籠の鳥.21




 渋沢…、そして久保田。
 突然、次々と二人の医師が消えてしまった病院は、しばらくの間は騒がしかったが、一週間もするといつもの穏やかさを取り戻す。けれど、もしかしたらそれは人々の記憶の中から、二人についての記憶が薄らいでしまったということなのかもしれなかった。
 そこにいることが当たり前に思えていても、いなくなればすぐにそれが当たり前になる。この病院に久保田がいたという痕跡は、ここにいる間に見た患者のカルテに書かれている名前くらいのものだった。
 院長の息子だという噂も本人である久保田があいまいな態度を取っていたため、結局は事実ではなかったということで落ち着いたらしい。火のない所に煙は立たないというが、事実でもそうでなくても、噂というものはやはり無責任なものなのかもしれなかった。

 「僕がいなくなったとしても、やはり同じなのかもしれませんね…」

 騒ぎがある前の様子にすっかり戻った病院内で、橘はそう呟くと外科の診察室の前に貼られている各診察室の担当医の名前を眺める。
 すると、やはりそこには久保田という名前はなかった。
 葛西の話では病院からいなくなった日に、住んでいた離れからもいなくなっているらしいがその行方は誰も知らない。叔父である葛西も友人である松本も、久保田から何も聞かされていなかった。
 どこへ行ったのかも、なぜ消えたのかも…。
 けれど…、久保田は渋沢のように消されたわけではないと橘は確信していた。
 それは葛西が一緒にいるだろうと予測していたことを裏付けるように、時任稔も宗方の屋敷からいなくなっていたからである。時任の主治医だった橘には、理由も何もいわずにもう来なくていいとだけ伝えられていた。
 だが、橘と同級生だった使用人からは久保田誠人が連れて行ったという連絡が入っている。手に入れていた何かと引きかえに…、時任稔を手に入れたと…。
 おそらく手にいれていた物は、橘も手に入れたいと思っていた薬に関する何かだと確信はしていたが、それを手に入れた久保田がこんな手段に出るとは予想外だった。
 
 「何かそうしなければならない理由があったということですか…、久保田君には…」

 橘はわずかに眉間に皺を寄せながらそう言うと、内科に向かって歩き出そうとする。だが、そんな橘の視界をブランド物の黒いスーツを着た男が横切った。
 橘がその見覚えのあるスーツの背中に視線を向けると、男は橘の視線を感じたのか、立ち止まってゆっくりと橘の方を振り返った。
 「君が浮かない顔をしているとは、珍しいこともあるものだ」
 「・・・それは貴方の方ではありませんか? 真田さん」
 「ほう、そう見えるかね?」
 「ご存知だとは思いますが、もうここには久保田君はいませんよ?」
 そう言いながら微笑んだ橘は、少しずれかけた眼鏡をかけ直す。それを聞いた真田の表情はやはりまったく変わらなかったが、こうなることを予想していたとは思えなかった。
 真田が病院内で久保田に接触していたことは間違いない。
 しかし、久保田を利用して何をしようとしていたのかまではわからなかった。
 病院内では医療器具や薬のほとんどが真田の製薬会社のものが使われ、宗方の屋敷へも出入り自由…。そんな現在の状態は、真田にとって悪いものではない。
 だが、真田は時任を探し出し久保田をこの病院へと呼んだ。
 
 まるで…、争いの火種をまくように…。

 久保田は地位や名誉には興味が無かったが、もっと別に興味のあるものがある。
 それは、時任稔という名の籠に囚われた鳥だったが…、
 その鳥を久保田が消される可能性があるにも関わらず取り戻しに行ったことよりも、宗方側がこうもあっさりと手放したことが信じられなかった。
 真田が宗方の屋敷に連れ戻したらしいが、もしかしたら籠の主であるアキラと名乗る人物は、時任を探してはいなかったのかもしれない…。

 そうだとしたら…、時任はなぜ…。

 そこまで考えてから、橘は自分の行きすぎた思考を追い払うように軽く頭を振った。
 すると、真田は少し目を細めてそんな橘を見る。だが、何度も身体を重ねてはいても、その瞳には感情らしきものは宿っていなかった。
 「昨日見た、悪い夢でも思い出したのかね?」
 「・・・いいえ」
 「では、何を?」
 「あの久保田君がどんな顔をして、時任稔を抱くのかと考えていただけですよ」
 「なるほど、なかなか面白いことを言う。君も久保田君に興味があるのかね?」

 「そういう貴方こそ…、どうなんです?」

 橘がそう問いかけると、真田は無言で口元にうっすらと笑みを浮かべる。その笑みからは少なからず興味があることが感じ取れたが、なぜこんな風に真田が久保田に興味を持つようになったのかはわからなかった。
 屋敷に出入りしているので会う機会があったのかもしれないが、久保田はすでに子供の頃に屋敷から出たらしい。宗方と真田の関係も謎に包まれていたが、久保田と真田の関係も謎に包まれていた。
 橘が何かを探ろうとするかのように真田を見つめていると、真田は喉で短く笑ってから手を伸ばして橘の髪を一房だけ掴む。そしてその感触を楽しむかのように、握りしめた手を放しながら髪にゆっくりと手を滑らせた。
 
