籠の鳥.35




 同じ灰色の空から降り注いでも、時には激しく叩き付けるように降る雨と違い雪はいつでも音もなく降り積もっていく…。だが、少し早い初雪は二人で暮らした離れやマンションのある街では、アスファルトの熱に耐え切れずに積もらず溶けていた。
 天気予報では雨と予測されていたはずなのに、街を覆っている空は雨粒を落としながら激しく泣き叫ぶよりも、まるで静かに悲しみに暮れるように音もなく雪を降らせている。それは街から離れた場所にある宗方家の別荘のある一帯でも同じだったが…、
 そこでは空気が澄んでいるせいか、雪は溶けずに積もり続けていた…。
 だが、室内と外気の温度差のせいで、時任のいる部屋の窓ガラスは白くくもっていて外の様子は見えない。だから、どんなに静かに悲しみに暮れるように雪が降り注いでも、一定の温度に暖かく保たれた室内までは届かないのかもしれなかった。
 やがて降り続ける雪に車のスリップ跡はかき消され…、どこからともなく聞こえてくるキツネの鳴き声が白く染まっていく森林に木霊する。けれど、降り積もる雪よりも悲しく切なく…、閉じられたままになっている時任の瞳から零れ落ちる涙が乱れた白いシーツを濡らし続けていた…。
 
 「はぁ、はぁ…、あっ、あぁ・・・っ!」

 呼吸が苦しくなるほど、身体が熱くて熱くてたまらない…。
 そして、その熱さは自分の中を犯していく熱から全身に広がっていた。
 時任は意識が混濁していて、これが夢の中の出来事なのかそれとも実は自分がまだあのマンションにいるのかわからなくて…、ベッドの上で身体を揺らしながら必死にただ一人の名前だけを呼び続けている。
 それは誰よりも好きだった…、ずっとずっと一緒にいたかった人の久保田の名前だった。
 けれど、その人と一緒にいた日々は優しいものだけ詰まってるわけじゃなくて…、痛くて苦しくてたまらないことばかりがベッドの軋む音を聞きながら脳裏をよぎっていく…。
 あの鳥籠のような部屋からマンションに買われて連れて来られて、まるで籠から出されたのではなく、籠から籠へ移されただけだということを教え込むように、ベッドに無理やり押さえつけられて犯されるように抱かれた…。でもそれが哀しかったのは…、どうしようもなく哀しかったのは相手が誰よりも好きな人だったからだった…。
 けれど、それ以上に哀しくてたまらないのは…、苦しくて苦しくて胸が張り裂けそうなのは…、久保田の口からある言葉を聞いたせいだった…。

 『好きだよ、時任…。たぶん出会うよりも前から…、ずっと誰よりも…』
 
 好きだって…、大好きだって言いたかった。
 頬を涙で濡らしたりしないで、微笑みながらそう言いたかった…。
 けれど、すべては遅くて遅すぎて、離れて行こうとする指先で感じた想いは降り始めた初雪のように儚く消えていく…。時任は強く激しく身体を揺さぶられ、身体の奥に熱い欲望を叩きつけられながら、何かを掴もうとするかのように指を動かしたが…、
 それを封じるように大きな手が伸びてきて、上から時任の手を握り込んだ…。

 「あぁぁぁっ・・・・!!!」

 あの鳥籠から自分の足で力で出ようとしていた時のように、手を伸ばしたのはどんなに苦しくても助けて欲しいからじゃない…。だから、欲望を叩きつけられながら指が別の何かを掴もうとしたのは、混濁していた意識が正常に戻ってきたからで…、
 自分を抱いている相手が久保田ではないことを悟ったせいだった。
 しかもそれは夢ではなく現実で…、心は冷たく凍り付いていくのに身体は熱い…。
 身体の痛みと一緒に現実を感じながら時任がゆっくりと瞳を開けると、そこには知らない天井と良く知っている顔があった…。
 「ア…、アキラさん…、じゃあココは…」
 「ほう、ようやく目覚めたか…」
 「俺は橘にヘンな白い建物に連れてかれて…、なのになんで…っ」
 「それは聞かなくても、見ればわかるだろう?」
 「え?」

