籠の鳥.48





 チュン…、チュンチュン・・・・・・・・



 穏やかな朝の日差しが中庭に設置されているベンチを照らしていたが、それでも冬の空気は息を白くするほど冷たい。けれど、そんな朝の冷たい空気の中で、葛西はベンチに座って新聞を読んでいた…。
 読んでいる新聞は十二月のものだが今は一月で…、あの日、降り積もったはずの初雪は跡形もなく消えてどこにも残ってはいない。けれど、消えたはずの雪の冷たさがまだ手のひらの残っている気がして、葛西は新聞に落としていた視線を上げて空を見上げた…。
 
 「今日も、いい天気になりそうだな…」

 ぼんやりとそう呟きながら息を吐くと、その息が白く凍り付いて上へと昇っていく…。だが、葛西の瞳はなぜかそれよりももっと…、遥か遠くを見つめていた…。
 あれから二ヶ月も時が過ぎてしまっていたが、こうして空気の冷たさを感じているとつい昨日の事だったような気さえしてくる。少し前までは診療所にテレビ局や雑誌社から宗方家についての取材の申し込みの電話が頻繁にかかっていたが、それも次第になくなって…、
 多くの事件がそうであるように、葛西が関わった事件も過ぎていく時に押し流されて人々の記憶から忘れ去られようとしていた…。
 葛西は捨てずに残していた新聞に再び目を落としながら、ポケットに手を伸ばしてタバコをくわえる。すると横でカチカチという音がして、小さなオレンジ色の火が葛西の前に差し出された。
 「その新聞はあの日の…?」
 「あぁ…、なんとなく捨てられなくてな…」
 「実は俺も同じだ」

 「・・・・・そうか」

 短い会話を交わしながら差し出されたライターで、タバコに火をつける…。そうして、火をつけたタバコから灰色の煙を吸い込んでため息のように吐いてから、葛西は改めて目の前に立っている松本を見た。
 朝の日差しの中に立つ松本は一見、いつもと変わりないように見えるが、二ヶ月前よりも少し痩せてやつれてしまっている。それは病院で記者やテレビ局の対応に追われていたせいもあるのだが、本当の原因はもっと別にあった…。
 今、松本の横には橘の姿がなかったが、それは病院で勤務しているからでも用事があったからでもない。すべてが落ち着きを取り戻しかける少し前、橘は一枚の便箋だけを残して松本の前から姿を消していた…。
 
 『ずっと前から…、そして今も僕は貴方が好きです…。
 誰よりも深く愛しています…。
 でも、だからこそ僕は貴方のそばにいることができません…。
 さようなら、隆久…。

 いつも…、どこにいても…、僕は貴方の幸せだけを祈っています…。』

 好きだから、そばにはいられない…。
 愛しているからこそ、そばにはいられない…。
 そう書かれた橘の言葉の裏には、時任と久保田の事が隠されていた。
 自分の目的を果たすために、すれ違いながらもお互いを求め恋し合っていた二人を引き離しながら…、橘は誰に裁かれることも責められる事もなく、ただ松本に優しく抱きしめられるだけで…、
 そんな自分のことを、橘は許せなかったのかもしれない…。
 事件の後、雪が降った日に橘は松本に…、今も久保田を呼び続ける時任の声が聞こえてくると哀しそうに苦しそうに呟いたことがあった…。
 過ぎていく時に押し流されても、人々の記憶から事件が忘れ去られても、今も苦しみが哀しみが続いている。けれど、松本は軽く右手で自分の顔を撫でると、葛西と一緒に中庭から白い建物に向って歩き出しながら、俯かずに顔を上げて昇っていく朝日を眺めた。
 目の前にある朝日に照らされている建物は宗方総合病院ではなく、葛西の知り合いの医師が経営している病院で規模も小さい。だが、病院内は宗方総合病院よりも穏やかな雰囲気に包まれていた。

 「WAがなかったら…、か…」

 病院の穏やかな空気を感じながらそう呟いた葛西の手には、宗方家の火事とそこで発見された古い白骨死体の記事が載っている新聞がある。だが、実はその新聞にはその日の真夜中に起こった研究施設の爆発事故についても載っていた…。
 爆発が起こったのは真田の製薬会社の研究施設で、そこではWAの研究が行われている。もしも、宗方の温室から奪った赤い花が運ばれていたとしたら、爆発に巻き込まれてしまったに違いない…。
 なぜ爆発が起こったのか葛西も松本も誰も知らないが、信じられないことに…、
 研究施設で死亡した製薬会社の社員の中に真田の名前もあった…。


 
 プルルルルル…、プルルル・・・・・、カチャッ…



 宗方の屋敷での火災がかけつけた消防隊によって消し止められ…、
 更にアキラとの電話を終えたから、二時間後…。
 真っ暗な室内に鳴り響く電話の受話器を取った真田は、口元に薄い笑みを浮かべながら額にかかった髪を軽く上に撫で上げる。電話をかけてきた相手はアキラではなく、別荘の様子を見張るように命じていた部下からだった。
 部下が別荘の方から銃声が響いた後、アキラらしき人物を乗せた車が病院へ向ったことを伝えたが、真田は報告を聞いても驚かない。それは研究施設を出た久保田が、中島に連れ去られた時任を追って行った事を知っていたせいだった。
 宗方誠治は火の中に消え、アキラは雪の中で倒され…、そしてWAの原料は真田の手の中にある。部下にアキラの乗った車を襲撃するよう命じて電話を切ると、真田は自らの勝利を確信して低く笑った。

