籠の鳥.39




 静かに音もなく降り続く雪と…、同じように静まり返ったままの屋敷…。
 辺りがやけに静か過ぎることに気づいていたのは橘だけではなく、後から来た葛西や松本も実は気づいていた。
 この屋敷の主である宗方、そして葛西達のいる温室は裏庭にあるが、庭には訓練された番犬が放され、常に警備員も交代で敷地内を巡回している。それにも関わらず真田や黒服の男達、そして葛西達が屋敷内に侵入しても誰にも見とがめられることはなかった。
 橘は鳥籠のような部屋に中島の手によって入れられていたので葛西達とは少し状況が違うが、それでも屋敷内の様子がおかしいと感じている。廊下に人通りがないのは偶然だと思えなくもないが、それは真田の登場によって否定された。
 辺りが静まり返っているのは、夜になったからでも警備員が運悪く気づかなかったからでもなく…。ただ、この屋敷に誰もいなくなってしまっていただけの話だった。
 明かりの一つもついていない屋敷を眺めた松本は、それに気づいて珍しく眉間に皺を寄せる。すると葛西も考え込むような表情で、温室のガラス越しに闇の中にぼんやりと立っている古い屋敷を見上げた。
 「生身の人間ではなく、亡霊の住んでいそうな屋敷だな…、ここは…」
 「いや、もしかしたら本当にそうなのかもしれねぇ…。ここにあるのは、おそらく現在でも未来でもない…」
 「失われてしまった過去、か…」
 「だが、今は過去に思いをはせている暇はない。どうやら俺達は、何者かが仕掛けた罠にはまったみてぇだからな」

 何者かが仕掛けた罠…。

 葛西はそう言ったが、罠を仕掛けられる人物は一人しかいない。しかし、その人物がなぜ屋敷内を速やかに無人にし、ゲームの駒のようにこの温室にWAに関わる人間を集めたのか理由はわからなかった。
 だが、その理由を尋ねたくても駒を動かしただけで、その人物はゲーム盤上にはいない。葛西は松本と橘をかばうように一歩前へ出ると、黒服の男達を従えている真田と向かい合った。
 「アンタに会うのは初めてだが、噂は色々と聞いてるぜ。誠人がずいぶんと世話になったみてぇだな」
 「いや、世話になったのは私の方だよ。特に今回のWAの件では、久保田君にはずいぶんと世話になった。もしまた会う機会があれば…だが、私が礼を言っていたと伝えておいてくれないかね?」
 「てめぇ、まさか誠人にまでっ」
 「色々と想像するのは君の勝手だが、あいにくと私は居場所すら知らない」
 「本当だろうな?」
 「そう尋ねられて首を縦に振れば、君は私を信じるのかね?」
 「いいや」
 「くくくっ、それがわかっていながら聞くとは面白い男だ」
 「別にてめぇを面白がらせるために言ったワケじゃねぇよ」
 「なるほど…、だが、君が信じようと信じまいと私が興味のあるのは籠の鳥ではなく、WAのみだ」
 「・・・・・・・」

 「もっとも、私と違って久保田君は籠の鳥にしか興味がないようだがね」

 真田はそう言ったが、そんなことは言われなくてもわかりすぎるほどわかっている。籠の鳥に出会ってから、久保田はまるで自分の腕から逃げてしまうのを心配しているかのように籠の鳥ばかりを見つめていた。
 籠の鳥の何が…、時任稔の何が久保田にそうさせたのかはわからなかったが…、
 この閉ざされた屋敷の中から出てからも、久保田はまるでまだ誰もいない閉ざされた空間の中にいるような瞳をしていて…、何年たってもどれくらい時が過ぎても何も変わることはなかったのに…、

 時任を見つめる久保田の瞳は…、なぜか切なくなるほど優しかった。
 
 今も昔も…、存在を忘れさられてしまった久保田の居場所はこの屋敷のどこにもない。けれど、あまりにも久保田の瞳は時任ばかりを見つめ過ぎていて、その寂しさや孤独を埋めるためだけに時任を想い続けてるとは思えなかった…。
 自分以外の男の腕の中にいる時任を想うより、もっと別の誰かを愛した方が寂しさも孤独もきっと埋めることができる。でも、それがわかっていても久保田は時任だけしか愛せなかった…、抱きしめられなかった…。
 だから、そんな時任だけを呼び続けている久保田の心を縛りつけることはできなくて、葛西はいつも黙って見ていることしかできなかった。

