籠の鳥.3




葛西診療所はその名の通り、久保田の叔父である葛西の経営している診療所である。診療所という名の通り、大きな病院とは違って最新の医療機器などはそろっていないが、それでも患者は毎日たくさん訪れていた。
 無精ひげを伸ばした外見は、白衣よりもトレンチコートが似合いそうだが腕はかなりいいし、口調は乱暴だが親身になって話を聞いてくれる。やはりそんな所が、葛西の元に通う患者を増やしているのかもしれなかった。
 けれど、そんな葛西の診療所に居候している甥の誠人は、医師免許はもっているのに少しも患者を見ようとはしないでいる。柄にもないので葛西は説教をしたりしはないが、まるでさまようように夜の街を歩く久保田を見ていると、一言くらいは何か言いたくなる時もあった。

 投げやりではないが、何に対しても興味はない…。 

 葛西の目にはそんな風に久保田が映っていたが、時任という少年を拾ってきてからは少し違っていた。
 怪我の手当てをするのはもちろんだが、家ではほとんど食事らしい食事をしなかったのに、今では時任と離れでちゃんと自炊して食べているらしい。
 この変化をどう取るべきか葛西は迷っていたが、やはり良い方向に向いてくれればと願わずにはいられなかった。

「ちったぁ、まともになってくれれば…って、俺も人のコト言えたギリじゃねぇが…」

 葛西は自分の部屋から廊下を歩いて、同じ敷地内の診療所に向いながら、久保田と時任のいる離れを見ていた。
 実は久保田が離れに住み住んでいるのは、中学時代の三年間と医者になってから現在までの一年である。だから、そんなにここに居ついていたわけではなかった。しかし離れの部屋を間借りはしているものの、中学時代も今も経済的には独立している。
 雀荘で稼いでいるらしいが、それも定かではなかった。
 
「コドモはコドモらしくってヤツは、誠人が中学ん時に一回は言ってやりたかったが…。やっぱりガラじゃねぇな」

 葛西がそう言いながら廊下を通り過ぎると、それと入れ違いになるように久保田が時任のいる離れに戻っていく…。
 その手にはコンビニの袋があったが、中に入っているのはセッタが1カートンとカロリーメイトだった。実は食事は久保田が作ってはいたが、もっぱら作るのはカレーばかりだったのである。
 久保田が中庭を通って離れの玄関を開けると、半ば強引に療養生活を強いられている時任の声がした。

 「おかえりっ」

 そう言った時任はベッドの上から右手を差し出して、カロリーメイトを早く渡せと要求していたが…、
 そんな時任の姿を、久保田は微笑みながら眺めていた。
 今まで誰かがこんな風に自分の部屋にいたことはなかったのに、いつの間にか時任が「おかえり」と言ってくれるのが普通になってきている。誰かと一緒にいたいとさえ思ったこともなかったが、時任だけはなぜか違っていた。
 それがなぜなのか考えていると、机の引き出しに仕舞い込んである一枚の紙切れが脳裏をよぎるが…、
 その紙切れを、記憶を失っている時任に見せる気はない。
 もし、このまま記憶が戻らなければ…、これからもずっと見せることはないのかもしれなかった。

『じゃあ…、ケガが治るまでいる…』
『それでもいいけど、ケガが治っても記憶がなかったら、どこにも行けないっしょ?』
『そ、それはそうだけどさ』
『どうせなら、記憶が戻るまでいなよ』
『記憶が戻るまでって…、そんなんいつまでかわかんねぇし…』
『だから、ずっといてもいいってコト』
『・・・・・・』
『どしたの?』

『・・・・なんでもねぇよっ、バカっ』

 そんな風に泣きそうな顔をかくしながらそう言った時任のことを思い出しながら、久保田がコンビニ袋からカロリーメイトを渡す。すると、時任はうれしそうにそれを受け取って食べ始めた。
 記憶をなくしたことを、記憶がないことを不安に思いながらも、時任は久保田と一緒に平穏な日々をすごしている。
 けれど、やはりどこかに行かなくてはという想いはあった。
 こんな風に怪我してるからって看病してくれて、カロリーメイトまで買ってくれて…、
 おかえりって言ったら、ただいまって言ってくれる人がいる。
 それだけでもう十分だと思っているのに、ここからどこに行こうとしているのか、やはり時任自身にもわからない。けれどそれと同じように、どうして見ず知らずの久保田と一緒ににいて…、それでもう十分だって思ってるのかもわからなかった。
 親切にしてくれて優しくしてくれたからというのもあるかもしれなかったが、自分の方を見て微笑んでくれている久保田を見ていると…、
 照れくさいけどうれしくて…、少しドキドキした。

「じゃ、晩メシつくるから」
「…って、どうせカレーだろっ」
「当たり」
「だぁぁっ、このままだと全身がカレー臭くなるっ」
「なら、晩メシ抜きね」
「えっ?」
「いらないって言ったっしょ?」
「マジで言ってるワケねぇだろっ。じょ、ジョーダンだって…」
「そう?」

