籠の鳥.31



 
 「ほう、やはりここに時任稔がいると感づかれたか…。だが、意外性があってこそゲームは楽しいものだと、君もそう思わないかね?」

 久保田誠人がマンションから製薬会社の所有する研究施設に向かっているという連絡を受けた真田は、研究施設内の座り心地の良い重役の椅子に深々と腰かけながら、ブラインド越しに外をじっと見つめる橘に向かってそう言う。しかし、それを聞いた橘は少し振り返って真田の方を暗い瞳で見ただけで何も返事をしなかった。
 真田の言葉からもわかる通り、橘の役目は時任を連れてくるというだけではなく、その犯人をアキラだと思わせることである。だが、久保田が宗方の屋敷に向かわずに真田の元へ向かっているという情報が本当なら、真田の計画の半分は失敗だった。
 久保田の握りしめた拳銃がアキラを抹殺してくれることを望んでいたのだが、やはり物事はそう簡単には進まない。そして、今回の計画の失敗の原因はすぐに真田の元へと連行せず、時任がマンションに戻ることを許した橘の甘さだった。
 通常では考えられないほど早く若すぎる松本を、内科部長の地位にまで押し上げるほどの頭脳と手腕を持っている橘がこうなることが予測できなかったはずはない…。なのに、こうなることがわかっていながらも時任の背中を見送ったのは、マンションの明かりを見つめる時任の瞳が、あまりにも切なく哀しすぎたせいなのかもしれなかった…。
 しばらく黙り込んでいた橘はポケットから愛用のナイフを取り出すと、それを嫌な笑みを浮かべている真田に向かって投げる。すると、ナイフの切っ先は真田の頬をかすめて壁へと突き立った。
 だが、ナイフが頬をかすめても真田の表情は変わらない…。それを見た橘は妖艶な微笑みを浮かべると、窓を背にしたまま勢い良くブラインドを引き上げた。

 「僕がやりますよ…、すべて…」

 そう言った橘の表情は、ブラインドを引き上げられた窓からの逆光で真田には見えない。けれど、どんなに押し殺しても…、押し殺し切れなかった憎しみの感情が滲んでいた。
 その感情は息子のアキラではなく宗方誠治に向けられていたが、橘のナイフは一人ではなく二人の喉元に向こうとしている。それは松本の父親が自殺ではない証拠を殺した犯人を突き止めるために松本を裏切り、実験体にされることを知りながら時任をさらった橘の中で、何かが音を立てて壊れた瞬間だった…。
 だが、そんな自分自身の変化に気づかないまま…、橘は壁に突き立ったナイフを抜いて握りしめる。その手はナイフを握りしめすぎて白くなってしまっていたが、橘の微笑みは退廃的な色を加えていつもよりも更に妖艶で美しかった…。
 「一人も二人も変わりませんから…、僕がやりますよ」
 「君がそう言うのなら、久保田君ではなく君の成果に期待するとしよう。君の美しすぎる微笑みは、それだけで研ぎ澄まされたナイフよりも武器になる…」
 「ふふ…、その武器も貴方には効かないようですけどね」
 「それは君が微笑んでいる時よりも、苦痛に歪んでいる時の方がより美しいからだよ」
 「なるほど、相変わらずいい趣味してますね…」
 「君ほどではない」
 「それはどういう意味です?」
 「男に抱かれたくないと言いながらも、自ら男の前に足を開き腰を振り続ける君ほどではないと言ったのだよ、橘君」 
 「・・・・・・・・・・っ」

 「君の身体を仕込んだ男はいい腕をしている。だが、その男は今の君の恋人ではないだろうがね」

 真田に言われるまでもなく、真田にも他の男にも自分の意思で抱かれている…。
 それはわかっていることだったが、真田の最後のセリフを聞いた瞬間、記憶の奥底にある得体の知れない何かを思い出しそうになって橘の肩がわずかに揺れた。
 遠くで聞き覚えのある声と…、荒い息を吐く自分の声が聞こえる…。
 けれど、すぐにその声を打ち消すように頭を左右に振ると、橘は観察するように自分を眺めている真田に近づいた。
 「・・・・・・・・・・・すべては貴方の望み通りに」
 「君の望み通りに…、だろう?」
 「そうですね…」
 「期待しているよ」

 「貴方の唇は…、やはりウソつきです…」

 そう言いながら重ねられた唇は、温度も感情も伝え合うこともなく冷たく離れていく…。機械的に義務的に…、そして欲望に流された時だけに行われる口付けは、心を冷たく凍えさせて行くだけだった…。
 真田によって呼び覚まされた記憶の余韻が未だ橘の心を震わせていたが、今はそれに捕らわれている暇はない。それよりも、やがてここに来る久保田から時任を守り切ることが先決だった。
 黒服の男達に命じて警備を固めさせると、橘は一人で時任のいる部屋へと向かう。そして長く続く廊下を通って部屋の前に立つと、ガラスの向こうで眠っている時任を眺めながらナイフではなく拳銃を握りしめた…。

