籠の鳥.33




 過ぎていく日々の中で増えていく…、記憶と想い出…。
 その中には楽しいことばかりではなく哀しいことがあるように、忘れたくない事と忘れたい事も含まれている…。けれど、それを選んで消すことができないのは、どんな記憶も想い出もその時に感じた想いと一緒に微笑みになって涙になって…、心の中に染み込んでしまってるからかもしれなかった。
 忘れたはずの想い出も忘れたつもりの記憶も…、いつも胸の奥にある…。けれど、いくらその想い出を記憶を思い出しても、何度も何度も振り返っても過ぎていく時には立ち止まれないし戻れなかった…。

 でも、だからこそ…、戻れないからこそ人は、もしかしたら後ろを振り返るのかもしれない…。

 たった一人の侵入者によって起こされた騒ぎに紛れ、警備員達に見つかることなく研究所を走り出した車に揺られながら、橘は瞳を閉じて戻れない遠い日の夢を見ていた…。橘の夢の中には幼馴染の松本と松本の父親がいて…、そして幼い日の自分がいて優しい暖かな日々だけがそこにある…。
 だが、その中からなぜか松本の母親は追い出されてしまっていた。
 いつも松本の母親はじっと遠くから橘を見つめながらも、すぐに哀しみと戸惑いと怒りの入り混じったような表情で視線をそらす。そしてそんな母親の視線を知りながらも、橘の方も視線をそらし続けていた…。
 
 『・・・・すべて貴方が悪いのよ』

 いつだったか…、そんな言葉を母親の口から聞いた気がしたけれど、それを思い出そうとすると逆に記憶が曖昧になって空白ばかりが増えていく…。そしてその空白が…、松本の母親と自分の見ようとしなかったものが、記憶の中の優しく暖かな大切な想い出を壊そうとしている気がした。
 橘は助けを求めるように伸ばした手で、無意識に膝の上にある暖かなものを撫でる。だが、手を伸ばしているのも撫でているのも夢の中ではなく現実で…、膝の上にあった暖かなものは同じように瞳を閉じて眠っている時任の髪だった。
 時任が眠っているのは未だ薬の効き目が切れていないせいだったが、橘は銃口を向けられている時任に気を取られた隙に、中島に口元をハンカチで覆われクロロホルムを嗅がされたからである。けれど、次に目覚めた時は膝の上にあったはずの暖かさはなく…、視線だけを動かして辺りを見ても時任の姿は見当たらなかった。
 時任を連れてくるよう命じたのがアキラだということは間違いなさそうだが…、だからと言って絶対に無事でいるとは言い切れない…。橘は嗅がされたクロロホルムのせいで痛む頭を押さえながら、今更のように時任の心配をしている自分を自嘲した。

 「今更、善人ぶってみた所で犯した罪は消えないし、何も始まらないんですけどね…」

 橘はさっきまで見ていた夢を振り払うように頭を振ってそう言うと、寝かされていたベッドから重い身体を起こした…。けれどベッドで寝ていることからもわかる通り、橘のいる場所も車内ではなく、眠っている間に室内に移動させられている…。
 橘は室内を見回してみたが、部屋には大きなベッド以外は何も置かれていなかった。そして壁にはもう十二月になったというのに、十月のままめくられていない見覚えのあるカレンダーがある。
 この鳥籠のような部屋は、鳥がいなくなってしまってからも時を止めたままだった。
 橘が寝かされていたのベッドは時任がアキラに抱かれ続けていたベッドで…、部屋の中もまるで鳥が帰ってくるのを待っているかのように何も変わっていない…。それを見た橘は、なぜか寒気を感じてわずかに身を震わせた…。