 たとえ…、傷ついて倒れていたとしても…。

 けれど、後悔ばかりを重ねて見ているだけで何もできない訳じゃない。葛西は拳銃はおろかナイフすら持っていない手を強く握りしめながら、真田を鋭く睨み付けた。
 「WAは絶対に渡さねぇ…、この手ですべて処分してやる」
 真田と自分に向けられた沢山の銃口の前で、葛西はニッと笑いながらそう宣言する。すると、葛西の不敵な笑みを見た黒服の男達の間にわずかに動揺が走ったが、真田が軽く手をあげるとすぐに収まった。
 「残念だがWAはすでに屋敷から持ち出され、ここにはない。そして原料であるあの花を処分することも、銃弾の雨の中では不可能だよ」
 「・・・・なぜ、WAがここにはないと断言できる? それに、あの花がWAの原料だって証拠はどこにもねぇはずだ」
 「なるほど…、確かに君の言う通りだが、WAの在り処もその花についての情報も信用できる筋からの情報なのでね」
 「つまりここに来る前から、花の存在もWAの在り処も知ってたってことか…」
 「そう、花の存在を知っているからこそ私はここまで来た。同じWAを追ってはいるが、君達と私とでは立場が違う」
 「・・・・・・それはどういう意味だ?」

 「君はこの屋敷の招かれざる客だが、私は招かれた客なのだよ」

 招かれざる客と招かれた客…。
 しかし、真田をここに招いたのは屋敷の主である宗方ではない。真田は温室内にいる数名に原料である花の確保を命じると、今度は葛西ではなく宗方の方へと視線を向けた。
 だが、真田が自分の命を奪おうとしていると知りながらも、宗方は周囲の状況に無関心で表情もやはり変わらない。真田に向けられた視線も無機質で、感情らしきものは何も感じられなかった。
 しかし真田はそれを気にした様子もなく、右手に白い手袋をはめるとスーツの懐から拳銃を抜く。そして、ゆっくりと銃口を葛西ではなく宗方に向けた。
 「長い間、WAの原料が何なのかわからなかったが、ある協力者のおかげでやっとわかりましたよ、宗方院長」
 「つまり君にとって、私が不要になったという訳かね?」
 「WAは貴方の命綱だった…、という訳ですよ」
 「ほう・・・」
 「この温室用の植物の取引きで屋敷への出入りが自由になってからも、何に対しても無関心な貴方に付け入る隙などなかったが、貴方はあまりにも何もかもに無関心過ぎた。病院も宗方家も、そしてご子息のことも…」
 真田の言ったご子息というのは、久保田を指して言った言葉ではない。それはWAの原料を確保しようとしている黒服の男達を横目で見ながら、二人の会話を聞いていた葛西にもわかった。
 表向きは宗方が院長で屋敷の主ということになってはいるが、警備員や屋敷にいるすべての人々が主の命令ではなく別の人物の命令によって動いている。いつ頃からなのかはわからないが、すでに宗方はその座を譲るのではなく奪われていた。
 だが、それでも今まで形だけでも宗方が主として収まっていたのは、真田が宗方に手を出さなかった理由と似ているのかもしれない。WAの原料は目の前で小さな可憐な花をつけて咲き誇っていたが、製造方法は今だ宗方の頭の中にしかなかった。
 しかし…、真田は原料を手にいれた時点で宗方を処分しようとしている。けれど、それは製造法を見つけ出したからではなく、宗方がいなくともWAの製造法を見つけ出せるという自信からだった。

 「原料が手に入っても、製造法は不明のままだ。だが、この私の手で作り上げてみせる…、本物以上のWAを」

 真田は口元に薄い笑みを浮かべながらそう言うと、握りしめていた拳銃の引き金に指をかける。だが、それでも宗方はただ自分に向けられている銃口を、まるで他人事のように眺めているだけだった。
 そんな宗方を見て葛西が眉間に皺を寄せて苦しそうな表情をしたが、宗方にはそんな葛西の表情は見えていない。しかし、もしかしたら葛西だけではなく、視線を向けているはずの真田でさえも宗方には見えていないのかもしれなかった。
 けれど、宗方は真田が言うようにすべてにおいて無関心ではない。
 どこかに向けられては、また同じ場所に戻ってくる視線の先には…、