 「もしも、私に協力するというのなら、私が君の望みを叶えよう。君が愛する人のために望んだ…、その願いを…」

 橘と真田の関係は…、今まであくまで対等だった。
 しかし久保田が手に入れたものを宗方に渡し、時任も久保田と一緒に姿を消した今は、いくら待っていても橘の手には何も入らない。病院内にもあったかもしれない薬の痕跡は渋沢の死によって消え、屋敷内に同級生の男がいるものの出入りは難しくなった。
 すると後に残るのは…、薬の製造元である製薬会社にいる真田だけになる…。
 けれど利害関係が一致している間は利用し合うことで現在の関係を維持できるが、それが崩れ去った時には、いつものように抱き合ったままで背中を撃たれる可能性が高かった。真田が危険な男であることを、橘は抱かれながら肌で感じている。
 しかし橘はゆっくりと真田の手が離れていくのを見つめながら…、遠い夏の日に見た光景を思い出していた。呆然と立ち尽くしている松本を抱きしめて、絶対に許さないと誓った始まりの日のことを…、
 その日のことを嗅いだ死臭とともに思い出しながら…、橘は離れていく真田の手に自分の手を伸ばしたが…、

 手を伸ばした先に何があるのかは…、もしかしたら誰にもわからないのかもしれなかった。















 会いたい人がいて…、だからあの部屋から出ようと想っていた。
 もしも好きになってもらえないのだとしても、ただ会いたかったから…、もう一度だけでも会いたかったから自分の足で前に踏み出そうとしていたのに…、
 そうしようとした瞬間に時任の手は引かれ、それにつられて自分の意思とは関係なく足が一歩ずつ前に進み出していた。
 今まで窓から眺めるだけだった…、外の世界へと…。
 けれど一歩ずつ進むたびに心が重く沈んで、強く掴まれている手が痛くなってくる。するとなぜか手だけではなく…、胸の奥までズキズキと痛んでくる気がした。
 時任の手を握りしめているのは会いたかった人で…、目の前に本当にすごくすごく会いたいと想っていたはずなのに今は何かが違う。
 ぎゅっと握りしめられている手から伝わってくるのは、あたたかさではなく痛みだった。
 
 「・・・・・おいで、時任」

 久保田は部屋を屋敷を出てから、一度そう言ったっきり何も言わない。そして黙ったまままるで連れ去るように…、時任を屋敷からどこかへ連れて行こうとしていた。
 あまりに強く手を引かれているので、屋敷の門を出る時も振り返る余裕すらない。
 部屋の中から外を見ることしかできなかったから、なんとなく屋敷を外から見たい気がしたけれど…、手を放されるのが怖くて立ち止まれなかった。
 この手を放してしまったら…、もう二度と会えない気がして…、
 握りしめた手から痛みしか伝わってこなくても…、振り解けないし放せない。

 でもそれは、帰る場所がなくなったからじゃなかった。

 けれど、痛みを感じながら長く続くアスファルトの道を歩いていると、なぜか橘の言葉を思い出す。今はこんな風に久保田の手に引かれていても、時任が別の男に抱かれていたことは事実だった。
 あの部屋で自ら望んで身体を開いて、抱かれることに溺れて…、その痕跡も記憶もまだ身体に深く刻まれている。どんなに消したくても、まるで腕に無数についた注射針の跡のように消そうとして消えなかった。
 でも…、手を引かれて屋敷を出たのは売られたからじゃない。
 もしも久保田じゃなかったら、あの場から何が何でも逃げ出していた。
 けれど、逃げ出したりはしないけれど…、こんな風に久保田に買われたくなかった。
 久保田にだけは…、こんな風にまるで鎖を引くように手を引かれたくなかった…。

 こんな風に手を引かれるくらいなら…、自分から走り出したかった…。

 会えてうれしいはずなのに、強く手を握り返したいはずなのに…、首につけられている首輪が苦しくて哀しくてたまらない。こんな首輪なんてなくても、おいでと両手を広げてくれたら…、それだけで走り出せたのに…、
 久保田は屋敷を出てからも、アキラのつけた首輪を外してくれなかった。
 そして四階建てのマンションにたどり着いても、そこにある401号室に入っても…、まるで時任が逃げ出すとでも想っているかのように手を繋ぎ続けて…、
 その手を久保田がようやく放したのは、401号室のリビングに入ってからだった。
 「今日から、ココで暮らすことになるから…」
 「ココでって…」
 「このマンションの前って、コンビニとかあって便利なんだよねぇ」
 「そうじゃなくてっ、俺が聞きたいのはっ!」
 「…って、そんなの聞かなくってもわかるっしょ?」

 「わかるって何が?」
 
 言っている言葉の意味がわからなくて時任が不審そうな顔をすると、久保田はリビングにある大きな窓にかかっているカーテンを開ける。すると、そのベランダへと続く窓からは灰色に沈んだ街が見えた。
 ここからは空も見えるが、今日はその空も街と同じ色をしている。
 その灰色の街と空に背を向けて時任の方を振り返った久保田は、口元に薄い笑みを浮かべてポケットからセッタを取り出して火をつけた。
 「ホンモノの鳥だったらココから飛べるかもしれないけど、籠の鳥ってたいがい羽切られちゃってて飛べないんだよねぇ」
 「え?」
 

 「どう…? 新しい鳥籠は気に入った?」


 久保田の言葉は確かに時任の耳に聞えていたが、その言葉が信じられない。
 時任は大きく目を見開いたまま、歪んでいく灰色の街と…、
 笑みを浮かべながらセッタをふかしている久保田の姿を、まるで首につけられた首輪にしめつけられるように呼吸が苦しくなっていくのを感じながら…、

 ただひたすら…、じっと見つめ続けていた。





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