籠の鳥.2
目の前にある窓から見える夕日は、本当にいくら見ていても飽きないくらい綺麗だった。けれどそんな綺麗な夕日を見ながら考えることは、ここはどこだろうかとか…、なんで身体に包帯が巻かれているのかということで…。
何かわからないかといくら身の回りの物を眺めても、自分の物と思えるような物は名に一つもなかった。
本当にただの一つも……。
だから、ここが自分の部屋ではないという事はすぐにわかったが、寝かされていたベッドから起き上がり痛む身体を引きずって部屋を出ようとした瞬間に、どこへ行けばいいのかわからなくなった。
知らない場所から行きたかった所は、たぶん帰るべき場所で…。
なのに、いくら考えてもどこに行けばいいのか少しもわからなくて…、少年はドアの前で呆然と立ち尽くした。
「なんで…、なにもわかんねぇんだ…」
そんな風に呟いてみても、思い出せる事は何も無い。
だが、思い出せなくてもここが自分の家ではないのはなんとなくわかったので、少年は部屋のドアを開けた。
帰る場所も行く当てもないのに…、ただここから出ていくために…。
けれど、ドアを開けても外に行く事が出来ない。
それは怪我をしていて思うように歩けないからではなく、ドアを開けたら目の前にメガネをかけた背の高い男が立っていたからだった。
男は部屋から出て行こうとする少年を見ると、のほほんとした表情で、
「もうじきご飯にするから、それまでもう少し寝てなよ」…と、まるで少年の知り合いででもあるかのように言う。しかし、自分を知っているのかと少年が尋ねると、男は首を軽く左右に振った。
「知り合いじゃなくて、道端に落ちてたから拾ってきただけ」
「俺が落ちてたって?」
「道を通りかかったの覚えてない?」
「…って言われても、わかんねぇんだよっ」
「わからないって、なんで?」
「なんでなのかって、そう言われてもわかんねぇけど…。たぶんこういうのって、記憶喪失っていうヤツ…、なのか?」
自分で声に出して言うまでは気づかなかったが、記憶喪失という言葉を耳で聞くと同時に、少年はハッキリと自分が何も覚えていないことを自覚した。帰る場所だけではなく、自分の名前すらわからなくなっていることを…。
だが、記憶喪失になっている本人すら知らない少年の名前を、なぜか目の前に立つ男は穏やかな口調で言った。
「時任稔」
「えっ?」
「俺じゃなくて、これはオタクの名前…。俺の名前は久保田誠人」
「時任…、久保田…」
そう言われてみるとなんとなく時任という名前は、聞き覚えがあるような気がする。けれど、それ以上のことは、やはりなぜか思い出せなかった。
声には出さず口の動きだけで、何度も時任と呼んでみたが…、
やはり聞き覚えがあっても、それが自分の名前だという実感は湧かない。
少年は…、時任は久保田と名乗った男に助けてくれた礼を言うと、やはりまたドアから出ようとした。
しかし、そんな時任の腕を掴むと、久保田はダメだと強引にベッドの方へと引きずり戻す。けれど、それでも時任はあきらめずに腕を掴んだ手を振り払い外に出ようとしたが、久保田はそれを許さなかった。
「なっ、なにしやがんだっ!!」
「ケガしてるに、外に出ようとするからっしょ?」
「こんなのケガの内にはいらねぇよっ」
「足とか引きずっちゃってるのに?」
「それに行かなきゃならねぇトコあるし…」
「行きたい所って?」
「どこに行くかなんてわかんねぇけど…、でも、それでもどこかに行かなきゃならねぇ気がするんだ…」
何もかも自分の名前さえもわからないのに、どこかに行かなくてはならないということだけが、なぜか頭の中の片隅に残っていた。その記憶の切れ端のような想いが、時任をここと同じように知る物など一つもない外へと連れ出そうとする。
時任は怪我を心配してくれているらしい久保田の手を、今度こそ振り切ってドアを開けると、廊下へと逃げるように飛び出した。
「・・・じゃあな」
見知らぬ部屋と見知らぬ男…、そして赤く赤く染まっている見知らぬ空…。
そんな見知らぬ世界におびえることもなく、外へと飛び出して行く時任の後ろ姿を見た久保田は、引き止めるために腕を掴んでいた右手を少し見つめると…、
口元に薄く笑みを浮かべながら、その後を追った。
どこかに行く場所があったような気がして…、もしかしたら走り出したら思い出せるかもしれない気がして、少しだけ走りながら期待していた。
けれど、いくら走っても走っても、やはり何も思い出せなくて…、
勢い良く走り続けていた時任の足は、次第にゆっくりとなる。
でも、それでも歩みを止めずに走るのは、行く場所だけではなく、帰る場所がなかったからだった。
ただ闇雲に…、ただがむしゃらに走ってたどり着ける場所がどこなのか、それはいくら走ってもわからなかったし…、
たぶんこのまま走り続けても無駄で、何も思い出せずわからないのかもしれない。だけど、それでも立ち止まっているよりは、前に向かって走っている方がマシな気がしていた。
「…今日は、どっかで野宿でもすっかな」
すっかり辺りが真っ暗になり走るのを止めて歩き始めた頃、時任は街燈に照らし出された自分の影を見つめながらそう呟いた。
ただ一言だけぽつりと…、暗く沈んだ空の下で…。
