籠の鳥.19




 「ちょっと話があるんで、院長先生に面会したいんですけど?」
 『どちら様ですか?』
 「病院に勤めてる久保田デス」
 『久保田…、様?』
 「そう、クボタマコト」

 『・・・・・・・どうぞ、中にお入りください』

 インターフォンの向こうの人物とそんな会話を久保田が交わしたのは、白く高い塀に囲まれた、かつていたことのある屋敷の前だった。
 けれど、まるで置き忘れられた人形のように一人で離れの部屋にいただけだけで…、誰もが廊下ですれ違っても声をかけるどころか久保田の存在に気付いて視線止めることすらない。だから、この屋敷に暮らしていたとは言えないのかもしれなかった。
 やがて小学校に上がる年になっても、その背中に背負うランドセルも無くて…、一人きりの部屋で何もない白い空白の時間だけが増えていく…。
 けれど、そんな久保田に庭に放されている番犬以外で始めて視線を向けたのは、何かの用事で屋敷に来ていた叔父の葛西だった。

 『おい…、お前がもしかして誠人か? 誠人なんだな?』

 突然、現れた叔父と名乗る人物に引き取られて、屋敷から出ることになったけれど…、
 何もかもに置き忘れられたようなこの場所しか知らなかったから、ここにいることを哀しいともつらいとも思ったことがない。
 だから本当は…、そこから出られて良かったのかどうかもわからなかった。
 すぐに葛西との暮らしにもなれて人と会話することも覚えたけれど、会話をする声もどこか遠く遠く聞えて…、何もかも屋敷の中のあの部屋の暗闇の溶けてしまって現実味がない。温かい血が通っているはずの自分の手を見つめて見ても、やはりゴミ箱の捨てられた人形のように…、

 ただ冷たく無機質に…、そこにあるだけのように見えた。

 それでも夜の街を徘徊し続けていたのは、もしかしたらどこかにある現実を…、生きている今を…、暗闇の中から無意識の内に拾い出そうとしていたのかもしれない。
 胸の鼓動が動き始める瞬間を、ただひたすら待ちながら…。
 けれど、やっと動き始めた胸の鼓動は…、現実と生きている今と一緒に痛みを刻み始めていた。

 腕の中に残っているあたたかさと…、時任という名前とともに…。
 
 愛しさも苦しさも痛みも…、今、すべてはこの門の向こう側にある。
 やがて硬く閉ざされていた宗方家の門が開けられ…、久保田は使用人に案内されながらゆっくりと屋敷内へと足を踏み入れた。
 すると目の前に、久保田のいた頃と何一つ変わらない風景が広がっているのが見える。けれど、その風景を見ても、やはり少しもなつかしいとは感じなかった。

 「ま、古びてるとは思うけどね」

 久保田が屋敷を見た感想を短く言うと、少し前を歩いていた使用人がわずかに振り返る。その視線は昔と違ってちゃんと久保田を捕らえていたが、別に存在を認められても認められなくてもどうでも良かった。
 ずっと見つめていたいのも、見つめられたいのも…、この世に一人きりしかいない。
 けれど、もしもその瞳が自分以外の誰かを見つめるのなら…、両手でふさいで何も見えないように目隠しをしてしまいたかった。
 たとえ泣き叫んだとしても、その声さえも奪い取るようにキスしたかった…。

 まるで…、鎖で縛りつけるように両腕で抱きしめながら…。

 長い廊下を歩いて屋敷の一番奥にある部屋までたどり着くと…、使用人は久保田が来た事をドアの向こうにいる主人に向かって告げる。そしてゆっくりとドアを開いて久保田が中に入ったのを確認すると、再び音を立ててドアを閉じた。
 けれど窓の外を見ていて、久保田に背を向けたまま主人は振り返らない。
 だが、久保田が執務用のディスクの上に記憶喪失患者のリストとカルテ…、そしてそれにくわえて事故死した渋沢の日記を出すと…、宗方は振り返って昔と同じ感情がまるで感じられない無機質な瞳で久保田を見た。
 「なるほど、ネタとしては十分だな」
 「集めるのにそれほど苦労はしてないけど、それなりに高値だしね?」
 「だが…、それはココから出られたらの話だろう?」
 「そこんトコぬかりはありませんので、ご心配なく…」
 「内科の松本か?」

