籠の鳥.7




 宗方総合病院の院長の住む、大きな屋敷と広い庭。
 長く長く続く塀の中にそれらがあることはわかっていたが、入り口である重々しい立派な門は硬く閉ざされていて、外からは何も見ることができない。どこか人を拒むような門を開くには、宗方と書かれた表札の下にある呼び出しベルを鳴らさなくてはならなかったが…、
 そこを通りかかった久保田は、ベルを鳴らさずに通り過ぎた。
 確かに紙に書かれていた住所はここだったが、なぜか門の前には立たない。
 屋敷の中に入るには普通は門を通らなくてはならないのだが、久保田は初めからベルを鳴らす気はないようだった。

 「そういえば気づかなかったけど…、一回もただいまって言ったコトなかったっけ?」

 ここの住所を知っているのは、かつて住んでいたことがあったからで…、
 けれど、ベルを鳴らして中から自動で開かれた門を通って玄関の扉を開けても、一度もただいまを言ったこともおかえりと言われたこともない。それはただ住むことを許されているだけで、存在を認められているわけではなかったからだった。
 そこに存在しているのに存在を認められないということが…、存在を否定されるということがどんなことなのかは、たぶん経験した久保田にしかわからない。
 しかし、久保田は過去を思い出して哀しい顔をすることも、辛い表情をすることもなかった。
 昔を懐かしむわけでもなく、ただ少しだけ今と昔と違う部分を発見して呟いてみただけで…、そうやって思い出したのはこの屋敷で暮らしていた過去ではない、
 久保田がこの屋敷を見て思い出したのは、穏やか過ぎるくらい穏やかな…、

 時任と二人でいた…、短すぎる日々と時間だった。

 紙に書かれた住所を持っていたからといって、ここにいるとは限らなかったが、いなくなった時任に関する手ががりはそれしかない。病院ではなくここの住所を持っていた時点で予想できることがあるにはあるが…、あまり考えたいようなことではなかった。
 塀を伝うように歩きながら曲がり角を曲がると、久保田はなぜか上を見上げる。するとそこには、屋敷の敷地内にある松の木の枝が、塀を超えて道の上まで伸びているのが見えた。
 この枝は防犯のために切った方がいいのだが、どうやらここに住んでいる人物はあまり気にはしていないらしい。久保田は黒いコートのポケットから、それほど太くないロープを取り出すと、ヒュンと勢いよく投げて枝にうまくひっかけた。
 そしてロープを利用して塀の上まで上ると塀はかなり高かったが、久保田はそこからなれた様子でヒラリコートをはためかせながら飛び降りた。
 しかし降りた先には黒い犬が二頭待ち構えていて、突然、庭に現れた久保田に向かってうなりながら近づいてくる。犬は屋敷に飼われている番犬のシェパードでかなり訓練されているらしく、二頭で一方から襲い掛かるのではなく、久保田を逃がさないように左右から挟み撃ちにしようしていた。
 だが、そんな犬達を見た久保田は逃げたりせずにじっとその場に立っている。
 手に気をひきつけるようなエサも武器も何も持ってはいなかったが、自分に襲いかかろうとしている犬を見た久保田は珍しく優しい瞳で微笑んでいた。

 「・・・最後に会った時は子犬だったから、覚えてなくてもムリないけどね」

 そう言いながら前に少しかがむと、久保田は犬にゆっくりと手を差し出す。けれど子犬の時に会ったっきりの犬達は、うなり声をあげて白い牙をむいた。
 侵入者を自らの牙で撃退するように教えられている犬達は、塀の上から舞い降りた久保田を相手に与えられた任務を果たそうとしている。
 けれど…、二頭の内の身体の小さい方の一頭が久保田の手に鼻を近づけて匂いを嗅ぎ始めた。犬は匂いを嗅ぐと、少しだけ首をかしげてからペロッと手をなめる。
 久保田がもう一方の手を伸ばして頭を撫でると、もう一方の犬も牙をむくのをやめておとなしくなった。
 「もしかして、俺のコト覚えててくれてる?」
 「クゥーン…」
 「そう…、アリガトね」
 犬に向かってそう言うと、久保田は両手で二頭の頭を軽く撫でる。
 すると二頭の犬は、まるでこの家の主人ではなく久保田が飼い主ででもあるように、警戒心をすべて解いた様子でぺたんと地面に座り込んだ。
 実はこの二頭は前にこの庭の番犬をしていた犬が軒下で生んだ子供で、少しの間だけ久保田が世話をしていた犬だったのである。
 大きくなるのを待たずに久保田はこの家から出ることになってしまったが、どうやら二頭とも久保田のことを覚えていたようだった。
 番犬に襲われる心配のなくなった久保田は、撫でていた手を離すと…、
 かつては毎日歩いていた敷地内を、ゆっくりと歩き始める。
 ここにいた時から数年の月日が流れていたが、屋敷の中は時間を止めてしまっているかのように何も変わってはいなかった。
 すべてが変化せずに停滞したままで、その空気は前と同じように久保田を拒んでいる。それは宗方の血を半分引いているにも関わらず苗字がく、母方の姓である久保田であることからもわかることだった。
 
