籠の鳥.38




 ガタン・・・・、ガタガタ・・・・・

 宗方と向かい合った葛西の耳に、温室のガラスを叩く風の音がわずかに聞こえてくる。けれど、どんなに風と雪がガラスを叩いても、暖かな温室の中には冬の空の冷たさも寒さも届かなかった。
 一定の温度で保たれた温室内は、鮮やかな緑が生い茂り花が見事に咲き誇っていたが、葛西がここにいるのはそんな緑や花の美しさを眺めるためではない。屋敷内に誠人や時任の姿はなかったが、このまま何もせず立ち去るわけにはいかなかった。
 葛西は葉書を手に持ったままで宗方の様子を眺めていたが、やはり葉書を見ても表情は動かない。けれど、葉書にはこの屋敷の住所がはっきりと書かれていた。
 一緒に産婦人科に行った日に、妹は身ごもっている子供が妻子ある男の子供だということは葛西に告白したが…、その人物が何者なのかということまでは明かしていない。しかし、それが相手のことを知られたくなかったからなのか、ただ言いづらかっただけなのかは本人にしかわからなかった。
 けれど、住所が書かれていたことには何か意味がある…。
 そう葛西が感じたのは、妹が行方不明になったことを知ってからだった。
 葛西は手に持った葉書をポケットの中に収めると、温室のガラス越しに宗方の屋敷を眺める。だが、葛西の視線の先で夜の暗がりに沈む屋敷の影は、辺りを包み込んでいるどんな闇よりも暗く冷たかった。

 「・・・・・妹は、アイツはどこにいる?」

 葛西が低い声でそう尋ねると、宗方は口元に微笑を浮かべる。するとそれを見た葛西は同じように薄く笑み浮かべながら、温室に並べられている鉢の一つを手に取って地面へと落とした。
 落とされた鉢は葛西の足元に派手な音を立てながら砕けて散らばって…、植えられていた植物はぐったりと地面に横たわる。その様子を見ていると植物を拾い上げたい気分になるが、この温室にある植物達はこのまま置いておくにはあまりにも危険すぎた。
 葛西は地面に投げ出された植物に構わず、また次の鉢を手に取る。だが、宗方はそれを止めることなく、葛西の様子を何の感情も浮かんでいない黒い瞳で見ていた。
 「そんなことをしても、君の妹もWAも見つからない。だが、それで気が済むと言うのなら、いくらでも鉢を壊すがいい」
 「へぇ、ずいぶんと余裕じゃねぇか?」
 「疑うのは君の勝手だが、私は本当のことしか言っていないのでね」
 「証拠は?」
 「いくら探しても見つからないことだ。それを以前、証明してみせたのは私ではなく君ではなかったかね?」
 「・・・・・・・・」

 「飛び去った鳥の行方など、探すだけ無駄だ」

 そう言った宗方の言葉には、瞳と同じようになんの感情も感じられない…。妹が行方不明になったことを知って始めて屋敷を訪ねた時から、宗方の様子はいつも変わらなかった。
 宗方はそういう男なのだと、すでに葛西は十分すぎるくらい知っている。だがその様子を見ていると、あまりにも無感情で無関心すぎて…、
 こんな男を妹が愛していたのかと思うとたまらなかった。
 けれど、両親が離婚してから再会するまでの長い間、妹のことを思い出しもしなかった自分も似たようなものかもしれない…。手に持った鉢を眺めながらそう感じた葛西は、兄弟のように育った血のつながりのない二人に…、お互いを守るように抱きしめ合っている松本と橘の方へと視線を向けて細く長く息を吐いた…。
 
 「もしかしたら俺の方が一緒にいた時間は短かいのかもしれねぇが…、それでもアイツは俺の妹なんだよ」

 残された一枚の古びた葉書と記憶の片隅に残る微笑みを思い出しながら、葛西はそう呟くと再び宗方を睨み付ける。だが、両親が離婚して離れ離れになった妹について、葛西の中に残っている痕跡はその二つくらいしかなかった。
 けど、それでもその残されたわずかな痕跡が胸の中から消えないのは、行方不明になる前に再会した時、『お兄ちゃん』とそう呼ばれたからかもしれない。
 一緒に暮らした日々よりも離れていた日々の方が遥に長く…、小さな頃の記憶は曖昧ではっきりとしなくて…、待ち合わせの場所でそれらしき人物の姿を見つけてもそれが本当に自分の妹かどうかすらわからないのに…、
 妹は葛西を見つけるとうれしそうに微笑みながら葛西を呼んだ。
 
