籠の鳥.30



 
 たった二本の腕を伸ばして…、その手を広げて…、

 産まれ落ちてから永遠の眠りにつくその日まで、人が一生の内に手に入れることが出来るものはどれくらいあるのだろう…。
 そして、手に入れたものの中に一番大切なものはあるのだろうか…。
 それはすべてが終わる日に、自分の手のひらをじっと眺めてみたとしてもわからないのかもしれなかったが…、もしかしたら眺めるのではなく抱きしめたら…、その手で大好きな人を抱きしめることができたらわかるのかもしれない。
 たとえ抱きしめることができなくても、できないとわかっていても…、たった二本しかない腕は好きな人に…、

 大好きな人に向かって…、たぶん伸びていくものだから…。
 
 
 静かな冷たい空気に包まれたリビングに、キッチンの水道から規則的に落ちる水滴の音が聞こえてくる。そして、リビングの一角にある窓からの光に照らされた場所には、身動き一つせずじっと床に横たわる一人の人物がいた。
 けれど、その人物はそこで眠っているわけではなく、開かれた瞳は床に散らばっている睡眠薬の入った白と青のカプセルを眺めている。視線の先にあるカプセルはすでにかなりの数が減っていたが、それは近くにコップが置かれていることからもわかる通り…、
 うつろな瞳で薬を眺めている人物、久保田誠人が飲んだせいだった。
 なのに眠らずに瞳を開いているのは、薬を飲んで眠って目が覚めるとすぐにまた飲んで眠るということを繰り返している内に、薬が効かなくなってしまったからである。けれど、いくら眠っても夢に見るのは胸の奥のあたたかな記憶ではなく…、窓から照らし続けている光も閉ざされてしまった心までは届かなかった…。
 
 「今頃は何もかもを…、また忘れてるかもしれないのにね…」

 キスした柔らかい唇も抱きしめた暖かな身体も、忘れたくても忘れられない。けれど今頃、時任はあの暖かな日々を忘れてしまった時のように…、また薬を打たれて久保田のことを忘れてしまっているのかもしれなかった…。
 どんなに胸の奥の想いを抱きしめ続けていても、その想いを打ち消すかのように時任の記憶は消えて…、想い出もなにもかも久保田の中だけにしか残らない。けれど、すべてが幻のように消えてしまわないのは、この部屋にもあの離れにも時任がいた痕跡が残っていたせいだった…。
 初めから何もなかったら…、欲しがらないで済んだはずなのに…、
 誰も抱きしめたことがなかったはずの腕は誰かを抱きしめることを知っていて…、抱きしめた時のあたたかさや熱さは触れ合った身体が覚えている。だから、忘れられない記憶は痛みと苦しみしか生まないのかもしれなくても…、

 それでも忘れられないから、胸の中に抱きしめ続けることしかできなかった。

 好きだよ大好きだよと夢の中でそう何度も呟いてるのに、憎んでいるのか愛しているのかさえもわからない…。愛しさと同じ強さで憎んで…、憎しみと同じ強さで愛して…、しなやかな身体を優しく抱きしめた手で細い首を絞めた。
 夢の中で好きだよと呟きながら、何度も何度もそんなことを繰り返して…、目が覚めると好きな人の首を絞めた自分の手のひらを眺める。すると、どこからか落ちた水滴がぽつりと床にわずかな染みを作った…。
 
 「俺の名前は久保田っていう名前だから、だからそれだけは…、たとえ誰よりも憎むことになったとしても…」

 床にある小さな染みを見つめながら、いつかと同じ言葉を呟きかけた久保田の唇は途中で止まったまま動かない。それは消えないように何度も身体につけた痕跡を他の男が…、そして憎しみすら残さず記憶を薬が消し去ってしまうことを知っていたせいだった。
 そうなることを自ら望んで籠に帰って行った鳥が…、また何もかも忘れていく時任のことが誰よりも愛しくて恋しくて…、憎くて許せない。愛しながら憎んで…、憎みながら愛して壊れていく心は…、想いの重さに耐え切れなくて音を立てながらギシギシと軋んでいく…。
 あのまま終わることができたら、こんな風に手のひらを見つめることもなかったのに…、こんなにも想いが心が軋んでいくから…、

 このまま時任を…、籠の中に居続ける鳥を残しては終われなかった。

 久保田は飲んだ睡眠薬の影響で少しふらつきながら立ち上がると、まだ時任が出て行った時のままになっているベッドのある部屋へと向かう。この部屋にはあの二人で暮していた離れとは違って、あたたかな想い出が詰まってる場所じゃなかった…。
 けれど、ここを引き払って戻って来いと言った葛西に向かって首を横に振ったのは、心のどこかでまだ時任がいなくなったことを…、睡眠薬の見せる夢をまどろみながら信じたくないと想っていたせいかもしれない…。
 久保田はまるで行き止まりのような薄暗い部屋へと続くドアを開けると、そこにある乱れたままで放置されているベッドへと近づいた。

