籠の鳥.22




 マンションのベランダに立つと下からの風が頬を撫でる。
 けれどここからの風景は宗方の屋敷の窓からの風景とは違っていても、今も時任の立っている場所は鳥籠の中だった。
 会いたかった人に出会えて、こんなにも近くにそばにいるのに…、鎖を引かれるようにここに来てから何かがすれ違ってしまっている。もう首にはあの屋敷でつけられた首輪はなかったが、時々、時任は少し苦しそうな顔をして自分の首に手を当てていた。
 外へと続くドアにカギがかかっていても前とは違って中からは簡単に開けられるが、久保田からは絶対に出ないように言われていて…、いつも時任は玄関の前に立ってじっとドアを見つめながらもそこからリビングに引き返す。それはドアから外に出る事は簡単だったが、カギを持ってないから中からカギをかけられたら入れないせいだった。
 もしも出かけている間に久保田がカギをかけたら…、二度とこの部屋に入れない気がしてどうしても出られない。まるで時任を試すように久保田は時任の首から首輪を外して…、その首輪をゴミ箱の中に放り込んだ…。

 『この部屋の中でなら、なんでも時任の好きにしててくれてかまわないから…』

 その部屋の中で…と、そんな風に縛りつけるように時任に向かって言葉を吐きながらも、実際は少しも縛りつけようとはしない。もしも逆にもっと縛りつけるように閉じ込められたら、なんでだってどうしてだって叫べたのに…、まるで選べとでもいうように与えられた選択権が、冷たく痛く胸に突き刺さって何も言えなかった。

 「ちゃんと一緒にいるのに…、なんで一人みたいな気ぃすんだろ…」

 時任はここに来てから、この部屋からバイトに出かけていく久保田を見送るようにベランダに立つことが習慣になっている。けれど、ベランダから出かけていく久保田の背中を見つめる時任の方を久保田は振り返ったりはしなかった。
 前はあたたかく抱きしめてくれていた腕も、手も…、今は時任に触れようとしない。その事実が会いたいと願って、久保田の名前を呼び続けて想い続けた分だけ…、哀しくて痛くてたまらなかった。
 たくさんたくさん…、伝えたい事があったはずなのに…、
 冷たく突き放された距離に阻まれて、胸の奥に言葉が詰まって声にならない…。胸の中にある感情の名前は、強くて激しすぎて言葉にはならなかった…。
 
 「一緒にいたかったけど、こんな風になりたかったんじゃない…。でも、どうしていいかわかんねぇんだよ…」

 ベランダからリビングに戻ってソファーに寝転がると、そう呟きながら時任は久保田のセッタの匂いのするクッションを抱きしめる。すると、少しだけ久保田に抱きしめられてる感じがして、もっともっと強く抱きしめるとゆっくりと涙が一筋だけ頬を伝って流れ落ちた…。
 何があっても泣くつもりはないけれど、久保田を想う時だけ涙が自然に出てきて…、その涙はどうしてもその想いのように止まってくれない。
 たとえ籠に閉じ込められてしまったとしても、久保田を想う気持ちは変わらなかった。

 「久保ちゃん…、久保ちゃ…ん・・・・・」

 止まらない涙を止めようとするかのように名前を呼んで…、けれどその声はいつも久保田が吸っているセッタの煙のように、空気に溶け込んでしまってどこへも届かない…。
 そのままクッションを抱きしめたまま目を閉じていると、いつの間にか眠ってしまっていて…、次に目が覚めた時には窓の外は夕焼け色に染まっていた。
 その燃えるような赤を見ているとなぜか本当は世界なんてものはなくて、もう部屋だけしか何もなくなってしまってるような…、そんな気がしてくる。けれど、もしも世界に久保田と二人きりになってしまったのなら、それでも構わないと想っている自分がいた。
 暮れていく夕日が目に染みて痛くて…、でも時任は目をそらさずに見つめ続ける。
 世界がある日突然無くなってしまうことが無いと言い切れないように、こんな日々がどこまで続くのかわからなった。

 この燃えるような夕日の差し込む部屋で…、久保田と二人きりの日々が…。

 そうしている内にいつものように玄関のチャイムが鳴って、そのチャイムがバイトに行っていた久保田が帰ってきたことを知らせる。すると、時任は涙の跡を隠すように目の辺りをゴシゴシとこすって玄関へと向かった。
 久保田はカギを持っているはずだが、なぜか自分でカギを開けようとしない。
しかもカギを開けるまで絶対に入らないので、時任が玄関までドアを開けに行くことになってしまっていた。