 「たった数日で、かなりやつれてしまいましたね…。そんなにもあの人のことが、久保田君のことが恋しいですか? 時任君…」

 今日も食べられないままで残されている夕食の乗った食器のトレーを見て、橘はそう言うと小さく息を吐く…。だが、時任をこの部屋から出すわけにはいかなかった。
 たとえ…、久保田の名前を何度口ずさんだとしても…。
 けれど、そんな橘の小さな呟きが聞こえたかのように廊下の向こうから、一人分の足音がこちらに向かって響いてくる。その音に気づいた橘は、握りしめた拳銃を足音のする方向に向けたが…、近づいてきた相手の顔を見ると拳銃を降ろしながら驚いた表情をした。

 「なぜ…、宗方の屋敷にいるはずの貴方がこんな所に…」

 珍しくわずかに動揺している橘の前に立った白衣の男は、製薬会社の社員であることを示す写真入りのネームプレートを胸につけている。しかし、この男は製薬会社ではなく宗方の屋敷で働いていたはずだった…。
 警備の厳しいこの研究施設になんなく侵入してることから、ネームプレートが本物だということがわかる。そして、ここにいるということは真田の息のかかった者であるということの証明でもあった…。

 「真田に寝返って宗方を裏切ったんですか・・・・・、中島」

 橘がつぶやいた名前は、副会長として生徒会に所属していた高校時代に書記をしていた男の名前である。中島の視線は高校時代も、そして再会した時も熱く橘を見つめていたが、今の視線には熱さだけではなく狂気の色が浮かんでいた。
 中島の視線の先には、橘の襟が覗いている真田に付けられた赤い痕がある。橘は襟元にねっとりと絡みつく視線を感じても、その痕を隠そうとはしなかったが、そんな橘の態度を見た中島は口元を笑みの形に歪めながらゆっくりと右手を上げた…。
 すると、すでに部屋の中に潜んでいた拳銃を持った男達が、ガラスの向こうにいる時任を取り囲む。そして、持っていた拳銃の銃口を時任の頭に向けた。

 「その逆さ…」

 橘のつぶやきにそう中島が答えると同時に、研究施設内が騒がしくなり始める。だが、正面から向き合ったまま橘と中島は動かず、ベッドで横たわっている時任も瞳を閉じたまま眠り続けていた…。












 まるでディスクに記録されたデータのように、特定の記憶のみを消去できる作用を持つと言われている謎の薬、WA…。
 しかしその薬の存在を知るものは少なく、真田のいる製薬会社に勤務する社員の中でも、WAという薬の名を耳にしたことのある人間は全体のわずか3%にも満たない。そのため、WAの研究施設は街もビルもない木々がうっそうと生い茂る富士の裾野に建てられていた。
 だが、その施設で研究が重ねられているWAの成分は幻覚剤と酷似しており、原料は科学物質ではなく植物だということはわかっていても、それが何の植物なのか限定はできていない。新しい薬が完成するたびに宗方総合病院で人体実験を繰り返していたが、投与された患者は記憶障害を起こし特定の記憶だけではなく、すべての記憶を喪失していた。
 それでも真田はWAをあきらめていなかったが、未だ本物は宗方の元にしかない。
 だが、そんな真田の事情を研究施設に向かっている久保田は知らなかった。
 WAについて久保田が知っていることは真田がWAに関係しているということ…、その真田に橘が関わっているらしいということ…、

 そして、WAを投与された時任が記憶を失ってしまっていたということだけだった。
 
 けれど、WAがどんな薬だろうと興味もないし、真田や宗方が何をしようと関係ないし関わるつもりもない…。久保田が銃弾を込めた拳銃を握りしめているのは、ただ連れて行かれてしまった時任を取り返したいだけで…、
 もう一度…、そして何度でも…、あたたかい身体を抱きしめたかったからだった。
 その気持ちはどこまでも追いかけて追いかけて行くように…、突然、離れからいなくなった時任の姿を探して歩き回った日よりも強くなっていくのを感じながら…、
 久保田は目を細めて目の前に見えてきた白い建物を眺める。
 だが、そこに時任がいるはずだったが、会うためにはまず研究施設の敷地内の入り口である通用門を突破しなくてはならなかった。