 『お兄ちゃん…』
 
 この世でたった一人の妹…、真琴。甥である誠人と同じ名の妹の大切さに気づいたのは、行方不明になってからだった。
 だが、いくら大切さに気づいても後悔しても、いくら探しても真琴は見つからない。けれどあの日、微笑みながら大丈夫だと言った真琴が、生まれた子供を愛人の屋敷に置いて失踪したことが信じられなかった。
 失踪したことも…、妹がこの屋敷にいたことも…、
 そして愛人をしていた事実も、宗方の表情のない横顔を眺めているとなぜか何もかもが偽りに思えてくる。しかし、産婦人科で怖がりながらも自分のお腹をそっと撫でながら、子供のことを悩んでいた妹が嘘を言っていたとは思えなかった。

 『お前ぇ、金のために愛人やってんだったら…』
 『ううん、そうじゃない。もし、お金のために愛人してるなら悩んだりしないわ…』
 『・・・・・・・そうか』
 『ごめんね…、お兄ちゃん』
 『バカ、何をあやまってんだ。お前ぇが自分で選んだことで、俺にあやまる必要なんてのは少しもねぇだろ? それに、お前ぇがあやまる必要があんのは俺じゃなくて腹ん中の子だ』
 『・・・・うん』
 『べつに責めるつもりで言ったんじゃねぇよ。世の中にはどうにもならねぇ、しょうがねぇってこともごまんとあるさ』
 『・・・・・・・』
 『真琴…』
 『あのね…、この子の名前…』
 『名前?』
 『・・・・誠人っていうの』
 『まこと? お前の名前と同じじゃねぇか』
 『そう…、私にはこの子にあげられるものなんてきっと何もない。だから、名前をこの子にあげるの』
 『・・・・産むつもりなんだな』

 『結局…、私は鳥籠から出ることなんてできないのよ…』

 産婦人科の待合室で怖いと震えながら真琴はポツリとそう言って哀しそうに瞳を閉じる。けれど何をそんなに怖がっているのか、そしてお腹の中の子供の父親について聞いても答えは返って来なかった。
 それは宗方も同じで真琴について尋ねても誠人について聞いても、いつも窓の外を眺めるばかりで何も話さない。温室から見える宗方の部屋の窓を見てわずかに目を細めると、葛西はゆっくりと歩いて宗方の方へと近づいた。
 そして手を伸ばして襟首を掴むと、まるで射殺そうとしているかのような鋭い瞳で宗方の顔をのぞき込む。けれど、宗方の感情の色のない瞳はただ反射的に見返してくるだけで変わらなかった。
 「なんとも想ってねぇなら、なんでアイツに誠人を生ませた…っ、なんでWAの原料になる植物にアイツの名前をつけたんだっ! 答えろっ、宗方っ!!!」
 「そんな昔のことは覚えていない。それに、植物に名前などつけた覚えもないのでね」
 「ホンキで言ってんのか?!」
 「本気に決まっているだろう?」
 「てめぇっ…」

 「疑うのも怒るのも君の勝手だが、何度聞いても無駄なことだ。私はいつも本当のことしか言っていない…、それが真実だよ」

 いつもと変わらない宗方の言葉を聞きながら、葛西はギリリと歯を噛みしめる。けれど、どんなに歯をかみしめても、拳を握りしめても真実は見えてこなかった。
 このままではいつもと同じように何もわからないままに、何も掴めないままに終わってしまう。初めてこの屋敷に来た時も真琴のことをあきらめるつもりはなかったが、どんなに探しても妹を見つけることはできなかった。
 もし誠人が生まれていなかったら、誠人がここにいた痕跡は微塵も残らなかったのかもしれない。そう思えるほど、宗方の瞳は何も写してはいなかった。
 
