籠の鳥.41




 鋭いブレーキ音と…、ガードレールを突き破った衝撃…。
 そして…、目の前に広がった白い世界…。
 崖から落ちていく久保田の乗った車を見た誰もが、もう助からないと思っていた。そのため、久保田が倒れている場所には人影がない…。
 しかし、崖から転落したと思われていた車は崖の半ば辺りに生えている木に運良く引っかかり、ドアを開けて久保田が脱出した後で木から滑り落ち地面と激突…。そしてドアから脱出した久保田も切り立った崖には足場などあるはずもなく、しばらく木の枝に掴まってはいたものの、そのまま地上へと崖の側面を転がりながら落下した…。
 転がったことで衝撃は最小限に押さえられていたが、車が大破してしまうほどの高さから落ちて無事で済むはずはない。それに普通なら助かっていたとしても、車からドアを開けて出ることすらできないに違いなかった。
 だが、それは車が木の上で微妙なバランスを保っていたからでも高さが高いからという訳でもなく…、ガードレールに突き破った衝撃ですでに動けないほどの怪我を負ってしまうせいである。車に装備されているエアバックは機能していたが、ガードレールと木に激突した時の衝撃はかなりのものだった。

 「助かったのは幸運と悪運…、どっちなんだろう…、ね?」

 そう呟いた久保田の額からは赤い血が流れ…、肋骨は数本折れてしまっている。だが、腕と足や他の部分は酷い打撲はしているものの、奇跡的に骨折はしていなかった。
 しかし手も足も骨が折れていないというだけで、凍えるような寒さと痛みで力も入らないし動かない。そして折れた肋骨は痛みの具合から、内臓を傷つけている可能性もあった。
 けれど、今はどうしても病院には行くことができない…。でもそれは怪我で動けないからでも、このまま冷たい雪に埋もれていくことを望んでいるからでもなかった…。
 久保田は少し眉をしかめて手に力を入れると、ゆっくりと指が動かして降り積もっている雪を軽く掴む。なのに、どんなに力を入れても指が動いたのはそこまでだった…。
 掴んだ雪は手の中で次第に溶けていくだけで握りしめることができなかったが、久保田はその手を支えにして、白く冷たい雪の上で長い時間をかけて上半身を起こす。だが、その瞬間に肺の辺りに痛みを感じて激しく咳き込むと…、とっさに口元を押さえた手のひらには赤い血が滲んでいた…。
 それを見た久保田は、白い息を吐いて苦笑しながら夜空を見上げる。
 けれど、そこにはただ冬の白い月が一つ浮かんでいるだけだった・・・・。

 「どこまでも追いかけても、どんなに手を伸ばしても届かないのかもしれない…。けど、それでも見守ってるワケにはいかないから…」

 月に向かってそう呟いた久保田は少しふらつきながらも立ち上がって、冷たい空気を胸の中に吸い込む。そして痛み耐えながら歩き始めたが…、今、この瞬間に時任との間にある距離がどれくらいなのかはわからなかった。
 どちらへ歩けばいいのかも、どのくらい歩けばいいのかもわからなくて…、
 けれど前へと歩き出さなければ、どこへもたどりつけない…。
 なのに、どこまでも続いていく白い景色はなぜか灰色の街に似ていて、目の前に広がる白さを見つめていると何もかもが、その中に消えてしまいそうだった…。
 あの裏路地で出会ったことも微笑みあった日々も…、何もかもが自分の都合のいい夢でしかなくて…、もしかしたらずっとこんな風に何もない風景の中を一人で歩き続けていただけなのかもしれない…。

 何も見えない暗闇の中を…、ただ一人きりで…。

 そんな気がして冷たい雪の上に立ち止まると、指先だけではなくて胸の奥まで冷たく凍りつきそうになる…。けど、こんな冷たさや寒さには慣れているはずなのに、どんなに冷たくても寒くても何も感じないはずなのに…、
 今は寒いと感じた瞬間にぬくもりが暖かさが恋しかった…。
 だから、もしも何もかもが夢でしかなかったとしても会いたかった…。凍えかけた腕を伸ばして暖かい身体を抱きしめて…、恋しすぎて求めすぎて…、
 強く抱きしめて抱きしめすぎていて、伝えられなかった言葉を伝えたかった…。

 この夢が覚めないでいてくれることを願いながら…。

 けれど、再び歩き出した足も思うように動かなくて、まだどこにもたどりつけないままに冬の冷たさと夜の寒さが身体から体温と体力を奪っていく…。すでに体力も気力も限界を超えていて、少しでも気を抜けば意識が途切れてしまいそうだった。
 それでも…、ただひたすら歩き続けながらポケットの中に入っている物を握りしめる。けど、それは身を守るための拳銃ではなく、WAの入った小瓶だった…。
 時任の記憶を…、暖かな日々の記憶を消したWAの入った小瓶からは、痛む手でどんなに握りしめても暖かさも何も伝わってない…。なのに、それでも握りしめているのは時任に託されたWAだけが、今は時任が存在したという証だったからで…、
 何もかも夢のように消えてしまいそうだけれど、すべてが夢ではないことを…、皮肉なことにたくさんの記憶を消してきたWAの小瓶が教えてくれていた…。
 