 「さぁ?」

 久保田は自分に何かあれば、リストやカルテが警察に届くように手はずが整っているかのように装っているが、実はそんな用意は一つもしていなかった。
 それにリストやカルテの存在は松本も知っているが、渋沢の日記のことまではまだ話していない。日記を手に入れたのは渋沢が死んでから四日後のことで…、それを手に入れることができたのは本当に偶然のことだった。
 もしもこの日記が手に入っていなかったら、まだこの屋敷内には足を踏み入れることができなかったかもしれない。渋沢の書いた日記には、薬の取引きのことや接触してきた人物のことなど細かく丁寧に書かれていた。
 まるで…、いずれ自分がこうなることを知っていたかのように…。
 けれど、渋沢の日記は久保田の手によって、警察ではなく宗方の前に出されていた。
 
 『これを…、受け取ってください…』

 ちょうど病院の中庭で久保田がタバコを吹かしている時に、そう声をかけてきたのは事故でなくなった渋沢の妻の美佐子で…、
 けれど、声をかけてきた理由は久保田だからではなく白衣を着ていたかららしい。
 美佐子はどうしても日記を、渋沢と同じ病院の医者に渡したかったようだった。
 『日記を読めばわかりますが、私の主人は法で裁かれてしまうような事をしていたのだと思います…。けれど、病院にいる時はどうかはわからなくても、家にいる時はとても優しい人で…、私にとっては本当に大切な人でした…』
 『だから?』
 『・・・・・・だから、私の手で連れて行きたかったんです…』
 『警察に?』
 『はい…』
 『両腕に手錠がかけられても?』
 『・・・・・えぇ』
 『そう…』

 『手錠がかけられても、償えない罪を背負っていたとしても…、こんな事になる前に私の手で止めたかった…』

  美佐子はそう言うと、久保田に日記を押し付けると哀しそうな瞳で白く高くそびえ建つ病院の屋上を見上げる。するとその上には青い空が広がってたが、青すぎる空はなぜか哀しく透き通っていくばかりで…、
 その青を見つめていると、何もかもが同じように透明に透き通っていくような気がした。
 久保田が渡された日記をパラパラとめくると、そこには渋沢に不似合いな柔らかい綺麗な文字が並んでいる。もしかしたらそれは、いずれ美佐子が読む事になるのを前提で書かれていたからかもしれなかった。
 『この日記を、警察に持っていくべきだと言うことは知っています。でも、主人が亡くなった今…、子供のことを考えると持っていけない…。だから、この日記をどうするのか後の判断は貴方に…』
 『後悔すると思いますけど?』
 『このまますぐに、警察に持って行ってもらってもかまいませんから…』
 『白衣を着た医者なら、俺以外にもいるでしょ?』
 『確かに最初はこの病院の医者なら誰でもいいと思ってましたけれど、今は他の誰でもなく貴方に渡したいんです』
 『どうして?』

 『それはもしかしたら…、まるで貴方が遠くにいる誰かを想うように、じっと空を見つめているのを見たからかもしれません…』
 
 遠く遠く離れても…、そこに存在があるなら会うことができる。
 抱きしめることができる…、キスすることもできる。
 だからまだ伸ばした手が届くのなら、後悔の海に溺れたくないのなら…、
 想いのある場所に届くまで、どこまでも両手を伸ばし続けるしかないのかもしれない。
 美佐子は日記を渡すと軽く会釈をして帰って行ったが、久保田は警察に持っていくという道を選ばなかった…。けれど、それは美佐子のためとか子供のためではなく、何よりも欲しいと想っているものを手に入れるためで…、

