籠の鳥.34




 まるで何かを閉じ込めようとしているかのように、長く続く高い塀…。
 そして、その中にある古い屋敷と誰かのために作られた鳥籠。
 そこから出た黒塗りの車は運転席に一人、そして後部座席に二人を乗せてエンジン音を響かせながら目的地に向かって走り出す。すると、例年よりも早い初雪がチラチラと12月の冷たい空気の中を舞い始めた。
 WAの研究施設から中島の手によって連れ帰られた鳥は、再び籠の中に入れられたりはしていなかったが…、微笑みながらゆっくりと柔らかな黒い髪を撫でていく男の手によって自由を奪われようとしている。一度、男は自らの手で籠の鍵を開けて鳥を手放したが、髪を弄ぶように執拗に撫でている手を見ていると、それが事実だとはとても信じられなかった。
 時任を籠の鳥にした男…、宗方家の次期当主であるアキラは、髪を撫でていた手をゆっくりと頬から首筋…、そして肩から下へ下へと感触を確かめるように降ろして行く。そして、その手が一番敏感な部分までたどり着くと、未だ眠りの冷めない時任の身体がビクッと激しく反応した。
 
 「うっ、あっ…、くぼちゃ・・・・・」

 欲望に火を付けようとするかのように触れている手は、時任に何度も何度も快楽を教え込んだ手である。だが、眠ったままで身体を熱くさせながら呼んだ名前は、ここにはいない別の人物のものだった。
 時任はアキラの手に感じながら、同じ宗方家の血を引く久保田の名を呼ぶ…。同じ血を引いているだけあって顔も声も良く似ていたが、まるでアキラの存在を拒絶するかのように時任は久保田だけしか呼ばなかった。
 しかし、アキラはそんな時任を見つめながら、なぜか微笑みを更に深くする。そして視線を時任からパックミラーに移すと楽しそうに低く笑った。

 「さぁ、早くここまで来るがいい…。籠の鳥を取り返すために…、そしてこの手のひらの上で踊るために…」

 そう言っている間もアキラの右手は、熱く苦しい息を吐きながら久保田を呼ぶ時任を弄んで犯し続けている。それでも時任の意識が戻らないのは、研究施設で射たれた薬が未だに効いているのではなく、アキラによって新たに薬が注射されたせいだった。
 だが、なぜか時任に射たれたのはWAではない…。実は真田によって久保田の元から連れ戻されてから時任に打たれていたWAも何かを試しているかのように、以前に打たれていたものよりも遥かに濃度が薄かった。
 なぜそんなことをしていたのかは、アキラにしかわからない。
 バックミラーに写る久保田を見ながら浮かべている笑みは、感情が読めないせいか背筋に震えが走るほど恐ろしく得体が知れなかった。
 
 「あっ、あっ…、あぁ・・・っ、くぼ…、くぼちゃん…っ」
 
 与えられる刺激に翻弄されながら細い身体を震わせている時任は、薬のせいで意識が混濁しているせいか自分に触れている手が久保田のものだと勘違いしている。だからこそ、ゆっくりと抱きしめるために腕を伸ばしたのに…、その腕が抱きしめたのは久保田ではなくアキラだった…。
 そうしながら最後に抱かれた時のことを思い出しているのか、閉じられたままの瞳には涙が滲んでいて…、かすれた声で小さく好きだと何度もつぶやく…。けれど、伸ばした腕が届かないように、その声はこんなに近くにいながらも久保田まで届かなかった。
 まるで切なく震える唇で想いを綴れば綴るほど、二人の距離が遠くなっていくようで…、恋しい人の名前を呼ぶたびに哀しみだけが満ちていく…。こんな風に哀しみだけを抱きしめるために出会ったわけじゃないのに、お互いの名前を想いを痛みに耐えながら叫ぶたびに涙ばかりが頬を伝って流れ落ちた…。
 でも…、抱きしめ合うことが痛みでしかなかったとしても、愛しすぎて恋しすぎて腕を伸ばさずにはいられない…。抱きしめていたいのはあたたかな過去でも思い出でもなく…、たとえ苦しくても哀しくても、それを感じて呼吸しながら生きている今だけだった。

 「時任・・・・」

 聞こえるはずのない時任の声に答えるように名前を呼んで、赤になりかかった信号機をやり過ごすために強くアクセルを踏み込む。すると、久保田の運転している車は赤になってから交差点に侵入したが、クラクションを鳴らされながらも無事にそこを通過した。
 研究施設から無事に脱出した久保田は、宗方の屋敷にたどり付いた瞬間に門から出てきた車を追っている。けれど、その車のガラスには暗色のフィルムが張られていて中が見えないため、久保田の車からは誰が乗っているのかわからなかった。
 この車に乗っていなかったとしたら、こうしている間にも時任の記憶は消されているかもしれない…。でもそれでも…、もうすでに消されているかもしれなくても想いを胸に抱きしめたまま…、時任のそばにたどりつくまで…、

