籠の鳥.46
ガウゥゥゥーーーーン・・・・、ガウゥゥ・・・・・・ン・・・・
白く染まった木々の間をすり抜けるように響く銃声。
そして、どんなに認めたくなくても信じたくなくても逃れられない現実。
アキラという籠から出ようとした時任の目の前にあるのは、歩き出そうとした先にあるのは…、冷たく凍えていくだけの白い世界だった…。
籠から出て前へと歩き出そうとしていた足は、哀しみに似た寒さと孤独に似た冷たさに囚われて動けなくなって、震える腕はその中にあるぬくもりだけを抱きしめて放さない。再び月を覆い隠した雲が降らせ始めた雪が音も無く静かに舞い散る中で、時任は拳銃を握りしめたままでいる久保田の手を上から強く握りしめた…。
「くぼ…、ちゃん・・・・、くぼちゃん・・・・・・」
握りしめた手に力を込めて、やっと出すことの出来た声で何度もそう呼びかける。けれど、時任がどんなに呼びかけても、握りしめた手も抱きしめた身体も動かなかった…。
白い雪を赤く染めていく血の色が鮮やか過ぎて…、見つめていると胸の奥まで痛くて苦しくて、腕の中にあるぬくもりだけを抱きしめたまま瞳を閉じてしまいたくなる。けれど、時任は雪の中で震えながらも瞳を閉じずに、じっと前だけを見つめていた…。
いくら呼びかけても返事は返って来ないし、いくら握りしめても久保田の手は握り返してはこない…。でも腕の中にある身体はまだ暖かくて…、そのぬくもりを抱きしめていると哀しみや痛みと一緒に久保田の想いが伝わってくるような気がした…。
『・・・・・・・・愛しているよ、時任』
耳の奥に残っている声に答えるように髪に頬を寄せると、時任は久保田の手から拳銃を外す。そして心臓の鼓動を確かめようと手首に指を回しかけたが…、なぜかそうするのをやめて久保田の手と手を繋ぐと指をからめて強く握り込んだ…。
赤く染まった雪を眺めていると胸が痛くて苦しくてたまらない。けれど今は腕の中のぬくもりだけを…、暖かさだけを信じていたかった…。
たとえ呼びかけに答えてくれなくても握りしめた手を握り返してくれなくても、抱きしめてる腕の中にぬくもりがあるなら、どんなに痛くても苦しくても歩いて行ける…。時任は久保田に向けていた視線をあげると、拳銃を構えたまま微笑みながら立っているアキラを強い意志の宿った、冬の空気のように綺麗に澄んだ瞳で鋭く睨み付けた。
「・・・・・・・どけ」
「今から、こんな遠い山奥に救急車でも呼ぶつもりかね? 急所が外れたせいで、まだ多少息はあるかもしれないが病院に運んだ所でもう助からない」
「そこをどけっっ!」
「何をしても無駄だと言っているだろう? 唯一の助かる手段だったWAを投げ捨て、こうなる事を望んだのはお前自身だったはずだ」
「・・・・・・・・・」
「どんなに嘆き悲しんでもその男を殺したのは他の誰でもない…、お前自身だよ」
アキラは目を細めながらそう言ってゆっくりと冷たい雪の上に膝をついて久保田を抱きしめている時任に歩み寄ると、そんな二人の様子を空の上から遥か下にある地上を見るようにゆっくりと見下ろす。すると、見下ろした先には予想していた通りの光景があった。
久保田は拳銃を握りしめなから思惑通りに銃弾に倒れ、籠から時任に向って伸びる鎖も未だアキラの手に握られている。まるで一人で進めていくチェスの駒のように、すべてがアキラの思い通りに進んでいた。
もしも銃口を時任ではなく久保田に向けていたら、時任はアキラを殺したいほど恨むだろう。だが、時任を狙った銃弾が久保田に当たったのなら、時任はアキラを恨むだけではなく自分自身を責めなくてはならなくなる。
だから、時任にWAを渡して助けるチャンスを与えた上でわざと久保田を狙わなかった…。
アキラはゲームの結果に満足したように口元に笑みを浮かべると、少し屈んで久保田を抱きしめ続けている時任の顔を覗き込む。そして、銃弾に倒れたまま動かなくなってしまった久保田の額に銃口を押し付けた。
「お前がこの男を…、久保田誠人を殺したんだ」
そう言ったアキラの声が聞こえているはずなのに、時任は動揺したり表情を動かしたりはしない…。久保田が死んでいくのはお前のせいだと逃れられない現実を目の前に突きつけられても、時任はただ腕の中にあるぬくもりを抱きしめながらアキラを鋭く睨みつけているだけだった。
