籠の鳥.8
ようやく夜になってから降り出した雨は、眠らない街を包み込むように濡らして…、人通りの少ない裏路地の闇を深くしていた。
けれど、いつも闇はそこにあって消えることなく、そこに存在し続けている。
たとえ誰の記憶にも残らないで…、忘れ去られてしまったとしても…、
しとしとと降る雨に濡れながら、ビルの隙間を吹き抜ける風に乱されながら…、まるで誰かを待っているかのように、確かにそこに吹き黙っていた。
誰に知られることもなく…、ただ静かに…。
宗方の屋敷を出てから、そんな吹き溜まりの中を雨に濡れながら歩いていた久保田は、ふと何かに気づいたかのように足を止める。
そして、ある場所を少し目を細めて見つめると、細く長く息を吐き出した。
「・・・・・・・時任」
行き止まりのようなこの街の、どこまでも続いていない裏路地で…、久保田はそう呟いてビルの隙間から見える狭い空を見上げる。
すると、雨粒がゆっくりと頬を伝ってアスファルトの上へと落ちた。
空から降り注ぐ涙のような雨は、次第に激しくなって身体も心もすべてを濡らしていく。そんな雨に打たれながら、久保田は視線を落としてポケットからタバコを取り出したが…、
タバコは手のひらの中で…、まるで記憶から失われてしまった穏やかだった日々のように…、ぐしゃりと握りつぶされて形を失った。
けれど、タバコはまだ手のひらの中にあったが、一緒に暮らした日々は時任の記憶の中に何も残っていない。
まるで雨に洗い流されたかのように、綺麗になくなってしまっていた。
なぜ、あの屋敷にいるのか理由はわからないが…、時任は腕に注射針を打たれながらもあの場所から逃げようとはしていない。久保田以外の誰かの気配を感じて、ほっとしたような表情をした時任を見た瞬間…、胸が焼け付くように熱く息苦しくなって…、
本当は時任に向かって伸ばした手を抱きしめるのではなく…、細い首の方に伸ばしたくなったから…、
だから…、時任から離れるしかなかった。
伸ばした腕は、握りしめた手は…、苦しめるために伸ばしたい訳じゃない。
けれど、他の誰かの名を呼ぶ時任を見ていると、どうしても許せなくなる。
だが、一緒にいた日々の長さで抱きしめられる権利が決まるのだとしたら、そんな権利は欠片もないのかもしれなかった。
出会いはあまりにも突然で唐突で…、けれど腕も手も放したくない…。
その唇が別の男の名前を呼んだとしても深く激しく口付けて…、すべてを奪いたくなる。
こんな激しすぎる想いにつける名前がなんなのか…、それを知りたいとは想わないけれど、愛しさと恋しさがじりじりと今も胸の奥を焼き続けていた。
「なにもかも壊したら…、きっと怒るだろうね…」
降り続く雨に髪とコートを濡らしながら、久保田は時任を拾った場所から動かない。
けれど、そんな久保田に何者かの黒い影が近づいてきた。
少し距離を置いた位置で立ち止まった影の主は、雨に濡れながら立ち尽くしている久保田を見ると、口元に見るものを不快にさせる嫌な笑みを浮かべる。しかし、その影の気配に気づいていながらも、久保田はじっと時任のいた場所を見つめたままだった。
すると影の主は少し笑みを深くすると、
「相変わらずつれないな、君は」
と言って、黒い影の主である真田と名乗る男は黒いカサの下で目を細める。男は久保田が医者になる前からの知り合いで、表向きは製薬会社の役員をしているが、影では闇ルートで違法な薬品の売買を行っていた。
しかも、厚生省の認可が下りるはずもない違法な薬品の実験は、宗方総合病院で行われているらしく、真田は宗方家にも出入りしている。
もしかしたら、時任が撃たれていた薬も、真田が持ち込んだものかもしれなかった。
久保田が一度も真田の方に視線を向けないまま、視線を見つめていた場所から離して歩き始めようとすると…、
真田は久保田の方に、自分のさしていたカサをさしかけた。
「私の家はここから近いのだが、一緒にこないかね? 濡れた服の着替えくらいは用意するが?」
「見ず知らずのヒトに借りは作らない主義なんで、遠慮しときますよ」
「ほう、私と君は見ず知らずではないと記憶していたが、それは私の気のせいだったかね?」
「さぁ?」
そう言いながら軽く肩をすくめて久保田がさしかけられたカサから出ると、真田はそれ以上は追いかけようとせずにある名前を口に出す。
