籠の鳥.45



 
 「・・・・ミノル」

 もう一度、アキラが自分の腕ではなく久保田の腕の中にいる時任に向って呼びかけると、月光に照らされていた白い世界が急に夜の暗闇に包まれる。だが、それは時任と久保田を包む夜の闇が深くなったせいではなく、冬の冷たい風に運ばれてきた雲が月を隠したせいだった…。
 まるで両手で顔を覆うように…。
 まだ、かろうじて雲の隙間から漏れる月光が抱きしめ合う時任と久保田の影を作りだしてはいたが、やがてはその影も空を覆い始めた雲に掻き消される。そんな消え逝く運命にある二人の影を眺めたアキラは、見えない鎖を握りしめたままで微笑みを深くした。
 時任がWAの入った注射器を雪の上に投げ捨てるのを見ても、久保田と微笑み合いながら抱きしめ合う姿を見てもアキラの表情は変わらない。ただ、ひたすら時を待つように鳥籠から伸びる見えない鎖を握りしめ微笑んでいた。
 アキラの握りしめた鎖は確実に時任の足を捕らえていたが、まだ時任は鎖の存在に気づいていない…。なぜ、窓からライフルで久保田を撃たなかったのか、なぜ警備員を別荘に近づけようとはしなかったのか…、
 そして、なぜわざわざ久保田と時任を会わせるような真似をしたのか…、
 アキラの行動には矛盾な点が多かったのにも関わらず、時任は久保田を助ける事だけに必死になっていて、その理由について考えていなかった。

 「・・・・・・・やはりお前は僕の籠の鳥だよ」

 ライフルの銃口を前にしても久保田を抱きしめて離さない時任を見て、アキラは満足そうに目を細めながらそう言う。どんなに戻ることを拒絶していても、まるでそんな時任の様子を楽しんでいるかのように…。
 まるで存在そのものを犯そうとしているかのように、執拗に時任を見つめ続けるアキラの瞳は底知れぬ狂気を孕んでいる。その身体にまとわりついてくるようなアキラの視線に気づいた時任は、わずかに身体を震わせて久保田を抱きしめる腕に力を込めた。
 すると、久保田はアキラには見えない位置で拳銃を握りしめながら、自分がちゃんとここにいることを教えるように時任の額にキスして髪を優しく撫でる。どんなにアキラが執拗に見つめてきたとしても、今、時任と抱きしめ合っているのはアキラではなく久保田だった。
 髪を撫でる優しい感触に溶かされていくように時任の腕から力が抜けると、久保田は犯すように見つめてくる視線から守るように時任を腕の中に抱き込みながら、冷たい殺気に満ちた目をアキラに向ける。だが、時任は守られることを拒むように少しだけ久保田の胸を押し返すと、揺るがない強い意志を秘めた瞳でアキラを睨み付けた。
 「俺は二度とあの屋敷にも、籠の中にも戻らない…」
 「久保田誠人が死んでも、かね?」
 「もう、絶対に何も奪わせないし、何もなくしたりしない…っ。久保ちゃんも記憶も何もかも、俺が自分の手で守ってみせるっ!」
 「ほう…、ライフルを相手に武器を何も持たぬ身で勝てるとでも?」
 「何事もやってみなきゃわかんねぇだろっ」