そんな時任の様子を見たアキラは、めずらしくわずかに浮かべていた微笑みを曇らせる。注射器を投げ捨ててしまった事を後悔しながら苦しみと哀しみに歪むはずだった時任の表情は、なぜか迷いも戸惑いもなく静かで…、久保田を抱きしめている腕の震えもいつの間にか止まっていた。
アキラを鋭く睨みつけながらも、時任の澄んだ瞳の色はどこか哀しくて…、
けれど、赤い血に濡れていく久保田を抱きしめながらも俯いたりはしていない。
アキラの手のひらの上にある鳥籠から時任へと伸びていたはずの鎖は、いつの間にか空から静かに舞い落ちてきた雪に覆われて見えなくなってしまっていた。
籠の鳥と…、鳥籠の鍵を持つ者と…。
いつから続いていたのかわからないそんな関係も、二人の間に繋がれていた鎖も心の中に雪のように降り積もった想いに掻き消されて、もう時任の澄んだ瞳には映らない…。どんなに籠から伸びた鎖を引かれても、夜の匂いのするベッドで犯されても時任が見つめているのはこの世でただ一人…、久保田だけだった…。
時任は雪の中に落ちている拳銃を拾い上げると、銃弾が入っていない事を知りながらもその銃口をアキラに向ける。そして繋いでいた手を離して、アキラの銃口から守るように久保田の頭を優しく抱きしめた…。
「確かにアンタの言った通り、久保ちゃんがこうなったのは俺のせいかもしれない…。けど、きっと久保ちゃんはどんなことになっても後悔なんてしてないから、俺も絶対になにが起こっても後悔なんかしたりしない…っ。好きになったことも…、ずっと一緒にいたいって想ったコトも…」
アキラに向けられていたはずの時任の言葉は、まるで久保田に囁いているかのように穏やかで暖かくて優しい…。けれど、そんな時任の想いを嘲笑うかのように、アキラは別荘から木々の間へと伸びている電話線に銃口を向けた。
届かない距離ではないが銃弾で細く伸びる電話線を切るのは、よほどの腕がないと難しい。だが、アキラが狙いを定めてすぐに撃ち放った銃弾は、時任の目の前で見事に電話線を分断した。
「これで、別荘から外部への電話は通じなくなった…。そして様子を見に行った者が戻らないとなれば、じきに警備員達が大勢ここにやってくるだろう」
「・・・・・っ」
「だが、電話線が切れようと警備員が来ようと、そんな事はお前に関係ない事だろう? どんな事をしてもその男は助からないし、お前も鳥籠から出ることはできない」
「・・・・・そんなのは、やってみなきゃわからないって言っただろっ!!」
「やってみるとは、そのガラクタでかね?」
そう言ってアキラは短く笑ったが、時任は久保田も握りしめた拳銃も離さない。もうじき警備員が来る事がわかっていても、電話が通じなくなっても…、
・・・・・時任は何もあきらめたりはしていなかった。
何を言われてもどんなに絶望的でも…、腕の中のぬくもりが一人じゃないって事を教えてくれている。時任は腕の中のぬくもりを確かめるように強く抱きしめると、
「冷たいけど…、ちょっとだけガマンな…」
と、言って拳銃を構えたままでゆっくりと久保田を白い雪の上に寝かせた。
そしてアキラの視界から久保田を隠すように前に立つと、握りしめた拳銃の引き金に指をかける。けれど、いくら拳銃を握りしめても、凍えた指で引き金を弾いても銃弾が入っていなければ何も守れないに違いなかった。
でも、それがわかっていながらも時任は拳銃の引き金を弾こうとしている。そんな時任に向ってアキラは銃口を向けたが、引き金に指はかけられていなかった。
「わざと自分を撃たせて、自殺でもするつもりかね? だとしたら無駄なことだ。お前を誰よりも愛している僕が、お前を撃つはずなどないだろう?」
時任に銃口を向けながら、アキラはそう言って愛しているよと優しく囁く…。だが、時任は同じようにアキラに銃口を向けながら、その言葉に何も答えようとはしなかった。
本人が言った通り握りしめた拳銃の引き金を弾いても、アキラは引き金を弾いたりはしないかもしれない。けれど、時任は自殺して久保田と一緒に死ぬ事ではなく、久保田と一緒に生きる事だけを考えていた…。
生きていたいと想うなら、生きていたいと願うなら…、死ぬ最後の瞬間まで生きる事にしがみつくしかない。握りしめた拳銃に銃弾は入っていないけれど、そこには銃弾のかわりに時任の生きる意志と希望が込められていた…。
