籠の鳥.20
どうして…、なぜ…。
もしもそれがわかっていたのなら、何かが違っていたのかもしれない。けれど、気付いた時はこの部屋にいて、自分の名前以外は何もわからなくなってしまっていた…。
いくら想い出そうとしても、頭の中がズキズキと痛んでぐちゃぐちゃになるだけで…、
懐かしさも恋しさも…、その想いの理由もなにもかもが思い出せない。
けれど…、だからこそここから逃げ出すのではなく…、カギのかかったドアを開けて自分の足で歩き出したかった。
振り返らずに…、どこまでも行けるように…。
けれど、時任が最後の薬の小瓶を壁に投げつけようとした瞬間に、待っていた人物がドアが開いて入ってきたが…、
いつもはすぐにかけられてしまうはずのカギは、なぜか開けられたままだった。
今まで一度もこんなことなどなかったのに、何かがいつもと違っている。浮んでいる微笑も何もかもが同じなのに、ドアが開かれていることが部屋の空気を変えてしまっていた。
その変化を感じて時任が手に残った小瓶を軽く握りしめると、アキラは散らばっている小瓶の欠片を見て口元に笑みを浮かべる。そして欠片から時任の方に向けられたアキラの笑みは、優しくて優しすぎて小瓶を握りしめた指先が震えてしまうほど恐ろしかった。
今まで見たどの微笑みよりも…、優しい…。
けれど、その微笑みに向かって微笑み返すことはできない。
まるでどこまでも逃げられない鎖に繋がれていくような気がして、時任はその鎖を断ち切ろうとするかのように震える指先を反対側の手で強く押さえた。
そばにいたいのは抱きしめたいのは…、両腕を伸ばした先にいるのアキラじゃない。
それがわかっているのに、こんなに手が震えるのはなくなったはずの記憶の中に…、何かが潜んでいるからかもしれなかった。
その中にあるのが愛しさなのか、それとも愛しさに似た憎しみなのか…、それはわからないけれど…、
それがわかってもわからなくても、きっと想いは変わらない…。
時任は心の中で会いたい人の名前を呼ぶと、微笑むアキラに向かって…、
・・・・・・・・さよならを告げようとした。
だが、時任が口を開きかけた瞬間、それをさえぎるようにアキラは腕を伸ばして強引に時任の唇に口付ける。けれど強引に口付けてくる唇に時任が噛み付いて、はっきりと触れることを拒絶して鋭い瞳で睨み付ける。
するとアキラは血の滲んだ唇を軽くぬぐって、それ以上は何もしようとはしなかった。
けれど…、口元に浮んだ笑みは消えない…。
まるで楽しいことでもあったかのように、アキラは笑っていた。
「さよなら、ミノル」
笑みを浮かべたままの唇が信じられない言葉を口ずさんで、時任は驚きのあまり大きく目を見開く。自分の口から漏れるはずの言葉が、それを告げるはずのアキラの口から漏れていた。
・・・・・・・さようなら。
そうすることを、そうなることを望んでいた。
けれど、アキラの口からその言葉を聞いた瞬間、出ていこうとしていた部屋に本当に何も初めからなかった気がして、時任はキスをこばんだ唇をきつく噛みしめる。
するとアキラは時任を肩を強く掴んで、ポケットから出した物を時任の首につけた。
「な、なにしやがんだっ!!とっととコレをはずしやがれっ!!」
「はずしたければ、私ではなく新しい飼い主に頼めばいい」
「飼い主って、人をドウブツ扱いにしてんじゃねぇっ!! それに新しいって何だよっ!?」
「文字通り、もうここには戻って来なくてもいいということだ。新しい飼い主の所で、今まで以上に可愛がってもらうといい」
「・・・・・っ!」
「紙切れ数十枚と薬瓶…、それがお前の値段だよ」
紙切れと薬瓶が何なのかはわからなくても、それを手に入れるために自分が売られてしまったことはわかる…。時任の意思など関係なく、首にはアキラの手によって猫用の首輪が付けられてしまっていた。
時任は握りしめていた小瓶をポケットにしまい込むと、腕についているたくさんの注射針の跡を手で覆う。けれど、そうしながら時任が怒りをぶつけるように叫ぼうとした時、アキラの手のひらが伸びてきて優しく時任の頬に触れた。
「愛しているよ…、ミノル…」