 「ただいま」
 「・・・・・・おかえり」

 いつもようにドアを開けるとそこには買い物袋を持った久保田が立っていて…、当たり前のようにただいまを言った。だから、時任も当たり前のようにおかえりを言う。
 そんな風に普通に当たり前のように、おかえりやおやすみを言っていると自分が買われた存在だということを忘れてしまいそうになるけれど…、まだ腕に残っている注射針の跡と寝室に隠している小瓶がそれを許さなかった。
 触れてこない手と腕と…、そして小さな薬瓶が夢見ることすらさせてくれない。
 リビングに入っていく久保田の背中を追いながら再び閉まってしまったドアを振り返ったが、やはり外へと続くドアに手を伸ばすことはできなかった。
 時任は前に向き直ってリビングに入ると、買い物袋の中身をキッチンで出している久保田の所へと歩み寄る。するとキッチンにはいつものコンビニ弁当ではなく、まな板の上にニンジンやじゃがいもなどの野菜が並んでいた。
 「コレって晩メシの材料? もしかして、なんか作んのか?」
 「カレー」
 「へぇ…、久保ちゃんって料理できたんだな」
 「レパートリーは多くないけどね」
 「あのさ…」
 「なに?」
 「このカレーって…、俺の分もあんの?」
 「一人で食うには多すぎるっしょ?」
 「そっか…、そうだよな」
 「うん」
 もしかしたらついでなのかもしれなくても、いつも買って来てくれるコンビニ弁当みたいにちゃんといつも忘れないでいてくれる…。それがいつもすごくうれしくて…、だから二人分の食料が入っているビニール袋がカサカサいう音は好きだった。
 そして今…、二人分のカレーを作るためにまな板で野菜を切っている音も…、なぜかどこか懐かしくて聞いていると胸の奥が暖かくなってくる。その暖かさは久保田に抱きしめられた時の感じとどこか似ていた…。
 なぜこんな風に感じるのかはわからないけれど、久保田の腕から感じる暖かさも…、カレーの匂いを嗅ぐとなぜか切なくなるのも…、
 もしかしたら、その中に何か大切なものが詰まっているからかもしれない。
 でも…、時任の中には懐かしいという感覚だけで思い出せる記憶はなかった。
 「なぁ…、久保ちゃん…」
 「なに?」

 「あのさ…、俺・・・・・・」

 出来上がったカレーを二人で向かい合って食べながら、久保田に話しかけたけれど途中で喉に何かが詰まって声が出なくて話せない…。カレーを一口食べた瞬間になぜか少しホッとして…、それから次に何かがポツンとカレーの中に落ちて…、
 甘口でおいしいと思っているのに、それ以上は食べられなかった。
 お腹も空いていてカレーが食べたいのに…、喉だけじゃなくて胸の奥にも何かが詰まっていて苦しい…。甘いカレーの味が懐かしくて暖かくて…、切なくて訳がわからなくて…、時任は自分の喉を押さえた。
 「このカレーすっげぇウマすぎるから…、なんか胸に詰まって・・・」
 「時任?」
 「せっかく作って…、くれたのに…」
 「・・・・・・」

 「ごめん、ごめんな・・・、久保ちゃん…」

 そう言いながらもう一口だけスプーンですくって口の中に入れたけれど、いくらカレーを飲み込もうとしても、胸に何かか詰まっているせいで美味しいはずなのに味がしない。それが哀しくて…、時任はぎゅっとスプーンを握りしめたが、座っていたイスから立ち上がってそばまで来た久保田の手がその手をゆっくりと上から覆った。
 「もういい…、もういいから…」
 「・・・・・・・」
 「もういいから…、泣かないで…」
 「お、俺は泣いて…、なんか…」
 
 「泣かないで…、時任…」

 時任の手を覆っていた久保田の手が、そう呟きながら今度は身体へと伸びてくる。その暖かさに少し身体が震えてしまったけれど、ゆっくりと優しく抱きしめられた瞬間に胸の奥がもっともっと苦しくなって…、そして次に遠くで誰かの泣き声がした。
 子供みたいに泣いて泣いて…、久保田を呼んでいる声が…、
 久保田を恋しがって…、その腕に抱きしめられたがって泣き叫んでいる声が聞えた。
 情けないくらいみっともなくて…、けれどその声は心の奥から溢れ出してきて止まらない。たとえ橘が言ったように愛されなくて、好きになってもらえなかったとしても…、
 それでも、誰よりも久保田が好きだった…。
 好きで大好きで…、だからそばにいたかった…。
 だからこんなにも抱きしめられたくて…、こんなにも久保田に向かって腕が心が伸びていく。好きだって…、大好きだって叫びながら…。
 二人きりの部屋で久保田の腕の暖かさを感じながら、好きだと言う言葉が胸の中ではっきりとした形になって…、
 時任は久保田に抱きしめられながら、唇だけでその想いを告げた。

