籠の鳥.23




 白く白く明けていく空から夜の冷たさを忘れさせようとするかのように、朝日が柔らかく灰色の街へと降り注いでいる。だが、それを邪魔しようとするかのようにコンクリートのビル群が黒く長い影をそこに暮す人々の上へと落としていた。
 だから、夜が来ても街が眠らないように、朝が来てもその暗闇が完全に消えることはないのかもしれない。どんなに幸せな時を過ごしていたとしても、その幸せが壊れることを恐れ、いつの間にか不安が胸の奥に影のように住み着いてしまっているように…。
 美しく明けていく空をわずかに開いていたカーテンの隙間から眺めながら、橘は白いシャツ一枚羽織っただけの格好でテーブルに置かれていたタバコを一本取り出すと火をつける。けれど、やはり何回このタバコの煙を吸っても、クセが強すぎて好きにはなれなかった。
 橘はらしくなく眉をひそめると、不味そうにタバコの煙を肺に吸い込む。そして、自分の首筋についている赤い痕を軽く手で撫でたが…、そこから感じるのは不快感だけだった。

 見慣れない風景と天井…、そして寝心地の悪いベッド…。

 この見慣れない物だらけの部屋には自ら望んで来たはずだったが、さっきから電源を切ったまま上着のポケットに放り込んでいる携帯電話ばかりが気になっている。だが、ベッドの上にいる間は、自分の欲望を満たすことだけに没頭していた…。
 そんな自分を自嘲しながら近くのテーブルに置かれている灰皿にタバコを押し付けようとしたが、こちらをじっと見ている視線に気づいて手を止める。けれど、その視線の主が誰なのかは見なくてもわかっていた。
 「最近、雨の日が多かったですが、今日はいい天気みたいですよ」
 「それにしては、浮かない顔をしてたようだが?」
 「昨日の疲れが出ただけです」
 「なるほど」

 「それに、僕は雨の日の方が好きなんですよ」

 橘がいつもの妖艶な微笑みを浮かべてそう言うと、真田は寝ていたベッドから起き上がってバスローブを羽織ると窓辺へと移動する。そして、橘が持っていたタバコをさりげなく奪い取ると口にくわえた。
 自分と違ってうまそうにアークロイヤルという名前のタバコを吸う真田の横顔を見ていたが、すぐに視線を再び夜明けの空が見える窓へと向ける。けれど刻一刻と明けていく空は、暖かく優しい色を失ってさっきよりも青くなってしまっていた。
 橘はカーテンの隙間からそんな空を眺めていたが、横にいる真田がカーテンを開ける。すると、橘だけが眺めていた空の色は真田の瞳にも写っていた。
 こんな風に明けていく空を松本以外の誰かと眺めたのは…、もしかしたら始めてかもしれない。今まで他の誰かを抱いたり抱かれたりした時も、欲望を満たした後はベッドから出て松本の所か自分の部屋へ戻るので朝まで一緒にいたことはなかった。
 けれど、真田に抱かれながら松本の存在が遠く遠くなっていくのを感じた瞬間に、澄んだ瞳で久保田に会いたいと言った時任のことを思い出したからで…、
 あんな風に澄んだ瞳で曇りのない心で松本のそばにいたいと…、もう言えなくなってしまっていたことに気づいたせいだった。
 これからしようとしていることも何もかもが愛している人のためで…、それは絶対に何が変わったりしない。けれど、気づかない内に予想もしなかった方向に歯車が回り始めているのかもしれなかった。

 「私に協力すると言ったことを、後悔しているのかね?」

 口元に薄い笑みを浮かべながら真田がそう言ったが、橘の表情は微笑みを浮かべたまま変わらない。松本以外の誰かと寝ることを後悔するくらいなら始めから寝たりはしないし…、迷いがあるなら真田の言葉にうなづいたりはしなかった。
 使えるものなら、自分の身体でもなんでも利用する。そうしながら橘は自分の目的を果たすために、医師として勤務しながら.院長である宗方のことを調べてきたのだった。
 真田のくわえているタバコを取って自分の手に取り戻すと、橘は自分から顔を寄せて深く口付ける。そしてキスを終えた赤い唇で、松本ではなく真田の名前を呼んだ。
 「後悔はしてませんが、僕が貴方に協力するのは条件次第です」
 「君の望みを叶えると、私は言ったはずだが?」
 「つまり僕について、色々と調べたということですか…」
 「君と…、君の恋人についてだがね」

 「・・・・・それで貴方は望みを叶えるかわりに、僕に何をさせるつもりです?」
 
 橘がそう言うと、真田は机に置いてあるタバコを口にくわえて火をつける。そして深く煙を吸い込んで軽く吐き出してから、橘に協力させる内容を話し始めた。
 ある程度、何をさせるつもりなのか予想はしていたが、真田の話した内容は橘が考えていたものとさほど差はない。けれど、いなくなった久保田を連れて来いと言うつもりなのかと思っていたが、それは違ってなぜか時任の方だった。
 「松本だけではなく葛西とも面識のある君ならば、私よりも二人の行方の情報も掴みやすいだろう」
 「確かに僕の方が、二人を探すのに適任ですね。ですが、久保田君ならわかりますがなぜ時任君なんです? 院長の息子でもない彼に用があるということは、人質にでもするつもりですか?」
 「人質としての価値ももちろんあるが、身体にも用がある」
 「それは…、どういう意味です」