 「WAの原料のトルース…、意味は真実と事実…。だが、一体そんなものがこの屋敷のどこにあるってんだ…、教えてくれ真琴…っ」

 そう苦しみに満ちた声でそう言ってから、葛西は宗方に向けていた視線を鉢ではなく温室の地面に直接植えられている赤い小さな花に向ける。しかし丁寧に手入れされた温室の中にあるはずなのに、その花だけがまったく手入れがされていなかった。
 花が花の意志で増えるままに咲くままに任せているためか、赤い花が温室の片隅から中に向かって徐々に侵食し始めている。だから、このままあと数年放置しておけば赤い花が温室内を埋め尽くしてしまうかもしれない。
 忘れな草に似た植物に咲く赤い花を葛西が見つめ、同じように宗方もじっとその花を見つめる。相変わらず宗方の瞳にはなんの感情の色も浮かばないが、自分の部屋から外を見つめる時のように、温室の中にある手入れされたどんな希少価値の高い植物よりも小さな赤い花だけを見つめていた。
 『本当のことしか言っていない…、それが真実…』
 葛西は宗方の言葉を何度も繰り返し呟きながら赤い花を見つめ、それから再び宗方の部屋の窓を見て息を飲む。そして襟を握っていた手をゆっくりと離すと、ポケットの中の葉書を握りしめながら赤い花の前に立ち尽くした。

 「これが…、こんなのが俺の探してた真実だってのか…っ」

 葛西は目の前にある赤い花を素手で掴むと、引き抜いて地面を掘り始める。硬い地面を素手で掘るのは辛かったが、それでも何かに取りつかれたように無我夢中で掘り続けた。
 そんな葛西の様子を見ていた橘は、松本の腕の中から抜け出して宗方の喉元にナイフを突きつける。けれど、それを松本は止めようとはしなかった。
 「隠していた事実が暴かれようとしているのに、ずいぶんと冷静ですね。それとも、隠されている真実は、貴方とっては意味も価値もないものなんですか?」
 「知らないものに価値も意味もないだろう?」
 「貴方という人はどこまで…っ」
 「私は本当のことしか言っていない…、そう言ったはずだが?」
 「なら、このナイフが喉を切り裂いても同じことが言えますか?」
 「無論だ」
 橘の問いかけに答えた宗方の返事には淀みも迷いもない…。あまりにも迷いなく淀みなく、はっきりと返ってきた返事に橘は眉をひそめたが、突きつけているナイフをゆっくりと喉へと押し付けた。
 けれど、やはりそれでも宗方の表情は動かない。そんな宗方の様子を見た橘は更にナイフを持つ手に力を込めようとしたが、それを止めたのは松本ではなく地面を掘る手を止めた葛西だった。
 「もういい…、やめろ、橘」
 「ですがっ」
 「そいつの喉にナイフを突きつけても、切り裂いても何も変わりゃあしねぇ…。だから、やめるんだ」
 「・・・・貴方がそうおっしゃるならやめますが、それは一体どういう意味なんですか?」
 「・・・・・・・・」

 「葛西さん?」

 葛西は橘が呼びかけても、松本が切られた傷を押さえながらそばに駆け寄ってきても身動き一つしない。ただ泥に塗れた手を地面についたまま、じっと一点だけを静かに見つめていた…。
 そんな葛西を不審に思った松本が掘られた場所をのぞき込んだが、そうした瞬間に驚いたような表情をして息をつめて黙り込む。その沈黙に引き込まれるように橘も松本の隣に立ったが、強く松本の肩を抱きしめただけでやはり何も言わなかった。
 葛西が見つめる先には手折られた小さな赤い花と、無残な姿に変わり果てた真琴が眠っている…。その遺体が葛西の妹だという証拠はどこにもなかったが、行方を知らないと言い続けてきた宗方の無機質な視線が、いつもこの花を見つめていたことに気づいた瞬間に確信した。

 「おい…、大丈夫だとか言ってやがったクセに、なんでこんなことになってやがんだよ…。おかげで探すのに苦労して、かなり手間取っちまったじゃねぇか…」

 葛西はそう言いながらゆっくりと静かに地面を撫でると、手の中にある土と一緒に拳を硬く強く握りしめる。けれど、どんなに拳を握りしめても目の前にある真実も現実も変わらなかった。
 あの日、もう大丈夫だと微笑んでいた真琴は葛西に背を向けたまま、もう振り返ることはない。差し伸べた手を取らずに鳥籠に戻っていくのは真琴の意志だからと、その背中を見送ったはずなのに後悔ばかりが胸の奥から押し寄せてくるのを感じた。