物のように売られて…、そんなことが許せるはずはないのに…、囁かれたその言葉を聞いて心臓の鼓動がドクンと大きく一つ跳ねる。何度も何度も身体を重ねたのに…、こんな風に鼓動が跳ねたのは始めてかもしれなかった。
見つめてくる視線が言葉が…、また時任を縛りつけようとする。
けれど、いくら愛してると囁かれても…、何度も何度も抱きしめられても…、
感じたいあたたかさも何もかも…、ここにはなかった。
時任はつけられてしまった首輪をはずそうとしながら、現実を見つめようとするかのように視線を開いているドアに向ける。そして揺るがない意思を秘めた強い瞳で、真っ直ぐにアキラを見つめた。
「もう、ここには戻らない…。けど、俺は新しい飼い主っていうふざけた野郎のトコには、絶対に行かないっ!」
「絶対に?」
「紙切れでも札束でも、そんなモンで売られてたまるかよっ! 俺は誰のモノでもないっ、俺は俺自身のモノだっ!!」
「・・・・・・・ほう」
「俺は自分の意思で、自分の足でココを出てくっ!!」
そう叫ぶと、時任はアキラの方を振り返らずにドアに向かって歩き出す。
まだ頬に触れられた時のあたたかさと…、愛してると囁かれた時の余韻が残っていたが、久保田の名前を声を出さずに呼ぶとそれもすぐに収まった。
けれど、そんな時任の背中をアキラの声が追いかけてくる。
それを振り切るように時任がドアノブに手を伸ばすと、アキラは笑みを含んだ声でまた信じられない言葉を口にした。
「行かないと言うなら、自分で行かないと新しい飼い主に言うがいい」
「・・・・・・・・そんなヤツに会いに行く気なんかねぇよっ!」
「だが、もうすぐそこまで来ている…」
「えっ?」
「お前の新しい飼い主、久保田誠人が…」
会いたかった人の名前が…、予想もしなかった場面で時任の耳に聞えてくる。そんなはずはないと想いながらも、その名前を聞いた瞬間に鼓動が痛いくらいに早くなった。
まるでモノのように自分を買った相手が、久保田だなんて信じられない。
ここから出て会いに行きたくて…、そばにいたかったけれど…、こんな風にこんな形でなんて望んでいなかった。
まだ何も言ってないし…、何もしていない…。
なのに時任の意思とは関係ない所で、知らない内にすでに取引きされていた。
時任は久保田がいないことを祈りながら、ドアを開けようとする。
けれどそれよりも早く、廊下にいた人物によってドアが大きく開かれた。
「くぼちゃ…ん・・・・・・・」
ドアの向こうから現れた人物を見て、時任の瞳が複雑な色を浮かべて揺れる。
数十枚の紙切れと薬瓶で時任を手に入れた人物は…、アキラに良く似た顔をしてそこに立っていた。しかし会いたかった人が目の前にいるのに…、そばにいられたらと願っていた人がそこにいるのに…、
時任は久保田とアキラの間に立ったまま…、一歩も動けなかった。
そんな様子を見ながら、時任の背後で目を細めて微笑んだアキラはゆっくりと歩き出す。そして、時任の横で立ち止まると軽く音を立てて髪にキスを落としたが、不意をつかれたせいか時任はさっきのように抵抗はしなかった。
けれど、時任に触れているアキラを殺意に満ちた瞳でじっと眺めている人物がいる。
久保田は目の前の光景から目をそらさずに口元に薄い笑みを浮かべながら、ポケットからセッタを取り出して火をつけた。
「ウチに帰りたいんで、さっさと渡して欲しいんですけど?」
「だが、別れくらい惜しんでもいいだろう?」
「ベッドで?」
「いいのかね?」
「腹上死とか…、そんな死に方が好みならね?」
久保田のそのセリフを聞くと、アキラは見る者を不快にさせる笑みを浮かべながら挑発するように時任の首筋に唇を這わせようとする…。
しかしそうしようとした瞬間に、アキラの頬を冷たい銃弾がかすめた。
頬に赤い筋を残して飛んだ銃弾は久保田の握っている拳銃から発射されたもので…、銃口からは白く細い煙が上がっている。時任は驚いた表情をしていたが、アキラは笑みを浮かべたままだった。
「抱いて犯したくてたまらないんだろう? ミノルを…、この私と同じように…」