 「ベッドに寝てみて初めて、こんなにもこの部屋が寒かったことに気づきましたよ…。寒いのは十二月だからじゃない…、良くこんな部屋にいながら今まで狂わずに正気で…」

 そう小さく呟くと、橘は視線をカレンダーから窓へと移す。この何も無い部屋の中で…、外を眺めることのできる窓が一つだけ付いていることだけが救いだった。
 橘は右手を伸ばして窓を開けようとしたが、手錠で左手とベッドを繋がれているのでそこまで手は届かない。左手を強引に引っ張っると手錠の鎖がチャリチャリと音を立てたが、やはり引っ張ったくらいでは手錠もベッドもびくともしなかった。
 小さく息を吐いた橘は鎖を引っ張るのをやめて手錠の鍵穴を見つめると、手の届く場所に何か落ちていないかどうか探し始める。だが、利用できる何かを見つける前に、閉じられていたドアが開いてそこから中島が入ってきた。
 「時任稔と同じように、鳥籠に入れられた気分はどうだ?」
 「・・・・・それは言うまでもないでしょう?」
 「この状況でも動じない所はさすがだな、副会長」
 「副会長ですか…、懐かしい呼び名ですね」
 「だろう?」
 「だったら、未だに僕を副会長と呼ぶのなら、なぜ貴方はこんな真似をするんです? しかも、今回の件で僕と貴方の利害関係は一致していたはずでしょう?」
 「ははははっ…、利害関係の一致だって?」
 「違うんですか?」

 「やっぱり、アンタは何もわかってねぇな」

 中島はそれだけ笑いながら言っただけで、橘の質問には答えない。けれど、中島の手には透明な液体を満たした注射器が握られていた。
 注射器の中の液体が何なのかは、聞かなくても心当たりはありすぎるほどある。橘は透明な液体を見つめながら、ここにはいない人のことを…、絶対に忘れたくない人のことを思い浮かべていた。
 けれど、どんなに忘れたくなくても愛していても…、その透明な液体は記憶だけではなく想いまで消してしまうかもしれない。逃げ場のない橘は手錠の鎖を鳴らしながら、ゆっくりと近づいてくる中島に鋭い視線を向けた。
 「貴方は始め真田に命じられて、宗方の屋敷に入り込んでいた…。ですが、何か理由があって真田を裏切り宗方に寝返った」
 「・・・・・・」
 「そして、その理由はWA…」
 「そう…、アンタの言う通り俺は真田の作ってるニセモノじゃなく、ホンモノのWAが欲しかった…。だから、時任稔を連れ戻して来る代わりにWAをわけてくれと、宗方アキラと交渉したってわけさ」
 「つまり持ちかけられたのでなく…、貴方自身が交渉を持ちかけたというわけですか…」
 「だとしても、似たような事をしてるアンタに俺は責められねぇだろ」
 
