その手に持ってるのって、何のクスリ?」
 「・・・・・ただの栄養剤だ」
 「なら、試しにアンタの腕に射ってみる? ただの栄養剤なら問題ないよねぇ?」
 「う、うわっ、冗談はよせっ!」

 「たまには患者じゃなくて、自分の腕に射ってみるってのもオツなもんでしょ?」

 そそくさと立ち去ろうとした渋沢の行く手にあるドアの閉じると、久保田は棚に置かれていた箱の中から未開封の注射器を取り出す。そして、その真空パックを軽く噛んで歯で開けると、口元に薄い笑みを浮かべながら片手を渋沢の前に差し出した。
 すると、非常用の電灯しか明りのないこの部屋に、ピンと糸を張り詰めたような緊張感が走る。けれどその緊張の糸の向こう側にいる久保田の冷たい表情からは、笑みを浮かべているにも関わらず感情というものが感じられなかった。
 じりじりと後ろに下がってもこの部屋に逃げ場は無い。渋沢は荒い息を吐きながら、目の前に迫ってくる注射器の針を見つめていた。
 「ゆ、許してくれ…。製薬会社から使ってくれと頼まれただけで、こんな薬だとは知らないでやったんだ…」
 「そういう言いワケは、俺じゃなくて患者サンに言ったら? ま、そんなコトしたら、医師免許剥奪だけじゃなくて刑務所行きだろうけど」
 「・・・・・だ、だったら、いくら欲しいんだ?」
 「いくらって何が?」

 「金が欲しいから、そんな真似をして俺を脅してるんだろう?」

 青い顔をしてそう言った渋沢を見た久保田は、口元の笑みを更に深くすると…、腕を伸ばして渋沢の襟元をぐいっとつかむ。そして注射器を棚に戻して吸っていたセッタを手に取ると、その赤い小さな炎を首に押し付けた。
 「うあぁっ!や、やめろっっ!!」
 「俺が欲しいモノをくれたらクスリのコトは黙っててあげるよ…、渋沢センセ」
 「お、お前の欲しいものっていうのは何だ?!」

 「さぁ?」

 いくら渋沢が暴れても、襟をつかむ久保田の手は緩まない。けれど、渋沢を見つめる久保田の瞳は、ここではないどこか遠くを見つめているようだった。
 押し付けられた小さな炎が渋沢の皮膚を焼いて、セッタの匂いに混じってわずかにその匂いが室内にし始める。やがて痛みのあまりに抵抗を続けていた手が下へと落ちて、渋沢は顔をひきつらせたまま膝を床についた。
 すると、久保田は渋沢が抵抗をやめたことを確認すると、押し付けていたセッタと襟をつかんでいた手を離す。そして、その手は渋沢の着ていた白衣を探って、隠し持っていた薬の入ったアンプルを探し出した。
 アンプルには渋沢の言っていたように栄養剤の名前が書かれていたが、良く見なければ気づかない底の部分に小さな手書きの文字で『W・A』と書かれている。どうやら、この薬が患者達に打たれたことに間違いはないようだった。
 
 リストとアンプルと…、渋沢の証言と…。

 これだけそろえば、後は警察がこの件を事件として立件してくれるだろうし、そうなれば時任を閉じ込めている籠は自然に崩壊していくに違いなかった。
 だが、久保田がアンプルを懐に収めようとすると背後のドアが開く。
 その瞬間、久保田は振り返りもせずに棚の影に素早く移動したが、軽い何かの発射音がして持っていたアンプルがまるで星屑のように粉々に飛び散った。

