籠の鳥.17




 同じ病院で医者として働いているのも不思議な気がしていたが、こうして喫茶店でコーヒーを飲みながら向かい合っているのも、なんとなく不思議な気がしてならない。
 大学時代にこうして二人でお茶を飲んだことはあったが、こんな風に重い気分だったことはなかった。
 松本はコーヒーを一口飲んでから、白い湯気の向こう側にいる久保田を眺める。
 仕事が終わってからわざわざ病院から少し離れた場所の喫茶店へ呼んだのは、病院内では話しづらい柴田の件について聞くためだったが、さっきからいくら聞いても曖昧な返事ではぐらかすばかりで、久保田は少しも質問に答えようとはしなかった。
 「病院側は勤務時間外での事故だと言っているが、その日の夜に病院内にいるのを夜勤の看護婦が見かけている」
 「そう…」
 「気のない返事だな。ちゃんと話を聞いてるのか? 誠人」
 「ちゃんと聞いてるよ、松本センセ」
 「・・・・・・」
 久保田は聞いていると言いながらも、セッタを吹かしながら窓の外ばかりを見つめている。だから窓の外に何かあるのかと思ってその視線の先を追ってみたが、特に気になると所はなく、大勢の人々がただ行き交っているだけだった。
 どこか遠くを見つめているような久保田の瞳は、どこか暗い陰りを帯びている。
 けれどその陰りの中には、どこか寂しさに似た何かが滲んでいた。
 病院の様子を聞きに来たあの日…、そして医者として再び病院へとやって来た日までに何かあったということはわかっていたが、未だに詳しい事情は知らない。けれど、そのために久保田が行動していることだけは確かだった。
 久保田から渡されたリストとカルテの写しからわかったことは、記憶喪失になった患者が実は事故や病気ではないかもしれないということと、その患者達を診察をしたのが柴田だったということである。柴田のことに松本が早く気付けなかったのは、総合病院なので診察した科ごとで担当医がいたことと、記憶喪失という症状ばかりに気を取られていたことが原因だった。
 しかし、それに気付いたのは柴田が東京湾に沈んだ後…。
 そのため本人から直接、この件について話を聞くことはできなかった。

 リストの件を調べ始めた矢先の柴田の事故…、そして何も話そうとしない久保田。
 
 どうやら松本の知らない所で、この件は動いているようだった。
 しかも…、思うよりもずっと危険な方向に…。
 本当に柴田が事故に見せかけて殺されたとしたら、記憶喪失の原因を調べていて柴田の二の舞になる可能性もある。だが、もしも予想していることが事実だとするなら、このまま見過ごす訳にはいかなかった。
 だが、そう想いながらも、なぜか橘のことが脳裏に浮んできて意思が揺らぐ。
 迷うこと必要など微塵もなかったが、どうしても真田と一緒にいた時の橘の姿を見た時のことが頭から離れなかった。
 本当は信じたい…、けれど誰よりも信じたいのに信じられなくなってきている。
 松本は軽く頭を振ったが、柴田が当直だった同じ日に橘も当直だったことが引っかかっていた。そんなことがあるわけはないと思いながら、疑念を晴らそうとしてかけた携帯電話も切られていて繋がらない。
 前からそんなことは多かったが、最近は特に増えていた。
 けれど、松本はそんな疑念を断ち切ろうとするかのようにテーブルの下で強く拳を握りしめる。そして、久保田と同じように窓の外を眺めながら、コーヒーをもう一口飲んで再び口を開いた。
 「この件について知っていることがあれば、俺に全部話してもらいたい」
 「それって命令?」
 「命令ではなく頼みごとだ。もしも、俺の考えていることが事実なら、このまま放って置くことはできない」
 「つまり起訴したいってコト?」
 「そのつもりで調べてるんだろう? こんなことは医者としてだけではなく、人として許せない…」
 「・・・・・・いんや」
 「誠人?」
 「ご期待に添えなくて悪いケド、証拠をつかんでも起訴はしない」
 「だとしたら、なんのために調べてるんだ?」
 「それはもちろん、私利私欲のため」
 「やはり院長の座を狙う気なのか…、それとも前に言っていた籠の鳥が関係してるのか?」
 「さぁね?」
 吸っていたセッタをテーブルの上の灰皿に押し付けながらそう言うと、久保田はまだウェイトレスが運んできた時のままの状態のコーヒーを置いて席を立とうとする。そんな久保田の様子を見て慌てた松本は、人目につくのも構わずとっさに手を伸ばして腕を掴んだ。
 「待て、誠人っ…。お前はまだ、俺の質問に一つも答えていない。知ってることがあれば話すという約束だっただはずだっ」
 松本がそう言うと、久保田は立ち上がるのをやめて松本の方を見る。けれど、その瞳からは何かを押し殺すように、感情が感じられなくなってしまっていた。
 「籠の鳥とはいったい何なんだ? もしかして、それが薬の名前なのか?」
 「違うよ…」
 「薬の名前はなんなんだ? お前なら知ってるんだろう?」
 「・・・薬の名前はW・A」
 「W・A」
 「そう」
 「では、籠の鳥とは何を意味してるんだ?」
 「籠の鳥・・・・・、それは…」
 「それは?」
 「細い首しめて息の根止めて、心臓に向かって引き金を引きたいヒトのこと」
 「・・・・・・どこの誰でどういう関係なのかは知らないが、そいつのことを殺したいほど憎んでいるのか?」
 「たぶん…」
 「まさか、殺す気なのか?」
 「・・・・・」
 「誠人っ」