その名前はやはり…、宗方の屋敷にいる時任の名だった。
「時任稔…。君の可愛がっていた子猫を、自分の手に取り戻したくはないかね?」
「・・・・・」
「もしも取り戻したいと思っているなら、私と協力すればいい。協力して君が時期後継者になることができるなら、あの屋敷も病院も…、そして時任稔も君のモノだ」
「自分のモノ…の間違いだと思いますけど?」
「では、言いかえよう。・・・・・時任稔は君のモノだ」
「・・・・モノ、ねぇ?」
「いい返事を期待しているよ、久保田君」
真田は笑みを浮かべたままでそう言うと、裏路地の入り口に止まってた黒塗りのベンツに向かって歩き始める。その背中を久保田は黙って見送ったが、真田に連絡するつもりはなかった。時任が手に入るとしても、時任自身が久保田の手を取らなければ…、本当の意味で手に入ったことにはならない。
けれど…、もしも心が絶対に手に入らないとしたら…。
その心を壊してでも、手に入れたくなるかもしれなかった。
そんな自分自身のことを自嘲しながら、久保田は葛西のいる葛西診療所に向かって足を踏み出す。あの離れに時任はいなかったが、そこには久保田の記憶だけに残っている暖かな優しい日々の匂いがあった。
けれど、その記憶と時任を抱きしめた時のぬくもりが…、心を狂わせて行くのを久保田は冷たい雨に撃たれながら感じている。
なのに…、雨のように強く激しくなっていく想いを止める方法は見つからなかった。
「…ったく、どこに行っちまいやがったんだかな」
誰もいない真っ暗な離れで、葛西はそう言いながら白衣を着たまま伸びきったラーメンの入ったどんぶりを見つめてため息をついた。
夕方に宗方総合病院にいる友人の松本から電話があって、久保田がそこに行ったことはわかったが…、そこから先の行方はわからない。松本の連絡では宗方の屋敷に行ったと言っていたが、それはあり得ないと葛西は思っていた。
叔父である葛西も未だに詳しいことはわからなくて、宗方の屋敷の内部のことはあまり良く知らないが、久保田がそこで人間らしいあつかいを受けてなかったことだけは知っている。自分の甥である久保田に会った瞬間、葛西はここから久保田を連れ出すことを決心していた。
けれど、連れ出しても…、もしかしたら何も変わっていないのかもしれない。
そう思ったのは、いつでも久保田の見せる笑みがあまりにも乾いていたからだった。
「俺がダメだったことを、時坊は三週間でやっちまったのか…」
葛西は複雑な表情でそう呟いてポケットからタバコを取り出すと、口にくわえて百円ライターに火をつける。すると、暗かった玄関が少し明るくなって、葛西の顔と久保田のものよりも少しサイズの小さいスニーカーが目に入った。
そのスニーカーはまだ新しいので、久保田が時任に買ってやったものなのかもしれない。
玄関に置き去りにされたスニーカーを見て再び葛西がため息をつくと、ポケットに入っていた携帯の着信音が勢い良く鳴った。
葛西がいそいでその携帯に出ると、そこからは連絡を待っていた久保田からではなく別の男の声がする。その声は、松本の恋人である橘のものだった。
『こんばんは、お久しぶりです。宗方総合病院の橘です』
「おう、橘か…、久しぶりだな」
『突然、電話などしてしまってすいません…。実は葛西さんにお話したいことがありまして、電話させていただいてしまいました』
「話したいことってのは何だ? 病院のことか?それとも誠人のことか?」
『いいえ…、片方ではなく両方ですよ』
「そいつはどういうことだ?」
『久保田君がこちらの病院で、医師として働くことになるというのは本当ですか?』
それはやはりあり得ないと葛西は返事をしたかったが、今は久保田がいないのでハッキリとした返事はできない。けれど、事態は色んな人々を巻き込んで、想わぬ方向に転がり始めている気がしてならなかった。
少しの間、橘と話をしていたが、何者かの気配が背後から近づいてきたので、通話を切って勢い良く後ろを振り返る。
するとそこには…、雨に濡れてずぶ濡れになった久保田が立っていた。
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