籠の鳥.5



「やっぱり…、薬は出してもらえませんかね?」
「医者は薬を売るのが商売じゃねぇから、必要じゃないモンは出せねぇよっ。まっ、たまにはそういうのもいるにはいるがな」
「はぁ…」
「どうしても薬が欲しけりゃ、治るって言葉を百回唱えろ。それが薬だ」

 今日もそんな会話が診察室から聞こえてくる葛西診療所には、実は二人の医者がいたがそのことを知るものはほとんどいない。
 それは診療所が繁盛してないからではなく、診療所の主である葛西以外は診察に出ないからだった。葛西は、今日も一人で診察を続けながら珍しくため息をつく。
 けれどそれは、甥である久保田が診察を手伝わないからではなかった。
 時任が来る前、久保田は夜と昼が逆転したような生活を送っていたようだったが、今はちゃんと眠っているかどうかさえ定かではない。
 昨日、気になった葛西が離れをのぞきに行った時、久保田はただぼんやりとベッドを背にして床に座っていた。
 目の前に置かれた缶ビールを灰皿にしていたが…、タバコの灰はかなり長くなってしまっていて…、
 それを見た葛西は、久保田のあまりの変わりように深く長く息を吐いたのだった。

 「時坊がいたのは…、ほんの数週間だったってのにな…」

 葛西がそうつぶやいたように、久保田のいる離れに時任がいたのはたった三週間で…、まだ一ヶ月もたっていなかったのである。けれどそれがわかっていても、もうずっと前から久保田と時任が一緒に離れに住んでいた気がしてならなかった。
 そんな風に感じてしまうのはやはり…、二人で一緒にいる時の様子が…、
 本当に思わず口元が緩んでしまうくらい…、楽しそうでうれしそうで…、

 時任を見つめる久保田の視線が、優しすぎるくらい優しかったせいかもしれない。

 友達というには心を寄せ合いすぎているけれど、恋人というにはまだ距離が足なくて…、そんな二人を見ているのは悪くなかったが…、
 薄暗い部屋で一人タバコをふかしている久保田を見るくらいなら…、治療費が払えないからという理由で追い出せばよかった気がしてならなかった。
 
 「あきらめろって言っても…、あきらめられるくらいなら最初から拾って来ねぇだろうしな…、あいつは…」

 葛西は午前の診察を終えると、そう呟きながら昼食を取るために診察室から出る。
 今日の昼飯はラーメンと決まっていたが、いつもと違って二人分作らなくてはならなかった。それはこんなことをするのは柄ではないと思いつつも、葛西は昨日から久保田のために離れに食事を運んでやっていたからである。
 しかし…、葛西がラーメンを作って離れに行ってみると、やはり今朝置いた朝食には、まったく手がつけられていなかった。

「ここに置いとくから、気が向いたら食えよ」

 ベッドを背にして座ってタバコをふかしていると、玄関の方から葛西の声がした。
 たぶん心配してくれてるんだろうことはわかっていたが、今朝も今も何も食べる気がしない。台所のコンロの上には、三日分くらいの量のカレーも残っていたが…、すでに変色して食べられなくなってしまっていた。

 時任がいなくなってしまってから…、一週間…。

 一緒にいたのが三週間だったのに、いなくなってからの一週間の方がなぜか長く長く感じられる。もしかしたら、時任なんて人間がここにいたのは自分の見た都合のよすぎる夢で、今はただ夢から覚めてしまっただけなのかもしれなかった。
 二つになったハブラシもコップも…、そしてベッドにも時任のいた痕跡が残っていて…、
 それに手を伸ばしながらも…、その手はいつも痕跡に触れる前にゆっくりと下へと落ちる。
 握りしめた手のひらの中には、時任のポケットに入っていた紙切れが入っていた。

「渡せばよかったなんて思えないから…、ごめんね…」

 久保田はそう言うと、手のひらの中の紙切れをぐちゃぐちゃに握りつぶす。
 その紙の上には…、ポールペンである住所が書かれていた。
 住所の他には何も書かれていなかったが、書かれていた住所は持っていた時任だけではなく…、久保田にとっても意味のある住所で…、
 たぶん…、そこへはもう一生行かないだろうと思っていた場所だった。
 時任が、どんな風に住所の場所と関係しているのかまではわからなかったが…、

 ざわざわと嫌な予感だけがしている…。

 記憶が戻っていないなら住所の場所に行った可能性は低いが、一週間も戻ってこないとなるとやはりその可能性は捨て切れなかった。
 けれどそれがわかったとしても、自分で望んで行ったのなら…、止める権利はないのかもしれない。
 まだ抱き合ってもいなくて…、友達でも恋人でもなくて…、
 ただ…、一緒にあきたなぁって言いながらカレーを食べて、二人で夜明けまでゲームしていただけだった。