 「・・・・・・・時任」
 
 小瓶を握りしめながら何度も何度も呼び続けた名前を呼ぶと、声には出さずに唇だけで好きだよと呟く…。すると、その瞬間に身体がゆっくりと前に傾いて、やがて久保田は白く降り積もった雪の中に倒れ込んだ。
 胸の奥にある思いのある場所まで…、時任のいる所まで歩いて行きたかったのに重い身体は雪に埋もれたまま動かない…。次第に意識も雪のように白く白く染まって…、冷たさも寒さも感じられなくなった。
 薄れていく意識の中で時任の顔を思い出そうとしたけれど…、やはり泣き顔しか思い浮かばない…。本当はいつも笑って欲しかったのに泣かせて悲しませてばかりいたから…、笑顔よりも涙が胸に染み付いて離れなかった…。
 時任の泣き顔を想い出すと…、頬を流れ落ちる涙を見ていると抱きしめたくてたまらなくて、身体は凍えていくのに胸の奥が熱く焼け付いていく…。そうして記憶の中に残る泣き顔を見つめていると、今もどこかで時任が泣いている気がして…、
 久保田は薄れていく意識を引きとめようとするかのように、左手の甲を右手の爪で傷つけた。すると左手に痛みが生まれて、無くなりかけていた意識が少しだけ戻る。
 そして、少しだけ戻った意識の中で進むはずだった前ではなく横に視線を向けると、そこには雪と同じ色をしたガードレールが見えた。横は崖で何もないと思っていたのに、どうやらいつの間にか崖のある場所を越えていたらしい…。
 久保田は歯を食いしばりながら再び起き上がると、ガードレールに向かって歩き出す。そして通常の何倍もの時間をかけてそこまでたどり着くと、運良く通りかかった車が一台、久保田の前に止まった…。

 「お、おいっ、アンタ大丈夫かっ!!」

 止まった車から降りてきたのは三十台後半くらいの男で、どうやら宗方や真田に関わっている人間ではないらしい。男は怪我をしている久保田を見て驚くと、慌てた様子でポケットから携帯電話を出した。
 久保田の側からは何も見えなかったが、今から押そうとしている番号が何番なのかは見なくてもわかる。怪我人を見た男が押そうとしている番号は…、119番。
 しかし、久保田は男が番号を押す前に手を伸ばしてそれを阻止した…。
 「せっかくケータイ出してくれたトコ、すいませんけど…、番号押さないでくれません?」
 「なっ! なんで救急車を呼ぼうとしてるのに止めるんだっ!」
 「それは、ただ単純に行きたい場所が病院じゃないからってだけ」
 「だが、どう見てもそのケガでは病院に行く方が先だろうっ。さっき崖の所を通りかかった時にガードレールが一部壊れてたけど…、もしかしてあれはアンタが落ちたからじゃないのか?」
 「まぁ…」
 「じょ、冗談で言ったつもりはないが…、本当に本当なのか?」
 「生命保険にも入ってないし、ウソついて俺が得することなんて一つもありませんけど?」
 「あ、あんな所から落ちて良く生きて・・・」
 「うーん…、助かったのは幸運じゃなくて、やっぱ悪運ってヤツかも…」
 「ならっ、すぐに病院に行くべきだろうっ! 交通事故は別に外傷が無い時でも、早く行かないと手遅れになることだってあるんだぞっ!」
 「・・・・・・」

 「とにかくっ、何があろうと何を言おうと今から病院に連れてくからなっ!」

 人の良さそうな男はそう言い切ると、再び携帯で救急車を呼ぼうとする。けれど、その間も二人が立っている雪に覆われたアスファルトの道を通りかかる車はなかった。
 この道がどこに続いているのかは知らないが、この男の車を逃したら今度はいつ車が通りかかるかわからない。そう判断した久保田はさっきのように電話するのを手で阻止するのではなく、懐に隠し持っていた拳銃を取り出した。
 「すいませんけど、手上げてくれません?」
 「あ、アンタまさか…、銀行強盗か何かなのかっ!?」
 「そう見える?」
 「こんな時に冗談はよせっ、それはオモチャだろ?」
 「いんや、ホンモノ」
 「えっ・・・・・・」

 ガウゥゥゥンッッッ!!!

