籠の鳥.44




 『・・・・・アンタ誰?』
 『ん〜、一応医者だけど?』
 『なら…、ほっとけよ…』
 『なんで? 普通は逆っしょ?』
 『・・・・・・金、持ってねぇんだ』

 『そう…』


 何か意思を秘めているような印象的な瞳を見つめ返しながら、そんな会話を交わしたのは…、裏路地で倒れていた傷だらけの身体を抱き上げたのはいつの日のことだっただろう…。それから、初めて抱きしめたいと感じたのは・・・・・・・、
 白い雪の上に足跡を残しながらこちらへと向って歩いてくる時任の姿を見つめていると、なぜかそんな事ばかりが頭の中に浮かんできて、久保田はまるでここにはない遠い景色を見るように目を細めた。
 けれど、さっきまで良く見えていた時任の姿も、白く続く雪景色も目が霞んでぼやけてしまっていて良く見えない。こんな所で立ち止まらず時任の方へと歩き出したいのに、なぜか足も凍りついたように動かなかった…。
 でも、立ち止まったまま動けない久保田の方へと、時任の足音がゆっくりと近づいてくる。その様子はまるで裏路地で動けなくなっていた時任を見つけた時とは逆で…、今度は雪の中で動けなくなっていた久保田の頬に時任が優しく包み込むように手を伸ばしてきた。

 「こんなに冷たくなってさ…、ケガもたくさんしててボロボロになってんのに、なんで来たんだよ…」
 
 触れられるほど近づいてやっと見えるようになった時任の表情は、責めるような言葉とは裏腹に優しく哀しそうに微笑んでいて…、頬を包み込んでいる暖かい手からはわずかな震えが伝わってくる。けれど、寒いせいで震えているわけじゃないことは頬に残る涙の跡が教えてくれていた。
 拳銃を握りしめていない方の手で頬に触れている手を上から乗せると、時任は何かを伝えようとするかのように頬から手を離して久保田の指に自分の指をからめて握りしめてくる。すると触れた部分から胸の奥にぬくもりが染みこんできて…、熱く激しく愛しさが…、時任を抱きしめたい気持ちが込み上げてきて…、
 久保田はライフルの銃口が自分を狙っていることを知りながら、拳銃をコートのポケットの中に収めると痛む腕に力を入れて時任を強く抱きしめた。

 「どうしても会いたかったから…、もう一度、こんな風に抱きしめたかったから来たよ…、時任…」

 そう言いながら久保田が髪の毛に軽くキスを落とすと、時任は首を横に振る。けれど、久保田の腕の中から逃げ出そうとはしなかった…。
 時任は逃げ出さずに抱きしめられたまま握りしめていた手を開いて、久保田の手のひらに頬を寄せて瞳を閉じると、小さなかすれた声で久保田を呼ぶ。けれど、ただ名前を呼んだだけでそれ以上は何も言わなかった…。
 こうして言葉を交わすことも触れ合っていることも夢のようで…、細い身体を強く抱きしめれば抱きしめるほど、どこかへ消えてしまいそうな気がする。久保田は腕の中にあるぬくもりを感じながら、今まで言えなかった言葉を伝えようとしたが…、
 それに気づいた時任は、哀しそうな顔をして久保田の唇に手を当てた。
 「なにも聞きたくない…、だからなにも言うな…」
 「どうして?」
 「・・・・・・・・」
 「時任?」
 「もしも、なにか言うつもりなら…、俺のコト嫌いだって言えよ…。もうカオも見たくないくらい大嫌いだって・・・・・」
 「たとえ、お前の頼みでもそんなウソはつけないよ」
 「ウソじゃなくてホンキで…っ」
 「ウソじゃなくてホンキでなら、なおさら言えないから…」
 そう言いながら、久保田が唇に押し当てられた手のひらにキスをする。すると、時任は唇を噛みしめながらキスされた手で着ていたシャツの襟元を開けて…、首筋を冬の冷たい空気にさらした。
 そこには無数の赤い痕が散っていたが、その痕は久保田がつけたものではない。久保田ではない他の男が…、アキラが時任を抱いた時につけた痕だった。
 それを見た久保田の瞳には暗い影が宿ったが、じっと細い首筋に残る痕を見つめたまま目を背けず時任の身体を抱きしめ続けている。今も他の男に抱かれ続ける時任に愛しさと同じくらい強い憎しみを抱いていたとしても、心も身体も時任だけを欲しがっていて…、恋しがっていて抱きしめた腕を離すことはできなかった…。
 それはたぶん…、初めて出会った瞬間から…、
 もう後戻りなんてできないほどに…、恋してしまっていたからかもしれない…。
 けれど、同じように時任も久保田に会いたくて会いたくてたまらなくて、誰よりも恋して恋しがっているはずなのに…、
 他の男に抱かれた痕を見せても抱きしめてくる久保田の腕の強さを感じながら、同時に身体の奥に残されている欲望とコートのポケットの中にある注射器の冷たさを感じていた。

