籠の鳥.40




 「葛西さんっ!!!!!!」

 銃声と葛西を呼ぶ松本と橘の声が温室に響き渡る。だが、温室内は炎だけではなく土埃と煙に包まれていて、二人のいる場所から葛西の姿は見えなかった。
 入り口の閉じられた温室の酸素は薄く、ただ立っているだけで熱風がじりじりと肌を焼く。橘は腕を負傷している松本の肩を抱いて炎からかばいながら、葛西の姿を探したい気持ちを押さえてまだ酸素の残っている地面に伏せた。
 しかし、地面に伏せていても煙と熱がすぐに二人に迫ってくる。
 今はまだ呼吸することができるが、それも時間の問題だった。
 もしも自分一人でこの炎の中にいるのなら、あきらめて地面に倒れたまま瞳を閉じたかもしれない。けれど、松本を抱きしめたままでは絶対に瞳を閉じることも、あきらめることもできなかった。

 「これが…、これが罪を犯した僕への罰なんですか…」

 そう呟きながら松本の肩を祈るような気持ちで強く抱きしめた橘は、出口を探しながら空気のある場所を探りながら地面を這いずる。だが、わずかな空気の流れに沿って真田の出て行ったドアの方向へと移動しようとしたが、激しい炎に阻まれて進むことができなかった。
 植物に水をやるために設置されている水道も、元栓を締められているのか水が出ない。温室の窓に鉢をぶつけてみても、頑丈なシャッターまで壊すことは出来なかった。
 橘はきつく唇を噛むと着ていた上着を脱ぐ。そして、煙を吸い込んで咳き込んでいる松本の口元に当てた。
 「すいません…、僕のせいで貴方まで…」
 「何をバカなことを言っている。俺は俺の意志でここまできたのに、なぜお前があやまる必要かあるんだっ」
 「いいえ…、いいえっ、すべては僕のせいですっ。僕がここに来なければ、貴方がこんな目に会うこともなかったんです…」
 「遥…」
 「真田は最初から僕のことを利用した後、消すつもりでした。そして僕もそれを承知で時任君を久保田君の元からさらい真田に抱かれ…、貴方を裏切った…。だから、僕がここで死ぬのは自業自得です…」
 「・・・・・・・・」
 「けれど貴方は違います、貴方はこんな所で死ぬ運命であるはずがありません…。それに貴方が生きていてくれなければ、僕は・・・・」
 哀しく響く橘の声は、途中で燃えた棚から落ちた鉢の割れる音にさえぎられる。けれど、松本は途切れた言葉を聞き返すこともなく口元に当てている服を外すと、背の差の分だけ開いている距離を埋めるように少しだけ前に這いずって進んだ。
 そして肩を抱きしめている橘の手を外すと、その手に軽く唇を落とす。そんな松本の行動に橘はわずかに目を見開いたが、松本は激しく燃え盛る炎の中で…、
 二人で一緒に夕日を眺めていた、いつかの日のように橘に向かって笑いかけた。
 
 「何度、同じことを言わせれば気が済むんだ、遥…。俺はお前を愛している…、それだけで一緒に罪を背負う理由には十分すぎるだろう? だから罪を償うために死ぬよりも、罪を償うために一緒に生きて歩こう…、二人で…」

 そう言った松本の前にも、松本を見つめる橘の前にも炎に阻まれて道はない。けれど橘は涙の滲んだ瞳で松本に向かって微笑み返すと、絶望的な状況の中で出口を探すために周囲を見回し始めた…。
 どうしても…、なにがなんでもこんな所で死ぬ訳にはいかない…。
 こんなにも自分を愛してくれた人を…、こんな所で死なせる訳にはいかなかった…。
 でも、酸素が減り呼吸が苦しくなってきて、熱さに次第に意識が遠のいて視界がぼやけてくる。橘は歯を食いしばって意識を保とうしていていたが、視界がぼやけてくるのを止めることはできなかった。
 だが、そんな橘の視界の中にぼんやりと黒い影がうつる。始めはその影が何なのかわからなかったが、近づいてみるとぼやけた視界でも影の正体がはっきりと見えた。
 