 「君ならやってくれると信じていたよ、久保田君」

 アキラが倒れた事によって終ったと思われたゲームの盤上には、まだ真田という駒が残っている。だが、それは戦いに勝利したのではなく、ただ生き残ったというだけだった。
 争いの火種を巻き憎しみをあおり、そして滅んでいくのを待つ…。真田はアキラの始めた籠の鳥というゲームを傍観しながら、WAを手に入れようと機会を狙っていた。
 しかし、病院に出入りするようになった当初の理由はWAではない。真田がWAの存在を知ることになったのは、病院との取引きを有利にするために宗方の弱点を探り出そうとしていたことがきっかけだった。
 しかも運の良い事に真田の部下の中で一人だけ、母親が宗方家に仕えていた事があるという人物がいる。その人物は宗方総合病院と院長の話をすると、なぜか自ら屋敷に潜入すると言い出した。
 それが高校の時、松本と橘の同級生だった中島だったのである。
 そして中島を屋敷に潜入させて二ヵ月後、送られてきた報告書の中には籠の鳥と薬の存在が書かれていた。そして、中島の報告書に興味を持った真田は屋敷内にある温室に目をつけ、それをネタに宗方家に入り込んだのだった。
 ゆっくりと…、確実に争いの火種を撒くために…。
 その火種の中に院長を憎んでいた橘も含まれていたが、真田が宗方家に撒いた最大の火種は橘ではなく…、

 籠の鳥に心を奪われた久保田誠人だった…。
 
 この世でただ一人…、時任稔だけを愛し求めている久保田ならアキラを滅ぼすことができる。時任の待つ葛西診療所へと帰っていく久保田の背中を見た時から、そう真田は確信していた…。
 アキラはWAの原料である花の特徴と在り処を教える交換条件として、なぜか病院で実験を行っていた偽物のWAを要求してきたが、真田は本物も偽物も渡す気はない。本物は本物として、偽物は偽物として用途に応じて利用価値があった。
 その二つを手にしてこそ、アキラではなく真田のゲームは終了する。
 そして…、その瞬間が電話の呼び出し音と共に訪れた…。

 「そう…、君の誤算は自分でも気付かないほどに久保田誠人を憎み、時任稔を愛しすぎていたという事だよ」

 籠の鳥を愛しすぎていたからこそ、久保田を別荘に招き入れ…、自らが用意した舞台でゲームに熱中しすぎた。警備員に別荘の周辺を警備させていたのは、WAの原料を手に入れた真田が裏切ることを予測していたからかもしれないが…、
 谷底に落ちた久保田が這い上がって来るのを待っていただけなのかもしれない。
 久保田に向って撃ち放った弾丸には、確かに愛する者を奪われた嫉妬と憎しみが宿っていた…。
 
 ・・・・・・・・愛しているよ、ミノル。

 届かなかった想いは白い雪の中へと埋もれ、やがて春が来ても溶けていくだけで暖かな日差しに包まれる事はない。真田は暖房の効いた部屋でそんな想いを嘲笑いながら、椅子に深々と腰かけて口元に勝利者の笑みを浮かべてた。
 長かったゲームは終了し、目の前にはWAの原料である赤い花が咲いている。
 だが…、真田に勝利の瞬間を教えた電話の呼び出し音が、今度は部屋に満ちていた静寂を打ち壊した…。
 
 『は、早く…っ、今すぐこちらまで来てくださいっ!!! 警察が…、警察が捜査令状を持って来ていますっ!!!』

 耳に当てた受話器から、研究員の叫び声が聞こえる。
 真田はその声を聞きながら、じっと薄闇の中で咲く赤い花を見つめていた…。
 信じられない事態だが、電話の声の調子から行ってみるまでもなく言っている事が事実だということが伝わってくる。病院で行っていた人体実験については関係していた医師を殺害したことで決着がついていたはずだが…、どこからか情報が漏れてしまっていたらしかった。
 どこからだ…と、真田が心の中で自分自身に問いかけると、なぜか耳元で聞き覚えのある声がする。それは真田自身の声ではなく、愛に破れ雪の中に倒れたアキラの声だった。

 『WAの真の利用価値は、愛される人間にしかないのだよ…』

 その声を聞いた瞬間、真田は眉間に皺を寄せながら受話器を握る手に力を込める。本当ならこうなる前に気付くべきだった…、気付かなくてはならなかった。
 なぜ、今までいくら取引きを持ちかけても応じなかったアキラが、突然、真田と手を組もうとしてきたのかを…。

 ・・・・・愛される人間。

 あの時は気づかなかったが、それはアキラが他の誰でもなく自分を指して言った言葉である。つまりWAの原料を真田に渡したのは利用価値がなくなり、必要がなくなったから渡した…。
 そう…、アキラにとって興味があるのは籠の鳥だけで、WAにも宗方家にも興味が無い。それでもあえて取引きとして、アキラが真田に原料である花を渡したのだとしたらそれは罠以外の何物でもない…。
 そこまで思考をめぐらせた真田の脳裏には、アキラの無機質な微笑みが浮かんでいる。アキラが屋敷を出て別荘に移ったのはアリバイを作るためではなく、そのまま籠の鳥を連れて別の場所に行くためだった。
 
 「最初から、私にすべての罪を着せるつもりだったとでも言うのか…」
 
 病院にも顔を出したことがなく、誰もその顔すら知らないアキラが本当に屋敷にいたのかどうかは屋敷に仕えている者達しかいない。そして、もしもWAか偽物のWAが警察の手に渡ってしまったのだとしたら、宗方誠治がいなくなった今、その容疑をかけられる人間は真田しかいなかった…。
 WAの物証である赤い花は、真田の目の前で揺れている。
 火種を撒き憎しみをあおり、すべてを思い通りに動かしていたつもりだったが、真田にもアキラと同じようにたった一つだけ誤算があった。それは…、アキラが籠の鳥にしか興味が無い事を知りながら、それがどういう意味なのかを理解していなかったことである。
 真田が病院内でも屋敷でも自由に動く事ができたのは、気付いていなかったからではない。アキラにとって真田は注意を払うほどの価値も無い、野良犬以下の存在だった…。
 ゲームの盤上には残っていたのではなく…、故意に残されていた…。
 それをようやく悟った真田は、受話器を持っていない反対側の手を前に向って手を伸ばすと、目の前の赤い花をぐちゃりと握りしめた。