 久保田が銃口を空に向けて拳銃の引き金を引くと、それを見ていた男の顔があっという間に青くなる。ここを男が通りかかったのは久保田にとっては幸運だったが、怪我をした久保田の前を通りかかったのこ男にとっては不運だった。
 もしも腕力で勝負するなら相手は怪我人なので簡単に勝てるが、拳銃だとそうはいかない。男は怪我人を見つけて思わずブレーキを踏んだが、その怪我人はなぜか病院に行くことを望んでいなかった。
 どう見ても早く病院に行かなくてはならない状態なのに、久保田は少しふらつきながらも病院に行くことを拒絶して男に銃口を向けている。けれど、男が銃口の前でゴクリと息を飲むと、久保田は薄く微笑みながらその銃口をゆっくりと男の背中に押し付けた。

 「もしも俺を助けてくれるつもりがあるなら、別の場所に連れてってくんない?」

 そんな久保田の言葉に男は眉をひそめたが、撃たれたくないなら言う通りにしなくてはならない。男が久保田に言われるまま車の運転席に乗り込むと、久保田も助手席に乗り込んだ。
 だが、遠目で見た時はわからなかったが、間近で見ると久保田の顔色は紙のように白い。吐き出す息も荒くなっていて、どうやら見た目以上に怪我が酷いらしかった。
 そんな久保田の顔を横目で見ていると、なんとなく心配になってくる。夜の雪道で怪我人を見つけてすぐに止まったことからもわかるように、男はかなりのお人よしだった。
 「行きたい場所があるなら連れてってやるが、早く行かないと手遅れになるぞ…」
 男がまたそう言って警告すると、久保田は口元に笑みを浮かべる。けれど、その笑みも苦しそうに見えるのも、やはり気のせいではなかった。
 このまま無理やり病院に行れていくか、それとも隙をついて殴り倒して警察に行くかを男は考えていたが…、車を運転し始めてすぐに横から頭に向けられていた拳銃が下へと下ろされる。そして、拳銃片手に人質を取った犯人らしくない口調で男に話しかけてきた。
 「もしかして、オタクってここらヘンの人?」
 「・・・・もしかしなくても、そうだよ。こんな道を通るのは、地元の人間だけだからな」
 「ふーん…、なるほどね。じゃ、ここらヘンに誰かの別荘とか屋敷とかあったら教えてくれません?」
 「イヤだと言ったら?」
 「カラダに風穴が開くだけだけど?」
 「・・・・・・」
 「それとも、二人で心中でもしてみる?」
 「そ、そんなことはしたくないっっ」
 「なら、早く教えなよ」
 「わ、わかったよ、教えるよっ。けど、教える前に一つだけ聞いてみたいことがある…」
 「なに?」
 「今から別荘に強盗に入るにしても、復讐とかそういうことをするにしてもそんなケガしてちゃムリだろう? なのに、どうしてそんな所に行きたがるんだ? もしかして…、そこに仲間がいるとか?」
 「・・・・いないよ」

 「だったら・・・・・、なぜ?」

 質問をした久保田に向って男が質問を仕返したが、男は自分がした質問に久保田が答えるとは思っていない。なのに久保田は柔らかく微笑むと、さっきからずっと二人の乗った車を追いかけてきている白い月を眺めながら…、男の質問に答えるために口を開いた。
 けれど、口調は怪我をしているにも関わらずのほほんとしているのに…、質問に答える声を聞いているとなぜか胸がズキズキしてくる。そして、まるで遠くにいる誰かを想うように月を見つめる瞳は、拳銃を突きつけてきた人物と同一人物だとは思えないほど優しくて…、優しすぎてどこか哀しかった…。

 「そこに会いたいヒトが…、そこにすべてがあるから…」

 そう呟くように言った久保田は、事故で出来た傷が痛むのか肺の辺りを押さえている。けれど、どんなに痛んでもやはり病院に行く気はないようだった…。
 時々、男は車を運転しながら迷うように久保田の横顔に視線を向けていたが、言われた通りに大きな病院の院長の持ち物だと聞いている別荘の近くまで送り届ける。そして、やっと拳銃で撃たれるかもしれない恐怖から脱出することができたが、携帯を取り出して11と二桁の番号を押しかけた指はそのまま止まった…。
 自分は拳銃を背中に突きつけられて脅された被害者なのに、そうした方が早く病院に行かせることもできるとわかっているのに…、どうしても110番を押すことが出来ない…。男は初雪で白く染まった景色の中で、久保田と同じように柔らかな光を投げかけてくる月を見上げるながら長く細く白い息を吐き出した…。

 「会えるといいよな…、その人に・・・・・」

 男の呟いた言葉は、今も会いたい人のいる所に向って歩き続けている久保田には聞こえない…。けれど、真っ直ぐに時任の元へと向う久保田を…、そしてそんな久保田を想い続け呼び続けている時任を…、


 遠い空にある月だけが…、ただ静かに見守っていた…。





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