 「か、葛西さんっ!!」

 地面に倒れている葛西を発見した橘は、そばまで這い寄ると葛西の右手首を掴んで脈を取る。すると、同じように松本も這い寄ってきて胸の辺りに手を置いた。
 確かに真田が引き金を引いて銃声が響いたはずだが、葛西には外傷はなく撃たれた様子もない。倒れている葛西の横には、上から落ちてきた照明が地面に叩き付けられて無残な姿でさらしていた。
 トクン、トクンと葛西の心臓が刻んでいる音を確認した二人はホッと息を吐く。しかし、良く見ると照明のすぐ近くには赤い血溜まりができていた。
 始めは葛西のものかと思っていたが、良く見てみると破壊された照明のそばにもう一人倒れている人物がいる。そしてそれが誰なのかは、それは近くまで行って確認するまでもなかった。
 松本が葛西を橘に任せて照明に近づこうとすると、二人の気配を感じた葛西が意識を取り戻す。けれど、閉じていた目を開いた葛西が最初に見たのは、近くにいる松本でも橘でもなく…、血を流して倒れている宗方だった。

 「なんでだ…、なんでてめぇがこんなことになってやがんだっ!!」

 葛西はそう叫ぶと、少しふらつきながら宗方に近づく。そして流れて出していく血を眺めながら、宗方の肩に手を伸ばすとその手はすぐに赤く染まった。
 真田の拳銃の銃口は葛西の心臓を狙っていたばすなのに、血を流して倒れているのは葛西ではない。それが何を意味するのかは松本や橘にもわかったが、その事実をすぐに信じることはできなかった。
 いつも無機質な瞳をしていて、何事にも無関心だった宗方が葛西を助けるなんてあり得ない…。けれど、宗方の肩から流れる赤い血がそれを証明していた。
 葛西に向かって引き金が引き絞られた瞬間、一番近くにいた宗方は葛西を突き飛ばして無事に二人とも落ちてくる照明から逃れることができたが…、
 とっさにそれに気づいた真田が銃口をずらしたため、銃弾は宗方の肩に当たった。
 葛西は着ているシャツを破いて応急手当をしようとする。だが、意識を取り戻した宗方の手が手当てしようとする葛西の手を拒んだ。
 宗方はいつもと変わらない無機質な瞳で葛西を見ると、撃たれた肩を押さえながら起き上がる。そして炎に包まれた温室内を眺めたが、宗方は驚くことも動揺することもなく、肩の痛みに顔を歪めることもなく無表情のままだった。
 
 「形あるものは壊れ、生きている者は死ぬ…。何があろうとどんなことが起ころうとも、ただそれだけのことだ。他に意味も理由もありはしない」

 そう呟いた宗方の言葉が、誰に向けられたものなのかはわからない…。だが、ただこのまま死に逝くだけの運命でしかなかったとしても…、宗方もそして宗方に助けられた葛西も今を生きていた。
 赤く燃えさかる炎に包まれながら…。
 葛西は皮膚を焼く熱い空気の中で赤い花が奪い取られ剥き出しになった地面を、何かを語りかけるようにじっと見つめる。それから自分のシャツの袖を千切って再び宗方に向かって腕を伸ばすと、拒む手を押しのけて強引に止血をした。
 「生きてる意味は生まれたってだけで十分だ…。生きてる理由なんてのは、泣きながら笑いながら生きてれば自然についてくる…。意味も理由もねぇのは、ただてめぇが生きようとしてねぇだけだ」
 「しかし、もしそうだとしても君に何か関係があるのかね?」
 「そんなもんはねぇよ…。だが、花ばかり眺めてるアンタを見てると胸が痛くてたまらねぇ…」
 「ならば、病院にでも行きたまえ」
 「あぁ…、ここから出たら言われなくても行くさ。だが、その前に一つだけアンタに頼みがある…」
 「ほう、君が私に頼みごとをするとはな」
 「できることなら、俺もアンタに頼みごとなんざぁしたくなかったが…、こればっかりは俺にはどうにもできねえからな…」
 「それはどういう意味かね」
 「アイツのことを忘れちまっても、何もかも思い出せなくなっちまっててもかまわねぇ…。けどな…、アイツの名前だけは忘れないでやってくれ…」
 「・・・・・・・・・」