「俺は籠の鳥なんかじゃないっ、だから絶対に籠の外に出てみせるっ! 一人じゃなくて…、久保ちゃんと一緒に…っ!!!」
時任はそう叫ぶと弾くと思われていた引き金を弾かずに、握りしめていた拳銃をアキラの顔面に向って投げつける。そして、不意打ちを食らったアキラが拳銃に気を取られている隙に、素早く雪の中に落としたままになっていたWAの入った注射器を拾い上げた…。
その注射器アキラが時任に渡したもので…、中に入っているWAは久保田の記憶を消すために用意されたものである。けれど、時任はその注射器を握りしめると久保田ではなく…、アキラの肩に突き刺した…。
「・・・・・・ミ、ノル」
WAの入った注射器の針を肩に射たれたアキラは、驚いたように時任の方を見てわずかに目を見開く。すると、時任は間近にあるアキラの瞳を見つめ返したが、肩に射たれた針は突き刺されたまま抜かれる事はなかった…。
アキラが油断してしまったのは拳銃ばかりを意識しすぎていたせいなのか、それとも最終的に時任が自分を裏切る事はあり得ないと想っていたせいなのかはわからない…。まだ針を刺しただけで中に入っているWAは注入されていないが、注射器を握っている時任の指が少しでも動けばWAはアキラの血管に入ってしまうに違いなかった。
時任は屋敷でWAを射たれていた時の痛みを思い出しながら、注射器の中に入っている透明な液体を見つめる。けれど、どんなに見つめてもその中には何もなくて…、見つめれば見つめるほどWAを射たれた腕ではなく、大切な想いを記憶を失ってしまった胸が心がズキズキとど痛むだけだった…。
「アンタにWAを射たれたせいで、俺は記憶をなくしちまったコトすらわからないし知らない…。でも、胸ん中にぽっかり穴が開いちまってるみたいで…、いつも足りない何かを探してた気がする…」
「注射器から手を放せ…、ミノル」
「・・・・・嫌だ」
「そんなものを射っても、状況も現実も変わったりはしない」
「それでもいい…。それでも俺はアンタに教えてやりたかった…っ。大切な想い出や記憶を奪われるコトがどんなに痛いかって…、どんなに苦しくて哀しいかって思い知らせてやりたかったっっ!!」
どんなに叫んでも…、消えてしまった記憶は二度と戻らない…。けれど注射器の中の透明な液体を見つめていると、消えてしまっていたばすの記憶が蘇って胸をしめつけてくる感じがして、どうしても叫ばずにはいられなかった。
記憶の奥底に沈み込んでいた…、言葉と声…。
おぼろげな記憶の中にある薄暗い部屋とベッド…。
時任の脳裏に断片的に浮かんでくる記憶は屋敷での事ばかりではなく…、なぜか見知らぬ部屋の光景も混じっている。その光景の場所がどこなのか、それがいつのことだったのかはわからなかったが…、見知らぬ男の荒い息遣いと身体に感じた痛みと一緒に確かにその記憶は時任の中にあった。
『はぁ…、はぁ…っ、あんな男より私の方がずっと良いだろう? だったら…っ、もっと鳴くんだ…、ミノル…っ。もっとよがって腰を振れって言ってるのが聞こえないのかっ!!!』
WAを射たれても消えなかった記憶…、無意識に記憶の奥底にしまい込んでしまった残酷なゲームの始まり…。ある日、唐突にきまぐれにアキラが始めたゲームの相手は、実は久保田ではなく時任の色香に迷った主治医の男だった…。
アキラはWAを注射して記憶を奪うと、まるで紙切れと引き換えに久保田に渡した時と同じように時任を男に渡す。そして、いつもより濃度の濃いWAを射たれて気を失った時任を楽しそうに眺めながらゲームの内容を告げた。
ゲームの期限は三ヶ月…。
その間に記憶をなくした時任が、屋敷に戻るかどうかを賭けたものだった。
もしも、三ヶ月で屋敷に戻らなければ時任は男のものになる。それを聞いた男はアキラの賭けに乗ったが、時任は昼夜を問わず自分を犯し続ける男から逃げ出した。
『この世で一番、お前が愛しているのも、誰よりもお前を愛しているのも僕以外にはいない。だから自らの意志で、自らの足で歩いて戻ってくるがいい…。永遠に終わらない、永遠に消えない二人の愛を証明するために…』