 「警察のことはいい、今すぐこの施設を・・・・・・・っ」

 真田が受話器の向こうにいる部下にそう言いかけた時、その言葉を止めるように後頭部に冷たく硬い感触が当たる。だが、真田はその感触に気付いても後ろを振り返ることが出来なかった…。
 部屋には真田しかいなかったはずだが、横目でドアを見るといつの間にか開いている。真田はどうしたのかとわめいている部下の声を聞きながら、後ろにいる人物に気付かれないように、花の置かれているディスクの引き出しに入っている拳銃を出そうとした。
 だが、そんな真田の視界を遮るように上から白い紙がヒラヒラと降って来る。それは…、病院で実験体にされた患者のリストと殺害された渋沢の日記のコピーだった…。
 リストは見たことがあるが、渋沢の日記の存在を真田は知らない。殺害後に部下に命じて渋沢の家を捜索させたが何も見つからなかった。
 けれど、それは日記がなかったからではなく、それよりも早く日記の存在に気付いた妻の美佐子が隠していたからである。そして、その日記は美佐子から久保田の手に渡り、それから真田ではなく宗方の手に渡っていた。
 しかし、書かれていた内容は本物のWAではなく偽物のWAについてだったにも関わらず、宗方は久保田との取引きに応じている。
 ネタとしては十分…。
 そう宗方は言っていたが、その言葉通りにリストと日記…、そしてWAの原料を教える条件としてアキラに渡した偽物のWAは警察を動かすには十分だった。
 こんなにも早く警察が動いたのは溺死と死因を書きながらも、渋沢の死に疑問を抱いていた刑事がいたからである。このまま警察に踏み込まれれば、ここで薬が製造されていたという証拠を押さえられてしまうことは間違いなかった。
 この場を乗り切るためには、証拠を施設ごと爆破して逃げるしかない。 
 しかし、背後にいる何者かがそれを阻んでる。後ろに立つ人物は真田の後頭部に向って拳銃を構えたまま、反対側の手でディスクに置かれた赤い花の鉢植えを大切そうに小脇に抱えた。
 だが、それは真田を罠にはめたアキラでもアキラの部下でもない…。
 後ろから聞こえてきた声を聞いた瞬間に、真田の背中に戦慄が走った…。

 「まさか…、そんなバカな・・・・・・っ」






 ガウゥゥゥーーーーン・・・・・・・・・・





 温室で死亡したとされている宗方総合病院の院長である宗方誠治の遺体は見つからず…、その息子のアキラは行方不明…。研究施設の爆発事故も警察が踏み込む前に起こったため、証拠品がありながらも事件の全容は未だ解明されていない…。そして赤い花は炎の中に消え、本物のWAの存在も警察にも誰にも知られる事はなかった。
 だが、WAの残した傷跡は今も消えずに大きく残っている…。病院の白い廊下を歩きながら小さく息を吐くと、葛西はここに来るようになってから持つようになった携帯用灰皿を取り出して、その中に吸っていたタバコを放り込んだ。
 そんな葛西の様子をチラリと横目で見た松本は、同じように小さく息を吐く。葛西も松本も事件が終ってから、こんな風にため息をつく事が多かった。
 けれど、お互いにそれに気付いてはいたが、二人ともそれについては何も言わない。たいした会話もなく二人は階段を上り白い廊下を歩いていたが、目的地である三〇ニ号室が近づいてくると松本はなぜか立ち止まった。
 「葛西さん…」
 「なんだ?」
 「一つだけ聞いておきたい事があるんだが…」
 「それは時坊のことか?」
 「ああ…。俺が時任に会ったのは病院に運ばれた日だけだが、今の容態は?」
 「入院した時は凍死寸前で足も凍傷にかかっちまってたが、今はもう走り回れるくらい元気になってる。明日、病院を退院する予定だからな」
 「そうか…、良かった」
 「だが、俺に聞きてぇのは…、ホントはそんな事じゃねぇんだろ?」
 葛西がそう言うと、松本が沈んだ表情で黙り込む。だが、じっと三〇二号室のドアを見つめると、また小さく息を吐きながら口を開いた。

 「時任に・・・、久保田の事は話したのか?」

 質問をする前に葛西の返事を予想していたが、やはり松本が予測していた通り葛西は首を横に振る。しかしどんなに伝えづらい事でも、そんなに長く隠しておけるような事ではなかった…。
 どんな風に言って誤魔化しているのかはわからないが、明日、退院するとなれば時任はしつこく久保田のことを聞いてくるだろう。だから、いずれわかってしまう事なら早い内に知らせた方がいい…。
 そう思った松本は時任のいる病室に向おうとしたが、そうしようとした瞬間に廊下の向こうから歩いてくる少年が見えた。松本がその少年の顔を見るのは二度目だが、それでも見間違える事はない…。
 看護婦に付き添われて、こちらに向って歩いて来ようとしているのは…、
 かつて、宗方の屋敷で籠の鳥と呼ばれていた時任稔だった…。
 松本は時任が近づいてくると拳をぎゅっと握りしめて、久保田の事を話すために呼び止めようとする。だが、それに気付いた葛西は松本の肩をぐいっと引っ張った。
 「よせっ、松本」
 「だが、すぐにわかる事だ…」
 「いいから、やめるんだっ」
 「しかし…っ!」

 「今の時坊には、何を言ったってわからねぇっ。だから、言うんじゃねぇっつってんだよっ!」

 葛西の言葉を聞いた松本は、時任に近づくのをやめて動きを止める。すると、二人を見ながらも時任は看護婦と一緒に立ち止まらずに通り過ぎた。
 まるで松本の事だけではなく、葛西の事も知らないとでも言うように…。
 時任はWAによって診療所で暮らしていた時の記憶を失っているので、入院したばかりの頃は葛西の事を知らなくても不思議ではないが、今も知らないのは明らかにおかしい…。だが、それよりもおかしくて信じられない事が松本の目の前で起こった…。

