籠の鳥.6




 街の一角に建っている白い大きな建物の外壁が、いつもなら空を染める夕日と同じ色に染まっている頃。その白い建物の中にある長い廊下を、白衣を着た一人の男が歩いていた。
 白い建物と聞けば誰もが病院をイメージするかもしれないが、建物の脇に病院名が書かれている所を見ると…、やはりここも例外ではないらしい。
 白衣を着た人物は廊下にアナウンスが流れると、どこかに向かおうとしていた歩みを止めて振り返った。

『松本先生…、松本先生…。三番診察室までお戻りください』

 呼び出しのアナウンスは、診察が終了して人通りの少なくなった薬の匂いのする廊下に響き渡る。そのアナウンスを聞いた白衣の男は、松本という自分の名前を聞くとため息まじりに小さく息を吐き出した。
 医者という職業は自分で選んでなったものだし、患者を救うという職務にも情熱を持っていたが、やはりため息がつきたくなる時もある。
 忙しいのはいつものことだったが、今日はそれとは別のことで少しだけ気が重かった。それはこの病院で内科を担当している松本の上司だった宮崎内科部長が、先日退任に追い込まれたせいである。
 別にそれだけならばため息をつかなかったかもしれないが、実はその後任にまだ医師としての経験も浅い松本が指名されていた。この事態はまさに異例いう以外に言葉が見つからないが、紛れも無い事実である。
 そして内科部長を退任させて松本の就任を決定したのは、この病院の経営者である医院長ではなく…、

 突然現れた、医院長の息子と名乗る人物らしかった。
 
 今まで海外に留学していたという話が本当かどうかはわからないが…、この人物がいずれ医院長になることだけは確かのようである。
 しかし…、まだ誰もその人物の顔を見たことが無かった。
 病院に勤務している医師達は、これからは会ったこともない人物の理不尽な命令を聞かなくてはならないのかと騒いでいたが、誰も医院長に直接言う勇気はなかったようである。医院長は統率力にはすぐれていたが、それは人徳ではなく恐怖によるものだった。
 簡単に人を切り捨てるということでは…、やはり親子だからなのか医院長も息子と名乗る人物も共通している。
 けれど…、まだ会ったことがないからなのか、息子の方により強く得体の知れない嫌な予感を松本は感じていた。

 「他の病院に変わるといったら、たぶん反対するだろうな…、橘は…」

 松本がそう呟いて三番診察室のある内科のドアを開けると、そこにはいつもの看護婦がいて少しだけ困ったような顔をしている。何かあって呼び出されたことはわかっていたが、どうやら診察室で何かあったらしかった。
 何があったのか松本が尋ねると、看護婦はなぜかチラリと三番診察室の入り口にかけられているカーテンを見て頬を赤くする。そんな様子を松本が不審に思っていると、看護婦は松本に会いたいという人物が来たことを告げた。
 「診察が終わってますから、医局の方へと申し上げたのですけど…、どうしてもここに呼んで欲しいっておっしゃったので…」
 「診察室に尋ねてくるような知り合いは、私にはいないのだが?」
 「けれど、会えばわかるからと…」
 「そうか」
 松本のいる三番診察室に尋ねてくるといったら、同じ病院の内科で働いている大学時代からの付き合いである橘しかいないが、どうやら松本を尋ねてきた人物は知り合いだと名乗っているらしい。もしかしたら、また製薬会社や医療器具メーカーがセールスのために来たのかもしれなかったが、わざわざ診察室でとなると良くない話を連想する。
 だが、そんな松本の予想を裏切って、診察室のカーテンを開けた先にいた人物の顔は本当に知り合いのものだった。
 「誰かと思えば…、珍しいなお前がここにくるとは…」
 「そう?そんなに珍しくないと思うけど?」
 「一年ぶりに来たのにか?」
 「前に来てから、もうそんなにたってたっけ?」
 「・・・・・・お前が前に来たのは、去年の今頃だ」
 「ふーん、なにしに?」
 「危険なことに首を突っ込んで、流れ弾に当たったことあっただろう?」
 「そういえば、そんなこともあったねぇ」
 「・・・・・・会ったのは久しぶりだが本当に相変わらずだな、誠人」

 「まぁね」

 松本は大学時代からの知り合いである久保田に変わらないと言ったが、そう言われた久保田の口元にはなぜかわずかに苦笑が浮かんでいた。その苦笑の意味を松本は知らなかったが、少しだけ以前と久保田を包んでいる雰囲気が変わっていることに気づく。
 しかし、その変化を松本が感じられたのはほんのわずかで、気のせいだと言われればそのまま信じてしまう程度だった。
 松本が診察のためのイスに座ると、久保田はいつも患者が座っている丸イスに座ったままでここに来た目的を話し始める。
 けれど、久保田が松本に尋ねたのは時任の居場所ではなかった。
 「最近、なにか変わったコトがあったら教えてくんない?」
 「変わったこと…、やはり医院長の周辺でか?」
 「この病院で」
 「そう聞くということは、もしかして何か知ってるのか?」
 「なにかって何が?」

 「この病院の内部を引っ掻き回している。医院長のもう一人の息子についてだ」

 医院長のもう一人の息子…。
 そう松本が言うと、久保田は口元に更に深く笑みを刻む。
 だが…、その笑みはさっきの暖かさが少しだけ混じり込んだようなものではなく、見ている者の背筋をゾクッと震わせるほど冷ややかだった。
 そんな寒々とした笑みをわずかに額に汗を滲ませながら松本が見ていると、久保田はポケットに入っていたメモを松本の前に差し出す。その差し出された白い紙の上に書かれているのは、松本も見慣れているこの病院の住所だったが実は番地だけが違っていた。
 けれど、この病院の看板にも…、住所の場所に建っている立派な屋敷の表札にも…、同じ文字が二文字書かれている。
 
 その文字は…、二つの建物の持ち主の名である宗方という名前だった。

 久保田と宗方…。
 苗字は違ってしまっていたが、久保田は実は宗方と無関係ではない。
 だが、生まれた時から…、もしかしたら生まれる前からなのかもしれなかったが、関係と呼べるようなものは存在しなかった。
 初めから何も…、何一つとして…。
 松本が病院の現状を話し終えると、久保田はゆっくりとイスから立ち上がる。
 そして手に持っていた紙切れから久保田がするりと手を離すと…、久保田の手から開放された紙切れはゆるやかに舞いながら、下に置かれていたゴミ箱の中におさまった。

 「このことは、お前に無関係なことじゃない。いらないお世話だと思うが、この病院に来ないか? そうすれば、俺はあんな得体の知れない男よりお前の下につく方を選べる」

 ゴミ箱に落ちた紙を眺めながら松本がそう言ったが、久保田はそのまま診察室を出るために松本に背を向けた。そんな様子を見た松本は、思わずイスから立ち上がって呼び止めるために肩に手をかけようとする。
 だが、久保田の言葉を聞いた瞬間、そうすることができなくなった。

 「血のつながりとかって言葉あるけど、血液はカラダの中循環してるだけでどこにもつながってないっしょ。だから、血のつながりがある時って腹ん中にいる時だけなのかもね?」
 
 宗方総合病院と宗方家には久保田と同じ遺伝子と血液型を持った人間がいる。
 だが…、会いたいと思っている人の…、抱きしめたいと思っている人の身体に流れている血も遺伝子も久保田とはまったく違っていた。
 けれど、始めて胸がズキズキと痛むくらい恋しいと思った人は…、血つながりなんかいらなくて、ただ握りしめ合う手のひらのあたたかさを感じながら…、

 心で身体で…、ずっとずっとつながってたい人だった。



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