 「時任・・・・・・」

 もう冷たいだけで何も感じられないベッドを右手で軽く撫でて…、そうしながらまたここにはいない人の名前を呟く…。その名前を呼んでも返事が返ってくるはずなんてないのに、それがわかっていながらも、胸の痛みを感じるたびに呼ばずにはいられなかった…。
 それは出会ったことも微笑みあった日々も、何もかもが幻でしかなかったとしても…、それが久保田の鼓動を動かし続けて…、
 その鼓動が痛みと一緒に…、今も想いを生み出し続けていたせいだった…。
 久保田はベッドから近くに置かれている机に近づくと、引き出しから入れられていた拳銃を取り出す。そして、同じ場所から弾丸の入った箱を取り出した。
 ゆっくりと拳銃を握りしめるとそこからは冷たい感触と重さが伝わってきて…、時任の額に銃口を押し付けた日のことを思い出したけれど…、
 ・・・・・・今はもうそれが久保田を引き止めることはない。
 最初に箱から二発の弾丸を取り出して、それを着ているシャツの右胸にあるポケットに仕舞い込むと、それから久保田は拳銃に弾丸を込め始めた。
 けれど、こんな風に拳銃を握りしめるために、出会ったわけじゃない。
 そして哀しませるために苦しませるために、抱きしめたかったわけでもない…。
 なのに、近づこうとすればするほど遠くなって…、手を伸ばせば伸ばすほど届かなくなる。ただ、そばに居られるだけで良かったのなら、真っ直ぐ見つめてくる綺麗な瞳から涙が零れ落ちていくこともなかったかもしれないのに…、

 その瞳が他の誰かを…、唇が違う男の名前を刻むことが許せなかった。

 身体だけを強引に手に入れてみても何かが失われていくような気がするだけで…、ベッドに時任の身体を押し付けるたびに…、
 いつかの日の時任の笑顔が哀しく脳裏に蘇ってくる…。
 けれど、その日はもう遠くて遠すぎて、どんなに手を伸ばしても届かない…。
 だから本当はいつも笑っていて欲しかった…、誰よりも幸せでいて欲しかったはずなのに…、久保田の手は愛しさと憎しみの狭間で拳銃を握ることしかできなかった。

 「すべてが消える運命でしかないのなら、俺がこの手で消してあげるよ…、時任」

 久保田は拳銃を強く握りしめながらそう呟くと、クローゼットから黒いコートを出して着る。そのクローゼットの中には久保田の服だけではなく時任の服も入っていたが、もうどれも必要のないものだった。
 ここだけではなく部屋の中には必要のないものだらけで…、けれど必要はなくてもいらないものは一つもない。それはまるで幻となって消えていく、二人で過ごした日々にも似ていて…、久保田はクローゼットにかけられている時任のコートを見つめていた。
 コートを見つめていると持っている拳銃がなぜかもっと冷たく重くなって…、今から時任の後を追って宗方の屋敷に行かなくてはならないのにそこから動けない。けれど、こうしている間に…、また時任の記憶の中から薬によって久保田の存在が消されてしまうかもしれなかった。
 久保田は想いを振り切るように手に持っていた拳銃をジーパンのベルトに差し込むと、ゆっくりと開いていたクローゼットを閉じようとする。だが、そうしようとした瞬間に、クローゼットの奥に入れていたスニーカーの入った箱の蓋が少し開いていることに気づいた。
 久保田は手を伸ばしてその箱を閉めようとしたが、なぜかいくら抑えても蓋を閉じる事が出来ない。抑えてみた感触からすると、スニーカーが上手く入っていない感じだった。
 別に蓋が閉まっていなくても構わなかったが、なんとなく気になって箱を開けて見る。すると、箱の中に入っていたのはスニーカーだけではなかった…。
 
 ・・・・・・小さな薬瓶と手紙の入った封筒。

 中に何が入っていたものが何なのかはわかったが、薬瓶も手紙も箱の中に入れた覚えはない。薬瓶の中に入っている無色の液体は知らないけれど、白い封筒は机の引き出しに無造作に放り込んであったものだった。
 その二つをこの箱の中に入れる可能性のある人物は一人しかいない…。
 久保田は薬瓶に入った液体を眺めながら机の上に置くと、封筒の中に入っている同じ色の便箋を取り出した…。
 

