籠の鳥.18




 「あの、外科の久保田先生が院長の息子だって本当なの?」
 「そうらしいわよ? 今まで黙ってたのは病院の内情を知るためよ、きっと…」
 「内情って、どうして?」
 「ほら、ウチの病院って結構、何かやってそうなあやしい先生多いし…」
 「しっ…、聞えるわよっ」

 人の噂は七十五日で消えるというが、それが事実だった場合は七十五日で人々が忘れてくれるかどうかはわからない。
 けれど、噂だろうと真実だろうと、伝わる速度は同じなのかもしれなかった。
 突如、病院内で囁かれるようになった久保田が宗方院長の息子だという噂…。
 その噂はまるで渋沢の事故死を打ち消そうとするかのように、あっという間に看護婦達の口を通して広がっていた。
 病院に来た時からいつかはこうなるとは予測していたが、あまりにもタイミングが良すぎる。渋沢の事故で重苦しくなっていた病院内の空気は、良くも悪くもこの噂が広まることによって、ある程度、払拭されてしまったようだった。
 久保田が院長の息子だとわかると、あらかさまに愛想が良くなったり媚を売ってくる医者や看護婦もいて、次第に広がった噂は大きくなり次期院長になるという息子は久保田なのだということになってしまっている。もう一人の息子が一度も病院に顔を出していないので無理もないが、その噂を聞くと当事者である久保田ではなく松本が深いため息をついた。
 「人間不信になりそうだな…」
 「そう?」
 「まぁ、所詮はこんなものなのかもしれないが、こうして目の当たりにすると複雑な気分になる」
 「ま、自分に正直で素直だとは思うけど?」
 「確かに正直で素直と言われれば、そうなのかもしれんが…。そうすると、正直で素直だということは、いいことだとは限らないというわけか…」

 「ニンゲンが正直になれるのは、自分の欲望にだけかもね?」

 久保田は口元に自嘲するように薄い笑みを浮かべてそう言うと、再びため息をついた松本を置いて外科の診察室のある方面に歩き出す。久保田の歩き方は少し背中を丸めた感じの特徴のある歩き方だったが、すでにその姿もこの病院に馴染んできていた。
 ソファーに座って診察室の前で順番を待つ患者の中からも、
 「あ、久保田先生だ」
と、うれしそうに言う声が聞えてくる。
 けれど、久保田は最初からこの病院に長居する気はなかった。
 今、こうして診察室に向かっているのも、医者として一人でも多くの命を助けたいとかそんなことを思っているからではなくて…、

 ただ、欲望のままに素直に、自分の欲しいものを手に入れたいだけだった。

 けれど、そのためには鳥籠を開けるのではなく、壊さなくてはならない。
 籠の鳥が、二度と籠の中に戻れないように…。
 だが、そのために手に入れるはずだったW・Aと呼ばれる薬は、銃弾に砕かれて粉々になってしまっていた。
 この事件後から警戒しているのか、今の所、真田のいる製薬会社にあやしい動きは見れられない。あの柴田の事故と一緒に、患者に投与されたとみられるW・Aも病院内から姿を消したようだった。
 しかし手がかりがなくなったからといって、このまま無駄に時間を浪費する気にはない…。これ以上、長すぎる夜の暗闇に爪を立てながら、今日と明日の境界線を越える気はなかった。
 握りしめるとあたたかい手も、あの細くしなやかな身体も…、髪の毛の一本すら誰にも触れさせたくなくて…、時任以外のすべてのものを壊したくなる。だから、たとえあの澄んだ綺麗な瞳に責められることになったとしても、もう後戻りはできなかった。