 生まれて生きることと…、存在することの価値と意味。
 
 それはこの屋敷から出ても、薄汚れた街をさまよっても見つかることはないのかもしれない。価値も意味も…、もしかしたら初めからなかったのかもしれなかったから…、
 けれど、今は生まれて生きることも…、存在することの価値や意味よりも他に…、もっとどうしても欲しいものがあった…。
 それを取り戻すために、久保田は屋敷の一番東側にある増築された洋室のある場所までくると、そこに植えられている桜の木を登り始める。他の場所から屋敷の中に侵入しても良かったが、久保田が今から入ろうとしているのはかつて自分の部屋のあった場所だった。
 
 「べつに、懐かしいってワケじゃないんだけどねぇ?」

 久保田はそう呟くと桜の木の上から、二階の洋室の窓を眺める。すると運良く窓が開け放したたままになっている。洋室の中は昔いた頃とまるっきり変わってしまっていたが、自分でも言った通りに昔を懐かしむために来たわけではなかった。
 迷うことなく桜の木から窓に飛び移ると、久保田は物音を立てないように注意して室内へと進入する。
 すると、部屋の中に置かれていた大きなベッドから人の気配がした。
 それに気づいた久保田がベッドに近寄ってみると、やわらかそうな毛布にくるまって眠っている人物がいる。その人物は小さく寝返りを打ったが、久保田が立っているのに気づいた様子はなく、すぐ近くまで近寄っても起きなかった。
 
 「すぅ・・・・・」

 ベッドで眠っている人物は夢も見ないくらいぐっすりと寝入っているようで、あどけない顔をして小さく寝息を立てている。しかし久保田はベッドに片手をつくと、さっき犬に向かってしたのと同じように、ゆっくりとその人物の頭に手を伸ばした。
 
 「・・・・・・・時任」

 久保田はまるで深く息をつくように、ベッドで眠っている人物の名を呼ぶと…、
 愛しそうにその顔を見つめながら、頭を軽く撫でた手をそのまま頬へと滑らせる…。
 そして…、もう片方の手で毛布からはみ出していた手を握って…、
 もう一度…、静かに優しすぎるくらい優しく名前を呼んだ。

 「時任」

 あの離れからいなくなったと知った瞬間に…、どうしようもなく胸がズキズキと痛かった…。
 気まぐれで薄汚れた街から拾ってきたはずなのに、もう会えないかもしれないと思ったら…、会いたくてたまらなくなった…。
 一緒にいたのはわずかな時間で…、ほんの少しだったけれど…、
 もしも記憶が薄れて顔を忘れてしまったとしても…、握りしめた手のぬくもりだけは何があっても忘れたくても忘れられない…。
 さっき庭で撫でた犬もあたたかかったけれど…、握りしめた時任の手は…、

 それよりもずっとあたたかくて…、そのあたたかさが愛しかった。

 久保田が頬を撫で続けていると夢の中にいた時任がゆっくりと瞳を開いて…、その瞳が目の前にいる久保田の顔を映し出す。けれど、少しつり上がった大きな綺麗な瞳も、いつも名前を呼んでくれてた唇も何もかも変わっていないのに…、
 その口から出た言葉は…、あの離れで一緒に暮らした日々を否定するものだった。

 「・・・・・・誰?」
 
 時任のした問いかけは短かかったが…、その言葉が冗談で言っているのではないことが揺れている瞳の色でわかる。
 庭にいた二頭の犬は、数年たっても久保田のことを覚えていたのに…、
 一番、覚えていて欲しかった人は…、握りしめてる手はこんなにもあたたかいのに…、
 ぬくもりはあの離れで暮らした日々は…、何もかわらないのに…、