 『・・・・・・久保ちゃん』


 そう便箋に書かれていた文字を少し震えた指で撫でると、なぜか自分を呼んでいる聞きなれた声が聞こえてくる気がする。この部屋で一緒に過ごしていた時も…、何度も何度もそう呼んでくれていたばすなのに、なぜか離れてしまった今になってそれに初めて気づいた気がした…。
 最初は丁寧に綴られた時任の文字は…、終わりになればなるほど乱れていて…、
 そこには薬瓶に入っている中身がWAだという事と、橘がWAに関係していて危険だという事が書かれている。いなくなった理由は何も書かれていなかったが、その原因に橘が絡んでいることは間違いなさそうだった…。
 すぐに手紙を最後まで読み終えることができたが、そこには薬と橘のことだけしか書かれていない。念のために机のそばのゴミ箱をのぞいてみたが、やはり何もなかった。
 けれど恨みごともさよならも書かれていない手紙は、どうしても何かが欠けている気がして…、久保田は少し考えた後に机の引き出しを開ける。すると、そこには時任が使った便箋が入っていた。
 飾り気のない便箋の表紙をめくると、さっき読んだ手紙よりもっと乱れた文字が並んでいる。そして、その文字を見つめる久保田の瞳は哀しい色を浮かべながら、便箋に書かれた時任の想いをうつしていた…。


 ・・・・・・・・久保ちゃん。

 突然いなくなって…、薬なんか飲ませてごめん…。
 でも、自分のしたコトを後悔なんてしてない…。
 だから許してくれなんて言わないし、言うつもりもねぇから…。
 ・・・・・・絶対に。
 けど…、許してくれって言ったりはしないけど…、
 もっといっぱいキスして、もっともっとたくさん抱いて欲しかった…。
 籠もカギも…、空だけしかないくらいなんにもない場所で一緒にいたかった…。
 
 ・・・・・ずっと二人きりで。

 
 そこで切れた文字は…、時任の頬から流れ落ちた滲んでしまっている…。その文字をたどり続けている久保田の指は…、まるで流れ落ちる涙を拭うように優しく滲んだ文字を撫でた。
 切れてしまった文字の後には何もなくて…、けれど久保田の指はまだ下へ下へと動いていく。そして、最後の行までたどりついて読んでいた便箋をもう一枚めくると…、
 そこには、まだ一枚目には書けなかった時任の小さな文字が残っていた…。

 『好き…、大好き…』
 
 良く見なければ気づかないほど小さな文字だったけれど、その文字が久保田の胸に突き刺さって取れない…。右胸のポケットに入っている弾丸をシャツの上から強く握りしめると、久保田は哀しみに満ちた静かな声で…、
 便箋に書かれた言葉に答えるように…、時任の名前を呼んだ…。

 「好きだよ…、時任…」

 誰よりも愛しかった恋しかった…、ずっと一緒にいたかった…。
 ただ、会いたくて会いたくて…、その姿を追いかけて追いかけ続けて…、
 けれど、そんな想いを抱きしめていたのは自分だけだと想っていた…。
 時任は記憶をなくしてしまっていて、一緒に暮していた暖かな日々を知らないから…、また何もかも忘れて籠に戻っていくのだと想っていた…。
 けれど手を伸ばしていたのは自分だけじゃなくて…、なのに独占浴や嫉妬に心を犯されて、その手を掴み損ねていたのは自分自身だった。
 それに気づいた久保田は、急いで机に置いた薬瓶をコートのポケットに入れて部屋を出る。なんとしても記憶が再び奪われてしまう前に、時任を取り戻さなくてはならなかった。
 だが久保田はマンションから出ると、なぜか時任を探しに向かわずに物陰に隠れて辺りを見回す。すると、マンションの前にあるコンビニの近くに黒塗りの不審な車が止められていた。
 近づいて窓を軽くコンコンと叩くと、中ではマンションを見張るように眺めていたサングラスをかけた男が驚いた顔になる。だが、そんな男に冷ややかに微笑みかけると、久保田はいきなり男の額に拳銃の冷たい銃口を押し当てた。
 「ねぇ、ウチの子知らない?」
 「なっ、何のことだっ」
 「おたくって、真田サンの製薬会社関係のヒトだよねぇ?」
 「・・・・・・違うっ」
 「ふーん…。なら、車いるしジャマだから、さっさと死んじゃってくれる?」
 「ま、待てっ! こんな目撃者の多い場所で発砲すれば、すぐに警察がっ!」
 「あっそう」
 「ま、まさか本気で…っ」
 「サヨナラ」

 「うわぁぁっ、やめろぉぉっ!!」

 サングラスの男は叫び声を上げたが、久保田はその隙をついて男を殴りつけると助手席の男を拳銃で威嚇しながら後ろのドアのロックを開ける。そして後部座席に乗り込むと、改めて男の後ろ頭に冷たい銃口を押し付けた。

 「東京湾と製薬会社…、どっちがいい?」

 風が冷たくなり始めた街の空は雪が降り出しそうなほど、灰色の厚い雲に覆われ始めている。そんな空の下を久保田を乗せて走り出した車は、総合病院の医師が転落した事故のあった東京湾ではなく、時任がいなくなったことに関係していた橘の…、その背後にいる真田の製薬会社に向かっていた。




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