 「・・・・・・もし、ホントにそうだったとしても、息の根止めて鼓動を止めるために引き金を引いたとしたら、俺の鼓動も一緒に止まるかもね」

 松本はまだ何か聞きたい様子だったが、久保田はそれだけ言い残すと一人で喫茶店を出る。けれど、寝床のある診療所まで戻る気分にはなれなくて、ゆっくりと夜の街をさまようように歩き出した。
 前に時任を探すために夜の街をさまよい歩いたことがあったが、今はこんな夜の街を探し回る必要はない。けれど、会いたくて会いたくてやっと見つけ出したのに…、まるで夢のように…、
 
 あの穏やかだった日々が、時任の記憶と共に消え失せてしまっただけだった。

 どんなに腕を伸ばしても、その腕は心まで届かない。
 想いのままに強引に身体を抱きしめても…、時任はドアの方を振り返る。
 浅い眠りの中で何度も何度もそんなことばかりを繰り返して、抱きしめるはずの腕で細い首をしめて、そんな夢を見るたびに心が想いが凍りついていく…。
 欲しいものはこの世でたった一つだけなのに…、今まで何を願ったことも望んだこともなかったのに…、
 始めて願って望んだことが…、そのたった一つが叶わない…。

 胸の痛みを感じて空を見上げても、そこには暗闇が広がっているだけだった。

 暗闇の中を歩いて歩いて…、さまよって…、
 そしてたどりついた場所は時任がいる宗方の屋敷の前で…、自分がたどりついた先がどこなのか気付いた久保田が見上げると…、
 そこには、いつのまにか白く冷たい月が出ていた。
 この壁の向こう側では、時任が甘い息を漏らしながら男に抱かれている。久保田はまるで行き止まりのように目の前に立ちふさがっている壁に手を伸ばすと、その冷たさを感じながら強く爪を立てた。
 指先が壁にこすれて…、そこにわずかに血が滲む…。
 けれど、そんな痛みすら今は感じられない。血が滲んでいるのも痛みを感じているのも、外側の皮膚からではなかった。もっとずっと深い場所が血を滲ませて痛みを感じている。
 凍える心のままでこの壁を乗り越えて弾丸を二発打ち込んだら…、この痛みは止まるのかもしれないけれど…、
 まるであの消え失せてしまったあたたかな日々のように自分を呼んだ時任の声が…、頬をすべり落ちた一粒の涙が久保田を呼び止めていた。

 『久保ちゃん…』

 籠を壊しても…、何かが変わる保障はない。
 どんなにどんなに抱きしめても、また腕をすり抜けてしまうかもしれない。
 けれど自分を呼ぶ声とあたたかな日々の記憶が、残酷に胸を切り裂きながらも希望を繋ぎ止めてあきらめることを許さなかった。
 
 「もっと…、もっと名前を呼んで…、この指が引き金を弾かないように…」

 その静けさの中で吐き出す息も、胸を焦がし続けてる想いも…、愛しさと憎しみの狭間にある殺意も押し殺して…、
 白い月に照らされた夜は、冷たく静かに更けて行く…。
 まるで夢みたいな思い出に、すがりついてなんて生きていけない。
 記憶の中のあたたかさをたどっても、腕の中に愛しさをその想いを抱きしめ続けることなんてできない。

 なのに…、触れた手で抱きしめた腕で記憶した暖かさは今も鮮明だった。

 消えない消せない想いを痛み続ける胸で感じながら、久保田が壁に背を向けると…、壁に沿って伸びていく道を月光が照らし出す。その行く先に何があるのかはわからなかったが、まだ道は暗闇に覆い尽くされているわけではなかった。
 だが、ちょうど同じ頃に閉じていた窓のカーテンを明けて、久保田に良く似た目をした男が空を眺めると、月がまるで男の視線におびえたかのように流れてきた雲の中に隠れる。男は隣りの部屋からかすかに聞えてくる、苦しそうな…、けれどあきらかに色を含んだうめき声を聞きながら口元に薄い笑みを浮かべた。

 「人間も所詮は動物だが、動物は人間には絶対になれないものだ。そう…、いくら良い声で甘く鳴いたとしても…」

 そう言うと男は再びカーテンを閉じたが、月はまたカーテンが開くことを恐れているのか、再び雲の切れ目から顔を覗かせることはなかった。




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