 「・・・・・・・・そうですね」
 
 中島の言葉にそう返事をすると、橘はそれ以上は何も言わずにうつむいて唇を噛む。けれど、それは似たような事をしていると言われたからではなく、こうなるよりもずっと前から自分に好意を持っているのをいいことに中島を利用してきたせいだった。
 中島は注射器を持った手ではなく反対側の手を伸ばすと、手のひらをゆっくりと橘の鎖骨から胸に向かって撫で下ろす。そしてその手を心臓の上で止めると、楽しそうな笑みを浮かべながら橘の顔を覗き込んだ。
 「はははっ…、今のアンタはマジでいいツラしてるぜ? いつもの妖艶な微笑みってのも捨てがたいが、今の方がずっと人間らしくていい」
 「・・・・・・中島」
 「だから、それに免じて一つだけいい事教えてやるよ…。どうせ、すぐに忘れることになるだろうしな」
 「・・・・やはり、貴方は僕の記憶を消すつもりなんですね」
 「当たり前だろ? なんのために真田を裏切って、コレを手に入れたと思ってんだよ」
 「ですが、そんなことをしたら僕は貴方のことも忘れてしまうかもしれませんよ?」
 「・・・・・・・残念だが、それだけはあり得ねぇな」
 「それはWAが特定の記憶だけを消すことができるという話が…、事実だからですか?」
 「特定の記憶だけ…、か…。ああいうのを特定と呼べるなら、事実だろうぜ」
 中島の言い方は曖昧すぎて、WAで特定の記憶を消すことができるのかどうかわからない。橘はもう一度、事実かどうか聞き直そうとしたが、そうする前に中島が橘の唇に自分の唇を寄せて強引に口付けてきた。
 その口付けを橘が避けることなく受けると、突然、中島は唇を離して肩を震わせて笑い始める。まるで息を詰まらせながら狂ったように笑う中島の姿を橘は何も言わずにじっと見つめていたが、しばらくしてやっと笑うことを止めた中島は、伸ばした手で橘の首を軽く絞めながらWAではなく別のことを言った。
 「アンタが真田から受け取った資料…、あれを誰が作ったか知ってるか?」
 「さぁ?聞いていないので知りませんが?」
 「俺だよ」
 「え?」
 「俺が真田に頼まれて、アンタ好みに合わせてあの資料を作ってやったんだ」
 「・・・・・そうですか、資料を作ってくださってありがとうございます…。ですが、僕好みにとはどういうことなんです?」
 「くくく…っ、どうもこうも答えるまでもなく言葉通りさ」
 「・・・・・・まさか」
 「まさか、か…。かつて影の生徒会長とまで呼ばれた、抱きたい男ランキングNO.1の麗しい生徒会副会長様のお言葉とは思えねぇぜ」
 「・・・・・・・・・っ」
 「宗方と松本の父親に関する資料の内容も、久保田の母親に関することも確かに事実だ。だが、一つだけ事実と違っていることがある」
 「・・・・それはなんです?」
 「久保田の母親が失踪した時期と、松本の親父さんが自殺した時期は同じじゃない。失踪したのは久保田が生まれてから、わずか半年後のことだ」
 「なぜ…、なぜ貴方はそこだけ事実を書かなかったんですか?」
 「そうアンタが俺に聞くなら、俺もアンタに聞きたいことがあるぜ。どうして、あれが事実なのかどうか久保田の叔父ってヤツに聞かなかったんだ? どうして、確かめもせずに真田なんかに渡された資料を鵜呑みにして信じてる?」
 「それは・・・・・・・・」
 「それは欲しかったのが事実じゃなく、単なる口実だからだ。アンタはただ宗方を憎む理由が欲しいだけだ」
 「ち、違います…。僕は…、僕は事実と真実だけを…っ」

 ・・・・・・・・・・・・あの人のために。

 そう言いかけた言葉は、喉の奥で凍りついて声にならない…。
 何かが足元から崩れていくような気がして、橘はぎゅっと両手をきつく握りしめた。
 すると、強く握りしめすぎて爪が手のひらに小さな傷を作る。その傷は少しも痛くはなかったが、胸の鼓動は激しく痛いくらいに鳴っていた。
 見たくなかった想いだしたくなかった記憶が…、胸の奥に仕舞い込まれていた遠い日がゆっくりと暖かな想い出を打ち壊しながら顔を出そうとして…、
 やっと手に入れた居てもいい場所が…、存在を許された場所が消えていこうとする。
 橘はそれを止めようとするかのように手錠で繋がれた左手を強く引いたが、そんな橘の耳元で中島が低く笑った。
 「まぁ、俺にとっては真実がどうだろうとどうでもいいことだ…。それに、アンタにとってもすぐにどうでもいいことになるさ…、今からこのWAで松本に関わりのあることは全部忘れちまうんだからなっ」
 「・・・・誰のことを忘れるのか、試して見なければわかりませんよ」
 「そんなのは、試さなくてもアンタを見てれば簡単にわかるぜ」
 「それらしいセリフを言っても無駄です。ふふふ…、本当は貴方もどの記憶が消えるかまではわからないのでしょう?」
 「いいや、わかるさ」
 「・・・・・・」

 「強く想っていることだけを…、脳に細胞に深く刻み込もうとする一番忘れたくない記憶だけを消す。それが、ホンモノのWAだからだ…っ」

 一番忘れたくない人…、一番忘れたくない想い…。
 だからこそ、記憶の中から想い出の中から跡形も無く消えていく…。
 それがWAだと言った中島は、握っていた注射器を自分の恋敵である松本を愛し続けている橘の肩に向かって振り下ろした…。
 もしも松本への想いも記憶も消えれば、橘が宗方が憎みたがっている理由も一緒に消えてしまうに違いない…。そうしたら愛情と一緒に憎しみも消えて…、そうすれば身体だけじゃなく心まで抱けるかもしれない…。
 だが…、あと1センチの所でそんな中島の想いを拒絶するかのように、振り下ろされた腕を自由な右手で強く握り込みながら止めると…、
 ・・・・・・今度は橘が妖艶に微笑みながら中島の耳に囁きかけた。

