籠の鳥.37
『あれは…、あれは一体どういうつもりなんだ? 遥』
『あれとはなんのことです?』
『私が見ていたことを知っていて、しらばくれるつもりなのか?』
『・・・・・・そんなつもりはありませんよ』
『まさか、私に復讐するつもりであんなことを…っ』
『もしも僕が…、そうだと答えたらどうするつもりです?』
『息子には関係ないっ。恨んでいるというのなら、復讐したいというのなら私にしろっ!』
『ふふふ・・・・』
『な、何がおかしい?』
『貴方のような人でも、自分の息子は可愛いんですね』
『・・・遥』
『そうですよ…、僕は貴方に復讐したかったからあの人と寝たんです。そしてこれからも犯し続けますよ、貴方が僕にしたように…』
『・・・っ!!』
『これは復讐なんですよ…、お父さん』
松本を腕の中に抱きしめたのは好きだったからで…、それ以上でも以下でも他の理由があった訳でもなかった…。けれどドアからの視線を感じた時、これは復讐かと問われた瞬間に別の何かが心の中に忍び込んできて…、
本当はただ愛しているから、好きだから抱き合っていただけだと答えるつもりで開いた唇は復讐という言葉を紡いでいた。
誰も恨みたくなかった…、復讐なんてしたくなかった…。
でも、凍りついた父親にだったはずの男の顔を見ていると首を横に触れない…。もしも首を横に振れば、あんなことにはならなかったかもしれないのに…、その時は今までは見上げていた男の顔を見下ろして微笑んでいた…。
「やめろっ、やめるんだっ、遥っ!!!」
近くにいるはずの松本の声が遠くから聞こえて、いくら握りしめても振り上げたナイフの感触すらわからなくて…、ナイフで切り裂こうとしているのは宗方なのか、それとも父親だったはずの男なのかもわからない…。けれど、ただひたすら痛くて苦しくて、哀しくてたまらなくて…、何もかも消して壊してしまいたかった…。
たとえ、握りしめた手のひらの中に何も残らなかったとしても…。
すべてを思い出してしまったから、もう暖かな偽りの中にはいられない…。でも、たとえすべてが偽りだったとしても…、その偽りの記憶と思い出の中に自分のいるべき場所と暖かな家族が大切な人達がいて…、
誰よりも大好きな人が…、そこで幸せそうに楽しそうに笑っていた…。
だから夢でもいい幻でもいい、真実なんていらないから…、
大好きな人にいつも微笑んでいて欲しかった…、笑っていて欲しかった…。
赤く染まった美しい夕日が沈んでしまったとしても…、ずっとずっと…。
けれど、握りしめたナイフで切り裂いたのは目の前で無機質な笑みを浮かべている宗方でもなく、真実でもなく…、二人の間に飛び込んできた松本の腕だった。
それを見た橘の手からナイフが滑り落ちて…、その音が温室に響き渡る…。目の前にある現実が信じられなくて信じたくなくて自分の手を見ると、そこには赤い返り血がわずかについていた。
大切なものを守るために身体も手も汚して…、なのに何も守れなくて…、手のひらは犯した罪に濡れていくように、愛しい人の血に濡れている…。傷口から腕を伝ってゆっくりと流れ落ちていく赤い血を哀しみに満ちた瞳で見た橘は、やめろと叫ぶ松本の手を振り払って自分の喉元にナイフを押し付けた。
「僕は誰よりも貴方が好きでした…。お願いですから、それだけは信じていてください…、疑わないでいてください…、隆久」
真っ直ぐに松本の瞳だけを見つめながら、そう言って哀しく微笑むとナイフを持った手に力を入れる。すると、ナイフを押し付けられた部分から松本と同じ色の血が流れ出した…。
ナイフの冷たさを感じながら瞳を閉じると、橘は一気に自分の喉を切り裂こうとする。 だが、そうしようした瞬間に手に痛みが走ってナイフが床へと落ちた。
それに驚いて橘が瞳を開けると、すぐ目の前で今までに見たことがないほど怒っている松本の顔がある。けれど、橘に向かって伸びてきた腕は…、哀しみも痛みも包み込もうとしているかのように優しくて暖かかった。
「俺はちゃんとここにいるのに、目の前にいるのに…、どうして好きだったなんて過去形で言うんだ…、どうして俺を置いて行こうとするんだ…。お前は忘れているのかもしれないが、俺はお前が好きなんだぞ…、遥…」