 「あの猫の血管には、強引に流し込まれてきた多量の薬物が流れているからだよ」

 何を言おうとしているのか、感の良い橘は真田の言葉の中から感じ取っていた。
 真田が用があるのは時任でも久保田でもなく、時任に投与されていた薬…。
 けれど、なぜ製薬会社側である真田が、時任を捕まえようとする理由がわからない。じっと何かを探るように橘が真田を見ると、真田はタバコの煙をくゆらせながら口元に見る者を不快にさせる嫌な笑みを浮かべた。
 「君には猫を探し出して、その中に流れるWAごと回収してもらいたい」
 「WA…」
 「時任稔に射たれていた薬物の名だ」
 「あの薬は…、あの薬は貴方の製薬会社で作られたものではなかったんですか?」
 「確かに渋沢が使っていた薬は私の製薬会社で作られたものだが、それはオリジナルを真似て作られた失敗作…、つまり粗悪品だよ」
 「粗悪品…」
 「投与された患者はWAと同じように記憶喪失の症状を起こしたが、薬の投与を中断しても記憶の喪失は止まらなかった。生まれてからの記憶を、自分というものを形作っている過去をすべてを忘れるまで…」
 「時任君が薬を投与されながらもすべてを忘れていないということは、WAは喪失症状が一定のレベルで止まる…」
 「いや…」
 「では、WAとはどういう薬なんです?」
 「WAとは…、脳内にある消したい記憶のみを消去できる薬だ」
 「脳内にある記憶をすべてではなく限定された記憶のみ消す…、そんな薬があるはず…」
 
 「だが、時任稔はすべてを忘れてはいない…」

 自分の脳内のどこにどの記憶が納められているかなど、当たり前にわかるはずもない。なのに、真田はWAというのが特定の記憶を消す薬だと言い切った。
 そう言われても信じられない話だが、時任のことを知っているで完全に否定することができないでいる。真田が渋沢を使って病院の患者に薬を投与されて実験を繰り返していたのは、時任に打たれているオリジナルのWAと同じ薬を作るためのようだった。
 しかし、真田は宗方の屋敷に出入りしながらも、警戒が厳しいせいかWAは手に入れていない。そんな状態でどうやって薬を作り出そうとしたのかは不明だが、ここのままいくら実験を繰り返しても無駄だということ悟ったため、オリジナルを入手するために本格的に動く気になったらしかった。
 「もし協力するのなら医者をしていた君の恋人の父親について、私の持っている情報はすべてを提供する。そして目的を果たすために人出がいるのなら、君が望むだけの人数を用意させてもらおう」
 「そして僕はその代償として時任君を…、という訳ですか」
 「君の求める真実に近づくためにも、そしてWAを知るためにも時任稔が必要になる…。私と君の利害は、聞くまでもなく一致していると思うが?」
 「・・・・・リスクはかなり高そうですけどね」

 「だからこそ、協力者が必要なのだろう?」

 橘が病院で医師として働くようになってから調べていることは、戒厳令でも敷かれているのかいくら探り出そうとしてもホコリすら出てこない。だからこそ、何かと裏の事情に詳しそうな真田と接触したのだが、それでも探り出すことができなかった。
 上への階段を登っていく松本の背中を押しながら、このままその背中を見つめていたいと思うけれど…、あの夏の日の暑い日差しがそれを許さない…。平穏だったはずの日常が壊れた日、自宅の鴨居にロープを結び首を吊って自殺した松本の父親の遺書には…、

 『私は殺された…』

と、一言だけ書かれていた。
 『殺される』ではなく…、『殺された』と…。
 あの日、うるさく鳴いている蝉の声を思い出しながら、橘は着ていたシャツを脱いで静かに床へと落とすと…、窓に背を向けて乱れたベッドへと歩き出す。すると、真田は吸っていたタバコを灰皿で揉み消しながら、口元に浮かべていた笑みを更に深くした。
 橘はベッドまでたどりつくと、近づいてくる真田の視線の前に無防備な身体をさらして誘うように妖艶に笑う。そして、真田につけられた赤い痕を指でたどりながら、自分で自分の身体に欲情の火を灯していった。

 「何も考えられなくなるくらい激しく抱いてください…。今頃、時任君をベッドの上で…、自らの欲望のままに抱いているかもしれない久保田君のように…」

 朝になっても連絡が取れない橘を、松本はつながらない携帯を握りしめながら心配しているだろう…。だが、それがわかっていても真田に抱かれて更に強くなった身体を熱させている動物的な欲望が冷めるまで、まだまだ時間がかかりそうだった…。














