籠の鳥.4




夕方になって日が暮れて…、バイトが終わった久保田はコンビニ袋を片手に家路を急いでいた。
 遠くの空は曇っていたが、その隙間には真っ赤な夕焼けがのぞいている。そんな空を眺めて歩きながら、その振動でコンビニ袋をかさかさと鳴っていた。
 袋の中身はお菓子とジュースが入っていて、そのほとんどが同居人である時任から頼まれたもので…、
 そのせいで久保田の持っている袋は、時任が来る前よりも二倍以上重くなっている。けれどその重さを感じながらも、久保田の表情は穏やかすぎるくらい穏やかだった。
 前までは特に帰る必要のなかった家も、おかえりを言ってくれるヒトが…、待っているヒトがいるから帰るようになって…、
 何かを探すように、夜を徘徊するクセもなくなった。
 それは時任が患者だからというのではなく、もっと別の何かが胸の中であたたかくうずいている。
 だが、その胸の中の想いにはまだ名前はついていなかった。

「こういうのも…、悪くないかもね…」

 久保田はそう呟くと、葛西診療所と書かれた看板のある建物を囲んでいる塀にある裏口から、自分の住んでいる離れのある中庭へと入る。そしていつものように玄関のチャイムを鳴らして、中に入ろうとしたが…、なぜか中から帰ってくるはずの声が聞こえてこなかった。

 「・・・時任?」

 久保田は靴を脱いで中に入るとコンビニ袋を机の上に置いて、離れの中を時任の姿を探す。
 だが…、どこを探しても時任の姿はなかった。
 離れだけではなく、診療所のある母屋も探して見たが、やはり結果は同じで…、久保田は葛西のいる診療室のドアを開ける。すると近所の女子高生が服を胸の辺りまでめくりあげて、葛西に聴診器を当てられていた。
 女子高生は見られたことを騒ぐよりも、突然入ってきた久保田の顔にぽーっと見惚れている。しかし、久保田の方はそんな女子高生の方など少しも見ていなかった。

「時任がどこにいるか知らない?」
「どこにって、お前のいる離れにいるだろ?」
「・・・・いないから、聞いてるんだけど?」
「いないって…、どっか買い物にでも行ったんじゃねぇか?」
「お金も持ってないのに?」
「うっ、じゃあ…、散歩だろ?」

「だったら、いいんだけどね…」

 葛西が居場所を知らないことがわかると、久保田はぽーっとしている女子高生の横を素通りして診療所から表へと出る。
 診療所の前の道は左右に真っ直ぐ伸びていたが、いくら見回しても時任らしき人物の姿は見えなかった。
 後ろから追いかけてきた葛西は、そんな久保田の後ろ姿を少し真剣な表情で見つめた後…、
 久保田に近づいて、ポンッとその肩を叩く…。
 けれど、久保田は葛西の方を向かなかった。

「そのうち、帰ってくるだろ。幼稚園のガキじゃねぇんだからよ」
「でも、待ってたら帰ってくるって保障ある?」
「・・・・誠人」
「そんな保障があるなら…、外に出るななんて言わなかったんだけどね」
「ケガが治っても離れから出ねぇから、妙だとは思ってたが…、そんなことを時坊に言ってたのか?」
「うん…」
「…って、お前」

「じゃあね…、葛西さん…」

 そう言った久保田は、夜を徘徊していた頃と同じ無表情な顔をしたまま…、時任が歩いて行ったかもしれないアスファルトの上を歩き出す。すると葛西の手が、乗せていた久保田の肩からするりと滑りと落ちた。
 もしも、本当に時任が帰ってくる確信があるなら、夕日が消えて闇に沈み込もうとしている街に向う久保田を止めることができたのかもしれないが…、

 暗い瞳をした久保田に…、確信のない気休めは言えなかった。

 時任を久保田が拾ってきて、始めはどうなることかと思っていたが、何もかもがいい方向に向っているような気がして…、
 葛西はそんな二人を、じっと静かに見守っていた。
 けれど、そんな幸せな日々はこんなにもあっさりと終わりを迎えようとしている。