 『好きだ…』

 けれど、その言葉を綴った涙に震える唇は抱きしめている久保田には見えない。時任は気付いてしまった自分の気持ちを押さえ込むように、久保田の背中に軽く爪を立てた。
 胸の奥に詰まっている気持ちは、久保田に伝えたいけれど伝えたくない。それはどんなに久保田を好きだと思っていても、身体にも腕にもまだアキラのつけた痕跡が…、
 割ろうとして割れなかった小瓶が、まだ残っていたせいだった。
 それを割れないのは最後に聞いた言葉のせいなのか…、それともさよならを告げてアキラとの関係に決着をつけようとして、つけそこねたからなのかはわからない。
 胸の想いを抱いて久保田に抱きしめられたまま、時任は付けられた痕の残る首筋を手で押さえたが…、

 その手を…、久保田の冷たい瞳が見ていた。
















 「・・・・・・おやすみ、時任」

 久保田はそう言いながらベッドで眠った時任の頭を優しく撫でていたが、瞳に宿っている冷たさは消えない。時任から伝わってくる暖かさを感じながらも、久保田の心はそのぬくもりを感じることなく凍りついていた。
 ここに時任を連れてきてから始めて抱きしめた腕は、傷つけないように力を入れすぎないようにしていることだけで精一杯で…、暖かさ感じる余裕はない。自分の腕の中で濡れた瞳を眠るように閉じた時任を見ると、首筋に当てられた手が別の男の存在を久保田の目の前に突き付けていた。

 いくら抱きしめても…、消えないと主張しているかのように…。

 本当は取り引きなんかせずに、あの窓から時任をさらいたかったけれど…、時任はあの窓から逃げる事を望んでいない。時任は籠の中にいることを、あの部屋で抱かれることを自ら受け入れていたのである。
 だから時任をもう戻れなくするために、身体だけではなく心もあの場所に戻らないように…、警察による逮捕という形で籠を壊すのではなく…、
 時任を抱いていた男に、籠を壊させなくてはならなかった。
 捨てられたという事実を、時任の目の前に突き付けなくてはならなかった。
 けれど、こんな風に首筋についている赤い痕を押さえている時任を見ると、あの部屋で抱いていた男のことを忘れることはないという事実を思い知らされる。時任の心にも身体にもあの男の痕跡が…、注ぎ込まれた欲望の数だけ鮮やかに残っていた。

 「好きだよ…」
 
 そんな言葉が口から出るようになったのは時任の寝顔を眺めるようになってからだったが…、やっとその想いが言葉になっても、なぜか好きだと言うことも抱きしめることもなぜかできなかった。
 久保田はそんな自分を自嘲するかのように口元に笑みを浮かべる。そしてポケットからセッタを取り出して、ライターで火をつけるとゆっくりと煙を肺の中に吸い込んだ。
 だがその煙はこうやって時任の寝顔を眺めるようになってから苦く感じられるだけだったが、それでも吸わずにはいられない。誰よりも時任のことを想って…、大切に想っていたはずなのに…、だからこんな風に籠に閉じ込めるようにして手に入れたのに…、
 
 どんなに愛しくても恋しくても…、愛し方がわからなくて抱きしめられない。

 時任に向かって伸ばした手も腕も、ただ優しく抱きしめたかっただけなのに…、抱きしめた瞬間に壊れるまで自分のモノだという証を刻みたい凶暴な衝動に変わる。けれど、そばにいなければこんな衝動はなくなるとわかっていても、愛しすぎて恋しすぎて時任から離れることはできなかった。

 「ごめんね…、こんな風にしか愛せなくて…」

 久保田はそう呟くと眠る時任の手を握りしめて、その手を自分の頬に当てる。
 すると、時任の唇が久保田の名前を呼んで…、また涙が一筋だけ頬を流れ落ちた。
 もっともっと早く…、誰よりも早く時任に会えていたら…、こんな風に痛みに血を流さずに優しく愛せたのかもしれない…。あの穏やかだった日々のように、穏やかにゆっくりと時が流れていったのかもしれない。
 けれど、胸の奥にある想いが強ければ強いほど、その想いは醜く歪んでいく…。

 憎しみも嫉妬も…、愛しさも恋しさも止まらなかった…。

 久保田は吸っていたタバコをベッドの近くに置いてあった灰皿に押し付けると、頬に当てていた時任の手を毛布の中に戻す。そしてその手は時任の涙を拭ったが、それに気付いた時任の手が久保田の手を掴んだ…。

 「アキ…、ラ・・・・・・」

 空を覆い尽くす夜の帳は夕日を犯すように残酷に降りて…、やがて悲鳴をあげるように軋みながらすべては暗闇に覆われる。
 籠の鳥の上に訪れる夜も、同じように暗闇に覆われていたが…、

 その夜はいつも熱く…、そして冷たかった。

 



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