籠の鳥.29



 
 閉ざされた小さな白い籠と捕らえられている鳥…。
 橘はガラス越しに籠の中を眺めていたが、鳥はベッドで眠ったまま目を開かない。しかし、それが無理やり飲まさせた睡眠薬のせいだということは誰かに聞くまでもなく、ここから見ていたので知っていた。
 頭部の断面図をCTで撮れた時も、腕から赤い血液が注射器で抜き取られた時も、まるで自分のしたこととを確認するかのように、橘はまた違う鳥籠の中に入れられてしまった哀れな鳥を見つめている。けれど、いくら見つめたところで自分のしたことが変わる訳ではなかった。

 「貴方にも久保田君にも、自分のしたことをあやまるつもりはありませんし…、許されるとも思ってませんから…」

 橘はそう呟いた声はガラスの向こう側に設置されているマイクからスピーカーを通して伝わっていたが、眠っている時任には聞こえない。そして、ここから遠く離れた場所にいる久保田にも聞こえなかった。もしも二人がWAと関わっていなくて時任が鳥籠に囚われていなければ、久保田が宗方の息子ではなかったら…、
 そして二人が出会っていなければ何かが違っていたのかもしれなかったが、どんなにもしもを並べても目の前にある現実は変わらなかった。
 自分がしたことを後悔をするつもりはなかったが、わずかに寝返りを打った時任の唇が久保田の名前を呼んでいるのを見ると、胸の奥が痛みで軋んでいくような気がする。一緒に来ればどんなことになるのか、ある程度は予想がついたばすなのに…、
 久保田のマンションから出てきて車に乗り込んできた時任は、ただ静かにじっと何かを見つめていた…。
 そんな時任はあまりにもその横顔が透き通るように綺麗で…、切なそうで哀しそうで見てられなくなる。だが、橘は車の運転手に引き返すように命じたりはしなかった。
 それは愛してると言いながらも松本を裏切り続け、後戻りの出来ない所まで来てしまっていたせいかもしれない。今も脳裏に焼きついて離れない夏の日の光景が橘の心に暗い影を落として、取れないしこりを作ってしまっていた。
 いつの間にこんなにも、自分の中の暗闇が冷たく広がってしまったのかわからない。けれど、今はただ真実と事実を突き止めることだけしか考えられなかった。
 
 「自分のしたことを、後悔でもしているのかね?」

 橘の立っている白く長い廊下をゆっくりと歩いてきた真田は、そう言うと持っていた茶封筒二つの内一つだけを差し出しながら同じようにガラスの向こうにいる時任を眺める。だが、その表情は橘と違って楽しそうだった。
 鳥の名前が時任稔だということはここにいる誰もが知っていたが、ここでは時任を名前で呼ぶ者は橘と真田以外いない。この真田の製薬会社でWAの研究をしている極秘施設では時任は薬の成分を解析し、その解析結果を元にコピーを作るためのサンプルに過ぎなかった。
 けれど、たとえ名前を呼んでいても真田にとっての時任の価値は、WAを作り出そうとしている研究員達と変わりない。もしも少し違う点があるとすれば、それは時任を宗方の屋敷から連れ出した久保田と以前から個人的に知り合いだということだった。
 真田の質問に首を軽く横に振ると、橘は差し出された封筒を受け取る。その茶封筒の中には、橘の知りたかった事実と真実へと繋がる手がかりが入っているはずだった。
 けれど、確認のために中に入っていた調査書に目を通すと、予想外にそこに書かれていたのは橘が医師として勤務しながら探り続けていた病院内のことではない。調査書に書かれていたのは病院ではなく、宗方の屋敷と松本の父親との個人的な関わりだった。

 宗方総合病院院長、宗方誠治・・・・。

 それが時任のいた屋敷の主の名前と肩書きだったが、その肩書きがつくようになったのは前院長である誠治の父親が急死した後のことだった。
 当時のことを知る者は病院内にほとんど残っていないが、もしも生きていたら松本の父親もその中に含まれることになる。遺書を残して自宅で亡くなった松本の父親は、宗方総合病院の内科で医師をしていた。

 『私は殺された…』

 そう書かれていた遺書の意味は未だにわからなかったが…、やはりそうなる原因が何かあったに違いない。いつ頃からWAという薬が存在していたのかはわからないが、松本の父親は橘と同じように宗方の屋敷にいる誰かの主治医をしていたようだった。
 橘の読んでいる調査書には、突然、患者が屋敷から行方不明になった翌日に主治医が自宅で首を吊って自殺したと書かれている。行方不明と自殺の時期がこんなにも近くなければ、これほど気にはならなかったかもしれないが…、
 翌日だったということが、あまりにも出来すぎていて偶然とは言い難かった。

 父親の急死と、屋敷に住んでいたと思われる人物の突然の失踪…。

 現院長である宗方の身辺には不審なことが多すぎる。しかし橘はなぜかそれらのことを知る前から、院長である宗方を疑っていた。
 疑いを持つほどの証拠は何もなかったが、松本の父親の死を知った瞬間から宗方を疑い続けている。それは松本の父親が生前、宗方のことを得体の知れない恐ろしい人物だとこぼしていたのを聞いていたせいなのか…、
 実はもっと他に理由があったのか、橘自身にもわからなかった。
 「この主治医をしていたという人物が何者なのか書かれていませんが、これは不明という意味ですか?」
 「それは私の口から直接、君に伝えようと思ったのでね」
 「つまり…、時任君を貴方の所に連れてきただけでは、まだ足りないとでもおっしゃるつもりですか?」
 「いや」