 どこまでもどこまでも…、走って走って走り続けたかった。
 
 やがて灰色の街を抜けて山道に入るとそれを待ち構えていたかのように、2台の車が脇道から出て来て久保田の行く手を車体を横にして塞ぐ。だが、それを見ても久保田は速度を上げたままブレーキを踏まなかった。
 道を塞いでいる2台の車の窓から銃口が狙っていたが、久保田は拳銃を構えずに頭を低くする。すると辺りに銃声が鳴り響き、窓ガラスにいくつもの銃弾による亀裂が走った。
 ガラスの破片がわずかに頬をかすめたが、久保田は真っ直ぐ前を見つめたまま視線を動かさない。そして、さっきよりも更にアクセルを強く踏み込むと、横付けにされている2台の車の間にあるわずかな隙間に向かって突っ込んだ。
 「コイツっ、突っ込んでくる気だっ!!!」
 「は、早く逃げろっ!!!」
 「間に合わ・・・っ!!!!」

 「うわあぁぁーーーーっっ!!!!!」

 行く手を阻もうとしていた2台の車は、100キロを超えた速度で突っ込んできた久保田の車に破壊され押しのけられた形で道を開ける。その時、かなりの衝撃が伝わったが乗っている久保田も車も無事だった。
 もしも、ぶつかった瞬間に恐怖を感じてアクセルをゆるめていたら、押す力が足りないせいで車が破壊されていたかもしれない。けれど、久保田はぶつかる瞬間もぶつかった後もアクセルを強く踏み込んだままだった。
 ぶつかった襲撃で飛び散った破片は、派手な音を立ててアスファルトを跳ねる。その音で我に返った車に乗っていた男達が握っていた拳銃の引き金を引いたが、すでに2台の車の間を通り抜けて走り出した久保田の車には届かなかった。

 「ま、べつに壊れても俺の車じゃないしね」
 
 カーブに差しかかってハンドルを切りながら言ったように、乗っているのは久保田のではなく真田の車である。実は研究施設内で時任を盾にされて机に押し倒された時、背広のポケットからカギを抜き取っていたのだった。
 車のカギと知っていて抜き取ったわけではないし、そのカギで動かせる車を研究施設の敷地内で見つけたのも偶然である。だが、いくら久保田が強運の持ち主だと言っても、いつでもその運が味方してくれるわけではなかった。
 降り始めた雪が激しくなってきて、さっきの衝突と銃撃でガラスもワイパーも破壊されてしまっていために次第に視界が悪くなる。速度を落としているつもりはなかったが、カーブに差しかかるとどうしても速度が落ちてしまっていた。
 視界を白く染めていく雪が頬を…、ハンドルを握る手を冷たく凍りつかせていく…。けれど、どんなに雪が降り注いでも、すべてが凍りついてしまったとしても…、
 胸の奥の想いだけは凍りついたりはしなかった…。
 空から降り落ちて舞い上がり、そして目の前に続くアスファルトを白く染め上げていく雪を見つめていると…、その白がまぶしく感じられて久保田は目を細める。するとなぜか微笑みながらおかえりを言ってくれた…、いつかの日の光景が脳裏に浮かんできた…。

 「ただ、こんな風に白いばかりで…、なんにもない世界で二人きりでいたかった…。なんにもない世界で…、お前だけを抱きしめてたかった…」

 そう呟いた久保田の苦しみに満ちた声は…、吹き抜けて行く冷たい風に混じって痛みに変わる。雪に阻まれて縮まらない距離の間に雪と哀しみが降り積もっていくようで、久保田は少し強くアクセルを踏んだ…。
 だが、再び目の前に現われた急なカーブを曲ろうとしてハンドルを切ると、その瞬間に雪で白く染まりかけた森林から何かが飛び出してくる。飛び出してきた何かは人間ではなく森に住んでいたキツネだったが、久保田は急ブレーキを踏んでハンドルを逆に切った…。
 すると車のタイヤは円を描くように滑って、ガードレールのない場所に向かって突っ込んでいく…。そこにあるのはアスファルトの道ではなく崖と川だったが、久保田の運転する車はコントロールを失ってそのまま谷底へと転落した…。
 



 「・・・・・・・時任」




 誰よりも想う人の身体も心も…、何もかもが欲しかった…。
 だから、他の男の名前を呼ぶ唇を見て憎しみばかりが強くなった…。
 けれど、本当は愛しい人を傷つけてばかりいた腕で優しく抱きしめながら、暖かな日差しの中で微笑み合いながら…、
 好きだよ…、大好きだよって…、
 何度も何度も胸の奥の想いの強さだけ…、恋した数だけ言いたかった…。
 そうしていられるのなら…、ずっとずっと帰りたかったその日のように時任がそばにいてくれるなら…、ただそこで微笑んでいてくれるなら…、

 ・・・・・・それだけで何もいらなかった。

 けれど、ぬくもりをすべて奪い去ろうとしているかのように、雪は残酷に降り積もり続ける。やがて森林の中にひっそりと建てられている宗方家の別荘へと、時任を乗せた車は到着したが…、
 その後を追いかけていたはずの久保田はいつまでたっても現われなかった…。



 
             前   へ             次   へ