 「命の恩人に礼くらい言ったらどうだ? ミノル」

 アキラはそう言うと微笑みながら、時任の唇に自分の唇を寄せていく。それに気づいたと時任はアキラの腕の中から抜け出そうしたが、まだお互いの身体が繋がったままで離れられなかった。
 何度も何度も数え切れないくらい抱かれてたことは事実でも、今は抱かれることもキスされることも痛みや哀しみにしかならない…。久保田を好きだと気づいた時から、そう想った瞬間から…、もう他の誰にも抱かれたくなかった。
 けれど必死で抵抗しようとしても、まだ薬のせいか身体が思うように動かない。そんな時任を上から眺めていたアキラは、口元に刻んだ笑みを深くして嫌がる時任の唇に口付けた…。

 「愛しているよ…」

 前だったら心を揺らせたかもしれない言葉も、今は何も感じない…。でも、だからこそ口付けられるたびに、身体の中にあるアキラの欲望の存在に身体が震えるたびに…、久保田を想う気持ちが心が壊れそうに痛くてたまらなかった。
 またベッドが軋み始めて自分の身体が犯されていくのを感じた時任は、隙をついてアキラの腕に歯を立てて噛み付く。そして動きが止まった瞬間を狙って目の前にある広い胸を手で渾身の力を込めて強く押し返すと、繋がれた身体を強引に外してベッドから抜け出した。
 けれど、目の前がゆらゆらと揺れていて身体が重くて走りたいのに走れない。
 時任が眩暈を感じて床に倒れ込むと、バスローブを羽織ってゆっくりと歩み寄ってきたアキラがその身体に毛布をかけた。
 「逃げるのはかまわんが、その格好では風邪をひく」
 「・・・・・・・・」
 「だが、覚えておくがいい…。どこへ逃げようともお前の居場所はここしかない。それにどこにいようとも、何をしていようともお前は僕のモノだ」
 「そうじゃないっ、違うっ!! 確かに助けてくれたことは感謝してるけど、俺は俺だけのモンだっ!!!」
 「どんなに否定してもお前の身体の奥を満たしている熱い欲望が、首筋についた赤い印がその証拠だよ、ミノル」
 「・・・・・・っ」

 「そう…、どんなにその唇が別の男の名を呼ぼうとも…」

 アキラの最後の言葉に、時任の肩が反射的に揺れる。
 だが、アキラは時任が肩を揺らせても変わらずに微笑んだままでいた。
 まるで…、籠の鳥には意思も感情も必要ないとでもいうように…。
 愛していると言いながら囁きながら時任を見つめるアキラの瞳は、人間ではなく物を見るように感情が感じられなかった。その瞳は心配ない大丈夫だと優しく言いながら、何度も何度も腕に注射針を突き立てた時にも似ていて…、
 時任は蘇ってきた恐怖に身体を振るわせた。
 「また…、俺の記憶をあの薬で消すつもりなのか?」
 「あの薬とはWAのことかね?」
 「・・・・・・なんで、なんでアンタはあんな薬で俺の記憶を消すんだっ?!」
 「ほう…、めずらしいな。お前がそんなことを聞いてきたのは、今回が始めてだ」
 「今回が始めて…?」
 「ふふふっ、ゲームは途中でゲームオーバーになってしまったようだが、もう少しこのまま続けるとしよう…。今回はなかなか面白い展開なのでね」
 「なに一人で、わけのわかんねぇこと言ってんだよっ!!!!」

 「では、お前にもわかるように話してやろう…。ゲームは終了した…、つまり久保田誠人は死んだと言っているのだよ」

 あの部屋で抱きしめた時、久保田の心臓からトクントクンと鳴り続ける鼓動を感じたのに…、あんなにもずっと抱きしめていたくなるほど暖かかったのに…、信じられない言葉が聞こえてきて時任は瞳を大きく見開く…。けれど、絶対に違うとそんなことはないと、心の中で叫びながら首を激しく左右に振った。
 「絶対にウソだ…っ」
 「ウソではない」
 「なにか死んだって、そういう証拠でもあんのかよっ!!」
 「いつ載るかはわからないが、いずれ新聞の記事になるだろう。久保田誠人が運転していた車は、お前と私の乗った車を追いかける途中でスリップを起こして谷底に落ちた」
 「違うっ!!そんなのはでたらめだっ!!!!」
 「新聞とテレビが…、谷底から見つかった遺体がすべてを証明してくれる」
 「・・・・・・っ!!!」
 「この世のどこを探しても、久保田誠人がもういないということを…」