 やはり今も…、小さな赤い花が咲いていた…。

 温室の外では音もなくひらひらと雪が舞い、そして消えていく…。だが、そんな白い雪の冷たさが美しさが、同じように儚く消えていくばかりで温室の中まで届かなくても…、手のひらに落ちた雪の感触を…、
 いつの日か、雪に向かって伸ばした手のひらは覚えているのかもしれない…。
 けれど…、その感触を握りしめてみても、冷たさを思い出すばかりで何を想って握りしめたのかまではわからなかった。
 宗方は引き金にかけられた指を見ることもなく、赤い花の咲く場所まで歩き出す。そして花の前で立ち止まると、ゆっくりと手を伸ばして赤い花に触れた。
 「撃ちたければ撃ってもかまわないが、私を撃った所でWAは手に入らない」
 「くくく…、命乞いのつもりなら、もっと気の利いたセリフにした方がいいのではないかね? 院長」
 「なるほど…。だが、これは命乞いではない」
 「では、何だと?」
 「私の気まぐれだよ」
 「気まぐれ?」
 「気まぐれでチャンスを与えてみたが、どうやら無駄だったようだ」
 「・・・・・・・・」

 「温室の花も私の命も、君の好きにするがいい」

 宗方の無機質な瞳が、拳銃を構えた真田の方を見る。すると、真田はその瞳を真っ直ぐに見返したがわずかに肩が揺れた。
 動揺しているのか宗方に恐れを抱いているのか、近くに立っている葛西にはわからない。だが、宗方の強すぎる存在感に飲まれ始めていることだけは確かだった。
 真田の存在感も並ではないが、宗方の存在感は感情が感じられない分だけ人に恐怖を
与える。話しかけても笑いかけても、何を訴えかけても変わらない声にも表情にもまったく人間らしい部分はなかった。
 しかし何とか宗方の雰囲気に飲み込まれずに踏み留まった真田は、ゆっくりとゆっくりとまるで引き金を引く感触を楽しむように引いていく。だが、撃った銃弾が宗方の心臓を貫いたとしても、真田の手が汚れることはない…。
 それがここに橘や松本…、そして葛西までもこの屋敷に招き入れた理由だった。

 「君達の恨みを、私が代わって晴らしてあげよう…。だがそれを見届けた後、この場で代償を支払ってもらうがね」

 その言葉の意味に気づいた橘が温室の周りを見回すと、黒服の男達がポリタンクを持っているのが見える。ポリタンクに何が入っているかは匂いを嗅いでみなければわからないが、そうしなくても想像は簡単についた。
 温室から見つかる古い白骨化した遺体…、そして妹を探していた兄…。
 宗方家を調べた調査書と養父の死因に疑問を持っていた…、息子と養子…。
 三人とも宗方を殺す動機は、無理にでっち上げなくとも十分すぎるほどにある。ここで宗方だけに弾痕の残る遺体が四体見つかれば、警察がどんな判断を下す可能性が高いのかは考えるまでもなかった。
 やがて、台風や災害時にそなえて設置されていたシャッターが温室を覆うように下ろされ電気がつけられる。すると温室の中にまでポリタンクに入っているガソリンがまかれ、その匂いが温室に充満した。
 これで外からの銃撃される心配は減ったが、マッチ一本で温室の中が火に包まれる。だがそれがわかっていながら葛西は、誰にも見られないようにポケットから安物の百円ライターを出してタバコに火をつけた。
 「おとなしく黙って聞いてれば、すいぶん酷いこと言ってくれるじゃねぇか」
 「ふふふ、恨むのなら宗方の愛人になった妹を恨むがいい。すべての発端は私ではなく、君の妹にあるのだよ」
 「発端、か…。だが、そうだしてもアイツを恨む理由がねぇよ」
 「ほう、今からここで焼け死ぬ運命だとしても同じことが言えるのかね?」
 「あぁ、言えるさ。ついでに言うなら、ここで焼け死ぬつもりもねぇからな」
 「まさかここから逃げ出せるとでも?」
 