 「まさか…、こんなことが・・・・・・・・っ」

 松本はそう呟いたが、それは今から向おうとしていた病室から出てきた人物が松葉杖をつきながら、自分の足で歩いてこちらに向って来たからじゃない…。その人物と時任が話すどころか、視線を合わせる事すらせずに廊下ですれ違ったせいだった…。
 けれど、時任も松葉杖をついている人物もそれを気にしている様子はない。松本の目の前で、まるで赤の他人のように白い廊下ですれ違った二人…、
 それは、もうじきこの病院を退院していく時任と…、

 奇跡的に命を取り留め、五日前にやっと目覚めた久保田だった…。

 二人は森ではなく別荘からかなり離れた道の脇で倒れていた所を、別荘へと向っていた葛西と松本に発見されて病院に運ばれたのである。だが、赤い血に塗れながらも無傷だった時任と違い久保田は深手を負いかなり出血していた…。
 しかしそれでも命を取り留めることができたのは…、葛西や松本が^別荘を探している間に何者かが先に二人を見つけ、久保田に応急処置を施していたからである。その処置の仕方を見た葛西は、久保田を助けた人間は医者か医学の知識のある者だと確信したが…、
 それが誰なのかは、あまり人の通らない山奥の道で目撃者もなくわからなかった。
 けれど、二人が助かってうれしいはずなのに、こうして自らの足で歩けるようになった二人を見た葛西の顔には喜びではなく苦しみが浮かんでいる…。それは、まるで命と引きかえにするようにして時任も…、そして久保田も…、

 ・・・・・・・完全に記憶を失ってしまっていたからだった。

 この病院の院長をしている友人に原因を調べるよう葛西は頼んだが…、時任の血液中からは薬物が検出されたが久保田からは検出されていない…。けれど、時任と同じように久保田も自分の名前すら覚えていなかった…。
 あんなに求め合っていたのに…、恋し合っていたのに…、もうお互いの名前を呼び合うことも腕を伸ばして抱きしめ合うこともない…。久保田の名前を聞いた時任が誰だと聞き返してきた瞬間…、そして時任の名前を聞いた久保田が誰と聞き返してきた瞬間ほど、葛西は二人の想いを哀しいと苦しいと思ったことはなかった…。
 こんな事が起こっていいはずがない…、こんな事が信じられるはずがない…。

 けれど、これは紛れもない事実だった…。

 松葉杖を付きながら近づいてきた久保田を見て、慌てて感情を押し殺して何事もなかったかのように笑いかける。だが、葛西の横にいた松本はやり切れない気持ちを隠し切れず、苦しみに満ちた表情で久保田の方を見ていた。
 葛西から久保田の記憶がなくなっている事は聞いていたが、時任まで同じだとは聞いていない。だから、時任に久保田のことを伝えようとしていたのに…、もうその必要はなくなってしまっていた。

 「せっかく見つけ出したのに、またお前は何もかも失ってしまうのか…、誠人…」

 松本は苦しそうにそう呟いたが、葛西と話している久保田には聞こえていない。時任の事を忘れても、いつもと同じ顔をして葛西と話している久保田を見ていると…、 病院の診療室で時任の事を語った時の久保田を思い出すとなぜか胸が痛くて苦しくてたまらなかった…。
 そんな松本と同じ痛みを葛西も感じていたが、消して久保田に時任の事を語ろうとはしない。ただ、まだ動かず安静にしているようにと担当医に言われているにも関わらず、病室から出てきた久保田にらしくなく説教じみたことを言っただけだった。
 「おいっ、まだ傷口がふさがってねぇから出歩くなって言われてんだろっ」
 「けど、動かないとカラダが鈍りそうだし?」
 「…って、お前ぇは平気な顔して歩いてやがるが、本当ならまだ動くどころかベッドから起き上がれるような身体じゃねぇんだぞっ」
 「へー、そうなんだ」
 「そうなんだって…、歩いてて痛くねぇのか?」
 「うーん、やっぱ痛いかも?」
 「・・・・・・・だったら病室に戻れっ」
 「ちょっと、屋上で一服してからね」
 「てめぇっ、怪我人のクセしてなに言ってやがるっ」
 「まあまあ…」

 「…ったくっ、記憶がなくても飽きれるくらい変わらねぇなっ」

 葛西がそう言うと軽く肩をすくめて、久保田が屋上に向って歩き出す。その背中に向って葛西は「悪化しても知らねぇぞ」と叫んだが、久保田はヒラヒラと手を振っただけだった。
 そんな久保田を見ていると、とても記憶喪失だとは思えない。松本は何もかも忘れしまったことが信じられなくて、本当に忘れているかどうかを確かめるために屋上に向おうとした…。
 だが、時任が通りかかった時と同じように、また葛西の手が松本を引き止める。けれど、どうしても久保田と話したくて松本はその手を振り払って走り出そうとしたが、葛西はそれを絶対に許さなかった。
 「時任がこの病院にいるのは見舞いに来たのではなく、今もここに入院しているからだろう? 狙われる危険性があるから、時任を別の病院に移したというのは嘘だったのかっ」
 「・・・・・・そうだ」
 「なぜ、そんな嘘を…っ」
 「事実を知ればお前が時坊に誠人の事を、誠人に時坊の事を話すとわかってたからだ…。だから、これから誠人に話すつもりだってんなら手を離すワケにはいかねぇよ」
 「なぜだっ! 話せば時任の事を思い出すかもしれないだろうっ!」
 「・・・・・・」
 「葛西さんっ!!」
 「止めるのは…、だからだ」
 「それはどういう…っ」