 「ならば、その身で思い知るがいい。どんなにあがこうとも、自分が所詮は籠の鳥でしかないということを…」

 時任に向ってそう言いながら、アキラがライフルの銃口を久保田の額に合わせる。すると、それと同時に拳銃を握る久保田の手にも力が込められたが、アキラはなぜかまだ引き金を引こうとはしなかった。
 引き金を引かないのは事故と銃撃戦で深手を負っている久保田が、このまま力尽きて倒れるのを待っているのか、それとも撃った銃弾が時任に当たることを恐れているのかはわからない。だが、アキラがライフルの銃口を久保田に向けながらも、今まで威嚇のためだけにしか撃っていないことだけは確かだった。
 久保田は腕の中のぬくもりを守るように優しく抱きしめながら、冷たい殺意に満ちた視線をアキラに向け続けている。しかし霞んで良く見えなくなってしまっている目では、アキラが微笑んでいることすら良くわからなかった。
 時々、時任が心配そうに見つめてくるのに、久保田は視線だけで大丈夫と答える。けれど、腕の中に抱きしめてる暖かなぬくもりを…、誰よりも愛しい人の手を離さなくてはならない時が迫っていることを久保田は悟っていた…。

 「愛してるよ…、時任…」

 優しい穏やかな口調で時任に向って囁かれた言葉は、なぜか聞いていると胸が締めつけられるように切なく苦しくなってくる。抱きしめてくる腕が…、見つめてくる視線が優しければ優しいほど、その優しさがうれしいはずなのに哀しくてたまらなかった。
 時任は背中に回した手でコートをぎゅっと握りしめると、久保田の言葉に答えるように広い胸に額を軽く押し付ける。すると、久保田は自分の腕の中で眠るように瞳を閉じた時任を愛しそうに見つめながら、なぜか叔父である葛西の名前を口にした。
 「もしも…、ココから無事に逃げ出せたら、葛西診療所ってトコに行くから覚えといてくれる?」
 「カサイ…、診療所?」
 「俺の叔父サンがやってる診療所」
 「久保ちゃんのオジサンって…」
 「正真正銘、血の繋がってるホントの叔父サン。見かけはコワそうだけど、底抜けのお人よしだからきっとお前のコトも助けてくれるよ…、俺をあの屋敷から連れ出してくれた時みたいに…」
 「なんで…、なんで今、そんなコト言うんだよ? べつに言わなくったって、一緒に行くなら問題ないじゃんか…っ」
 「・・・・うん、けど念のためにね」
 「まさか…、一緒に行かないなんてコトないよな?」
 「・・・・・・・」

 「久保ちゃんっ!!!」

 嫌な予感を感じて時任が叫んだが、久保田はそれには答えずに痛みに耐えながら持っていた拳銃をぼやけた視界の中に立つアキラに向って構える。そうしたのは怪我を負った重い腕を上げて、不意打ちで確実に急所を狙うのは無理だからだった。
 動かないと思っていた腕が動くのも、まだ指が拳銃を握ることができるのも…、大切な人を守りたいという強い想いが起こしている奇跡なのかもしれない。けれど、久保田が構えた拳銃の中に込められている弾丸は…、

 胸の奥に秘めた願いのように一つだけだった…。
 
 心臓に銃口を向けられても微笑み続けているアキラは、久保田の拳銃に銃弾が込められたことを知らない。そのせいなのか、それとも時任に当たる事を恐れているのか、未だにライフルを構えたままで引き金を引こうとはしなかった。
 WAの情報との交換条件に父親である誠治が応じたために、時任が久保田の手に引き渡さなくてはならなくなった時も…、籠の鳥が自分の腕の中に戻らなかった今も…、アキラは自分の元に戻ることを確信しているかのように微笑みを浮かべ続けている。時任が戻る事を信じているのではなく、確信しているアキラの微笑みは、高い場所から地上を見下ろす支配者の微笑みだった…。

