籠の鳥.15
東京湾で車ごと渋沢の遺体が引き上げられたのニュースは、マスコミが取材に殺到したこともあってすぐに病院内に広まった。しかし、この件については事件の可能性はなく、死因は溺死で車ごと海に転落したのは飲酒運転によるものらしい。
:飲酒運転による事故死というのが、警察側の見解だった。
車が沈んでいた埠頭にはブレーキ跡はなく、渋沢はかなりの量のアルコールを飲酒している。この二点を考えると事故と考えるのは普通だが、実はこの警察の見解を不審に思っている人物が二人いた。
一人目はやはり死ぬ直前に渋沢と接触した、同じ外科に勤務している久保田。
そして、もう一人は事件があった夜に渋沢と一緒に病院で夜勤をしていた橘だった。
外来の急患はなかったのだが容態が急変した患者がいて、橘は真夜中に看護婦のコールで患者のいる病室まで駆けつけたのだが…、実はその途中で真っ青な顔をしてぼんやりと廊下を歩いている渋沢を目撃している。しかし急がなくてはならないので、結局、声をかけることはできなかった。
「声をかけていたとしても、結果が変わっていたとは思えませんが…」
診察のために病室を回りながら橘がそうつぶやくと、すぐ近くにいた看護婦が返事をする。それは自分が呼ばれたと勘違いしたせいだったが、その時、看護婦の顔が少し上気していたのは橘を恋愛対象として見ているせいだった。
けれど、それを知りながら橘は柔らかい微笑みを看護婦に向かって投げかける。するとその微笑みを見た看護婦の顔は、ますます上気して赤くなった。
「あ、あの…、私…」
思い切ったようにそう切り出した看護婦は、真剣な眼差しで目の前にいる橘を見つめつづめている。だが、橘の方はすぅっとそんな看護婦から視線をそらすと、明るい光の差し込んでいる窓に視線を向けた。
「最近、雨が続いてましたが、今日は晴れて良かったですね」
「えっ? あ…、はい…」
「このまま天気の日が長く続けばいいとは思っていますが…、やはり…」
「橘先生?」
「いえ、なんでもありません。いつもより少し遅れているので、先を急ぎましょう」
橘はそう言うと会話を切って、何か言いたそうにしている看護婦を置いて歩き出す。看護婦は気づいていないようだったが、橘はわざと天気の話をして話題をずらしたのだった。
こうしておけば、何かの時にこの看護婦を利用できるかもしれない。そんな自分の考えの汚さに反吐を吐きながらも、橘はいつものようにすれ違う人々が思わず立ち止まるほどの優美で美しい微笑みを浮かべていた。
職業が医者で独身…、しかも顔も思わず見惚れるほどに整っているとなれば恋人になりたい女性は山のようにいる。けれど今はそんな自分の立場も容姿も、そして身体も…、利用できるものなら、なんでも利用しなくてはならなかった。
「もしも僕に罰が下るなら、それを下すのは貴方なんでしょうね…」
自分を熱い瞳で見つめてくる看護婦といつも通りに回診を終えた橘は、そう呟いて背後から聞えてくる足音を聞きながら小さく息を吐く。
すると、その足音は少し早くなって橘の横に並んだ。
横に並んだ人物もやはり医者で看護婦達に人気があるが、告白されると少し困った顔をしながらもちゃんと付き合えないと断っている。その理由は橘と付き合っているからだったが、それを告白してきた相手に言うことはなかった。
いくらベッドで身体を重ねていても、ここでは同じ病院に勤める同僚で幼馴染…。
それを橘も、横に並んだ松本もお互いに承知していた。
「今日の回診は終わったみたいだな、橘」
「えぇ、ついさっき終わったところですよ」
「だったら、ちょっと今から話せないか?」
「もしかして…、渋沢の件ですか?」
「昨日は渋沢が宿直になっていたはずだが、今日になってみれば急用があるからと他の外科医と宿直を変わったことになっている」
「・・・・・・・それは、やはり渋沢が泥酔状態にあったので、病院の体面を考えての配慮でしょう」
「確かにお前の言う通りかもしれないが…、本当にそうなんだろうか?」
「・・・・・・・」
橘の呟きは聞えていなかったようだが、事故のあった当日に宿直だったはずの渋沢が定時に帰ったことになっている事実は松本の耳に届いているようだった。