 「もしも思い出させたいなら、とっくに俺が話してる。だが、そうしないのは…、俺が誠人に時坊の事を思い出させたくねぇからだ…」

 信じられない言葉が葛西の口から漏れると、松本は思わず葛西の襟首を掴む。だが、そこから先の言葉を聞いていく内に…、襟首を掴んだ松本の手から次第に力が抜けていった…。
 葛西が久保田に時任の事を思い出させたくないのは、まだアキラが行方不明で時任と一緒にいるとまた事件に巻き込まれる可能性があるからじゃない。そこにはもっと別の…、叔父としての家族としての久保田を想う気持ちがあった…。
 「誠人が記憶をなくしちまったのが薬のせいじゃなかったとしたら…、事故のせいなのか怪我のせいなのか俺にはわからねぇが、時坊の方は偶然ではなく必然的に起こったことかもしれねぇんだ…」
 「偶然ではなく、必然的?」
 「誠人が拾ってきた時にも時坊は記憶がなかった…。だが、その時に誠人から聞いた話だと、拾う直前までは意識も記憶もあったらしい」
 「ならば…、拾った後で記憶がなくなったということか…」
 「WAを射たれていたと考えられなくもないが、WAを射ち続けている内に何かの衝撃やショックで記憶を失いやすくなっちまってる可能性も考えられる。今の所、脳に異常は見つかってねぇが、記憶を消しちまうほどの薬に障害や副作用がないなんてのはあり得ねぇ話だ…」
 「確かにWAに限らず薬には副作用が伴うが…、まさか…」
 「その可能性がある限り、俺は二人を会わせるつもりはない」

 「だが…、誠人と時任は…っ」
 
 その言葉の続きを松本は葛西に伝えようとしたが、葛西はそれをさえぎるように首を横に振る。松本が言うまでもなく葛西は久保田がどんなに時任を想っていたか…、どんなに時任一人だけを愛し求めていたかを知っていた…。
 けれど、それでも首は縦には振れない…。
 葛西はポケットから新しいタバコを出した口にくわえたが、ここが病院だったことを思い出して火をつけるのをやめた。そして、火のついていないタバコの端を噛むと横にある白い壁に、やり切れない気持ちをぶつけるように右手の拳を打ちつけた…。

 「また出会って好きになって…、そんなことを何度も何度も繰り返さなきゃならねぇとしたら、いくら愛しても恋しても痛くて苦しいだけじゃねぇか…っ。俺はこれ以上、誠人が苦しんで傷ついていくのを…、ただ一人だけを想って恋しがって泣くのを見たくねぇんだよ…」
 
 どんなに想っても、愛した人の中には思い出すらも残らない。
 どんなに抱きしめても、何もかもが記憶と一緒に消え去って幻に変わる…。
 愛しても愛しても何も残らず喪失していくだけだとしたら…、二人でいるはずのにそこに残るのは孤独なのかもしれない…。今、一人きりで屋上に向って歩いていく久保田の腕の中には抱きしめたはずのぬくもりはなかった…。
 けれど、たった一人で歩いていく背中を見ていると、医局で聞いた久保田の言葉が蘇ってくる。そして、その時に感じた胸の痛みを松本は今も覚えていた…。


 『俺が欲しいのは、そう想ったのはこの世でたった一つだけ…』


 あの日、雪に降り積もられながら抱きしめ合っていた久保田と時任は、痛くて苦しくてたまらなかったはずなのに穏やかに微笑んでいた…。
 まるで、暖かな春の日差しの中にでもいるかのように微笑みながら…、眠るように瞳を閉じている二人を見た瞬間、早く病院に連れて行かなくてはならないのに松本も葛西も動きを止める。幸せそうに微笑んだ口元を離れないようにぎゅっと握りしめ合った手を見つめていると、なぜか目の奥が熱くて胸の奥が痛かった…。
 こんなにも穏やかで幸せそうに見えるのに…、なぜこんなに苦しくてたまらないのかわからない。この世界でただ一人…、お互いだけを求め合う二人の想いは心は…、

 真っ直ぐで…、真っ直ぐすぎて哀しかった…。

 松本は悪夢のように過ぎ去って行った日々を思い出しながら、ポケットに入れてる橘の手紙を上から撫でるように押さえる。そして声には出さず心の中で橘の名前を呼んでから、久保田ではなく時任が歩き去った方を見た…。
 白く長く続く廊下は松本の位置から右と左に分かれているけれど、そこからは階段が続いているから右にも左にも行き止まりはない。そんな当たり前の事に気付いた松本は考え込むような表情をした後、窓の外に広がる青空を眺めた…。
 「こんなに広い空の下で出会った事が奇跡なら…、好きな人と抱きしめ合う事ができる確立はどれくらいになるだろう…」
 「・・・・・・・・」
 「だが、待っているだけでは奇跡も何も起らない…。だから、誠人は初めて出会った日よりも前からきっと…、ずっと時任を探していたんだ…。暗い街をさまよいながら、この世でたった一人だけを…」
 「松本…」

 「もしも道が別れてしまったとしても…、また探せばいい…。どんなに別れさせようとしても求め合ってるのなら、必ずまた道は繋がっているはずだ…」

 もしもこのまま二人が離れ離れになってしまっても…、会う事がなかったとしても久保田は探し続けるのだろう…。傷つきながら苦しみながら、それでも何度も手を伸ばし続けた時のように…、
 名前も顔も知らない…、けれど誰よりも愛しい人を抱きしめるために…。
 松本は再び出会うことを祈りながらも、二人を追わずに病院から出るために足を前へと踏み出す。けれど、葛西の横を通り過ぎる瞬間に足を止めた。
 「葛西さん…」
 「なんだ?」
 「実は昨日、病院に退職届けを出して来た…。だから、今度から連絡先は携帯だけになるので知らせておく」
 「やはり橘を探しに行くのか?」
 「あぁ…」
 「行き先に心当たりはあんのか?」
 「ない」
 「それでも、探しに行くんだな?」
 「当たり前だっ。家族でも恋人でも、家出したのなら探しに行くに決まっているだろうっ」
 「家出って…、お前ぇ手紙には…」