 「ゲームは最後までわからない…。だが、勝敗が決しても倒れるのはプレイヤーではなく、盤上のゲームの駒のみだよ」

 アキラはそう言いながら時任ではなく久保田の方を見たが、その視線には久保田と違って殺意は感じられない。憎しみも殺意も…、そして哀しみも怒りもなく弾かれる引き金の重さは、ライフルを構えているアキラにしかわからないのかもしれなかった。
 目の前で時任がどんなに泣き叫んでも、哀しみ震えていたとしても…、アキラにとってはこれはゲームでしかない…。けれど、もしも久保田に向けられた銃口に嫉妬や憎しみが込められていたら…、もっと早くこうなる前に上からではなく同じ高さで同じ目線で優しく微笑みかけていたら…、
 久保田に強く惹かれながらも鳥籠の中から出ることを迷い続けていた時任の心は、今もまだ二人の間で揺れ動いていたのかもしれない…。けれど、そのことに気づいているのは時任でもアキラでもなく…、白いシーツの上で強引に犯すように抱きながらも、いつも時任の頬に流れ落ちる涙を伸ばした指先で…、唇で…、

 そっと…、優しく拭おうとしてた久保田だけだった。

 どんなに好きだと思っていても…、どんなに愛していたとしても…、
 人の気持ちは心は…、誰にも自分自身にさえも自由に動かす事はできない。
 けれど、だからこそ抱きしめたぬくもりを、その大切さをこんなにも…、胸が痛く苦しくなるほどに感じる事が出来るのかもしれなかった…。
 久保田はもう一度、声には出さずに唇だけで愛してるよと呟くと、腕の中にいる時任の存在を確かめるように抱きしめながら、微笑んでいるアキラに向って殺意を瞳に宿したまま微笑み返す。そして、拳銃を握る手に力を込めるとアキラの心臓に狙いを定めた。
 「アンタが勝手に始めたゲームの勝敗なんて興味無いし、どうでもいいけど…、鳥籠は壊させてもらうよ」
 「そんなことが今の君に出来るのかね? 拳銃を握る手が震えているようだが?」
 「これは、ただの武者震いなんで」
 「なるほど…。だが、その引き金を弾いてもこのゲームの勝敗は変わらない。君は赤い血を撒き散らして倒れ、鳥は鳥籠に戻るだけだ」
 「勝敗は最後までわからないって言ってたのに、そのセリフって矛盾してない?」
 「くくく…、生憎だが少しも矛盾などしてはいない。このゲームのプレイヤーは初めから一人しかいなかったのだよ。つまり、すべての駒は僕の手の中にある…」
 「じゃ、すべてを握りしめてるって信じてる手を開いて見せてくれる? 今、ココで…」
 「・・・・それはどういう意味かね?」

 「俺のすべては…、今、ちゃんと腕の中にあるから…、アンタの手の中には何もないはずだけど?」

 久保田はそう言ったが、アキラはライフルを握りしめている手を開くことも、心臓に狙いを定めた銃口を下げることもしない。それは今、久保田と向かい合ったこの場面で優位に立ち、ライフルを握りしめているという事実がすべての駒を、ゲームを支配しているという証拠だったからだった。
 拳銃には一発の弾丸が込められていたが、それでも今も変わらず籠の鳥も久保田の命も…、すべてライフルと一緒にアキラの手に握られている。だが、久保田は瞳の奥に宿っていた殺意を消すと、目の前にある雪に覆われた白く冷たい世界ではなく…、
 今も記憶の中に残る…、時任の待つ診療所の離れに帰りながら見た夕日を…、初めて綺麗だと感じた日の空を眺めた時のように目を細めながら…、
 その時、降り注いでいた日差しのように柔らかく穏やかに微笑んだ。
 