 「愛していますよ…、中島…」
 
 何度言われても、何度囁かれても信じられるはずのない言葉だったはずなのに、中島はその言葉に心を捕らわれて…、一瞬、無意識に腕から力が抜ける。すると、その瞬間に橘は注射器を奪い取って、反対に中島の肩に注射器の針を立てて素早く中に入っていた透明な液体を血管に注入した…。
 肩の痛みに我に返った中島は大きく目を見開いて、それから次に憎しみではなく哀しみを宿した瞳を閉じる。注射器に入っていたWAは、時任がアキラに撃たれていたものよりも濃度が二十倍も濃かった…。
 中島の忘れたくなかった記憶は…、忘れたくなかった想いはゆっくりではなく急速に失われていく…。急激に自分の周りから空気が失われていく息苦しい感覚に襲われた中島は、そのままもう一度目を開いて橘を見ることなく意識を失った…。

 「さようなら…、僕を誰よりも愛してくれた人…。今度はこんな酷い男じゃなく…、もっと優しい素敵な人を好きになって幸せになってください…」

 望みを叶えるために目的を果たすために、中島にも真田にも誰にでも抱かれて…、
 でも自分の望みを叶える代償として抱かれることは酷く簡単で…、簡単すぎたから罪悪感なんて感じたことがなかった…。けれど、自分の身体に倒れ込むようにして気を失っている中島を見つめていると今まで感じなかった痛みが押し寄せてくる気がして、橘は強く胸を抑えながら天井を見上げた…。

 罪悪感を感じても後悔しても…、もうどうにもならない…。

 後悔しないとそう胸に誓いながらも、久保田だけを想い続ける時任と出会ってしまってから…、その強い瞳を見つめた瞬間から橘の中で何かが変わり始めていた…。
 アキラに抱かれながらも誰よりも久保田を想って…、そして久保田も誰よりも時任を想っている。そんな強い想いに嫉妬と憎しみを抱きながらも、あんな風に誰かを想って誰かに想われたくて…、抱きしめられたくてたまらなかった…。
 松本のことを誰よりも想っていたけれど…、松本とは記憶の奥底に仕舞い込んだ記憶が邪魔をして深く抱き合えなくて…、
 もしかしたら、その隙間を埋めるように何人もの男達に抱かれてきたのかもしれない。
 でも…、そんな自分自身の非鳴を聞こうともせずに、橘はあの暑い夏の日から耳をずっと塞ぎ続けていた…。

 「誰にも何も壊させたりしない…。だから、そのためには何もかも消さなくてはいけないんです…、まるでWAを射つように…、」

 橘は天井を見つめながらそう呟くと、中島のポケットから手錠の鍵を取り出して外す。そして床に中島をそっと寝かせると、ベッドから毛布を取ってその身体にそっとかけた。
 それから、少しふら付きながら立ち上がって部屋から出ると、暗闇の中をさまよう様に宗方の姿を探して屋敷の中を歩き始める。
 けれど、その後ろ姿は哀しそうでさみしそうで…、