 『お前は注射器を握りしめながら、愛していない事と愛している事とどちらを祈る?』

 そう言ったアキラの言葉が脳裏に蘇ってきて、まるで現実を教えようとするかのように身体の奥から残されていた欲望が足を伝って流れ落ちてくる。大好きな人に…、久保田に抱きしめられている身体は他の男の欲望で冷たく満たされていた…。
 けれど、それを知っているはずなのに、わかっているはずなのに久保田は離さずに抱きしめてくれていて…、その暖かさを感じていると胸が痛くて苦しくてたまらなくなる。
 本当は自分から望んで他の男に抱かれている事実を見せ付けて、誰よりも嫌いになって欲しかったのに憎んで欲しかったのに…、喉の奥で言葉が詰まって何も言えなくて涙だけが止まらない想いのように頬を静かにゆっくりと流れ落ちた。
 嫌われてもいい…、憎まれてもいいから覚えていて欲しかったのに…、
 苦しくて哀しいことばかりが詰まっていたとしても一緒にいた日々のことを…、初めてキスして抱きしめ合った日のことを忘れないでいて消さないで欲しいと願っても…、
 好きだから愛しているから願いは叶わなくて、何もかもが跡形もなく消えていく…。
 そして、どんなに忘れないでいて欲しいと願っていても、消えないでいて欲しいと祈っていても…、何もかもを消してしまうのはアキラでも久保田でもない自分自身だった。
 一度だけ両腕を久保田の背中に回して強く抱き返すと、時任は覚悟を決めてポケットの中に手を入れて注射器を握りしめる。けれど、その瞬間に久保田の声が…、聞きたいけれど聞きたくなかった言葉が聞こえてきた…。
 「・・・・・・好きだよ」
 「どんなに言ったって、俺は何も聞こえないし聞いてないっ」
 「それでもいいよ…、それでも言いたかったから…」
 「・・・・・・・」

 「たとえ、お前が他の誰かを愛していたとしても、俺はお前だけを愛してるよ、時任…。ずっと…、誰よりも深く…」

 久保田を助けたいのに…、大好きな人を守りたいのに…、
 優しく切なく響いてくる言葉を聞いていると胸がさっきよりも、もっと痛くて苦しくてたまらなくなって注射器を握りしめた手が震えて動かなくなる。けれど、そんな時任の心の動きを読んでいたかのように、アキラの指が引き金を引いてライフルの弾が久保田の頭を軽くかすめて飛んだ。

 「久保ちゃんっっ!!!!」

 時任はそう叫んでとっさに頭をかばうように抱きしめたが、久保田のこめかみからは赤い血が流れ出している。撃たれた傷はそれほど深くはなかったが、注射器を握りしめたまま動けないでいた時任を現実に引き戻すには十分だった。
 時任は再び注射器を握り直すと、強く抱きしめて同じように強く抱きしめられながら、自分から久保田の唇にキスする。そして、別れを告げるように言いたくてもいえなかった言葉を…、胸の奥に閉じ込めてきた想いを久保田に伝えた…。

 「身体もこんなになってて戻りたくても後戻りなんてできないけど…、それでも俺は久保ちゃんとキスしたかった…。誰よりも好きだから、久保ちゃんだけに抱かれたかった…っ」