そんな声を夢の中で聞きながら薄暗い部屋で目覚めた瞬間…、時任の中からは何もかもが消え去っていた…。けれど、すべてを忘れてしまった時任には、それがWAを射たれたせいだという事すら知らないしわからない…。
自分の事を知る手がかりはジーパンのポケットの入っていた住所の書かれた白い紙と、耳の奥に残る誰のものかもわからない声だけだった。
でも、白い紙をポケットの中に入れて見知らぬ街を歩き始めたのは愛を証明するためでも鳥籠に戻るためでもない。見知らぬ街をさまよい帰るべき場所を…、失ってしまった何かを探していただけだった…。
暗闇に包まれた空の下を一人きりで…。
その時の断片的な記憶が浮かんでは消え…、浮かんでは消えて最後には息苦しさだけが時任の胸に残る。でもそれは痛みと苦しみに満ちた薄暗い部屋から逃げ出してたどり着いた裏路地で優しく頬を撫でてきた手を…、暗闇から救い出すように抱き上げてくれた腕の暖かさを時任はWAによって消されて忘れてしまっていたからだった。
けれど、身体中に負っていた傷だけではなく、心の傷まで消そうとでもしたかのように胸の奥底に静めてしまっていた記憶は、もう思い出しても苦しくはなるけれど痛くない…。WAに記憶を消されてしまっていても…、身体だけではなく心に染み込んで来た暖かさと優しさが今も時任を包んでくれていた…。
『・・・・・・・時任』
何があっても何が起こっても…、もう一人きりじゃない…。だから、一人じゃなく二人で籠から出るために注射器を持つ手に力を入れようとしたが、その瞬間にアキラが雪の中に横たわっている久保田に銃口を向けようとした。
だが、それよりも早く時任の手でアキラの腕にWAの透明な液体が注入される…。
久保田の手に渡る前にすり替えられていた弾丸とは違って、注射器の中に入っていた薬は本物だった。
その証拠に薬を撃たれたアキラの手から、白い雪の中に拳銃がポトリと落ちる。アキラは目の前に立つ時任の方を見てはいたが、その瞳は虚ろになってしまっていた。
「お前は僕の…」
「俺はアンタのモノなんかじゃないっ。俺は俺自身のモノで…、それから久保ちゃんのモンだ…っ。だからカラダもココロも記憶もなにもかも、絶対にアンタにはやらないっ」
「籠の鳥が…、籠から出て生きて行けると思うのか…っ」
「生きていこうと思ったら、どこでだって生きていけるに決まってんだろっ。何があったってどんなコトが起こったって…、もう一人じゃねぇから…」
「・・・・・・・」
「バイバイ…、アキラさん…」
引き止めるように伸ばされた手を時任がそう言って振り払うと、完全にアキラが雪の中に崩れ落ちる。すると、時任はアキラに背を向けて久保田の元へ走り出した…。
WAによってアキラの記憶が消えたかどうかはわからなかったが、時任はそれを確認するつもりはない。けれど、雪の中に崩れ落ちたアキラの顔に浮かぶ微笑みには、いつもと違って寂しさと悲しみに似た何かが入り混じっていた…。
・・・・・・・・愛しているよ。
アキラの唇が綴った言葉は、走り出した時任には届かない…。それを知ったアキラは手のひらを伸ばして何かを掴む仕草をした後、WAが身体を記憶を犯していくのを感じながらゆっくりと静かに瞳を閉じた。
手のひらの上には鳥籠があったはずなのに、いくら手を握りしめても何もない…。主治医の男から久保田に引き継がれたゲームは、どんなにアキラが駒を動かそうとも結果はすでに決まっていた。
何度、WAを射っても時任が忘れるのは久保田の事だけ…。
そしてすべてを忘れてしまっても…、また久保田に恋をする…。
だから、いつでも操れるはずだった時任の心は、たとえWAを使ったとしてもアキラの元には戻らない。閉じ込められた籠の中でアキラを愛し続ける運命にあるはずだった籠の鳥は、手のひらの上からいなくなってしまっていた…。
『・・・・・・久保ちゃん』
二人でカレーを食べながら、初めてそう呼んだ日よりも前…、
あの裏路地で久保田に出会った瞬間に…、時任はすでに籠の鳥ではなくなってしまっていたのかもしれない…。でもそれは鳥であることを、籠の鳥でいることをやめた瞬間ではなく…、
久保田に恋をした瞬間だった…。
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