 「ご苦労様です…、決まりですので証明写真が見えるように、こちらに向かって社員証を提示してください」

 WA研究施設の通用門に到着すると、警備員が冷汗を浮かべながら運転席と助手席に座っている二人に社員証を提示するように言ってくる。すると久保田は後部座席の足元に見つからないように身を潜めて、持っていた拳銃の銃口を前の座席シートにぐっと強く押し付けた。
 押し付けられた男は警備員に向かって何かを言おうとしていた様子だったが、拳銃の感触を背中に感じたのか開きかけた口を閉じてあわてて社員証を警備員に提示する。そのあわてぶりに警備員はわずかに眉をひそめたようだったが、提示された社員証の写真と本人を見比べてから軽くうなづいてみせた。

 「社員証の確認終わりました。どうぞお通りください」

 その言葉とともに開かれた通用門の中には警備員らしき人物の姿は見えなかったが、代わりにいたる所に監視カメラが設置されている。どうやら中に侵入することは簡単にできたものの、施設内に侵入するのはかなり困難な様子だった。
 だが、ポケットの中にはWAの入った小瓶が入れられていたが、おそらくこれを真田に渡すことを時任は望まないだろう…。橘のこととWAのことを書き綴った一枚目の手紙には、久保田の身を守るために…、それからできる限り二度と誰かの大切な想い出や…、大事な人への想いをその記憶を消したりすることのないように使って欲しいと書かれていた…。
 その言葉はまるで記憶を想いを…、WAによって喪失し続けている時任自身の哀しい叫びのようにも聞こえてきて…、
 久保田は前の座席に座る二人の首の根元を拳銃の柄で殴って気絶させると、その銃口を見えない明日を撃ち抜くように真っ直ぐ構えて引き金を引いた…。
 
 ガゥンッ、ガゥンッ、ガゥンーーーーーーっ!!!

 撃ち放たれた銃弾は監視カメラを破壊し、それと同時に待ち構えていたかのように白い建物の中から外から集まった警備員達が銃声がした方へと殺到し始める。やはりマンションに監視がついていたことからもわかる通り、ここに来るまでの久保田の動きは完全に真田に伝わっていたようだった。
 それなのに侵入が簡単だったということは、中に誘い込んで逆にこの建物の中に閉じ込める予定だったのかもしれない。だから、その罠にはまらないためにも予測のつかない動きをして、相手を混乱させ統率を乱すことが必要だった。
 久保田は近くの花壇のブロックが外れかけているのを確認すると、気絶している二人を車から蹴り落としてサイドブレーキを引いたままで車のエンジンをかける。そして、見つけたブロックでアクセルペダルを踏んだ状態で固定すると、サイドブレーキを外して素早く車か飛び降りた。

 「うーん、ちゃんとカギ付いてるし、できれば帰りに使いたかったんだけどなぁ」

 玄関を破壊しながら建物内飛び込んで行く車を見てそう言うと、久保田は見つからないように植え込みの影に身を潜める。そして、運悪く目の前を通りかかった警備員の一人を植え込みに引きずり込んで、みぞおちに鋭い拳を打ち込むと制服を脱がせた。
 それから、服を脱いでその制服に着替えると、なに食わぬ顔で平然として正面玄関を素通りして別の入り口から中へと侵入する。すると同じ警備員の制服を着ていたことと、いきなり車が突っ込んできたことで動揺しているせいもあって、誰にも見咎められることはなかった。
 黒いコートを着たままで侵入すれば狙い撃ちにされるが、警備員の制服を着ていればばれるまで時間が稼げるに違い。久保田は警備員の格好で、施設内を時任の姿を探して歩き始めた。

 「俺を呼んで…、時任…。そうしたら、何があっても必ず行くから…」

 久保田はそう呟いたが施設内からは、あわただしく走り回る音と侵入者を探す警備員達のざわめきしか聞こえてこない。施設内はそれほど広くはないが、簡単に見つかる場所に時任がいるとは思えなかった。
 しかし闇雲に探し回っても時間が過ぎて行くばかりで、状況は悪くなっていく…。けれど、なんとしてもここから時任を助け出して、二人で帰らなくてはならなかった…。
 二人が帰るべき場所に…、帰るべき家に…。

 微笑み合いながら…、あたたかく優しく抱きしめ合える場所に…。

 そのためには、本当は会いたくない人物に会わなくてはならないようだった。
 久保田は警備員の制服に着替えた時に脇に差し込んだ拳銃を抜くと、所長室と書かれたドアの前で立ち止まる。そして、時任の居場所を知っている人物のいる部屋のドアをゆっくりと開けた…。

 「やはり来る思っていたよ、久保田君…。自らの足で歩いて、この私に会うために…」

 見る者を不快にさせる笑みを浮かべた真田が、深々と腰かけていた椅子に座ったままそう言って入ってきた久保田を迎える。だが、そうしている間にも縮まりかけた距離は、予想もしていなかった人物の手によって再び開らかれようとしていた…。




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