 「ごめんね…」

 久保田はそう呟くと、ポケットに入っている空のアンプルを指で撫でる。すると、そんな久保田の前方から、白衣を着た人物がこちらに向かって歩いてきた。
 だが、その人物の視線も久保田の視線も、お互いに向けられてはいない。
 二人が出会ったのは始めてではないが、まるでお互いをただ偶然にすれ違っただけの赤の他人のように意識していなかった。
 けれど、歩いてきた人物は久保田とすれ違う瞬間に立ち止まり、久保田の方も同じように立ち止まる。そんな二人の口元には薄い笑みが浮んでたが、どちらの笑みからも感情を読み取ることはできなかった。
 二人が病院内で会ったのは今日が始めてだったが、本来ならば病院に来た最初の日に会っていなくてはならない。
 だが、久保田はこの人物のいる院長室の札のついた部屋のドアをノックしなかった。
 そして同じように…、院長室にいるこの人物も部屋に久保田を呼ばなかった。
 二人が血縁関係にあると知った周囲の人間は、それを隠すために会わないようにしていたのだろうと囁いていたが、実はそうではない。
 ただ、なんの思惑も理由もなく純粋に…、お互いが赤の他人よりもずっと遠い存在だったというだけだった。
 少しの間、立ち止まった二人は前を見つめたまま無言だったが…、
 ポケットから手を出した久保田は、口元に浮んだ笑みを消さずに口を開く。
 その声はのほほんとしていて、いつもの調子と変わらなかった。
 「近々、預かってもらってるウチの子を、引き取りにいきますんで…」
 「病院内で野良犬の遠吠え…、か」

 「野良犬は吠えるだけじゃなくて、噛み付くもんですよ、院長センセ」

 短く交わされた会話らしきものは、二人以外の耳には届いていない。
 久保田はそれだけ言い残すと、一度も横にいるこの病院の院長である宗方の方を一度も見ないまま、何事もなかったかのように再び歩き出した。
 すると、この病院の院長である宗方も同じように、前に向かって足を踏み出す。
 お互いの顔を見ることもなく、背中合わせに逆の方向へと歩いて行く二人の間には、誰の目から見ても親子らしいつながりを見出すことはできなかった。
 病院内に広まっている噂が宗方の耳に入っているかどうかはわからないが、おそらく入っていたとしても、そんな噂のことなど気にも止めないだろう。
 久保田の身体には、誰よりも濃く宗方家の赤い血が流れているというのに…、

 宗方にとって久保田の存在は、この病院内を満たしている空気よりも軽かった。

 久保田は外科の診察室に入ると、看護婦に来たことを告げて本日の診察を開始する。けれど、ここで医者として白衣を着るのも、患者を診察するのも…、

 ・・・・・あと数日になりそうだった。













 もうじき…、またあのドアを開けて夜が忍びこんでくる。

 時任はこの部屋についている唯一のドアが開くのを待ちながら、少し汗の滲んだ手のひらに小瓶を握りしめる。けれど、今日はなかなかドアは開かなかった。
 時任が握りしめているのは橘に渡された小瓶で…、そこには透明な液体が満たされている。けれど、それは薬の入ったただの小瓶ではなく、会いたいと願っている久保田へと繋がるカギだった。
 時任に射たれている薬に興味を持っている橘は、小瓶をすりかえて本物の薬を渡すことと交換条件で久保田に会わせると約束したのである。なぜか橘は、時任が久保田に会いたがっていることを見抜いていた。
 
 久保田に会いたくて会いたくて…、恋しがっている事を…。

 だが、時任は久保田のことを名前以外は何も知らないし、会ったのもわずか二回で、お互いのことを知るには時間が短すぎる。
 だから、会って何を言うのかも、どうしたいのかもわからなくて…、
 こんなに会いたいと願う理由も、なにもかもわからない。
 けれど、わかっていることなんて何もないのに…、