 ・・・・・・・久保田のことを忘れてしまっていた。

 久保田は少しの間、じっと少し不審そうに見つめてくる時任の瞳を見つめ返していたが…、ゆっくりと握りしめても握り返されない手を放すと…、
 もう一度…、手を伸ばして優しく頭を撫でた。

 「せっかく寝てたのに、起こしちゃってゴメンね?」
 
 痛みも悲しみも…、寂しさも…、何も感じさせない微笑みを浮かべながら、久保田はそう言うとベッドからわずかに後ろにさがる。すると、時任はベッドから起き上がって、眠気を追い払うように軽く頭を振った。
 けれど、それでも眠気が去らない様子で、しきりに目をこすっている。
 その様子を見ている内に、部屋に漂っている甘い匂いに気づいた久保田は時任の腕を強引につかむと、いきなりシャツを腕のあたりまでめくり上げた。
 「な、なにすんだよっ!」
 「いいから、ちょっとおとなしくしててくれる?」
 「おとなしくって、なんで見ず知らずのてめぇの言うこと聞かなきゃなんねぇんだっ」
 「・・・・・・・」
 「おいっ、腕放せよっ」
 怒鳴りながら時任は少し暴れたが、腕をつかんでいるだけで久保田が何もしてこないので、しばらくするとおとなしくなる。すると、シャツがめくり上げられてあらわになった腕を見つめている久保田の瞳がすうっと細く鋭くなった。
 男のものとは思えないほど細い腕には、ちょうど血管の浮き出た辺りに何かを刺したような小さな跡が無数についている。
 その跡はなんの跡なのかを確認するまでもなく…、注射針の跡に違いなかった。
 久保田を忘れたことが注射で打たれた薬が原因なのか、それとも本当に久保田の顔を忘れてしまっているのかはわからなかったが…、
 時任がここにいるようになってから、薬を打たれ続けていることだけは事実である。
 久保田はつかんでいた腕を放してシャツを元に戻して注射針の跡を見えなくすると、一度は放した時任の手をゆっくりと握りしめた。
 「ねぇ…、俺と一緒に来ない?」
 「はぁ?」
 「一緒に暮らさないかって、そう言ってるんだけど?」
 「な、なんで、俺がてめぇなんかと一緒にっ」
 「ワケなんてないけど…、ただ他にはなにも望んでないってだけ」
 「望んでないだけって…、なにを?」
 「ずっと一緒にいてくれるコト…。本当にそれだけでいいから…、それしか望んでないから…」
 「・・・・・・・」
 
 「一緒においで…、時任…」

 久保田がそう言った時、時任の唇が何かを刻んだような気がしたが…、タイミング悪く部屋にあるドアの向こうから廊下の方から人の声が聞こえてくる。
 すると、時任は自分の手を握りしめている久保田の手を振り払った。
 さっきまでは出て行けと言いながらも、久保田の方を見ていた瞳が…、
 外から聞こえてきた何者かの声に気を取られて、久保田ではなくドアの方を見つめる。
 時任は怖がっておびえているような…、けれどその声が聞こえてきた瞬間に少し安心したような顔をしていた。
 
 「・・・・アキラさん」

 その唇が自分ではなく、別の人物の名前を呟くのを聞いた瞬間に…、久保田は両腕を伸ばしてきつく時任の細い身体を抱きしめた。すると時任はいきなりのことに驚いて、抵抗することも忘れて目をわずかに見開く。
 けれど、久保田はすぐに自分の腕の中から時任を解放すると、素早く入ってきた窓から桜の木へと飛び移った。

 「・・・・・・・・っ!!!」

 それを見ていた時任が何か言おうとしたが、その声はすでに桜の木から飛び降りてしまった久保田の耳には届かない。時任は自分の身体に残るぬくもりを感じながら、いつもカギのかけられているドアが音を立てて開くのを聞いた。
 けれどいつもはアキラが来るのを待っていたはずなのに…、今だけはいきなり窓から入ってきたアキラに良く似た顔をした黒いコートの男のぬくもりに、心がとらわれてしまっていた。
 今日、始めて会った見知らぬ男のはずなのに…、知らないはずなのに…、
 なぜか離れていく背中を見た瞬間、このまま離れてしまいたくない気がして…、
 だから呼び止めようとしたけれど…、男の名前がわからないことに気づいたら…、