 ただいま、おかえり…、おやすみ、おはようって当たり前みたいに言い合いながら…。

 けれど…、それはたった三週間の短い時間で…、
 でも、これからどれだけ長い時間が過ぎていったとしても、笑い合いながら微笑み合いながら一緒にいた時間が大切だった…。
 ずっとずっと、そればかりを抱きしめていたくなるほど…、その時が愛しかった。
 この部屋に暖かさを残して行った…、時任と同じように…。
 タバコを目の前にあるアルミ缶の中に放り込むと、握りしめた紙切れをポケットの中に仕舞い込む。
 そして久保田は…、玄関に置かれていたラーメンを素通りして…、

 黒いコートを羽織ながら…、雨の降り出しそうな空の下を歩き出した。











 知らない天井、知らない窓…、そして知らない部屋。
 知らない物ばかりで埋め尽くされた場所に、同じように知らない男が立っていた。
 時任は男に向けていた視線を鋭くすると、ぎゅっと拳を握りしめる。そうしたのは、理屈ではなく本能が危険だと自分自身に呼びかけていたからだった。
 目の前にいる男の外見は…、時任の知っているある人物とひどく似ていたが…、雰囲気も表情もまるで違う。だから、いくら似ていても見間違えることはなかったけれど、もしも雰囲気も何もかも似ていたとしても…、絶対に見間違えたりはしたくない。
 あの離れの部屋にいたのはほんの数週間で…、けれどそこは帰りたい場所で…、

 そんな風に思えるのは…、そこに一緒にいたい人がいるからだった。

 だから、目の前にいる人物が誰だとか、ここがどこかということよりも…、ただあの部屋に帰りたくて…、
 自分を知らない部屋に連れてきた男のことを、見つめるのではなくにらんでいる。すると男はそれを感じ取ったのか、口元を軽く吊り上げて笑み浮かべた。
 だが、その笑みを見ていると、どこか高い場所から時任を見下ろしているように思えてならない。時任を見つめる男の瞳は、じっと時任の様子を観察しているようだった。

 「猫は帰巣本能が薄いというが、これで実証されたというわけか…。なるほど、猫というのは物忘れの激しい生きモノのようだ」

 男はそう言うと、さっきまで時任が寝ていたベッドの上に載せていた手で軽くシーツをなでる。その仕草を時任は見ていたが、何か嫌なことを連想しそうになったため、わずかに視線をそらせた。
 すると男はそんな時任を見て、あざ笑うかのように口元の笑みを深くする。
 時任に向かってお帰りを言った男は…、時任の何もかもを知っているとでも言うように『ミノル』と時任のことを呼んだ。

 夕飯にカレーを作ってくれた人と…、あまりにも似すぎた顔で…。

 時任がわずかに身震いすると、男は時任に向かって軽く手を差し出す。
 すると、その手には透明な液体の入ったモノが乗っていた。
 それが何に使われる物なのかは、一目見れば誰にでもわかるので時任にもわかる。けれど、それを目の前に差し出されるような覚えはなかった。
 そんな覚えはなかったはずだった…。
 この部屋も…、そばに横たわるベッドも…、そしてこの男も知らないはずだから…。
 だが、男が自分の方に歩いてくるのを感じた瞬間に、身体を走り抜けたのは…、

 ・・・怖いという恐怖の感情だった。

 知らないはずなのに…、その感じを知っている気がする。
 この恐怖を…、液体の入った物体が腕に刺される瞬間の痛みを…、
 身を震わせるほどに知っている気がする。
 時任は笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる男から逃げるように…、
 一歩…、また一歩と全身を緊張させながら後ずさりをし始めた。
 こんな男なんかすぐに殴りつけて…、ここから逃げ出すつもりだったのに、そうすることもできずに恐怖だけがこの部屋を…、心の中を支配していく…。
 透明な液体のしずくが男の指を伝って床へと落ちると…、時任の背中が開かないドアに当たった。

 「ミノル」
 「・・・・・・来るな!!」
 「さぁ…、今から思い出すんだ」
 「・・・・・や、やめっ!!!」

 「お前が私のモノだということを・・・・・・」

 透明な液体が小さな痛みとともに時任の腕に流し込まれた瞬間に…、時任の絶叫が男の支配している部屋の中をこだまする。
 液体を流し込んだ注射器の中には、時任の赤い血が混じり込んでいた。
 これは夢だと思いたかったけれど…、恐怖に満ちた今が夢なのか…、
 それとも…、あの穏やかな空気に包まれた日々の方が夢だったのか…、

 遠くから響いてくるように耳に届く自分の絶叫を聞いている内に、わからなくなってしまっていた。




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