 まるで、行き場を失って迷子になってしまった子供のようだった。
 











 「・・・・・橘」

 久保田が時任の姿を探して研究施設に向かった頃…、松本は葛西の運転する車の中から灰色で無機質な街並みを眺めていた…。だが、車の行き先は宗方の屋敷でも病院でもなく…、松本の実家のある郊外の閑静な住宅地に向かっている。
 それは久保田の元から時任がいなくなったことによって、橘が今回の件に関わっていることが事を認めざるを得なくなったからだった…。
 横浜に久保田がいることを橘に話したこと…、それからしばらくしてすぐに橘が久保田の居場所を知らされたこと…。そしてすでにその時、タイミング良く時任がいなくなってしまっていた後だったことを葛西に話すと、葛西は吸っていたタバコの煙を深く吸い込むとそれをため息のように吐き出した…。
 「起きちまったことは仕方ねぇ…、それに信じてぇ気持ちもわからんでもねぇからな」
 「すまない・・・・。あやまってすむことではないが、他に言葉が無い…」
 「ま、あやまって気がすむならあやまればいいが、他に言葉はなくともてめぇにはやらなきゃならねぇことがあんだろ?」
 「これ以上、橘に罪は重ねさせない…、橘は俺が止める…」
 「だがよ。なんでそれで行き先が実家なんだ?」
 「それは、橘に会う前にどうしても知りたいことがあるからだ」
 「・・・・・・もしかして動機か?」
 「あぁ…、俺はどうしても橘が私欲のために真田と手を組んで、WAに関わっているとは想えない。この期に及んでまだと言われても、それだけは信じていたいんだ…」
 「・・・・・・そうか」
 「すまない…」
 「バーカ、後悔してねぇならあやまる必要はねぇよ…、だから今のすまねぇは撤回しとけ」
 「ああ・・、すまない」
 「・・・・・・・」
 「どうした?」

 「・・・・・・・・・ったく、道草してるヒマはねぇから急ぐぞっ」

 WAと真田と…、どんな理由があって橘が関わっているのかわからない。だが、橘本人にそれを聞こうとしても今はそうする手段がなかった…。
 久保田の居場所を知らせてから携帯電話の電源を切っているらしく、どんなに松本が電話しても機械的なアナウンスが流れるだけで橘には繋がらない。それはまるで閉ざされてしまった橘の心のようで、松本はポケットから出した携帯のディスプレイ画面を見つめながら細く長く息を吐いた…。
 実家に行く事にした理由は、最近、橘が宗方の屋敷に主治医として出入りしているのを知っていたせいである。久保田から渡された患者のリストのことを考えるとWAに関与しているのは真田なのだが、どうしてもそのことが松本の胸に引っかかっていた。
 橘は松本の父親の勤めていた宗方総合病院に勤務するようになってから、ずっと父親の死の原因について調べている。それは橘だけではなく松本も知りたいことだったが、いくら病院を調べてもそれらしいことは出て来なかった。
 医師として忙しく働いている内に松本の方は原因について調べることをあきらめかけていたが…、もしかしたら橘の方はそうではなかったのかもしれない…。
 『あの人は自殺ではなく…、殺されたんです…』
 二人の間で父親の話が出る度に、橘はらしくなく思い詰めたような表情で繰り返しそう言っていた…。しかし警察が現場の状況や遺体を調べたが、松本の父親の自殺に不審な点は何も見つかっていない。
 松本は橘が自殺ではなく、殺されたと信じる理由がわからなかった…。

 「なぜ…、橘は…」

 自殺の原因とWAが関係あるのかと考えてみたりもしたが、本人が亡くなっている以上、何か証拠が残っていない限りそれが事実かどうかはわからない。だから、実家に戻って当時のままになっている父親の書斎を再び調べてみる気になったのだった。
 二人を乗せた車は松本の実家のある住宅街に入ると、子供達が遊んでいるのを見て少し速度を落とす。そうしながら葛西が車の前に飛び出しかけた子供を見て、あぶねぇなと呟いたが…、
 松本はそれには答えず、遠い昔に橘と遊んでいた空き地を眺めていた…。
 とっくの昔に無くなったと思っていたが、二人で登ったコンクリートの土管もそのまま残っていて…、変わらない景色を見つめているとなぜか少しだけ目頭が熱くなる。もしもあの時のままで…、子供のままでいられたら二人で笑っていられたのかもしれなかった。
 空き地を通り過ぎ、見慣れた景色が車窓を流れて…、やがて松本と橘が暮していた黒い屋根の家が見えてくる。そして次第に近づいていくと、その家の庭で松本の母親が夫の残した盆栽に水をやっていた…。
 「あら…、お盆でもお正月でもないのに帰ってくるなんて珍しい」
 「い、いや…、帰ってきたんじゃなくて、ちょっと探しものがあって来ただけだ。だから、すぐに戻る」
 「なら、夕食くらい食べて行ってもいいでしょう?」
 「・・・・急いで戻らなくてはならないんだ」
 「そう…」
 「親父の書斎は、まだそのままだったよな?」
 「ええ…。けど、どうしてそんな所で探しものなんか…」