 「何事もやってみなきゃわかんねぇから、人生ってのは楽しいんだぜっ! 真田っ!」

 葛西はそう叫ぶとタバコを、ガソリンがまかれている場所に向かって投げる。すると、タバコが投げられた先にはまだガソリンを撒いている黒服の男達がいた。
 葛西の手から離れたタバコは弧を描きながら、温室の地面へと落ちていく。その瞬間に真田が宗方に向かって引き金を引いたが、弾は宗方の肩をかすめただけで当たらなかった。
 しかしそれは宗方が避けたからではなく、葛西が宗方に飛びついてかばったからである。宗方と一緒に地面に倒れこんだ葛西は、素早く鉢の置かれている棚に身を隠した。
 二人の近くにいた松本と橘は、葛西を援護するように黒服の男達に向かって鉢を投げる。すると、そうしている間にも火はあっという間に黒服の男達を襲いながら燃え広がり、温室内をオレンジ色に染めていった。
 温室から出られない状態で葛西が火を放つとは考えいなかったらしく、予想していなかった事態に温室内はパニック状態に陥っている。葛西達以外は手に拳銃を所持していたが、炎が相手ではなんの役にも立たなかった。
 火災報知機もスプリンクラーも作動しないということは、すでに電気は室内灯を残して切られてしまっていたらしい。燃えさかる火と煙に包まれていく温室内の温度は急激に上がり、次第に呼吸するのが苦しくなっていった。
 こんな状態の中で数人の男達が発砲してきたが、葛西達との間を炎と煙が目隠しになってさえぎってくれているため、近づいてくることができないだけではなく正確な射撃もできない。やがて温室内が完全に炎に包まれると、男達は真田の指示でWAの原料となる花を火から守りながら温室外に撤退しようとしたが…、
 その中で一番逃げ遅れていた男に向かって、葛西達はいっせいに鉢を投げつけた。
 すると、男は持っていた拳銃で応戦しようとしたが、引き金を引くよりも早く重い鉢に当たって拳銃が地面へと落ちる。そしてその拳銃を棚の影から走り込んで素早く拾い上げた葛西は、真田に向かって銃口を真っ直ぐに向けた。

 「チェックメイトだ…、真田」

 激しく燃え盛る炎の中で、銃口を向けられた真田だけが撤退せず一人で残っている。真田はオレンジ色の炎に横顔を照らされながら、再び手に持っていた拳銃を構えた。
 だが、辺りは炎に包まれ時間はあまり残されていない。
 葛西は真田の腕に狙いを定めて引き金にかけた指を引き絞ると、それよりも少し遅れて真田も葛西の心臓に狙いを定めて引き金を引こうとする…。しかし、同時に引き絞られた引き金が銃弾を銃口から打ち出そうとした瞬間…、温室を照らしていた照明が炎でコードを焼き千切られ葛西の上に落下した。

 「逃げろっ、葛西さんっっ!!上から照明がっっっ!!!!」

 そう松本が叫んで橘が走ったが間に合わない。
 何もかもを焼き尽くしながら燃えていくオレンジ色の炎の中で、葛西は上を見上げる。
 すると、そんな葛西に向かって無情にも真田が引き金を引いた。


 ガウゥゥゥーーーーンッ!!!!!!


 一発の銃声が温室に鳴り響き、次に落下した照明が轟音を立てると、葛西の名を叫びながら走り出した橘と松本の視界を炎と煙が奪う。だが、一番入り口に近い場所に居た真田だけは、白い硝煙が立ち昇る拳銃をするりと手から地面へと落とすと、そのまま襲ってくる炎と煙から逃げるように温室を出た。
 そして焼け付いたドアを近くにいた男に閉じさせると、遥か遠くから聞こえ始めた消防車のサイレンを聞きながら歩き出す。かすかに芝生に積もる白い雪を踏みながら、真田はまだ白い手袋がはめられたままになっている右手でタバコをくわえた。

 「ゲームは最後までわからないが、だからこそ面白い」

 真田はそう言って短く笑うと、赤い花と一緒に闇の中に消える。だが赤い花が闇に消えても、空から舞い落ちる白い雪の中で温室を包む炎は赤く赤く燃えさかっていた。
 



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