 いつの間にか心が…、久保田の暖かい腕の中にさらわれてしまっていた。

 時任は強く強く小瓶を握りしめると、ベッドの脇にあるサイドボードに視線を移す。けれど、無造作に薬の入っているサイドボードの引き出しには、いつもカギはかかっていない。
 実は橘には教えなかったが、苦労することなく薬は簡単にすりかえることができた。
 まるで、時任をためすかのように…、アキラはいつも目の前でサイドボードの引き出しを開けて薬と注射器を取り出す。
 そして、優しく微笑みながら時任の腕に薬を射った。

 『お前は僕だけのモノだ…』と、そう耳元で囁きながら…。

 その時の声も微笑みも優しかったが…、いくら抱きしめられても、久保田に抱きしめられた時のような暖かさは感じない。けれど、その微笑みが頬を撫でてくる優しい感触が、久保田に向かって走り出そうとする時任の足を止めさせる。
 微笑みながら冷たい鎖に繋ぐように伸ばされる腕と、欲望のままに身体の奥に打ち込まれる熱が、いつも時任の思考と心を奪おうとした。
 けれど、橘から小瓶を渡されて、久保田に会えるかもしれないとわかった瞬間に…、自分の心の中から、まるで涙のようにあふれ出してきたのは…、

 久保田に抱きしめられた時に感じた…、暖かな想いだった…。

 一緒にいたい…。
 そう願ってしまう理由を…、想いの名前を知りたいと想ったけれど…、
 このまま、わからなくてもかまわない。
 もしも、何もわからなかったとしても、そう感じて想っていることは事実で…、久保田を想うたびに痛く苦しくなってくる胸がそれを教えてくれる。
 久保田を想う気持ちは…、ニセモノでも錯覚でもなかった。
 時任は目を閉じて前に向かって腕を伸ばすと…、まるで目の前に誰かがいるように抱きしめるように腕を交差させる。そして…、何もないはずの空間に暖かさを感じながら、ゆっくりと閉じていた瞳を開けると…、

 そこには…、久保田がいた。

 他の誰でもなく久保田だけが目の前に…、時任の心の中にいた。
 ここにいればいいと…、何も心配はいらないといくら抱きしめられても…、
 抱きしめようとして腕を伸ばした先には、久保田しかいなかった。
 たとえ、まだ名前を知らなかったとしても…、瞳を合わせたのが一瞬でしかなかったとしても…、確信なんてあるはずないのに…、
 なぜかこんな風に久保田を想うような気がして…、哀しくもないのに涙が頬を伝う。
 どんなに姿と声が似ていても、伸ばした手は相手を間違ったりはしない。

 だから…、もうこのままではいられなかった。
 
 時任はポケットにしまっていた銃弾を取り出して、目を閉じながらそれに唇を寄せて軽く口付けると、手にもっていた小瓶をゴミ箱の中に落とす。
 すると…、小瓶は音を立てて入っているゴミの中に混じった。

 「戻れなくなるから、戻らないんじゃない…。もしもダメだって言われても、俺のいたい場所はたった一つだけだから…、ココにはもう戻らない」

 そう呟くと時任はサイドボードの引き出しを開けて、その中にある小瓶を一つ一つ取り出して壁に向かって投げる。すると、壁に当たった小瓶は壁に当たって砕けて…、中に入っていた液体が床に敷いてある絨毯の上に染みを作った。
 こんなことをすれば、どんなことになるのか予想もつかなかったが…、
 もう、薬を腕に熱を身体に打ち込まれながら…、ここで玩具のように壊れていくのを待ったりはしない。
 自分で考えて、自分の足で歩いて…、久保田の元にたどりつきたかった。

 ここに久保田が…、あの塀を乗り越えて会いに来てくれたように…。

 けれど、床の染みが大きくなって、すべての小瓶を壊し終える頃には、事態は時任の予想もしなかった方向に転がり出していた。それが、神様がいたずらに運命の輪を回しているせいなのか、それとも誰かの思惑によってなのかはわからなかったが…、
 どんなに想いを込めて願い事をしても、星も月も見えない今日の夜空では…、

 願い事は一つも叶いそうにもなかった。

 


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