 「どうしても…、どうしても知りたいことがあるんだ…」

 そう言って家に戻ってくるなり立ち入り禁止と書かれているドアを開けて書斎に入って行く息子の背中を、複雑そうな顔をした母親の視線が追いかける。だが、松本は母親の視線に気づいていないし、じっと見つめてくる視線の意味も知らなかった。
 その視線は、かつてこの家で家族として一緒に暮していた橘に向けられていたものとなんとなく似ている。自分の夫が自殺した理由について誰にも話すことも語ることもなく、そして理由を松本や橘のように探そうともしなかった。

 まるで…、何もかもを知っているかのように…。

 沈黙することで何かを隠そうとしているかのようで、親戚や親しかった友人達は自殺の理由について聞き出そうとしたことがあったようだが…、それでもやはり何も話さなかったようである。松本は書斎の中にある机の引き出しを開けたり、本棚にある医学書や医療関係の本のページをめくったりしてみながら、じっとそのことを考えていた。
 松本も同じように母親に尋ねてみたことがあったが、橘の方はその時…、まるで何かを避けるかのように席を立って部屋を出て行ったような気がする。それは橘が親子での話を邪魔すまいと気を使ったのかと思っていたが、今考えるとそうではなかったのかもしれないという気がした…。
 「葛西さん…」
 「もしかして、なんか見つかったのか?」
 「そうじゃないが、もしかしたら見つけたかもしれん…」
 「そうじゃなくて見つけたって、どういうイミだそりゃあ?」
 「この家には…、俺の知らない何かがある」
 「知らねぇって、ここはお前ぇの実家じゃねぇか」

 「それでも知らないことがあるんだ…、たぶんずっと長い間、知らなかったことが…」

 松本はそう言うと、二人分のお茶と茶菓子を持って部屋に入ってきた母親の方に視線を向ける。すると、母親は息子の視線の意味を悟ったのか、視線を合わせずに窓の外を見ていた。
 そこにはさっきまで水やりをしていた盆栽があって、その盆栽は今もきちんとハサミを入れられ手入れされている。けれど、庭に植えられていたはずの橘の木は枯れてしまったのか切られてしまったのか…、いつの間にか無くなってしまっていた…。
 松本は手に持っていた医学所を書斎机の上に置くと、母親と同じように外を眺めながらすぅっと息を吸って息を止める。そして表情をひきしめて覚悟を決めると、外ばかりを眺めている母親に向かって話しかけた…。
 「おふくろ…」
 「なぁに?」
 「・・・俺に教えて欲しいことがあるんだ」
 「そう…」
 「親父は…、父さんはどうして自殺したんだ?」
 「知らない…、私は何も知らないわ」
 「だったら、別のことを聞く」
 「それは、私に答えられることかしら?」
 
 「なぜ…、橘の木を切ったりしたんだっ」

 それは答えられない質問のようには思えないが、松本の母親はビクッと肩を揺らして目に見えて動揺している。その時の母親の顔色は青く、なぜか表情は罪悪感に満ちていた…。
 松本はゆっくり歩いて窓の前に立つと、カラカラと音を立てて窓を開ける。すると、凍りつくような冬の冷気が室内に入ってきた…。
 母親が置いたテーブルのお茶は、ゆっくりと白い湯気を立ち昇らせている。けれど、なぜかそれは灰と一緒に空へ昇って行った弔いの煙を思い出させた。
 「頼む、本当のことを教えてくれ…」
 「・・・・・・・」
 「俺はこの家で生まれて育った…。だから、真実を知る権利はあるはずだっ」
 「でも、知らなくてはならないことはあるかもしれないけれど、知らなくてもいいことも世の中にはたくさんあるのよ…」
 「母さんっ!」
 「・・・・用がそれだけなら、もう帰りなさい」
 「教えてくれるまで、真実がわかるまで帰らないっ!」
 「いくら探しても、お前が考えているような事実も真実もないわ」
 「頼む……っ、お願いだっ!」
 「・・・・・」