銃口は依然として狙っていたが、アキラはそれだけ言い残すと時任から離れてドアへと向かう。けれど、その途中で久保田とすれ違ったが、それ以上は何もしなかったし何も言わなかった。
開けられたドアからアキラが出ていくと、久保田と時任の二人きりになったが…、
言いたい事も話したい事も山ほどあったはずなのに、二人とも黙ったまま…、久保田が強引に時任の腕を引いて歩き出すまで静かに見つめ合っていた。
「久保田が辞職届を出したというのは本当なのか?!」
久保田が病院からいなくなった翌日、内科の医局で松本が橘に向かってそう言ったが、それは病院内でも噂になっている。まだ聞いたばかりで松本は事実かどうかを確認していなかったが、橘はすでに辞職届を直接受け取った副院長に聞いていたらしかった。
いきなりのことに副院長はあわてたようだが、久保田は説得を聞き入れずに辞職届だけを残して帰ったらしい。
けれど、久保田かいなくなったのは病院だけでなく…、一緒に暮らしている葛西の元からもいなくなったようだった。
『…ったく、いつも心配ばっかりかけやがって、あの野郎っ』
松本が電話をかけると、葛西はそう言って舌打ちをした。
離れにかろうじて書き置きは残されていたが、どこに行くかはやはり書かれてはいない。たぶん理由は時任がらみだろうということはわかってはいても、姿を消した理由はわからなかった。
調べていたリストの件と…、W・Aという薬…。
久保田に関する手がかりはそれしかないが、調べるには危険が多すぎる。
葛西と電話をしながら松本が橘の方を見ると、橘は何かを考えるように窓の外を眺めていた。薬のことを葛西に相談してみたい気もしたが、やはり橘がいる場所でW・Aの名前を出すことはできない。
この件と橘が無関係であることを祈りながら、松本は葛西と話を続けた。
「・・・・もしかして、何かあったということは?」
『さぁな…、今の所はそれらしいニュースはしてねぇが』
「悪いが…、誠人のことで何か情報が入ったら…」
『教えろってんだろ? まぁ、教えてやってもいいが、その病院にこれからもいるつもりならあまり誠人には関わらん方がいい』
「・・・・・それはやはり宗方と関係があるからと?」
『あの宗方の屋敷は尋常じゃあねぇ…。いつ行っても、嫌な空気が充満してやがる』
「だが、誠人はそこで育てられた…」
『ああいうのは育てられたって言わねぇよ。誠人はあそこに…、あの屋敷の中に捨てられてたんだ…、犬コロみてぇにな…』
葛西の言葉の本当の意味を、松本は詳しく聞かされていないので知らない。けれど、表情も瞳もなにもかもが乾いていた久保田は、いつも真っ暗で自分の手のひらすら見えないような暗闇があるような気がしていた。
そんな久保田が何かを欲しがっている所を…、今まで見た事がない。
友達も彼女も…、何も欲しがっているようには見えなかった。
松本が友人らしい関係を結ぶことができたのは、奇跡に近いが…、
それよりも、久保田があんな風に変わってしまうくらい深く一人の人を想うことができた方が、もっともっと確率の低い出来事に違いなくて…、
けれど、それは偶然ではなく必然的に起こったのかも知れない。
久保田が誰かを探すように夜の街をさまよっていたように…、時任も誰かを待つように夜の暗闇の中でうずくまっていた。
『もしも一緒にいられるなら何が起こってもそれでかまわねぇと…、そう想ってるのかもしれねぇな…、誠人は…』
電話口から葛西のため息混じりの声が聞えると、松本は言葉に出しては何も言わずに軽くうなづく。だが、さっき葛西から久保田が探している時任という人物について聞いたが、なぜあんなにも急速に…、まるで生き急ぐように恋したのかまではわからなかった。
久保田がいなくなったことによって、W・Aの手がかりも一緒に失われて…、松本はこれからどうするかを考えていたが…、
橘の横顔を見ていると、平穏な日々が少しでも多く続いてくれることを祈らずにはいられなかった。
穏やか過ぎるくらい穏やかに、愛しさを抱きしめていた昔のように…。
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