 「こうやってお前のコト抱きしめてると…、雪まであったかい気がするよ…」

 冬の空気は凍りつくほど冷たくて、世界を白く染め上げている雪も同じくらい冷たい。
 けれど、久保田は腕の中から伝わってくる温もりだけを感じながらそう呟くと、時任の身体を柔らかい雪の上に突き飛ばす。すると、突然の久保田の行動に驚いた時任は叫び声を上げる間もなく、そのまま雪の上へと転がった。
 久保田がそんな行動を取ったのはアキラの撃ったライフルの弾が時任に当たることを恐れたせいだったが、時任が久保田から離れた瞬間に目の前に立つアキラではなく、もっと別の方向から久保田の方へとライフルが向けられる。そのライフルは別荘周辺を警備していた警備員のものだったが、警備員は携帯電話で呼ばれたから来たのではなく…、
 アキラが意図的に威嚇で撃った銃声を聞きつけてやって来たのだった。
 だが、自分に向けられた銃口に気づいていながらも、久保田は警備員を見ようともせずに引き金にかけた指を引き絞る。久保田は初めから再び時任を閉じ込めようとしている鳥籠を壊すことだけを…、アキラを消すことだけしか考えていなかった…。
 けれど、そんな久保田の思考を読んでいたかのように、アキラは警備員に向かって撃てと叫ぶ。しかし、アキラが撃てと叫んだのは久保田ではなく…、雪の中から立ち上がって久保田の元へと走り出そうとしていた時任だった…。

 「ミノルを撃てっ!!!!」

 命令を伝えるアキラの鋭い声が白く染まった森に響き渡ったが、その命令を聞いた瞬間に最初に動きを止めたのは警備員ではなく、アキラを撃とうとしていた久保田である。それは、久保田が握りしめている拳銃に弾が、たった一発しか入っていないせいだった…。
 このままアキラを撃てば…、鳥籠は壊せるかもしれない…。
 けれど、時任がいなくなってしまったら、いくら鳥籠を壊しても意味なんてない。だから、アキラの思惑にはまってしまうことがわかっていても、今もライフルの銃口が心臓を狙っていることを知っていても…、アキラに向って引き金を弾くことはできなかった…。
 たった一発しかない弾丸を、好きな人を守るために使うのに迷う必要なんてない…。
 久保田はアキラに向って構えていた銃口を別の方向へと向け直すと、命令に従って躊躇することなく引き金を弾こうとしていた警備員を撃った…。

 
 ガウゥゥゥーーーーンッ!!!!!!


 絶望的な音が辺りに響き渡ると、警備員が白い雪の中へと倒れる。
 だが、それでもまだアキラの握っているライフルの引き金はまだ弾かれない…。しかし、それは引き金を弾くのをやめたのではなく、銃口が久保田ではなく時任に向けられていたせいだった。
 しかもなぜかアキラの手には、ライフルではなくポケットから出された拳銃が握られている。時任を雪の中に突き飛ばした久保田と、同じ理由で立ち止まってしまった時任に銃口を向けながら、アキラは楽しそうに低く声を立てて笑った。

 「ミノル…、ポケットに入っていた弾は、お前が眠っている間にすり替えておいたよ。ゲームに余興は付き物だろう?」

 久保田の拳銃に銃弾が込められていることを…、しかもそれが一発だと言う事をアキラは知っている。時任がずっと握りしめていた銃弾は、本当は久保田の拳銃ではなくアキラの持つ拳銃に込められていたのだった…。
 まるで、久保田から何もかもを奪い尽くそうとするかのように、アキラは時任へと拳銃の銃口を向ける。弾丸に込めようとしていた願いも想いも…、アキラの手によって打ち砕かれようとしていた。
 けれど、時任の手にも久保田の手にも…、それを防ぐための武器もなく…、
 どんなに手を振りかざしても、自分の身を守ることすらできない…。
 でも…、そんな絶望的な中で動かない足を引きずって自分の方へと走り出そうとしている久保田を見た時任は、必死に来るなと叫びながら首を横に振る。だが…、アキラが引き金を弾いた瞬間に時任が感じたのは痛みではなく…、
 さっきまで自分を抱きしめてくれていた久保田の腕の…、ぬくもりだった…。

 「君なら、ミノルを守ってくれると信じていたよ」

 そう微笑みながら呟いたアキラの声も…、赤く血に濡れていく久保田を抱きしめている時任には聞こえない…。叫びたくても声も出なくて…、凍りついた表情で久保田を抱きしめながら血の色に染まっていく雪の上で震えていた…。





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