 「真実を見つけなければ…、橘がっ…、遥が危ないんだっ!!!」
 
 松本は必死の表情でそう叫ぶと、母親の前に立って両肩に手をかける。そして掴んだ肩を揺さぶると、教えてくれ頼むと何度も繰り返し言った…。
 すると、母親はつらそうな顔をして視線を床に落とす。だが、松本はそうすることを許さず、ぐいっと肩を上に引くと正面から母親を真っ直ぐ見つめた。

 「確かに遥とは血が繋がってない…。だが、遥は俺達の家族で…、そして俺達は遥の家族だろうっ…」

 松本と橘はあの空き地で赤い夕日が沈むまで遊んだ友達で…、何度もキスして抱きしめあった恋人で…、
 そしてこの家で一緒に暮した家族で…、何よりもかけがえのない人だった…。
 だから、暗い闇の中に沈み込もうとしているのなら、もしも一緒にその中に沈みこむことになっても手を引かずにはいられない…。松本は今も他の誰かに抱かれているかもしれない橘を想いながら、強く強く母親を見つめ続けていた…。
 すると…、母親はゆっくりと松本の手を肩からはずして書斎から出て行く。けれど、それは松本の視線から逃げ出したのではなく、自分の部屋に一冊の日記帳と遺書を取りに行くためだった…。
 母親は強く強く自分を見つめてくる息子である松本に日記と遺書を渡すと、幼かった日にそうしたように腕を伸ばして抱きしめる。抱きしめられた松本は…、黙って抱きしめられながら真実と事実が詰まっている日記帳と遺書を両手でギュッと握りしめた。
 「この日記帳は父さんの…」
 「そうよ…、ここにすべてがあるわ…」
 「だったら、どうしてすべてを知っているのに、今まで誰にも何も言わなかったんだ?」
 「それは、この日記を読めばわかるはずよ…」
 「・・・・・・」
 「ごめんなさいね…。この日記を渡してそう遥に伝えて…」
 「母さん?」

 「悪いのはあの子じゃない…。でも、それがわかっていても、私はあの子を恨まずにはいられなかったから…」

 そう言いながらゆっくりと松本を抱きしめていた手を離すと、母親はそのまま書斎から出て行く。だが、出て行く前に見た母親の瞳には、父親が死んだ日にしか見た事のなかった涙が滲んでいた。
 松本は母親の背中を追いかけるために足を前に踏み出しかけたが、自分の見ている前では泣けないのかもしれないと思って止める。そして、その様子を何も言わずに見守っていた葛西の前で父親の書き残した日記帳を開いた…。
 けれど…、ページをめくっていく度に手は遅くなり、やがてその手は小さく震え出す。日記の文字を見つめる松本の瞳は、驚きと怒りと哀しみと色んな感情が入り混じったような色をしていた。
 「おい、どうした?」
 「・・・・・・」
 「松本?」
 「家族で友達で…、一緒に暮してたのに何も気づかなかったのか…、俺は…っ」
 「気づかなかった?」

 「俺はバカだ…っ!!大バカ野郎だっっっ!!!」

 仕事をするのに気が散るからと、書斎に入ることは禁止されていた…。
 けれど、立ち入りを禁止されていたのは松本と母親のみで…、日記のめくられたページから滑り落ちた写真にはこの書斎にいる橘が写っている。写真の中の風景は…、大人になってしまった橘以外は何もかもが今と変わっていなかった。
 まだ小さい子供だった橘はシャツ一枚だけをボタンも留めずに羽織った格好で床に座り…、その横で椅子に座っている大人の膝に頭を預けている。そして、顎を大人の手で猫のように撫でられて目を細めていた…。
 けれど…、松本は橘の格好よりも別なことに驚いて…、落ちた写真を広い上げようとした指を震わせている…。幼い橘を無表情なままで弄ぶように撫でている大人の男は…、松本も良く知っている…、

 宗方総合病院の院長だった…。



 
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