 「・・・・それでも家出だろう。挨拶もせずにメモを残すようなヤツは家出だと言ったのは、一体、どこの誰だ?」

 松本がそう言って振り返らずに歩き出すと、葛西は苦笑しながらその背中を見送る。そして、松本が眺めていた青空を同じように眺めると、行き先に心当たりはなくとも松本なら橘を見つけ出せる…、そんな気がした。
 青空から白い廊下に視線を戻すと葛西も前へと歩き出したが、何かを思い出したかのように公衆電話の前に立ち止まる。そしてポケットからタバコではなく10円玉を数枚取り出すと、受話器を上げて記憶に残っている番号に電話をかけた。
 すると、受話器の向こうから懐かしい聞き覚えのある声が聞こえてくる。その声は年を取ってしわがれてしまってはいたが、相変らず大きくて元気で耳を塞ぎたくなるほどにうるさかった。
 「生きてやがったか、クソ親父」
 「フンっ、お前よりも先にくたばってたまるか、クソ息子」
 「何言ってやがるっ、年から言っても俺より先だろうがっ」
 「俺の場合は十年が一年の計算だ…って、そんな事を言うためにニ年ぶりに電話してきたわけじゃねぇだろ」
 「まぁな」
 「だったら、さっさと用件を言え」
 「・・・・・・」
 「どうした?」
 「・・・・・・新聞かニュースでやってた事件、見たか?」
 「例の白骨死体か?」

 「新聞でもニュースでも言ってるが、あれは真琴だ…」

 ニ年ぶりに電話した父親に向って、葛西はそう言うと受話器を握りしめている手に力を込める。葛西が実家に電話したのは近々、真琴の遺骨が警察から戻ってくるので、その事を知らせるためだった。
 離婚してから葛西の父親は、真琴には一度も会っていない。けれど、会ってはいなくとも真琴は葛西の妹で父親にとっては娘だった…。
 しかし、葛西の父親は遺骨の納骨にも墓参りにも行かないと、電話してきた葛西に向って言う。しかも、その声にはなぜか暗い感情が宿っていて、それを感じた葛西は思わす眉をひそめた。
 「もしかしてだが、今回の事だけじゃなく離婚してから真琴に会わなかったのには何か理由があんのか?」
 「・・・・・そんなものはない」
 「離婚しちまっても、何があっても真琴はアンタの娘だ…。そうだろう?」
 「・・・・・」
 「ちゃんと答えやがれっ。答えないなら、引きずってでも墓参りに連れてくぞっ」
 「・・・・墓に参らねぇのは、真琴が違うからだ」
 「真琴が違うって、何がだ?」
 「そう言えば、離婚した原因をお前には話した事がなかったな…。俺があいつと離婚したのは・・・・、真琴が俺の子じゃねぇからだよ」
 「それは本当なのか?」
 「本当だ。あいつが立派な病院の院長先生だかなんだかと、俺に隠れて浮気して生まれたのが真琴だ…」

 「真琴の父親が病院の院長・・・だと?」

 葛西は両親が離婚した原因を知らなかった…。
 真琴とは母親は同じだが、父親が違っていたことも…。
 しかし、父親の話を聞いて葛西が驚いているのはそこではない。もっと別な部分が葛西の胸に引っかかっていた…。
 病院はたくさんあるし、院長もその数だけいる。
 だが、なぜか否定しようとすればするほど嫌な予感と胸騒ぎがして止まらない。
 葛西は受話器を反対側の手に握りかえると、気持ちを落ち着かせるために軽く息を吐く。そして、嫌な予感と胸騒ぎを止めるために父親に質問をした。
 「お袋が浮気してた相手の名前を、俺に教えてくれねぇか?」
 「そんなのを聞いてどうする?」
 「・・・・いいから教えろっ!!」
 「あいつが離婚した後でどうしたかは知らねぇが、相手の名前は・・・・・」
 「や、やめろっ、クソ親父っ!! やっぱり言うなっ!!」
 「おいっ、てめぇ…っ」
 「すまん…」
 「・・・・べつに怒っちゃいねぇ。悪いのは、今までお前に何も話してやらなかった俺の方だからな」
 「親父…」
 「だが、もう話す必要はないんだな?」

 「ああ…、すまねぇが誰にも言わずに、そのまま墓場まで持って行ってやってくれ…。俺のためでも誰のためでもなく…、二人のマコトのために…」

 前院長の死と、籠の中から逃れられなかった真琴…。
 そして…、真琴から生まれた誠人…。
 様々の事が葛西の脳裏を駆け巡っていたが、それを立ち駆るように父親の返事を聞かずに電話を切る。嫌な予感を抱きながらも本当の事を真実を聞かなかったのは、知らない方がいいと葛西が判断したからだった…。
 もしかしたら真実を知っても何も変わらないかもしれないが、おそらく真琴が生きていたとしても誠人には何も伝えないだろう。そう思ったからこそ葛西は、このまま真実を闇に葬ることを選んだ…。

 「お前は今も鳥籠の中にいるのか・・・・・、真琴」

 哀しさと苦しみの滲んだ葛西の呟きは、真琴には届かない。けれど、そんな葛西の想いを優しく包み込むように、窓から見える青空は雲一つなく…、
 終わりも果てもなく、どこまでも青く続いていた…。
 晴れでも曇りでも、たとえ冷たく白い雪が降っても…、
 この空がどこまでもどこまでも続いているのなら、どこにいても好きな人の所へと想いのある場所へと繋がっている。だが、そんな空の下にいても久保田の瞳には、青空ではなく灰色の街が映っていた。

 「記憶がなくても変わらない…。なんとなくだけど、たぷんそうかもね…」

 久保田は叔父だと名乗った葛西の言葉をなんとなく思い出しながら、ぼんやりと病院の屋上から灰色の街を眺めてそう呟く。けれど、いくら街を眺めても怪我をした原因も、自分が久保田誠人かどうかもわからなかった…。
 この病院の病室で久保田が目を覚ましたのは、たった五日前…。薬臭いベッドの上で瞳を開いた瞬間に見たのは、心配そうに自分を見ている葛西と名乗る男の顔だった。
 自分の記憶がない事に気付いたのは、葛西の名前を呼ばれた瞬間で…、
 誠人という名前に聞き覚えがなかったから自分の名前を言おうとしたけれど、頭の中に浮かんできたのは何もない空白だけ…。どこかへ忘れてきたのか、それとも最初から何もなかったのか、目覚めた久保田に残されていたのは過去でも思い出でもなく…、