 ある日、突然ココにやってきた時任は…、同じように唐突に姿を消したまま…、いつまでたっても診療所にある離れにも、久保田の元にも帰ってこなかった。













「……久保ちゃん」

 無意識にそう呟いて閉じていた目を開くと、目を覚ましたくなくなるくらい…、とても幸せな夢を見ていたような気がした。
 毎日、ほとんどがカレーだったけど、それをあきたって言いながら食べることのも…、狭いって言いながら一つしかないベッドで眠ることも好きで楽しくて…、
 仕事から帰ってきて当たり前にただいまって言うから…、同じように当たり前におかえりって言ってた…。

 そんな何事もなく過ぎていく日々の夢を…。

 けれど目を開けると、そこにはいつかの日と同じように見知らぬ天井だけが見える。
 自分がベッド寝ていることはすぐにわかったが、いつも眠っていた狭いパイプベッドじゃなかった。そのベッドの感触を手で確かめると、時任は自分の身に何かが起こったことを思い出した。
 離れから出て散歩しようとした時、真田という男に過去を知っていると声をかけられて…、時任はその話を聞くために真田という男と近くの喫茶店に入ったのである。
 しかし目の前に出されたコーヒーを飲んだ瞬間から後の記憶は、気を失ってしまったので綺麗になくなってしまっていた。用心はしていたのだが、普通に喫茶店の店員が持ってきたコーヒーなので油断してしまったが、もしかしたらその店員は真田の息がかかっていた可能性がある。
 自分の過去がどんなものなのか予想もつかないが、こんな真似をするような男と知り合いだったとしたら…、
 知らない方が良かったって…、そう思えるような過去なのかもしれなかった。
 けれど、時任は強い視線で白い天井をにらみつけると、勢い良くベッドから立ち上がる。 過去にサヨナラするのも、それを踏みしめて歩き出すのも…、知らないままでは何もできないから…、
 そんな所で、まだ立ち止まるわけにはいかなかった。 

「とにかく…、今は早く帰らなきゃだよなっ」

 時任はそう言いながら、久保田が離れから出るなと言っていたことを思い出していた。
 離れから出るなというその言葉が、こうなることを予測してのものだったのかどうかはわからないが…、
 その言葉を守らなかったために、訳もわからずこんな知らない部屋に連れて去られて出られなくなってしまっているのは事実だった。
 この部屋がどんな目的で作られたのかはわからないが、良く見ると窓には鉄格子がはめられているし、鍵のかかっているドアもかなり頑丈な作りになっている。
 時任は出ようとして近くにあった椅子をドアにぶつけてみたが、やはりドアを開けることも壊すこともできなかった。

「なんで、俺がこんなトコに閉じ込められなきゃなんねぇんだよっ!!」

 そういくら叫んでも、物を投げつけてもドアは開かない。
 早く帰ってあきたって言いながらカレーを食べたいと思っていても…、その願いは頑丈なドアに阻まれて叶いそうになかった。
 あの診療所の離れに帰ると言いながらも、ただいまを言っても久保田がお帰りと言ってくれる保障はどこにもなくて…、
 げれど、帰りたい場所は…、ただいまを言いたい相手は久保田しかいなかった。
 時任はドアから少しは鳴れると、走って勢いをつけて久保田のいる場所に帰るためにドアを破ろうとする。 
 だがそんな時任に向かって、背後から声をかけてきた人物がいた。

「お帰り…、ミノル」

 その人物がいつからこの部屋にいたのかはわからなかったが、時任の表情がその男を見た瞬間に凍りつく。
 けれどその男に向かって…、ただいまを言ったりはしなかった。
 もしも、もう久保田が待っていてくれなかったとしても…、おかえりを言ってくれなかったとしても…、
 今はただ…、何事もなかったかのように…、

 二人で暮らしているあの部屋で…、久保田に向かってただいまを言いたかった。



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