だが、宿直当番の札が渋沢ではなく他の医師の名前がかかっていたのを、外科の看護婦が目撃しているので変わったというのは配慮ではなく事実なのかもしれない。当番医を変わったのは他の病院から夜勤の時だけ来ている男で、渋沢からの電話で宿直を変わってくれと頼まれたと言っていたようだった。
しかし…、それを橘から聞いてもすっきりとしないらしく、松本は眉間に軽く皺を寄せる。その皺を見た橘は、学生時代に呼んでいた呼び名で松本のことを呼んだ。
「あまり悩むと皺が増えますよ、会長」
「・・・・・元だろう? その呼び方は、誤解を招くからよせ」
「誤解ですか?」
「その呼び方だと…、まるでお前が俺の下についているように聞える」
「・・・・・確かに、僕は副会長でいつも貴方を補佐する役目でしたから、そう聞えるのは当たり前かもしれませんね」
「だが、今は違う。俺は会長ではないし、お前も副会長ではないだろう?」
「ですが、貴方はもうじき内科部長です」
「・・・・・橘」
「何も考えずに階段を登ってください…。僕はいつでも貴方の後ろにいますから…」
橘の言葉に松本は眉間の皺を更に深くして何かを言いかけたが、通りがかりの患者の視線を受けて口をつぐむ。すると、そんな松本の横で橘は学生時代の時のように、柔らかい微笑みを浮かべていた。
けれど、二人の間にある歯車は確実に狂い始めている。並んで歩いているはずの二人の距離が、自然に前後へと開いて行くように…。
途中で久保田の後ろ姿を見かけた松本はそちらに向かって歩き出したが、橘は特別に入っている宗方家での診察のために別の方向に向かって歩き出す。それを見た松本が呼び止めると、橘は短く返事をして足を止めた。
「今から、どこへ行くんだ?」
「ちょっと、頼まれて診察に行くんです」
「病院ではなく外へか?」
「・・・・・・外ではなく籠の中に」
気になる言葉を残した橘は、それ以上は何も言わずに松本に背を向ける。松本は少しの間遠くなっていくその背中を見つめていたが、きびすを返して橘ではなく久保田が歩いて行った方向に向かって歩き出した。
そうしたのは久保田に頼まれていたリストの件が、渋沢の事故死に関係しているのではないかと思い始めていたからだったが、この時、もしも橘の背中の方を追いかけていたら何かが違っていたのかもしれない。
けれど、そう松本が思ったのは、それからずっと後の事だった。
朝、目が覚めると重い身体を引きずってシャワーを浴びる。けれど、今日のシャワーはお湯ではなく水になっていて、時任の表情もいつもと少し違っていた。
それは、今日が橘の診察がある日だったからである。
橘は久保田のことを知っている様子だったので、もしかしたら何か聞き出せるかもしれなかった。けれど、冷たいシャワーの中で目の前にあるタイルを睨んでいるのは、ちゃんとした本物の医者だと言うことがわかっても、橘から危険な匂いがしていたせいである。
橘の柔らかい微笑みは優しかったが、それを瞳が裏切っていた。
「なにか目的でもあんのか…、アイツ…」
時任はそう呟くと、夜の名残りを身体から洗い流す。その時、抱かれることに馴れすぎた身体に熱がともりかけたが、冷たい水がそれを沈めてくれた。
身体の奥に熱を感じるたびに抱かれて犯されたがっている自分を感じていたが、時任はそれを振り払って自分のことを、そして周囲の状況を掴もうとしている。だが、食事を持ってきたりシーツを取り替えたりする屋敷の人間にいくら話しかけても、まるで時任がここにいないかのように無視され一言も口を聞いてくれなかった。
この屋敷内で時任と話してくれるのは、アキラと診察にやってくる橘の二人。
その二人の内、外のことを話してくれそうなのはやはり橘だった。
アキラは何を聞いてもここにいればいいと繰り返すばかりで、聞けば聞くほど腕に注射針の跡が増えるだけで何も答えてくれない。時任が哀しそうな表情をしていても、それを見て微笑みながら欲望を流し込んでくるだけだった
その流し込まれた欲望からは、熱だけで暖かさは感じない。
けれど…、抱かれることを拒絶することはできなかった。
『な…、んで…、俺のこと抱くんだよ…。俺は男なのに…』