 「頼むから…、真琴を消さないでやってくれ…、宗方」

 そんな風に言った所で何も変わらない…。けれど、宗方の中にはすでに真琴がいなくなっていることを知っていてもそう言わずにはいられなかった…。
 葛西の言葉を聞いても宗方の表情は変わらなかったが、そんな宗方の横顔を見ていても怒りの感情は湧いてこない。葛西はそれだけ告げてわずかに微笑むと、脱出路を探すために温室内の空気の流れを探り始めた。
 まだ、燃える物が少ないために炎は全体を覆い尽くしてはいないが、熱と酸素不足のためにもうじき限界が来る。遥か遠くから消防車のサイレンが聞こえた気がしたが、このままでは間に合いそうもなかった。
 すでに松本は意識を失っているし、その松本を火の粉からかばいながら地面に伏せている橘もその状態のまま動かない…。葛西は焦りを感じながらドアをこじ開けるために炎の中を進もうとしたが、そんな葛西の方をなぜか宗方が掴んだ。
 「出口はそちらではない…、向こうにある鉄製の棚の下にある…」
 「棚の下?」
 「温室を作る以前からあった非常用の脱出路だ。ここから抜け出したいのなら、そこを使うがいい」
 「それは…、本当か?」
 「信じないのなら、君はドアから出たまえ」
 「・・・・・・・」
 宗方の言葉に従って棚のある場所まで行くと、葛西は熱で熱くなっている棚を足で蹴り倒す。すると信じられないことに宗方の言う通り、棚の下には地下へと続く隠し扉のようなものがあった。
 葛西が急いで非常用の通路へと続く扉を開けると、薄暗い地下から冷たい風が炎に温室内に吹き込む。すると、その風に気づいた橘が閉じていた瞳を開いた。
 だが、地下からの風のおかげで一時的に温室内の温度がわずかに下がったが、逆に炎は風にあおられて激しくなる。葛西が急いで扉の方へ来るように叫ぶと、橘は松本を抱きかかえて走リ出した。
 これで…、この炎の中から脱出することができる。
 しかしそんな場所に出口があったのなら、宗方が今ここにいる理由はない。真田や黒服の男達が温室内にいる時は、棚の下の非常口から出る前に蜂の巣にされてしまうが…、真田が温室を出てしまった後なら脱出することは可能だった。
 葛西は慌てることも騒ぐこともなく、悠然と脱出するために扉に向かって歩いてくる宗方を見てそう思いかけたが…、
 今も血を流し続けている肩の傷を見て、今も温室にいなくてはならなくなった理由があったことを思い出す。あまりにも平然としているので忘れかけそうになるが、真田に撃たれた宗方の傷はかなりひどく出血していた。
 葛西は橘と松本を先に避難させると、扉を挟んで宗方と向かい合う。
 けれど、葛西も宗方も地下へと降りようとはしなかった。
 
 「・・・・なぜ俺を助けたりした? 俺を助けたりしなければ、アンタは簡単にここから逃げ出せたはずだ」
 
 熱い炎に横顔を照らされながら、葛西が静かな低い声でそう言う。すると同じように炎に横顔を照らされながら、宗方は赤い花のあった辺りに視線を向けた。
 その視線の先にはあるのは、茶色い土とそこに眠る真琴の亡骸だけだったが、すべて奪われてしまったかに思われていた花は、慌てていたせいでまだ温室の片隅にわずかに残されている。宗方はわずかに残った小さな赤い花を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
 「君を助けたのはただの気まぐれだ…。だから、理由も意味も何もありはしない。それにその質問に答えるのは、先に私を助けた君の方だろう?」
 「・・・・・だったら、俺も助けたのは気まぐれだ」
 「なるほど、お互いの気まぐれに助けられたという訳か…」
 「そうかもしれねぇが…、俺はあの時、アンタを助けようと思って助けた。助ける気になったのは気まぐれかもしれねぇが、そう思ったのは事実だろ」
 「だが、君は私を殺したいと思っていたのではないのかね?」
 「いや…、確かに俺はアンタを憎んでたかもしれねぇが、殺したいとは思っちゃいねぇ…」
 「・・・・・・・・」

 「それはこんなことになる前だったってのに、記憶ん中に残ってる真琴がいつも笑ってるからかもしれねぇな…」
 
 記憶の中に残る真琴の笑顔…。
 だが、その記憶は葛西の中にはあっても宗方の中にはない…。
 けれど、らしくないほど静かに寂しそうに葛西がそう言うと、宗方は地下へと続く扉ではなく別の方向に向かって歩き出した。
 そうしている間にも中にこもっている熱によってガラスが軋み割れ始め、温室を支えている鉄筋が不気味な音を立てる。危険を感じた葛西が宗方を引き止めようとして走り出したが、それを地下から戻ってきた橘が止めた。
 「そちらの方向に行くのは危険ですっ!! 風が吹き込んだせいで炎が激しくなって、室温も温室を支えている鉄筋も何もかもが限界なんですっっ!!」
 「その手を放せっっ!!橘っ!!!」
 「嫌ですっ!!!」

