籠の鳥.1
日本の首都、東京・・・。
そのきらびやかな都会らしいにぎやかな通りには、大勢の人々が歩いていた。
ある人は家路を急ぎ…、またある人は行く当てもなくさまよいながら…。
けれど人々が歩いているのを眺めていると…、なぜか誰もがこの街の中で迷っているように見えてくる。もしかしたらそんな風に見えるのは…、どんな街でもそうであるように、この街の裏側にもいつもうっそりとした闇が潜んでるからかもしれなかった。
まるで夜の闇が…、うっそりと街に染み付いているかのように…。
そんな闇に満ちた街の裏路地をどこかに向かって歩いている一人の男がいたが…、その男に視線を向けることはあっても、誰もその行き先を気にする者はいない。男の歩いている昼間も光のささない裏路地は、にぎやかな表通りとは違って暗闇だけを吸い込んで静まり返っていた。
黒ぶちメガネをかけて飄々と闇の中を歩く男の名は、久保田誠人と言ったが…、
一見、ぼんやりとして穏やかそうに見えて、こんな暗闇とは無縁のように思える。
だが、良く見ると深く濃い闇が身体を包んでいる雰囲気にしっくりとなじんで…、着ている黒のロングコートにも、闇がまとわりついているように見えた。
久保田はセブンスターというタバコをくわえながら、さっきから薄汚れた裏路地を歩いていたが…、なぜか何か用事があってココに来ているようにも見えない。
けれど、久保田はしばらく歩くと、少し遠くを見ながら目を細めて歩みを止めた。
遠くからは何があるのかはわからなかったが…、実は久保田の視線の先には落書きの沢山書かれた壁に寄りかかるようにして、一人の少年が倒れていたのである。
久保田は慌てることなくゆっくりと少年に歩み寄ると、屈み込んで少年の頬を軽く叩いた。
叩くというよりも…、まるで優しく頬を撫でているような仕草で…。
けれど、少年は少し動いただけで目を覚まさない。
久保田はじっと少年の顔を見つめると、その顔をのぞき込むようにして…、そっと前にかがみ込んだ。
「ココで寝てると風邪ひくよ?」
久保田は少年に向かってそう言ったが…、少年は身体のあちこちに擦り傷や切り傷があって、風邪をひくという以前にその傷の治療が必要だった。
久保田は少しの間、じっと少年を眺めていたが…、セッタをゴミの散らばるアスファルトの上で踏み消すと少年の身体に腕を伸ばして肩にかつごうとする。
だが、そうしようとした瞬間に少年の瞳が開いた。
何が自分に触れているのかを確認するためだけ開いたかのように…、わずかに…。
そして何か意思を秘めているような印象的な瞳が久保田を見ると…、少年は自分を担ごうとしている久保田の腕を力のない手で振り払った。
「・・・・・アンタ誰?」
「ん〜、一応医者だけど?」
「なら…、ほっとけよ…」
「なんで? 普通は逆っしょ?」
「・・・・・・金、持ってねぇんだ」
「そう…」
少年は久保田に金を持ってないからほっとけと、そう言ったっきり動かなくなった…。
まるで、疲れ切って眠るように…。
身体中にある傷から、こんな場所に倒れているのには何か深い事情があるらしいことはわかったが、久保田は再び少年の身体に腕を伸ばすとその身体を抱き上げた。
けれど…、身体はお金がなくてあまり食事を取っていないのか、予想していた以上に軽くて…、その軽さが少しだけ痛みに変わる…。
抱きあげた少年の軽さを感じながら、久保田はその身体を抱きかかえて暗い薄汚れた裏路地を後にした…。
「誠人っ。てめぇっ、今何時だと思ってやがんだっ」
「ん〜、朝の五時?」
「仕事サボった上に、朝帰りなんざしやがってっ!」
「まだ太陽昇ってないから、夜でしょ?」
「ヘリクツ言ってんじゃねぇっ」
久保田が少年を抱えて家に戻ると、玄関に待ち構えていたのは叔父の葛西だった。
この叔父と久保田は一応一緒に暮らしてはいたが…、実際は久保田が住んでいるのは裏手にある離れなので、実際は一人暮らしのようなものである。
なのに、自分の住んでいる離れに戻らずに久保田が玄関から入ったのは、連れて帰ってきた少年の手当てをするためだった。
葛西が言っているように、久保田は自宅葛西と共に仕事をしている。実はこの家は表にある診療所と続いていて、葛西と久保田はそこで医者として働いていたのだった。