 胸の奥から吐き出すように叫んだ想いは、強すぎて激しすぎて心まで壊してしまいそうで…、やっと伝えることができたのに痛みも哀しみも止まらない…。久保田が優しくキスして抱きしめて痛みと哀しみを止めてくれようとしていたけれど、やっと伝わった思いも優しさもぬくもりも何もかもを自分の手でこれから消してしまわなくてはならなかった…。
 時任は声には出さずに想いを告げた唇で別れを告げると、手に持った注射器を振り下ろす。だが、時任が針を突き立てるよりも早く注射器を握りしめた手を、横から伸びてきた久保田の手が止めた。
 「俺のコト好きだって言いながら、どうして何もかも消そうとするの? それって…、注射器の中身ってWAだよね?」
 そう言いながら、まるで初めから時任のしようとしていたことを知っていたかのように久保田がじっと瞳を覗き込んでくる。すると時任は背後でライフルを構えているアキラの気配を感じながら注射器を強く握りしめて視線をそらそうとしたが、久保田が血の滲む手で強く顎を掴んできてそれを許さなかった。
 けれど、もしこうしている間にもアキラが引き金を引けば…、久保田の記憶だけではなく命まで奪われてしまう。そんな逃れられない現実に唇を噛みしめながら、時任は強引に腕を掴んでいる手を振り払って針を突き立てようとしたが、久保田の力の方が強くてどうしても腕を振り解くことができなかった。
 「早く手を離せっ!! そうしないと…っ!!」
 「この手は離さない…、絶対に…」
 「久保ちゃんっ!!」
 「何もかも消してしまおうとするのは…、もしかしてホントは好きだって言葉はウソで、俺の気持ちなんて知らない方が良くてジャマなだけだから?」
 「違うっ、そうじゃないっ! ホントに俺は久保ちゃんのことが…っ」
 「だったら、お願いだから消さないで…。たとえ雪の中に倒れて動けなくなっても、お前のコトを忘れたくない…」
 「けど…、このままじゃホントに…っ」
 「それでもいい…。時任のコトを忘れて忘れたこともわからないままで、空っぽになった胸を抱えながら生き続けるよりも…、このまま消える瞬間まで一人じゃないってコトを…、二人でいるコトのぬくもりを暖かさを抱きしめ続けてたいから…」

 「くぼ…、ちゃん・・・・・・・」

 辺りは冷たい雪で覆われていても二人で抱きしめ合っていると暖かい…、けれど久保田から伝わってくるぬくもりが暖かければ暖かいほど、切なさが涙になって零れ落ちてくる。顔色や少しぎこちない仕草を見て怪我が思った以上に酷いことを知りながらも、時任は握りしめた注射器を振り下ろすことが出来なかった…。
 でも、それは久保田の力が強かったせいだけではなく…、抱きしめ合っている今を消したくない気持ちが無意識に時任の手から力を奪っていたせいなのかもしれない。抱きしめたぬくもりを…、二人でいることの暖かさを失いたくないと想っているのは久保田だけではなかった…。
 時任は握りしめていた注射器を雪の上に落とすと、ライフルの銃口から久保田を守るようにして抱きしめる。すると、久保田は時任の腕を握りしめていた手を離して、その手をコートのポケットの中に入れた…。
 「時任・・・・」
 「ん?」
 「もしかしてだけど、前に渡した拳銃の弾持ってる?」
 「前にって…、寝てる間に握ってたヤツ?」
 「うん」
 「アレくれたのって、やっぱ久保ちゃんだったんだな…」
 「ホントは握らせるんじゃなくて、お前を撃つつもりだったんだけどね…」
 「俺を撃つって…、なんで…っ」

 「ゴメンね…、誰よりも愛してるから、誰よりも憎まずにはいられなかった…」

 苦しそうな声でそう言った久保田の言葉を聞きながら時任がジーパンのポケットに手を入れると、そこには奇跡的にずっと入れたままになっていた銃弾がある。もしかしたら自分に撃ち込まれていたかもしれない銃弾を時任が取り出して渡すと、久保田はアキラには見えない位置で拳銃に一つだけしかない銃弾を込めた。

 「撃たないでくれて、サンキュウな…」
 「ずっと持っててくれて…、ありがとね…」

 抱きしめ合ったままで、そう言って微笑み合って軽くキスをする…。それだけで胸が暖かさで満ちていくのを感じたけれど…、たった一発の銃弾ではこの暖かさを守り切れないことを久保田も時任も知っていた…。
 けれど、それを知りながらも二人はただお互いのぬくもりだけを抱きしめながら、冷たく降り積もった白い雪の上に立つ。すると、そんな二人を表情を変えずにじっと眺めていたアキラがタイムリミットを告げた…。

 「そろそろ鳥籠に戻る時間だよ、ミノル」

 だが、時任はアキラの声が聞こえているはずなのに久保田のそばから離れない。しかし、アキラはまるでこうなることを知っていたかのように、こうなることを望んでいたかのように…、鳥籠から時任に向って伸びる見えない鎖を握りしめながら微笑んでいた…。




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