 ・・・・・胸の奥を削り取られてしまったような、傷の痛みだけだった。
 
 葛西は怪我をしているのは崖から車で落ちたせいだと言っていたが、それでは説明しきれない傷が久保田にはある。けれど、身体についた傷よりも別の何かが…、久保田を屋上に立たせていた…。
 屋上から灰色の街を眺めていると、吹き抜けていく冬の冷たい風が頬を撫でる。そんな風に吹かれながら、久保田は街を眺めている自分の視線の前に右手をかざした。
 右手には傷も痛みもなかったけれど…、朝ベッドで目覚めると右手に妙な感覚がある。それに気付いたのは目覚めた次の日で、それ以来ずっとその感覚は治らなかった。
 目の前にかざしてた右手は、風に吹かれて冷たくなってるはずなのに左手で触れるとなぜか暖かい…。その暖かさを確かめるように左手で右手を強く握りしめると、身体の傷よりも胸の奥が痛む気がした…。

 「・・・・・・・・・・・・」
 
 握りしめた手の中にあるぬくもりを感じていると、まるで誰かを呼ぶように自然に唇が動くけれど…、ただ動いたというだけで言葉にはならない。でも…、唇が動いた瞬間に胸の痛みが強くなる…。
 何もわからない…、何も思い出せないのにぬくもりと痛みだけが鮮明で…、
 灰色の街から視線をそらすと、屋上で風に吹かれてはためいているシーツの白さがなぜか目に染みた…。
 もしかしたら何かを掴み損ねた右手だけが、失ってしまったはずの過去を覚えているのかもしれない。久保田は左手で松葉杖を掴み直し右手でポケットからタバコを取り出すと、灰色の街よりももっと遠くの空を眺めながら口にくわえた。
 
 「何も変わらないはず…、なんだけどね」

 そう呟いてポケットに手を伸ばすと、そこにはタバコに火をつけるためのライターは入っていない。病室に忘れてきたのか途中で落としてしまったのかはわからなかったが、結局、痛みに耐えながら歩いて屋上まで来たのに…、
 煙を満たすこともできずに肺は空っぽのままだった。
 白いシーツが冬の冷たい風を孕んではためいて、そんな白を見つめる久保田の瞳には切なさ哀しみに似た色が浮かんでいる。けれど、そんな風に冷たく哀しく吹き付ける風を止めるように屋上から室内へと続くドアを開けて、パジャマ姿の一人の少年が入ってきた…。
 「あっ…、悪りぃジャマしたか?」
 「べつに? ココは病院で屋上だし、誰かが来て当たり前デショ?」
 「まぁ、そう言われればそうだけどさ。なんか、マジ顔で考えゴトしてただろ?」
 「確かにね…。でも、俺としては誰かが来てくれてうれしいけど?」
 「え…っ?」

 「火貸してくれない?」

 屋上にやってきた少年は、未成年だが右手にタバコとライターを持っている。でも、だからといって別に注意する気はなかったが、真っ直ぐな瞳でこちらを見た少年とタバコは似合わなかった…。
 少年は久保田に近づいて慣れない手つきでタバコをくわえると、持っていたライターに火をつける。そして、久保田のタバコに火をつけた後で自分のタバコにも火をつけた。
 けれど、タバコをあまり吸った事がないのか、煙を吸い込んだ瞬間に不味そうな顔をして激しく咳き込む。そんな少年の姿を見つめながら、久保田はゆっくりと呼吸するように灰色の煙を肺に吸い込んだ。
 「マズイって思ってんのに、なんでタバコ吸ってんの?」
 「な、なんでって…、別にいいだろっ。それとも、成年だから吸うなって言いたいのかよ?」
 「いんや」
 「なら、ほっとけよ…。俺はタバコを吸いたくて吸ってるし、アンタだってそうだろ?」
 「うん…、そうね」
 「それにマズくても、吸わないより吸ってた方が落ち着くんだ…」
 「どうして?」

 「病院で目が覚めたら、自分の名前も何も覚えてなくて…。けど、何も覚えてなくてもこの匂いだけはすごく…、懐かしいって気がすっから…」

 そう言った少年は久保田と同じように記憶がないらしい。けれど、久保田は何も言わずに、タバコを吹かしながら灰色の街の方に視線を戻した。
 ここは病人の集まる場所だから同じ症状の患者がいてもおかしくないし、それを知った所で何かが変わる訳でもない。ただ、偶然に二人は同じ症状で同じ病院に入院して、同じ日に屋上でタバコを吸っているだけだった…。
 でも…、哀しい色を浮かべた瞳で街を眺めながらタバコを吸っている少年を見ていると、タバコの煙と一緒にその哀しみが寂しさが胸の奥に染み込んできて…、
 このまま何を話す事もなく名前を知る事もなく別れるつもりだったのに、気付くと少年の唇からタバコを奪い取っていた。
 なぜ、そんな事をしたのか…、理由も訳もわからないままに…。
 そんな久保田の唐突な行動に、少年はムッとした表情をしてタバコを返せと手を伸ばしてきた。けれど、その手が久保田に届く前に冷たい突風が屋上を襲って、まるで触れる事を拒むように二人の間を吹き抜ける。
 冬の身を切るように冷たい風は、少年だけではなく久保田の唇からもタバコを奪い取った。しかし、少年の方に吹き付けていた風は何も奪うことなくすぐに止んで、代わりに頭の上に黒い影が落ちる。
 冷たい風を止めた黒い影は、タバコの匂いのする哀しみを優しく包み込むように落ちて…、冷たい風から少年を守っていた。

 「どう…、して・・・・?」

 少年がかすれた声でそう呟いて前に立っている久保田を見上げると、久保田もそんな少年を見つめ返しながら…、ゆっくりと右手を伸ばして少年の頬に触れる。すると、その手の上にぽつりと暖かい何かが落ちた…。
 本当はこんな風に触れ合うこともなく、ただ人の溢れる灰色の街ですれ違う時とのようにすれ違っていくだけのはずだったのに…、
 触れた部分から暖かな涙から、何かが流れ込んできてここから動けなくなる。ぬくもりを求めるように伸ばされた久保田の手に落ちたのは…、青空から降った雨ではなく少年の大きな瞳から零れ落ちた涙だった…。
 
