籠の鳥.16
「誰かがここに来る気配がしたら、すぐに知らせてください」
「あぁ…」
ドア越しに使用人の男とそんな会話を交わした橘は、不審そうな顔をしている時任に向かって笑かける。だが、そんな橘の笑みを見た時任の眉間には、さっきよりも深く皺が刻まれただけだった。
時任の瞳は橘を信じないと言っている…。
なのに、それでも橘の話に乗ってきたのは久保田のことを知っていそうな人物が他にいないせいだったが、実は時任が知らないのは久保田のことだけではなかった。
この部屋にはテレビもラジオも新聞もなく、かろうじてカレンダーだけは壁にかけられていたが、それを見て時任が正確な日にちを言えるかどうかはわからない。今月ではなく先月のカレンダーのかかっている籠の中は、まるで本当に時が止まってしまったかのようだった。
まるで…、永遠にこの中に時任を閉じ込めておこうとでもしているかのように…。
橘は存在する意味のないカレンダーに近寄って、前月のページを音を破ると近くのゴミ箱に捨てる。けれどカレンダーをめくっても、やはりこの籠の中にいる限り何も変わらないのかもしれなかった。
「今は十月です…」
橘が短く今が何月なのかを教えたが、時任はそれを聞いてもきょとんとしていた。おそらく、外と隔絶されたこの状態の中にいるせいで、橘が気づいた事を何一つ気にしたことはないのだろう。
そんな時任を見て珍しく苦笑すると、橘はカバンの中ではなくポケットから小瓶を取り出した。けれど、いくら小瓶を取り出しても、その中身を注射する注射器は持っていない。しかも橘の持っていたその中身は、身体に害のないブドウ糖だった。
ブドウ糖の入った小瓶を軽く振ると、橘は時任の前にそれを差し出す。しかし、時任は瓶を差し出されても受け取らなかった。
「これを受け取らなければ、貴方は久保田君には会えませんよ」
自分の手の中の小瓶を見ながら橘がそう言うと、時任の瞳が少し細くなる。
橘が時任にこの話を持ち出したのは、久保田の名前を出した時の反応を見て自分の誘いに載ってくることを確信したからだが、予想に反して時任はここから出してやるという橘の誘いに簡単には乗ってこなかった。
何かを探るように見つめてくる瞳は小鳥ではなく、それを狙う猫のように鋭い。
与えられ続ける情欲に溺れ、自分の運命を受け入れているように見えた時任だが、まだその澄んだ瞳には強い意思が宿っていた。
橘は手渡すのをあきらめると、小瓶をベッドの白いシーツの上に置く。するとそのベッドの枕元には、物騒なことに拳銃の弾が落ちていた。
「注射器に拳銃…、この部屋には足りないものばかりですね」
「そういうのは、足りないんじゃなくていらねぇんだよっ」
「もしかして、それは久保田君に会いたくても、ここから逃げ出したいわけじゃないからですか?」
「・・・・・・・・」
「心配しなくても、僕は別にこれを注射しろとは言っていません。それにたとえこれが麻酔薬だったとしても、貴方が自分の飼い主に逆らえるとも思えませんしね?」
時任を利用するつもりはあっても、挑発するつもりはなかった。
だが、この部屋で他の男に抱かれながら、久保田に会いたいという時任を見ているとなぜかどす黒い感情が胸の奥に芽生えてくる。真田から久保田が病院で働く気になったのは時任のためだと聞かれてはいても、心のどこかでそんなことはあり得ないと否定して納得していなかった。
あの久保田が、そこまでして時任を欲しいと想うはずない。
この時の止まったような籠の中で、自ら望んで他の男に抱かれている時任に、久保田に愛される資格などあるはずがない。
けれど、そう想うのは久保田に気があったからではなかった。
橘は自分のどす黒い感情にイラつきを感じながらもそれを隠し、時任に向かって微笑みを浮かべて見せる。そうしながら松本以外の男に付けられた赤い痕に爪を立てると、傷つけられた首筋にわずかに血が滲んだ。
だが、痛みは赤く血の滲む首筋からは感じられない…。
痛んでいるのは自らの爪で傷つけた皮膚ではなく、身体の中のもっとずっと奥だった。
「注射するのではなく、この小瓶と貴方に射たれている薬の入った小瓶をすりかえてください」
「・・・・・・・もしかして、すりかえた薬を渡せってコトか?」
「えぇ、そうです。僕は貴方に射たれている薬に興味があるんですよ。貴方の身体を蝕んでいる薬がなんなのかを知りたいんです」
「そんなコト知ってどうすんだよ?」
「僕が薬をどうするかは、貴方には関係ありません」
「てめぇ…」
「ですが、約束はちゃんと守ります。もしも薬の入った小瓶を手に入れる事ができたら、貴方の飼い主にばれることなく、うまく久保田君に会わせてあげますよ」
「・・・・・・・・」
「これからも貴方が、この籠の中に居られるように…」
そう言って妖艶に微笑んだ橘の前で、時任がきつく唇を噛んだ。
だが、強く拳を握りしめてはいても、時任の口から否定の言葉は出ない。それは、久保田に会いたいと言ってはいても、時任の心がまだ揺れている証拠だった。
橘は冷たい瞳で時任を見つめていたが、取引きの返事を聞かず、本来の目的であるはずの診察もすることなくドアに向かう。しかし、ドアノブに手をかけた瞬間に、何かを思い出したように時任の方へと振り返った。
「久保田君は絶対に貴方を愛したりしません。抱きしめて愛すには、貴方はあまりにも汚れすぎてますから…」
橘の言葉に傷ついた時任の瞳が、久保田を想って哀しそうに揺れる。だが、橘は口の中に広がる苦さを感じながらも、その瞳を無視してドアの外へと出た。