 「すまん…、真琴…。お前は俺をお兄ちゃんって呼んでくれたってのに…、俺はお前に何もしてやれなかった…」

 記憶の中に残る真琴は微笑んでいたけれど、その微笑みが穏やかであればあるほど…、なぜか胸が痛く苦しくなってくる。葛西は立ち上がって宗方の方を見たが、小さな赤い花の下に眠る真琴を見ても表情が変わらなかった。
 無感情で無関心で…、何も知らない…。
 ポケットの中から真琴の葉書と安物の100円ライターを取りだすと、葛西はその真実と事実を見せ付けるように宗方の目の前で葉書に火をつけた。
 「辛いことも哀しいことも、何もかも消しちまえば楽になれる…。なかったことにしちまえば、辛いと思うことも哀しむ必要もねぇからな…」
 「もしそうだとして、それが私に何か関係があるとでも?」
 「関係か…。今のてめぇを見てると拳を振り上げても、殴る気がしねぇ」
 「ほう、それはなぜかね?」

 「さっき言ってた通り、てめぇは本当のことしか言ってねぇよ。だが、それは知らないからじゃねぇっ、何もかも忘れちまってるからだっ!」

 葛西はそう吐き捨てるように言うと、赤い色の炎を出しながら燃えていく葉書を地面の上へと落とす。けれど、すでに葉書は半分以上が燃えて灰になってしまっていた。
 今はまだこうして葉書は目の前にあるが、もう少しすればこの世から消えてしまう。だが、それでもまだ葉書の存在はこの世からすべて消え失せてしまったわけではなかった。
 葉書が確かに存在していたという、誰かの記憶…。
 その記憶がある限り、葉書がこの世から完全に消えうせることはない。けれどその記憶が消えてしまえば、この葉書が存在したことを証明するものはもう何もなかった。

 この屋敷に住み着いている犬…。

 宗方は息子である誠人を屋敷内に放置し、引き取ると言った葛西に向かってそう言っている。それはただ息子というものに興味がないだけだと思っていたが…、もしも宗方の中から真琴に関する記憶が消えていたとしたら…、
 息子が生まれたという記憶がなくなっていたとしてもおかしくはなかった。
 息子を見ても何も想うこともなく、その母親の死を見ても何も感じることもない…。宗方の無機質な瞳は、ただ目の前にある現実だけを忠実に写していた。

 「何もかも消して…、何もかも亡くしちまってそれで満足か? 宗方」

 なぜ真琴は死んだのか…、なぜこんな場所にいるのか…、
 何を問いかけても宗方の中に真琴の痕跡は残っていない…。
 もしも宗方が真琴の首に手をかけたのだとしても、何も覚えていない人間をに怒りを哀しみをぶつけても素通りしていくだけで後にはもっと深い怒りと悲しみが残るだけだった。
 真琴が眠る場所に咲く小さな赤い花から抽出されたと思われるWAという薬は、まるでそれが真琴の願いだったかのように愛しい人の記憶だけを消していく…。けれど、自分で作り出したその薬を腕に注射して何もかもを忘れてしまっても、何も感じなくなっても…、
 宗方はその理由も知らずに、いつも赤い花ばかりを見つめていた。

 「俺が覚えててやるから、絶対に忘れないでいてやるから…、静かに眠れ…、真琴…」

 葛西はそう言うと、温室の片隅に咲いている小さな花を処分しようとする。だが、そうしようとした瞬間に、派手な音を立てて温室のドアが勢い良く開いた。
 松本と橘はそちらの方へ視線を向けたが、葛西は構わずに花に手をかける。しかし、ドアから入ってきた黒服の男達の持っている拳銃の銃口が、いっせいに葛西の背中に向けられた。

 「君達が宗方を処分するのを待っていたが、その花の方は処分されては困るのでね」

 黒服の男達の背後から現れた男は、そう言うと口元に見る者を不快にさせる嫌な笑みを浮かべる。その男はWAの研究施設にいたはずだったが、どうやら状況を聞いて直接、部下達の指揮を取るために屋敷に来たようだった。
 真田と宗方…、そして葛西の視線が温室の閉ざされた空間でぶつかる。だが、この状況が誰かの思惑によって作られたものなのか、それとも偶然にできたものなのかは武器になるものを探しながら三人の様子を見ていた松本にも橘にもわからなかった。
 


 
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