『それは、いつも教えてやってるだろう?』
『い、いつもって…?』
『いつもこうやって身体で…』
『うぁ…、あぁ…っ』
『理由を知りたければ、抱かれて感じてよがってる自分の身体に聞けばいい』
『そんなの…、わからな…』
『わからないのなら、聞く機会をやろう』
『聞く機会?』
『ここでやめるか、それとも続きをするのか…』
『・・・・・・え?』
『お前が決めるんだ、ミノル』
このまま抱かれるのかやめるのかアキラの起こした気まぐれで選択権をもらえたので、このまま一言やめると言えばやめられる。けれど、中途半端に放り出された身体は、熱に浮かされて抱かれたがっていた。
久保田に会ってから回さなくなった手は、ぎゅっと白いシーツを握りしめていたが、それに逆らって身体は欲望に揺れている。
時任が自分の欲望に耐え切れなくなって、無意識に自分から身体を揺らし始めると…、
楽しそうに目を細めたアキラの口元に…、笑みが浮んだ。
その時のことを思い出した時任は、軽く唇を噛んでシャワーを止める。そしてバスルームのドアを開けると、置いていたバスタオルで身体を拭いて着替えた。
着替えが終わると室内に戻ったが、いつもと違ってベッドには座らない。
今日、もしかしたら久保田の居場所が橘の口から聞けるかもしれないと思うと、夜の匂いのするベッドに座ったり寝たりする気分にはなれなかった。
「久保ちゃん・・・・・」
窓辺に向かって何度呼んだかわからない名前を呼ぶと、時任は首筋を手で押さえる。そこには赤い痕がついていたが、いくら洗い流してもその痕は消えない。
アキラの残した痕跡に時任が爪を立てると、まだ診察の時間には早過ぎるのにコンコンとドアをノックする音が聞えた。
その音を聞いた時任が少し身構えると、ドアがゆっくりと開いてそこから橘が入ってくる。
橘はすっかり身支度を整え立っている時任を見て優雅に微笑むと、持っていた黒いカバンをベッド脇にあるテーブルの上に置いた。
「貴方に待っていていただけるなんて光栄ですよ、時任君」
「・・・・・誰もてめぇのコトなんか待ってねぇよっ」
「そんな風には見えませんけどね?」
「殴られてぇのかっ」
「そう、ケンカ腰にならないでいてくれませんか? 僕は貴方とケンカをしに来たわけではありません」
「ケンカじゃなくて、診察しに来たんだろ?」
「いいえ…」
「じゃあ、何しに来たんだよ?」
「僕は貴方を、この鳥籠から出すために来たんです」
橘の思いもよらない言葉に、時任の瞳がわずかに見開かれる。
橘から久保田のことを…、外のことを聞きだしたいと思ってはいたが、ここから出ることは考えた事がなかった。
けれど、橘の言葉を聞いた瞬間に、胸の鼓動がいつもよりも早くなる。
まるで跳べないはずの羽が、羽ばたきを始めたかのように…。
だが、時任の中にある二つの想いが、呼吸が苦しくなるくらい強く胸をしめつけていた。
その二つの想いはアキラに逆らって見捨てられたくないという気持ちと…、久保田に会いたくてたまらない気持ちで…、
その二つが…、胸の中で振り子のように揺れている。
けれど、時任はぎゅっと拳を握りしめて軽く頭を振ると、自分の方を見つめて微笑んでいる橘の瞳を真っ直ぐに見返した。
「久保ちゃんに会いたい…」
はっきりと自分の想いを告げた時任の言葉を聞いた橘は、強い意思を秘めた澄んだ瞳に優しく微笑みかけたが…、
やはり、その微笑みを瞳が裏切っている。
橘の口元には、優しさとは無縁のゆがんだ笑みが浮んでいた。
「鳥籠のカギの使い道を知ったら、久保田君はなんて言うでしょうね」
「カギ?」
「いいえ…、なんでもありませんよ」
そう言った橘の首筋には、時任と同じように赤い痕がのぞいていた。
けれど、病院で別れた松本にこんな痕をつける時間があったとは思えない。
橘はこの屋敷の門をくぐった時よりも乱れてしまっている着衣を直すと、ドアのそばまで行って軽くノックした。すると外から橘と同じ調子のノックが返ってきたが、そのノックをしたのは幽霊でもなんでもなく、この屋敷で働いている使用人の男である。
だが、時任を閉じ込めている籠は、ノックが室内に響き渡っても開かなかった。
前 へ 次 へ
|
|