久保田は少年を背負ったまま玄関に入ると、そのまま病院の方に向かおうとしたが、葛西は久保田の背負っている少年を見て眉をひそめる。
やはりさすがに、傷ついた少年の姿を連れて戻った久保田を、見過ごすことはできなかったようだった。
「おいっ、ちょっと待ちやがれっ」
「悪いけど、ちょっと診察室借りるよ」
「…って、なんだそのボロボロのガキは?」
「拾った」
「拾ったって…、おいっ!」
葛西は拾ったという少年を連れて行こうとしている久保田を呼び止めようとしたが、久保田は構わずに奥へと入っていく。まだまだ診療所を開くまでには時間はあるので、診療室は使ってもかまわなかったが、少年をいきなり連れてきて治療までしようとしている久保田に葛西はかなり驚いているようだった。
けれど、実はそれは少年を治療しようとしていることではなく、医者としての腕はいいがめったに診察室に久保田が入ることがなかったからある。
久保田誠人と…、拾ってきた傷だらけの少年と…。
何があったのかはわからないけれど…、どうやら久保田は少年のことを放ってはおけないらしかった。それは少年が傷ついているからなのかもしれないが、少しだけ何かが胸の奥にひっかかる気がする。
その二人を見た葛西は大きくため息をつきながら、久保田の後を追って診察室へと入った。
久保田が少年を診察台に乗せて診断したが、やはり命に関わるほどの外傷はない。 けれど、かなり痩せていることからもわかる通り、ひどく衰弱してしまっていた。 本当は自分の口から何かを食べた方がいいのだが、とりあえず腕に注射針を打って点滴を流し込むことにする。 だが、あまりにも服が汚れていたので、久保田は少年の服を脱がせて部屋から持ってきた自分のシャツを着せようとした。 けれど、少年の服の下には古いものから新しいものまでたくさん青い痣がある。 どうやら今まで相当ひどい目にあってきたようだった。 久保田の横からそれを見ていた葛西は、少し考えるように眉間に皺を寄せて小さく息を吐く。だが、そのため息は久保田にあきれたのではなく、少年をしばらくここに置くことになることを覚悟したため息だった。
「アリガトね、葛西さん」 「…俺はまだ何も言ってねぇぞっ」 「けど、この子を追い出せとは言わないでしょ?」 「ケガしてるガキを放り出せるほど、心臓が丈夫にできてねぇってだけだ」 葛西はガシガシと頭をかきながらそう言うと、ドスドスと歩いて自分の部屋と戻っていく。 どうやらまだ早いので、もう一度寝直すらしかった。 医者にならなければ刑事になっていたという葛西は、ドアの所で一度だけ振り返ると…、身元だけは聞いてとけと久保田に強めに念を押す。しかし久保田は軽く肩をすくめただけで、返事はしなかった。 葛西が診察室から出ていくと服を脱がせて手際よく少年に白いシャツを着せたが、久保田の方が少年よりも背が高く体格もしっかりしているため、ぶかぶかになってしまっている。
なんとなくぶかぶかの服を着ていると少年は可愛い印象になるが、その瞳が開くのをまたなくても気の強さだけは感じられた。 そんな少年の顔に手を伸ばして、まるで子供にするように軽く頭を撫でると…、久保田は少年の横で脱がせた服のポケットを探り始める。 するとそこからは、本人が言っていた通りにお金は入っていなくて、ただ一枚の白い紙切れしかでてこなかった。
「この紙切れだけ持って…、どこに行きたかった?」
久保田は白い紙切れに書かれた文字を見ながらそう言うと、それを自分のポケットの中に仕舞い込む。けれど、そうしたのはこれから服を洗濯するつもりだったからなのか、それとも別な意味があったのかはわからなかった。 今はまだ白い紙に書かれた文字は、ポケットに仕舞い込んでしまった久保田と少年だけが知っていて…、 他には誰も知る者がいない…。 しかしポタリポタリと点滴のしずくが細い腕に吸い込まれていく間に、少年は身体中にある傷だけではなく、心の傷まで消そうとでもしたかのように…。
何もかもを失ってしまっていた…。
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