 「頼むっ、放してくれっ!!! 俺はアイツを死なせたくねぇんだっっっ!!!」

 宗方を死なせたくないと叫んだのは気まぐれだったのか、それとも別の何かがそうさせたのかは叫んでいる葛西にもわからない…。けれど、宗方が歩いていく先にあるものが何なのかがわかった瞬間に、たまらなくなってそう叫んでいた…。
 熱く焼けた空気が皮膚を焼き、呼吸することもままならない…。
 そんな中で歩みを止めることなく赤い花のある場所までたどりついた宗方は、真琴が眠っている場所にある土を片手で掴み取ると戻れと叫んでいる葛西の方を振り返る。そして、ここで生きた長い年月の中で初めて…、真琴ではなく誠人という名を呼んだ…。
 「籠の鳥はこの屋敷ではなく別荘にいる…。もしも籠の鳥を追い求めているのなら、おそらく誠人もそこに向かっているだろう…」
 「マコトってのは…、まさかあの誠人のことなのか?」
 「そうだ」
 「誠人のことは今はいいっ!!だから早くこっちへ戻れっ!!!」
 「・・・・・・・」
 「宗方っ!!!!」

 「誠人の向かった別荘の場所は・・・・・・・」

 そう言いかけた宗方の声が、天井が傾き軋んでいく激しい音に掻き消されて消える。そして、次の瞬間に熱に耐え切れなくなった鉄筋が折れ曲がり、ガラスと共に温室を包んでいるシャッターが落下した。
 葛西は橘によって地下に引きずり込まれ、目蓋の裏に赤く燃えさかる炎と小さな赤い花を見つめる宗方の残像だけを残して暗闇に沈見込む。崩壊していく温室は、炎とまだわずかに残っている植物を押しつぶし…、宗方の姿もその中に消えて…、
 宗方を呼ぶ葛西の叫び声も、やっと到着した消防車のサイレンによって掻き消された。

 「宗方ぁぁぁっっっっ!!!!!!」

 屋敷内に響き始めたサイレンは、薄暗い地下まで鳴り響き…、
 その音は外まで続く地下通路の壁に反響して、まるで哀しみのように音が折り重なりながら増幅していく。
 宗方が最後に呼んだマコトという名は、かつて愛したかもしれない女の名ではなく…、
 一度もまともに呼んだことも見たこともない…、息子の名前だった。
 なぜ今になって…、こんな時になって誠人を呼んだのかはわからなかったが…、誠人の居場所を葛西に伝えようとした時の宗方の瞳は今まで見たことがないほど穏やかで…、
 その瞳の色は…、哀しいくらい誠人に似ていた…。

 「やっと…、やっとてめぇの息子をちゃんと誠人って呼んだってのに…、なんで死にやがるんだっっ。ちゃんと呼んだって死んじまったら、いなくなっちまったら何にもならねぇじゃねぇか…っ!!!」
 
 何もかも炎に焼き尽くされ…、後には灰と残骸だけが残る…。
 けれど燃え尽きない想いを…、どこかに残っていた想いを握りしめるように…、
 宗方の右手は真琴が眠っている場所にある茶色い土を、放さずに強く強く握りしめていた…。











 空から降ってくる白い雪…、手に触れる冷たい感触…。
 白く白く染まった景色はずっと見つめていたいほど…、とても美しく綺麗で…、
 けれど、白だけで染められた世界は見つめれば見つめるほど寂しくて…、どうしようもなく寒くてたまらなくなる…。もしも一人ではなく二人でこの景色を見つめていたのなら、寒くても寂しくても手を伸ばせば、そこにある温もりを掴み取ることができるのに…、
 ゆっくりと瞳を開いた久保田の目の前には、ただ白く白くどこまでも続いていく世界だけが広がっていた。
 いつの間にか雪は止んで月が出ていたが、その月から届く光もやはり冷たい。
 久保田はその光に向かって手を伸ばそうとしたが、まるで自分の身体が他人のもののようで、手を足を動かそうとしても、閉じている瞳を開けようとしても重くて少しも動かなかった。寒さのために青くなってしまった唇も、言葉を紡ごうとしても震えて紡ぐことができなくて…、久保田はうっすらと開いた瞳を再び閉じた。
 雪の上に倒れていると柔らかく雪に抱きしめられている感じがして、とても気持ちが良くてこのまま眠ってしまいたくなる。けれど、眠ろうとした瞬間に聞きなれた声に名前を呼ばれた気がして再び瞳を開いた。
 
 「また…、天国に行きそびれちゃったみたいだよ…、時任」
 
 車ごと崖から落ちて…、それでもまだ雪の冷たさを感じることができる。だが、どんなに動かない手を伸ばしても、時任の距離は開いたままで縮まらなかった。
 ただ…、白い雪だけが届かない久保田の手の上に慰めるように降り積もり…、
 やがては手だけではなく全身が凍えていく…。
 けれど、時任にたった一人の人に会いたいと願うたびに…、そう想うたびに…、
 届かない距離が切なくて苦しくてたまらなくて…、

 身体だけではなく心まで凍っていく感じがした。




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