 「ちゃんと…、離れないように手を繋いでたって気ぃすんのに…、なんで俺は一人でこんなトコにいんだろ…。なんで、こんなに胸が痛ぇのに…、苦しくてたまんねぇのに何もかも忘れちまったんだろ…」

 どこまでも続く白い雪の中でした約束は、記憶と一緒に消え失せて…、
 けれど、約束をした時に伝え合ったぬくもりは…、今も手のひらの中に残っている。それは記憶でも思い出でもなく、ずっとずっと二人で一緒にいたかった抱きしめ合っていたかった願いと想いだった…。
 久保田は人差し指で次から次へと止まることなく零れ落ちてくる涙を拭うと、両腕を伸ばして冷え切った少年の身体を抱きしめる。すると、久保田の身体を支えていた松葉杖が音を立ててコンクリートの上に転がった…。
 けれど、同じように腕を伸ばした少年が久保田の身体を支えて、二人をお互いを支え合うように抱きしめ合う。そして息がかかるほど近くで見つめ合うと、久保田は初めて会った名前も知らない少年の唇に口付けた…。
 
 
 ・・・・・・・・好きだよ。

 
 そんな言葉を伝え合うこともなく…、お互いの名前を呼び合うこともなく…、二人は抱きしめ合いながら深く激しく唇を重ねる。でも、どんなに唇を重ね合って抱きしめ合っても、失ってしまった記憶も想い出も戻らない…。
 診療所の離れで微笑み合いながら暮らした暖かな日々も、マンションの部屋で哀しく苦しく心をベッドを軋ませながら身体を繋いだ日の事も…、どこまでも続く冷たく白い雪の中に消えて…、

 けれど…、それでも二人は再び出会って抱きしめ合っていた…。

 そんな二人を久保田の様子を見に来た葛西が見たが、そのまま何も言わずに開けたドアを閉じる…。その時、葛西が穏やかに微笑んでいたのは二人を再び出会わせたくないと想いながらも…、心のどこかで再び出会う事を望んでいたせいだった。
 もしも葛西が時任を転院させていたから、松本が言ったように再び出会う事があったとしても、こんなにも早く二人が出会うことはなかったかもしれない…。そして久保田が眠りから目覚めるのが、もう少し遅かったらすれ違っていたかもしれない…。
 けれど、それは奇跡でも運命でもなく…、キスした唇が握りしめ合った手がお互いを求め続けていたからかもしれなかった…。


 ・・・・・・・愛しているよ。


 自分の名前も知らない少年と同じように、そんな風に言いながら愛しい人を抱きしめた日の事を久保田は覚えていない…。そのことを話すと少年は驚いた顔をした後、もっと強く優しく久保田のことを抱きしめた…。
 二人の後ろには白い景色だけが続いていて、そこには足跡すら残っていない…。けれど、長い長い口付けを終えて二人が見上げた空はどこまでも青く綺麗に澄んでいた。
 どちらからともなく伸ばした手に手を重ねて…、離れないように指をからめて握りしめ合うと青空の下にある灰色の街に暖かく差し込む陽射しが見える…。その陽射しは二人で暮らした離れをマンションを、そして今二人の立っている場所を照らしていた。
 「何もかも忘れちまってて…、知ってる場所なんてどこにもねぇけど…。ココでずっと立ち止まってらんねぇよな…」
 「そうだね」
 「けど…、だから…」
 「だから?」
 「だから二人で帰ろうぜ…、一緒に…」
 「帰る…?」

 「どこにあるのかわかんねぇけど…、目の前の街ん中のどこかに帰る場所があるはずだからさ…。だから、二人で一緒にウチに帰ろう…」

 そう言って時任が拾ってくれた松葉杖を久保田が持ち直すと、もう一度、微笑み合いながら軽くキスをして…、それから二人は後ろを振り返らずに横に並んで歩き出す…。
 閉ざされていた鳥籠を開けて…、飛び立つ鳥のように新しい足跡を残しながら…、
 どこまで行くのか、どこまで行けるのかわからなくても二人で…、


 『ただいま…、時任』

 『・・・・・おかえり、久保ちゃん』




 そんな風に当たり前に言って合って微笑み合った…、いつかの日のように…、
 何よりも愛しい…、君といる世界を…。







 やっと…、完結しました・・・・・・・・(涙)

 長い長いお話なのに最後まで読んでくださって…、本当にありがとうございます(泣)
 心から深くたくさんお礼申し上げます<(_ _)>vv
 うう…、本当に何度お礼を申し上げても足りないくらいです(涙)
 日記から始まった連載なのですが、去年の冬に完結している予定が一年以上もかかってしまいました…(>_<、)特に今はネット落ちばかりしてしまっていて、復帰したはずなのに立ち直れなくて…、そんな中でお話を完結することができたのは、皆様が励ましてくださって、元気をくださったからなのです…。
 途中、体調不良だったこともありますのですが、思い返すとどうしても納得がいかなくて書き直したりした事も多かったような気がします。久保ちゃんや時任だけではなくて、橘や松本を葛西さんをみんなを思うままに最後まで書くことができて…、今、ほんやりととってもすごく幸せですvvやっぱり書くのが大好きです (ρ_;)vv
 ううう、色々と目にあまる部分が多いと思いますですが、見逃してやってくださるとうれしいです…(涙)本当にすいませんです…。
 
 も、もしも気が向かれたら雪の降る日に…、読み返してやっとくださるとうれしいです…。籠の鳥を書いている間、いつもどこまでも続く真っ白な雪原を思い浮べてました…。
 なので…、私は書き終えるまでずっと雪原を歩いていたのかもしれません…。
 な、なんて妙な事を言っててごめんなさいです…(汗)
 けれど、雪原を歩き終わった事を…、
 書き終えた事を足がかりに、これからもがんばってまいりたいですvv
 ファイトですvv


 多謝vv<(_ _)>vv


 
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