 時任のためでも誰のためでもなく、自分自身のためだった。

 取引きの道具としての日記と…、そして薬の入った小瓶が久保田のポケットの中にある。けれど瓶の方には本当は薬ではなく、ただの水が入っていた。
 しかし、日記よりも何よりも薬が取り引きの重要な役割を担っている。
 久保田は水の入った小瓶をポケットから取り出して軽く振ると、その中に写っている歪んでぼやけた宗方を見た。
 「この薬の製造元は真田サンの製薬会社…。そして、病院にはその製薬会社から医療機器や多量の薬を入荷してる。こんな資料や薬がなくても、叩いたらいくらでもホコリが出そうだよねぇ? そう…、たとえばドウブツ実験とか?」
 「あいにく病院で実験をした覚えはないが、その実験とは二本足で歩く動物も含まれているのかね? 庭に迷い込んできた野良猫とか?」
 「・・・・・籠の鳥とかね?」

 「ほう…」

 久保田が籠の鳥と言うと、何か心当たりがあるらしく宗方は珍しく口元に笑みを浮かべる。けれど、笑みを浮かべているはずなのに、やはり宗方からは感情らしきものが伝わってこなかった。
 宗方は机に置かれている電話の受話器を取ると、屋敷内の内線にかけて…、
 「新しい飼い主に野良猫を渡せ」
と、威圧的に短くそう言う。それを誰に向かって言ったのかはわからなかったが、久保田の要求は拍子抜けするほどあっさりと受け入れられた。
 こうして、簡単には壊れないかと想われていた鳥籠は、宗方の一言によってあっさりと時任の周りから取り去られ…、久保田の目の前で跡形も無く消え去って…、
  開いている窓から飛び立とうともせずに、ベッドのシーツの波に飲まれ続けていた鳥は飼い主を失い、いるべき籠を失って帰る場所も奪い去られことになる…。
 それはやはり葛西に久保田を渡した時のように、宗方にとって時任の価値など初めからなかったせいだった…。
 
 野良猫、野良犬という…、言葉そのままに…。

 宗方が手に持っていた受話器を置くと、ドアから再び使用人が入ってきて…、久保田を時任のいる部屋まで案内すると言う。だが、その時すでに宗方は久保田にも目の前に置かれた日記にも興味を失ったように、再び窓の外へと視線を移していた…。
 そしてそれと同じように久保田もあっさりと薬も日記も、手に入れたすべてを手放して宗方に背を向ける。お互いに一度も名前を呼ばなかった二人は、昔も今も他人よりも遠い距離にいた。
 
 「そんじゃ、案内はいらないんでこれで…」

 久保田はそう言うと案内をしようとした使用人を置き去りにしてゆっくりと廊下を歩き始めたが、屋敷内はいつもそうであるように何事も無くシンと静かに静まり返っている。
 その静けさはなぜか嵐の前に似ていて…、かすかに聞える犬の鳴き声がまるでサイレンのように久保田の鼓膜まで届いていた。

 もうこれで…、すべてが終わったはずなのに…。

 夜の暗闇をさまよいながら探していたものは久保田の手に入り…、
 あとは腕を伸ばして、あたたかなぬくもりを抱きしめるだけで…、
 それだけが、久保田の望みだったはずで…、
 けれど傷が増えてしまった手のひらに今になって痛みが走る。もう傷が増える事はないのに、治りかけているのになかなか治らない傷口からわずかに血が滲み出していた…。

 おかえり…、時任…。

 声には出さずに唇だけでそう呟いた久保田は、近づいてくる閉ざされたドアに視線を向ける。けれど、部屋の中からは時任の叫び声が漏れていた。
 何を言っているのかまではわからなかったが、その声を聞いていると時任を抱きしめようとしていた腕が…、その手が指先がなぜか冷たくなっていく…。
 久保田は自嘲するように、口元に薄い笑みを浮かべると…、

 ・・・・・・壊れた鳥籠の扉を開けた。




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