 「くぼ…、ちゃん・・・・・・・」
 
 死んだって言われて…、そんなことを突然言われて…、
 そんな嘘みたいなことを、一番信じたくないことを信じられるはずなんかない…。それにマンションでさよならを告げた久保田が、自分を追いかけてくるなんてあり得なかった。
 久保田の口から聞いた言葉も…、それは薬を盛られる前の話で…、
 そんなことをした時任のことをまだ好きでいてくれるはずなんてない…。
 だから、車で追いかけて来ていないから途中でスリップなんてしない…。
 けれど、何回言われたって信じられるはずなんてないのに…、曇った窓ガラスを見ていると胸の奥を不安がよぎる。あの朝、マンションを出た時に外は寒かったけれど、まだ雪が降り出すほど寒くはなかった。
 でも真っ白く曇っている窓ガラスが…、見えない外が気になってくる。
 時任はかけられた毛布の端をぎゅっと強く握りしめると、力の入らない足でなんとか立ち上がって歩き始めた…。
 ドアを開けて外に出て…、手すりにつかまって階段を下りる…。
 その間、何度も転びそうになったけれど、どうしても外に出たかった…。
 自分の足で地面を踏みしめたかった…。
 けれどやっとたどり着いた玄関のドアを開けると、そこには踏みしめるはずの地面はどこにもなくて…、
 ただ…、どこまでも白く白く続く世界だけが広がっていた…。

 「くぼちゃ…、くぼちゃん・・・・、くぼちゃーんっっっ!!!!」

 空から舞い落ちてくる雪を…、白く白く続いていく世界を見た瞬間に…、
 信じたくなかったことが信じられなかったことが…、胸の奥で現実に変わって…、
 澄んだ瞳で遠くを見つめながら…、時任は何度も何度も久保田を呼ぶ…。
 けれど、その声は哀しく切なく辺りに響き渡るだけで久保田の元には届かない…。
 永遠の別れを告げるためにさよならを言ったわけじゃなかったのに…、生きていて欲しいからさよならを告げたのに…、
 目の前には冷たく降り積もる白い雪と、凍りついた世界だけが横たわっていた。

 「待ってろよ…、久保ちゃん…。すぐに行くから…、絶対にすぐに行ってやるから…」

 毛布の下には何も着ていないし、足も裸足のままで何も履いていない。けれど、時任はそう呟くと雪の舞う白い世界に向かって足を踏み出した。
 冷たいはずの足も身体も…、何もかもが麻痺していて何も感じない…。
 それよりも久保田がいないかもしれない目の前の世界が…、ただ白いだけの世界が哀しく冷たく凍えていくようで、時任は雪を踏みしめながら木々の隙間から見える空の遥か彼方を眺めた…。
 だが、時任がそこに向かおうとするかのように足をまた一歩踏み出すと、後ろから伸びてきた手がそれを阻む。その手は別荘から時任の様子を、口元に笑みを浮かべながら眺めていたアキラの手だった。
 「お前は僕のモノだと言っただろう? 勝手に死んでもらっては困まるよ」
 「俺は死ぬんじゃないっ、久保ちゃんトコに行くんだっ!!!!」
 「だから、久保田誠人は死んだと言っているだろう?」
 「久保ちゃんは…、久保ちゃんはまだ死んでないっ!!」
 「なぜ、そんなことがわかる?」

 「俺を呼んでる声が…、呼んでくれてる声が聞こえてくる気がすっから…」

 そう言いながら遥か彼方を見つめる時任の瞳から、涙が一粒だけ零れ落ちる…。その涙はすぐに白い雪に混じって消えてしまったけれど、頬には涙の跡が残っていた…。
 久保田を想うようになってから零れ落ちるようになった涙は…、言葉にならない想いを伝えようとするかのように瞳を濡らしていく…。けれど、涙に滲んだ瞳には深く白く染まっていくばかりで、どんなに遥か遠くを見つめても久保田の姿は見えなかった。