最後の言葉は取引き前に言うのは早いし計画の妨げになるかもしれなかったが、それでも時任を見ていると傷つけたくてたまらない。籠の中にいながらもまるで汚れを知らないように美しく澄んだ時任の瞳が、橘をいらつかせていた。
「どうしたんだ? イライラして、いつも冷静なアンタらしくねぇぜ」
「・・・別にイラついたりはしてませんよ、貴方の気のせいです」
廊下に出るとそう使用人の男が橘に話しかけたが、その会話は初対面ではなく前からお互いを知っている感じの調子だった。男は軽く肩をすくめると、用事は済んだとばかりに屋敷から出ようとしている橘の肩を掴む。
だが、橘はその手を軽くかわして玄関へと向かった。
「すいませんが、僕はこれからまた病院に戻らなくてはなりませんので…」
「サボりゃいいだろ、仕事なんてさぁ」
「そういう訳にはいきませんよ」
「けど、戻るのは仕事じゃなくて松本にバレたくないからだろ?昔も今も松本が好きで、なんで俺と寝たんだよ?」
「貴方が、今も昔も僕を好きだと想ってるからですよ」
「・・・・・・」
「もしもの時に、貴方なら僕を助けてくれそうですから」
橘がそう言うと、言われた男は肩をつかみかけた手をポケットに入れて苦笑する。男は橘と松本の通っていた高校の生徒会に書記として所属していた。
その時から男の視線を感じていたが、抱かれたのは今日が始めてである。男は自分の誘いを受けた橘に驚いていたが、知っている人間がこの屋敷にいたことに橘の方は驚いていた。
「貴方に会って…、少しだけ高校時代を思い出しましたよ」
「なつかしいだろ?」
「そうですね…」
「あの頃、松本の親父さんが自殺したのには驚いたけど…、松本がちゃんと医学部卒業して親父さんと同じ医者になってて良かったよ」
「・・・・・ええ、本当に」
高校時代に想いをはせるように小さく息を吐きながら、橘は横からの男の熱い視線を感じていた。その視線の熱さは会長の松本ではなく、橘の手足として動いていた高校時代よりも熱い。視線の熱さは、男の橘への忠誠の証だった。
おそらく男は、あの頃のように喜んで時任と久保田を会わせる手助けをしてくれるだろう。だが、時任をこの籠から出してやるつもりはなかった。
「籠の鳥は羽を持っていたとしも、籠の中でしか生きられないものですよ、時任君」
橘はそう呟くと男と別れて、松本のいる病院へ向かう。
だが、男につけられた痕が残っている間は、松本のそばにはあまり近寄らない方がよさそうだった。
手のひらの上には、小瓶と一発の銃弾がある。どちらもこの部屋では使い道のないはずのものだったが、橘が置いていった小瓶の方は違っていた。
小瓶はゴミ箱の中に転がっているものと同じ型と大きさで、良く見なければ見分けがつかないほどに良く似ている。これをアキラの持っている薬とすりかえれば、久保田に会わせると橘は言った。
だが…、そう言った口と同じ口から出た言葉が時任の胸に突き刺さっている。
その痛みに耐えるように拳を握りしめると、その中にある小瓶と銃弾がこすれてチリリと音を立てた。
・・・・もしも久保田に会えたとしても、好きになってもらえない。
ただ会いたいだけで、それだけしか考えてなくて…、なのにそう想うだけで胸に何かがつまって呼吸が苦しい。好きになって欲しいなんて考えたことなんてなかったはずなのに…、シャワーで洗い流しても消えない赤い痕を見ると橘の言葉が痛みに変わった。
久保田に会いたい気持ちは、恋しいという気持ちに良く似ている。
けれど…、この痛みはもっと別の感情に似ていた。
アキラにも他の誰にも感じたことがないその感情は、強く激しく久保田だけに向かっていて…、いくらベッドで激しく抱かれても、抱きしめられた時の暖かさがなくならないようにその想いも感情もきっと消えたりしない。
たとえ久保田が、同情で抱きしめてくれたのだとしても…。
だから、時任はその想いの名前を知りたかった。
「同情される覚えもないし、会いたいのはそういうんじゃない…。けど、俺は久保ちゃんと…」
一緒にいたい…。
久保田に会った日に目覚めると握りしめていた弾丸と、橘から渡された透明な小瓶を握りしめたままで時任はそう呟いたが…、
唇がその形を刻んだだけで、最後の言葉は声にはならなかった。
ただ会いたくて…、ひたすらそれだけを想っていたけれど…、
会いたいのは一緒にいたかったからで、一緒にいたいからそばにいたいから会いたくて…、ベッドで欲望に身体を揺らしながらも…、
いくら呼んでも声なんて届くはずもないのに、いつの間にか時任は久保田の名前しか呼ばなくなってしまっていた。
「久保ちゃん…」
まるで見えない鎖でつながれているかのように苦しそうな表情で首の辺りを両手で包むと、時任は痛む胸を抱えて窓辺に立った。
すると、窓の下に番犬が唸りながら徘徊しているのが見える。
終わらない痛みを抱えて窓から飛び出せば久保田に会えるかもしれないが、まだアキラの微笑みと身体に残された熱が時任をここに繋ぎ止めていた。誰もいない部屋の中でひたすら夜が訪れるのを待った数だけ、身体を重ねた数だけ外へ出るのが怖くなる。
だが、昨日つけられた赤く鮮やかな痕が細い首を縛り、橘の言葉が籠から外へと続く窓を閉ざそうとしていても…、
冷たいはずの銃弾は…、手のひらの中に握りしめすぎていて暖かかった。
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