 「久しぶりだね、久保田君」

 室内に響いた軽い音はサイレンサー付きの拳銃の音で…、そう言いながら中に入ってきたのは真田だった。そして、その背後にはどうやってここまで入り込んだのか、三人の男達が拳銃を構えている。
 だが、久保田に銃口を向けている強面の男達は、どう見ても医者にも製薬会社の社員にも見えなかった。
 「うーん、入院患者サンにしてはかなり元気そうだけど」
 久保田がそう言って軽く肩をすくめると、真田はそれを見て笑みを浮かべる。
 すると、床に座り込んでいた渋沢は、久保田の注意が真田の方にそれた事に気づくと、この部屋から慌てて逃げるようにして出ていった。
 そんな渋沢の惨めな様子を誰も見ていなかったが、久保田が砕けたアンプルの欠片を脚で軽く踏む。すると、その砕けたガラスの欠片が小さくチリリと音を立てた。
 真田はそんな久保田と視線を交わしながら、剥き出しになってしまっている注射器を箱の中から出すと、その針を近くにあった抗生物質の入ったアンプルの中にある液体のビンの中に浸す。そして中身を吸い出し終わると、ビンから抜いた針先から透明な液体が床へとこぼれ落ちた。
 「このアンプルには薬品名が書いてあるが、出してしまえば射つか調べるかしなければ、色だけでは何の薬なのかはわからない」
 「…でしょうねぇ」
 「で、君はそれを手に入れて、何をするつもりだったのかね?」
 「知ってるヒトに説明するほど、ヒマじゃないんですけど?」
 「ならば場合によっては、君にもこの薬を打たなくてはならないかもしれないというワケか…」
 「このクスリって抗生物質?」

 「そう、この色に良く似た色をしたW・Aと呼ばれるクスリだ」

 紙の上の文字でしかなかった記号が、言葉になって真田の口から漏れる。それは、わざとどれだけ知っているのかを試すかのように、久保田に向かってそのクスリの名前を言ったようだった。
 真田はW・Aの言葉に反応しない久保田を見て目を細めると、ゆっくりと久保田に近づいてその喉元に注射針を軽く押し付ける。けれど、その針は皮膚には突き刺さらずに、中にある液体も久保田の中に流し込まれることはなかった。
 「私はこの病院が、君は時任稔が欲しい…。利害関係は一致していると思っていたが違ったかね?」
 「さぁねぇ? 注射器がジャマで首を縦にも横にも振れませんけど?」
 「ふふ…、答えは決まっているのだから振る必要はないだろう?」
 「相変わらず強引だなぁ」
 「君のするべきことは薬の件を嗅ぎ回ることではなく、息子である事を公表して宗方に会うことだ」
 「…って言われても、会ってもどうにもならないんだけどねぇ?」

 「そのために、君のそばにこうして私がいるのだろう?」

 真田はそう言うと注射器を喉に押し付けたまま、久保田の唇に自分の唇を押し付けようとした。しかし、そんな真田の胸に冷たくて硬いものが当たる。
 すると真田は寄せようとしていた唇を止めると、ゆっくりと元の位置まで身を引いた。
 「相変わらずつれない男だね、君は…」
 「こう見えても、以外と身持ち硬いんですよね、俺って…」
 「ほう、そうなのかね?」

 「この世でたった一人しか、愛せないカラダなんで…」

 抱くことも抱かれることも、動物としての本能さえあれば簡単かもしれない。
 けれど、いくら欲望のままにベッドを軋ませても、キスしながら抱きしめながら呼びたい名前は一つだけだった。
 だから…、まだ時任の唇の感触を覚えている唇で誰ともキスはしたくない。
 ゆっくりと始めて触れた時任の唇の哀しい涙の味を…、忘れたくなかった。
 そんな久保田の言葉を聞いた真田は、嫌な笑みを浮かべると注射器を引いて入ってきたドアに向かって歩き出す。その時、完全に久保田の構えた銃口に背を向けてしまっていたが、撃たないと確信しているのか気にした様子は無かった。

 「たった一人しか愛せない身体でも、その身体が命がなければそのたった一人すら愛せない…。そうは思わないかね? 久保田君」

 真田はそう言い残すと、ドアの外へと消える。
 その背中を久保田は黙って見送ったが…、次の朝、病院に行く準備をしてから離れから本宅へ行くと、葛西の見ていたニュースにやたらと人相の悪い渋沢の写真が…、

 海から引き上げられる車と、東京湾をバックに写っていた。
 



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