 「・・・・・・・・・久保ちゃん」

 凍えつくように冷たい白い世界でそう呟いた時任の声は、軽く腹に拳を叩き込んだアキラの手によって封じられる。気を失った時任を両手で抱き上げたアキラは、時任の見つめていた遥か遠くを眺めて低く短く笑った。
 「泣きわめいて泣き叫ぶがいい、ミノル。 どんなに泣き叫んでも、今もこれから先もお前は僕の籠の鳥だ…」
 時任を抱きかかえたアキラが再び別荘の中に入り、白い世界へと続くドアが閉じられる。すると閉ざされたドアに向かって、意識を失っているはずの時任の手がゆっくりと伸ばされたが…、
 その手がドアに届くことはなかった…。







 プルルル…、プルルルルル・・・・・。





 「一体っ、誠人のヤツはどこに行きやがったんだっ」
 何度目かの着信音を聞いて、葛西は耳に当てていた携帯電話を下ろして通話を切る。すると、近くにいた松本が久保田の住んでいるマンションのリビングを見回して眉をひそめた。
 リビングには睡眠薬が転がっており、状況から見て久保田はこの薬を多量に飲んだと思われる。連絡のつかなくなった橘を探すために宗方の屋敷に行く前、時任もいる可能性があるということでマンションに寄ったのだが…、二人が来た時にはすでに久保田の姿はここにはなかった…。
 まさか…、と思いかけて激しく首を横に振ると松本は室内を見てまわる。すると、クローゼットの中に久保田がいつも着ているコートが入っていないのを発見した。
 「もしかして、誠人はすでに宗方の屋敷に…」
 「連絡がつかねぇってことは、その可能性が高けぇな」
 「だったら、俺達も屋敷に急ごうっ」
 「あぁ、誠人が橘に会う前に…、だろう?」
 「そうだ…。橘は自分がどんなことをしたのか、その罪の重さを自覚している。だから、誠人に何をされても抵抗はしない…、だから…」
 「お前ぇさんの言いたい事はわかってっから、それ以上は何も言うな」
 「・・・・・・葛西さん」

 「もうこれ以上、誰も痛い想いなんかしねぇように痛みを止めに行く。詳しい事情なんてのはなくても、それでボロ車をスピード違反でぶっ飛ばすには十分だろ?」

 葛西はそう言ってニッと笑うと、ポンポンと松本の背中を叩いて歩き出す。すると、背中を叩かれた松本もうっすらと口元に笑みを浮かべてから歩き出した。
 松本の家で起こっていた哀しい出来事はもう何年も前から…、子供の頃から延々と今ままで続いている。そして、その哀しい痛みは宗方家やWAという薬と複雑に絡み合い橘の心を犯していた。
 一番近くにいながら何も気づかなかった自分に松本は激しい怒りを感じたが…、怒りを自分にぶつけていても何も始まらない…。それに、今しなくてはならないことは後悔ではなく、続いてきた哀しみと痛みを松本の手で断ち切ることだった。
 
 「橘…」

 葛西の車の助手席に乗り込んだ松本の手には、父親の遺書と日記帳が握られている。それをチラリと横目で眺めて、葛西はエンジンをかけて思い切りアクセルを踏んだ。
 日記は読んではいないが、大まかな内容は松本から聞いて知っている。だが、葛西が宗方家に向かってアクセルを踏んでいるのは、松本と同じ目的ではなかった。
 松本からの情報で知ったWAの存在を確認するために、そして松本の父親の日記に書かれていた妹のことを確認するために宗方家に向かっている。WAの製造に成功したのは葛西の妹がいなくなって三ヵ月後…、日記に書かれていた宗方の口から聞いたというWAの原料と思われる植物の名前は…、

 葛西の妹の名前だった…。

 痛みも悲しみも…、すでに松本と橘だけの問題ではない…。
 葛西は大丈夫だと言った妹の顔を思い浮べようとして、その顔が時の流れと共にぼやけているのを感じてわずかに哀しそうに顔を歪めた。勢い良くハンドルを切るとわずかに降り出した雪のためにスリップしたが、無事に住宅地へのカーブを曲がり切る。

 そして、しばらくして見えてきた高く長く続く塀を鋭く睨みつけた…。



 
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