 胸が痛くて苦しくて…、たまらなくなった。

 何かつらくて哀しいことがあったはずなのに、気がついたらここにいて…、
 けれどここにいたら、もう哀しいこともつらいこともないんだって…、
 そうアキラが教えてくれたはずなのに…、時任が忘れた記憶もすべて持っているとアキラが言っていたはずなのに…、
 知らないばすの男の名前が、それを覚えていないことがどうしようもなく哀しかった…。
 時任がじっと窓の外ばかりを眺めていると、部屋に入ってきた男…、アキラが時任の方にそっと手を置く。すると、その手からもぬくもりが伝わってきたが、いつものようにアキラの胸に頭を預ける気にはなれなかった。
 いつもはぼんやりと頭の中に霧がかかった感じだったが、黒いコートの男の名前を考え始めたら…、激しい頭痛がし始める。その痛みに時任が顔をしかめると、肩から手を放したアキラがベッド脇のサイドボードから透明な液体の入った小ビンと注射器を出してきた。
 「心はここにあらずと言った感じだな、ミノル?」
 「・・・・・・えっ?」
 「窓の外なんか見ずに、お前は私のことだけ考えてればいいと言っただろう?」
 「ちょ…、ちょっと待っ…」
 「これを打てば、頭の痛みなんかすぐになくなる」
 「あ、頭なんか痛くない」
 「私はお前のことなら、なんでもわかるんだよ」
 「けど…、もう注射はやめて欲しいんだ…」

 「ほら、腕を出して」

 いくら時任が注射を嫌がっても、アキラは注射することをやめようとはしない。
 嫌だと時任が叫んでも…、いつも微笑みながら注射を打った。
 けれど、今日だけはどうしても注射を打たれたくなくて、時任は腕をかばいながらじりじりと後ろへと下がる。しかしアキラは注射器を持ったまま、時任に向かって歩いてきた。
 「やめてくれ…、やめてくれよ…」
 「逃げても無駄だよ」
 「ア、アキラさん…」

 「すべてはお前のためなんだよ、ミノル」

 優しい口調だけれど、その言葉の中にはなぜか冷たさがひそんでいる。時任はその冷たさに背筋を凍らせながら、追い詰められて黒いコートの男が入ってきた窓の前に立った。
 その下には桜の木があって、そこから伝えば外に逃げられるかもしれなかったが…、
 窓枠を握った時任の手は白くなってしまっていても、そこを乗り越えようとはしなかった。
 注射を打たれるのが嫌で言葉の裏の冷たさに凍り付いても…、優しく微笑んでくれている顔を見ると逃げられない…。
 時任はアキラの手に捕まって…、また透明な液体が血管の中に流し込まれるのを眺めながらきつく唇を噛みしめた。
 
 「・・・・・ミノル」

 名前を呼ばれて首筋に口付けられて…、服を脱がされてベッドに沈められて…、
 アキラの熱に身体を犯されると何もかもが白く白く染まっていく…。
 何度も何度も犯されて、赤い痕を身体に散らされて…、考えようとしていたことも忘れてしまった過去のことも…、すべてが熱に解けて消えてしまうような気がした。
 けれど、身体を揺すられながら名前を呼ばれると…、なぜか耳の奥にもう一つの声が自分を呼んでいるのが聞こえる。

 その声はあたたかくて…、どこかなつかしくて…、ずっとずっと聞いていたくなる声だった。

 アキラにミノルと呼ばれる時にも、前からそんな風に呼ばれていた感じがしたが…、
 その声に…、黒いコートの男の声に時任と呼ばれると…、
 なぜか自然に目の奥が熱くなって…、何かを叫びたくてたまらなくなる。
 けれど、何を叫びたいのかわからなくて…、わからないことが苦しくて、かなしくて…、
 時任は何も見えない、ただ白いだけの天井を見上げながら…、聞いていると胸がズキズキと痛くて…、その痛みに胸が詰まるような悲痛な声で叫んだ。

 「うっ…、あぁぁぁっ!!!」

 瞳から流れ落ちてくる涙の意味もわからずに…、時任は自分の名を呼んでくれてる優しすぎるくらい優しい声だけを…、
 一緒においでと言われて…、抱きしめられた時のあたたかさを思い出しながら…、
 まるで箱檻のような部屋のベッドの上で、自分を蝕んでいく薬と熱に犯され続けていた。


 
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