 コチッ、コチッ…、カチ・・・・・・。

 時計がちょうど十二時を指したが、時間帯は午前でなく午後である。しかしリビングにはやりかけのゲームが放り出したままになっていて、辺りはやけに静かだった…。
 すでに太陽が真上に来ているせいか、朝になるとベランダで鳴いているスズメの声も聞こえない。玄関にはここに住んでいる住人がいることを示すかのように、サイズの違う二つのスニーカーが置かれていたが…、
 その内の一つは、なぜか新品のままで使われた形跡がなかった。
 表札には名前が一つしか書かれてないが、この部屋には二人住んでいる。けれど、真昼になってからやっとベッドから起き上がったのは一人だけで…、もう一人は乱れたシーツの上で毛布だけを身にまとって瞳を硬く閉じて昏々と眠り続けていた…。
 枕元に置かれていたセッタを手に取ると、それを口にくわえてライターで火をつける。そうしてから、煙をゆっくりと呼吸するように肺の中に送り込むと…、
 久保田はベッドで眠っている時任の顔を、暗く沈んだ瞳でじっと眺めた。

 「寝たフリしないでさっさと起きなよ…。これくらい慣れてるからヘーキでしょ?」

 そう言った久保田の口元には、薄い笑みが冷たく浮かんでいる。時任の首筋に強くつけられていた赤い痕の上には、さらに強く重ねて久保田によって痕がつけられていた。
 それは情事の痕というよりも…、まるで痣のようになめらかな白い肌に刻まれている。その痕跡を隠すように時任は毛布に包まっていたが、久保田の手がそれを強引に奪い取った。
 時任はわずかに抵抗するような様子を見せたが、身体がうまく動かない様子で上げられた手もすぐに乱れたシーツの上に落ちる。すると、久保田はくわえていたセッタを右手で取ると、反対の手でその手をつかんで自分の口元に押し付けた。
 けれど、時任はうっすらと瞳を開いただけで反応しない。部屋には覚えのある夜の匂いが満ちていて、その匂いはセッタの煙が部屋を包み始めても消えなかった。
 時任のうつろな瞳には白い天井だけがうつっていて…、頬には涙の痕が残っている。久保田はまだ長いままのセッタを灰皿に放り込むと、涙の痕をたどるように口付けながら…、手を時任の白い肌にすべらせた…。

 「あっ・・・」

 肌をすべった手が敏感な部分に触れると、時任はビクッと身体を奮わせて短く声をあげる。けれど、久保田はそれを聞いても手を止めたりはしなかった。
 時任は動かない手足を必死に動かして抵抗しようとしたが、久保田の強い力にあっけなくベッドに押さえつけられてしまう。まるで縫い止めるようにベッドに横たわっている時任は、いきなり激しく欲望を打ち込まれて身体が軋むのを感じながら…、
 なぜ…、こんなことになってしまったのかを必死で考えていた…。

 けれど…、いくら考えても何もわからない…。

 昨日は一緒にカレーを食べて…、それから切なく痛む胸を抑えながら眠りについたけれど…、その時は泣かないでと慰めてくれた久保田に暖かさを感じていた。鎖につながれるようにしてここに連れて来られてから始めて抱きしめられて…、好きだと思った。
 けれど、何かに刺激された身体が熱くうずくのを感じて目を覚ますと、久保田が冷ややかな瞳で欲情している時任を見下ろしていたのである。しかも…、欲情するように時任に刺激を与えていたのは…、久保田の冷たい手だった…。
 時任が欲情しているのを隠そうとすると強引に追い上げられて…、それからまるで欲情しているのを責めるように身体の中に久保田の欲望が痛みを与えながら押し入ってくる…。時任は両手でのしかかって来る身体を押し返したが、久保田は今と同じように冷ややかな笑みを浮かべたままそれを無視した。
 「うぁっ…、あっ…」
 「ほら、マグロしてないで自力で動かないとイってあげないよ?」
 「い、イヤだ…」
 「ちゃんとイかないと抜けないから、このままずっとメシ食えないけどいいの?」
 「・・・・・な、なんでこんなコトっ、すんだよ…っ」
 「まさかカラダ中からオトコの匂いさせて…、抱かれたくないなんてウソは言わないよねぇ?」
 「はぁっ、あぁ…っ、やめ…っ」

 「わからないならカラダに聞いてあげるよ…、壊れるまでね…」

 久保田のことが好きで、大好きで…、それは今も変わらない…。けれど、その久保田に抱かれているのに強引に追い上げられて心がついていってくれなかった…。
 どうしてなのかわからないまま始まった身体の繋がりは、激しく抱かれれば抱かれるほど…、強引に突き動かされる身体よりも久保田を好きな気持ちでいっぱいになっている胸が心が痛くてたまらない…。暖かさを感じたくても身体だけが熱く熱くなっていって…、いくら背中を腕を回しても、白い天井を見つめながらぎゅっと抱きしめても…、瞳から涙がゆっくりと一粒ずつ零れ落ちていくばかりで…、

 こんなにも抱きしめているのに…、哀しいくらいに久保田の心は見えなかった…。





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