松本は震える声でそう言うと、橘の身体を強く強く抱きしめる。すると橘の瞳から涙がゆっくりと零れ落ちて…、抱きしめてくる松本の肩を濡らした。
けれど、どんなに後悔しても…、犯した罪が消えることはない…。
橘は痛み続ける心の中で好きです、愛していますと叫びながら、一度だけ腕を伸ばして背中を抱き返すと…、渾身の力を込めて松本の身体を突き飛ばした。
そして再びナイフを拾い上げようとしたが、そうする前に素早く起き上がった松本の手が橘の頬を打つ。その音と痛みに驚いた橘が動きを止めると、松本は母親が子供にするように橘の頭を撫でた。
「もういいんだ、もういいんだ…、遥…。すべて知ってるから、すべてわかってるから…、お願いだから一人で泣かないでくれ…、一人で苦しまないでくれ…」
「たか、ひさ?」
「すべてお前のせいじゃない…、お前は悪くなんかない…。お前に罪があるとしたら、何も気づかなかった知ろうともしなかった俺の罪だ…」
「なにを…、言って?」
「今も昔も誰よりも・・、犯した罪よりも深く愛している…」
「・・・・・・」
「好きだ・・・、遥…」
聞こえてくる声が…、好きだと愛していると告げた言葉が遠くから聞こえてくるけれど、あまりに遠すぎて意味が良くわからなくて…、
けれど、胸の奥が瞳が熱くて痛くて…、泣きたくもないのに泣くつもりなんて少しもないのに次々と流れ落ちてくる涙が止まらない…。どうしたらいいのかわからなくて、ただ呆然としていると…、暖かい手が伸びてきて涙をぬぐって…、
それから…、罪を背負った橘の背中を優しく抱きしめた。
「好きです…、愛しています…。背負った罪よりも深く貴方だけを…」
涙に濡れた瞳でそう言いながら強く松本を抱きしめると、松本も強く抱き返してくる。けれど、まだこれですべてが終わったわけではなかった。
想いの深さを確かめ合うように抱きしめ合いながら松本が鋭い視線を向けると、宗方は抱きしめ合う二人をただ黒いだけの感情のない瞳で松本の方を見る。橘の件で宗方は見ていただけだったが、松本の父親にWAを渡して橘を犯すようあおったのは事実だった。
この男によって作り出されたWAによって多くの人が傷つき…、今も痛みが広がり続けている。それを止めるためには、ここにあるというWAをすべて処分するしかなかった。
松本に軽く手で下がっているように合図すると、葛西は宗方にWAについて話を切り出そうとしたが、宗方の視線は相変わらず温室に咲く小さな赤い花を見つめている。この温室に葛西が入るのは初めてだったが、ここにはいやに静かだった屋敷以上に異様な空気が漂っていた。
葛西は周囲の空気が自分の感情に同調して緊張していくのを感じながら、甥である久保田の父親であり、かつて妹の愛した男でもある宗方をじっと睨み付ける。しかし、そんな葛西の視線を感じているのかいないのか、宗方の表情はピクリとも動かなかった。
「こいつはまた、ずいぶんと物騒な温室じゃねぇか…、宗方さんよ」
「この温室がどういうものなのか、君にもわかるのかね?」
「ああ、わかるぜ。この温室でWAの原料が育ってるってことが…」
「根拠は?」
「ねぇよ」
「ならば、お帰りいただこう。根拠のない話に付き合うほど、ヒマではないのでね」
「根拠はないが、自信ならある」
「ほう…」
「WAのことだけじゃねぇ、俺の妹が失踪したってのが嘘だってこともな」
葛西はそこで言葉を切ると、ポケットから一枚の葉書を取り出して宗方に見せる。実はこの葉書は葛西の妹が、甥である誠人が生まれた時に送ってきたものだった。
一緒に行った産婦人科では子供を生むのが怖いと言っていたが、この葉書には一言もそんなこと書かれていない。けれど、妹が子供を生むのを怖がっていたのは事実だった。
生まれる前から母親に怖がられ、この屋敷に捨てられるように育った誠人…。
そして妹の名前が付けられた花とWA…、急死した前院長…。
葛西は嫌な予感を覚えながら、何かを見逃すまいとするかのようにじっと宗方を睨みつけた…。
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