けれど、目覚めたら記憶がなくなってたことを、こんな風に帰る場所もなく行く当てもないことを悲しんでいる訳ではなかった。
あきらめるにはまだ早いと…、そう思っていただけだった。
そう思い続けて、今も歩き続けていた。
けれど、少しだけ後ろ髪を引かれるような、そんな想いがどこかにあって…。自分の腕を掴んでいた手の感触が今も残っている気がして、時任は走って来た道を振り返る。
すると、そこにはいつから居たのか、ここにいるはずのない人物が立っていた。
「な、なんで、アンタがこんなトコにいんだよっ」
「なんでって、ただずっと後ろを追いかけてただけだけど?」
「追いかけてって…、まさかずっと?」
「うん」
時任の後ろに立っていたのは、ずっと追いかけて来ていたのは、倒れていた所を助けてくれたらしい久保田という男だった。
黒いロングコートを着た久保田は、夕日の見える部屋で会った時よりも、少しだけ印象が違って見える。それは、もしかしたら黒いコートのせいか、明るい昼間よりも暗い夜の方が久保田に似合っているせいなのかもしれなかった。
時任は久保田のくわえたタバコの紫煙がゆらゆらと上へと登っていくのを少し眺めた後、警戒するように久保田から距離を取る。そうしている内にハッとある事に思い当り、ぼんやりとこちらを眺めている久保田に視線を向けた。
「・・・・・いくら追いかけても、金ならねぇぞ」
腕や身体に巻かれた包帯にさわりながら時任がそう言うと、久保田はうん…と一つうなづいた後、のほほんとした口調で「知ってる」と答えた。
「知ってるけど、迎えに来た」と。
そんな信じられない言葉を耳にした時任は、大きく目を開いた。
「金にならねぇのに、なんで迎えに来んだよ?」
「さぁ、なんでかな…。俺も不思議なんだけど?」
「帰れよ」
「うん、だから一緒にね? 腹が減ってはなんとやらだし?」
「同情なら…っ」
いらないとそう叫ぼうとした時、時任の意思を無視して腹の虫がぐ〜っと音を立てる。すると、それを聞いた久保田が「ほらね?」と言って小さく笑った。
どこかはわからない…、思い出せない…。
けれど、行かなければという強い思いが、時任を前へと走らせていたが、このままでは腹が空いて行き倒れるのは目に見えている。野宿をするにしても金も食料も無いのでは、どうしようもない。
そんな当たり前の現実に、ようやく気づいた時任は唇を噛みしめる。
すると、笑いを収めた久保田が警戒して開けた距離を急に詰めて来て、自分一人ではどうにもならない現実に俯いた時任の肩を軽くぽんっと叩いた。
「ま、そう深く考えなくても、メシくらい奢らせなさいよ」
「奢らせるって、アンタにそんなコトしてもらう理由なんかっ」
「理由ならあるけど?」
「ないだろ」
「あるよ。俺が奢りたいと思ったから」
「はぁ?なんっだソレ?」
「ケガの手当したんだし? 金はいらないけど、それくらいのワガママ聞いてくれてもいいんじゃない?」
……メシを奢るのがワガママ。
そんな訳ないだろうとは思ったが、どうやら久保田は本気で言っているらしい。
そして、そう思っている内にまた腹がぐ〜っと鳴って、時任は本気の久保田と腹の虫に観念したようにさっきまでしていた警戒を解いた。
「悪かったな…、文無しで…」
「悪いなんて思ってないし、言った覚えも無いけど?」
「けど、治療代とか損したじゃんか…」
「確かに治療費はもらえなかったけど、損はしてないよ? これから、一緒にメシ食いに行けるワケだし?」
「・・・・・・そういうのを、お人好しって言うんだぜっ」
「そう?」
「あのなぁ…」
「ま、今に言ったことがウソじゃないって、わかるだろうけどね。たとえ、知りたくないって思ってたとしても…」
久保田はそれだけ言うと、時任が歩いていた方向に向かって歩き始める。
遅くも早くもない…、けれど、どこかのんびりとした独特の歩調で…。
さっき一緒にって言ったはずなのに、そんな歩調で一人先を歩く久保田の背中を見つめていると、なぜか時任は少しさみしい気分になった。
久保田とは知り合ったばかりで、名前の他はまだ何も知らない。
医者だという事はわかっているけれど、それだけだ。
でも、今の時任が知っていると言える人間は…、この世で久保田だけだった…。
時任はそんな久保田に少しだけ走って追いつくと、その横に並び歩き始める。すると、目覚めてからわからないものばかりだった世界に感じていた不安が…、行かなければと急いていた想いが、少し穏やかになり和らいだような気がした。
「・・・・・・・助けてくれて、サンキューな」
本当はもっと前に…、家を出る前に言わなければいけなかった言葉。そんな言葉を心が落ち着いてきて、ようやく口にした時任が少し落ち込んだ様子で「ゴメンな…」と久保田にあやまる。
すると、久保田はちらりと時任の方を見て、「謝られるようなコト、された覚えないけど?」と柔らかく微笑む。その微笑む久保田の顔を見た時任は、その柔らかさと穏やかさにつられるように微笑み返しながら、一人で走るのではなく、二人で並び歩く今に胸の奥にまで染み込んでくるような暖かさを感じていた。
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