「・・・・・うううっ、今日もカレーをありがたくいただきマス」

 毎日カレーばかりでも、一人で豪華な食事を食べるより久保田と向かい合って食べてる方がいい気がした。
 そんな風に久保田のことばかりを考えるのは、怪我が治ってないからという理由で久保田と二人で部屋の中にいる時間が多いからかもしれない。
 けれど、それでは片付けられない何かが…、心の奥でうずいていた…。

「どしたの?」
「な、なにが?」
「さっきから俺のカオ、じーっと見てるし?」
「べつにお前のコト見てたんじゃなくてっ、考えゴトしてたたけだろっ」
「ふーん…」
「な、なんだよっ?」
「考えゴトしててもいいけど…、いい加減名前呼んでくれない?」
「名前って?」
「いつまでもお前じゃ他人みたいでしょ?」

「他人みたいって…、そんなの…」


 名前呼ばないのは他人みたいだからって…、出来たカレーを食べながらそう言われたらなぜか胸の中に少し何かがつまった。
 まだ出会ったばかりで、久保田のことも自分のことも何も知らないのに…、他人みたいだからってそう言われたら…、
 さっきよりもたくさんうれしくなって、それからカレーは甘口で食べやすく作ってくれてたのに、少しも辛くなんかなかったのに目の奥が痛くなる。
 もしかしたら、この言葉に深い意味なんかなかったのかもしれなかったけれど…、
 ここにいていいんだって…、初めてそう感じた。
 
「……時任?」
「久保田って名前…、結構呼びづらいからさ…」
「うん」

「・・・・・久保ちゃんって呼ぶ」

 もしかしたら、まだ何も始まってないのかもしれなくて…、
 でも、始まったらすぐに終わるのかもしれない…。
 そんなわけのわからない予感を感じながら、時任は目の前にあるカレーをスプーンですくって口の中に放り込んだ。













「うー…、なんか外に出んの久しぶりだよなぁ…」

 久保田と住むようになってから三週間たったある日、離れから出てそう言いながら伸びをした時任は、葛西の住んでいる母屋から外へと出た。
 まだ外に出るなと久保田には言われていたが、怪我をしている内は退屈でもおとなしくしていても、やはり怪我が治るとじっとしていられなくなる。けれど、別に外に出たとしても、ここじゃないどこかへ行くつもりはなかった。
 自分がどこに行こうとしていたのか、それを知りたいと思ってはいたが今は手がかりがまったくない。そのため、いつのことになるのか予想もつかないが、記憶が回復するのを待つしかなかった。

「記憶が戻ったら…、か…」

 時任はそう呟くと、なんとなく目の前にあった空き缶を蹴飛ばす。すると空き缶は音を立てて、カラカラとアスファルトの上を転がった。
 その転がる音を聞いていると、なぜか仕事にでかけた久保田のことが気になってくる。夜には戻ると言っていたが、医者なのにしてる仕事はそれとは何も関係がないらしかった。
 叔父である葛西は診療所を手伝えば、それなりに給料を出すと言っていたが、なぜか久保田は患者を診る気はないらしい。
 なんで診ないのかと時任が尋ねると、久保田はセッタを吹かしながら、口元に笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
 診ないのにはやはり理由があるのかもしれないが…、なぜかそれ以上は聞くことができない。
 記憶をなくしている自分自身のことも良くわからなくて謎だったが、一緒に暮らしている久保も謎の多い人物だった。

「昔がどんなでも…、俺は俺だし、久保ちゃんは久保ちゃんだもんな…」

 そう呟くと時任は、転がっている空き缶に向かってもう一度足を振り上げる。だが、その足が缶を蹴る前に黒塗りの高級車がすぅっと時任の横に止まった。
 路上駐車でもするつもりなのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。車の窓ガラスが開いてそこから顔をのぞかせた人物は、時任の方を見て口元に薄い笑みを浮かべた。

「ほぅ…、君が久保田君の新しい飼い猫か」
「ヒトをいきなりネコ呼ばわりしてんじゃねぇよっ、おっさんっ!」
「おっさんではなく、私には真田という名前がある」
「あっそっ」
「私のことを覚えていないかね?」
「え?」

「ずっと昔、君の小さかった頃に、私は何度か君に会っている」

 真田と名乗る男の言葉に、驚いた時任の目が少しだけ見開かれる。目の前の男を不審に思ってはいたが、記憶が戻るまで見つからないと思っていた記憶の断片が持っているかもしれなかった。
 あやしいとは思っていても、もしも本当に自分のことを知っているとしたら、話をすれば何か自分に繋がる手がかりをつかめるかもしれない。これを逃したら、またいつ手がかりがつかめるかどうかわからなかった。

 「これから…、一緒にお茶でもどうかね?」

 そう言って嫌な笑みを浮かべながら真田がそう言うと、車のドアがゆっくりと開かれる。
 久保田と一緒にいて、一緒に暮らしていて…、他に何も望むものなんて思いつきもしないのに…、
 時任は少し迷いながらも、真田の持っているかもしれない記憶の糸をつかむために一歩足を前へと踏み出した。



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