 「なら、患者が誰なのか教えてください」
 
 橘が言ったように松本の父親と宗方については経歴から職歴、自殺した頃の様子など、病院内に残る資料や聞き込みよって調べられたことが細かに調査書に記載されているが、宗方の屋敷で松本の父親が主治医をしていたという患者のことは、経歴ばかりではなく名前すら書かれていなかった。
 橘が真意を探ろうとするかのように横顔をじっと見つめていると、真田は口元に笑みを浮かべたままで眠り続ける時任を眺めながら目を細める。そして、あっさりと持っていたもう一つの茶封筒を橘に向かって差し出した。
 どうやら茶封筒を一つしか渡さなかったのは何か意図があった訳ではなく、橘をからかっていただけのようである。けれど、茶封筒を手渡されても少し不審そうな顔をしてる橘を見て、真田は口元に浮かべていた笑みを少し深くした。
 「・・・・・患者だったのは久保田誠人の母親だ」
 「なるほど…、そういう可能性もありましたね…。本人は認めていないようでしたが、久保田君は宗方の実の息子…。ですが、久保田君の母親は行方不明ではなく、亡くなったと聞いています」
 「ほう…」
 「でもそれが違っていた…」
 「だが、まだそう簡単に違っていると決め付ける必要もないだろう?」
 真田はそう言いながら歩き出すと、時任のいる部屋に通じるドアのロックをポケットから取り出したIDカードを使って外す。そして部屋の中へと入ると、ベッドで眠っている時任のそばへと近づいた。
 時任は眠っていても真田の気配を感じているのか、不快そうに眉間に皺を寄せる。しかし真田はそれを気にした様子もなく、手を伸ばすと時任の頬をゆっくりと撫でた。

 『真実は鳥籠の中に…、そしてこの鳥の身体の中にあるということだよ…』
 
 真田の声は廊下にあるスピーカーを通して、橘の耳に聞こえてくる。その声を聞きながら橘は持っていた書類を再び茶封筒に収めたが、そうしている間に真田は時任の頬から首筋へ…、それから鎖骨から胸へと感触を確かめるように撫でさすりながら手を滑られていた。
 真田の手の滑っていった場所には、久保田の残した真新しい痕がある。ゆっくりとゆっくりと滑っていく手が敏感な部分まで到達すると、時任はビクッと身体を揺らせた。
 『前に捕らえた時は最後に薬を打ってから時間がたち過ぎていたせいか薬物反応は出なかったが、今はこの身体の中に未だWAが残留している…。それでこそ、捕らえたかいがあるというものだよ』
 「まさか…、だから一度捕らえたのにわざわざ屋敷へ…」
 『鳥籠から出た鳥を、久保田君が拾っていたとは知らなかったが』
 「・・・・・貴方と言う人は」
 『そのセリフを君が私に言えるのかね?』
 「・・・・・・・」

 『私の共犯者である君が…』

 真田の言葉に強く拳を握りしめたが、その言葉通り間違いなく橘は真田の共犯者だった。共犯者になったことで確実に知りたかった真実へと近づいていることを、望みを叶えられる日が近づいていることを感じていたが…、心は重く重く沈んでいく。
 目の前のガラスに写り込んでいる自分自身の顔を見つめながら、橘はスピーカーから聞こえ始めた時任の声を聞いていた。けれど、その声は苦しそうなうめき声で…、真田によって無理やり上げさせられている声である。
 なぜか久保田に執着している真田は、別な意味で時任に興味を持ったようだった。
 時任はまだ睡眠薬のせいで朦朧としてる様子だったが、与えられる刺激に意識を取り戻したのか潤んだ瞳をうっすらと開けている。そしてわずかに動いて何かを掴むような仕草をした手のひらにも力はなく…、やがて上にのしかかってきた真田を押しのけることはできなかった。
 けれど、自分が何をされているのかこれから何をされようとしているのか、時任にわかっているかどうかはわからない。うっすらと開けた瞳で天井を見つめながら、時任の唇はやめろでも助けてでもなく…、一人の人物の名前だけを小さく刻んだ…。
 それは小さな呟きだったが、たとえ聞こえなくても橘にはそれが誰なのかわかっている。時任の呟きを聞いた橘は苦しそうな表情で瞳を閉じながらうつむくと…、握りしめた拳で目の前のガラスを強く叩いた。

 「やめてくださいっっ!!! お願いですから、どうかその人をこれ以上っ…!!」

 時任を利用することしか考えず、背中にナイフと拳銃を突きつけてここまで連れてきたのは自分自身で…、そんなことを言える資格なんてありはしなかった。けれど時任の哀しそうな瞳を力なく握りしめられた手を…、そしてたった一人の人物だけを呼び続ける唇を見ていると叫ばずにはいられなかった。
 いつまでも綺麗に澄んだ瞳のままでいる時任にドス黒い感情を抱いていて、それは今も変わらない…。けれど同時に傷ついた身体を優しく抱きしめたいと想う気持ちも胸の奥にあって…、その二つに引き裂かれるように心がバランスを失いそうになる。
 橘は強く胸を抑えながらすがり付く様にガラスに体重をかけながら、嫌な笑みを浮かべながら楽しそうに自分を見ている真田に向かって頭を下げた…。

 「代わりに僕を抱いてください…、お願いします…」

 復讐という暗闇に囚われた橘の心はどこまでもどこまでも沈んでいくばかりで…、どこを見回しても明かり一つ見えない。WAを手に入れようとしている真田が、自分を利用して宗方家を破滅させようとしていることを知ってはいたが…、
 真田に利用されるまでもなく、真実を確かめた後でそうすることが橘の望みだった。
 たとえ、車ごと海に沈められた渋沢のように棄てゴマとして処分されるかもしれなくても…、走り出してしまったから立ち止まれない。
 けれど…、そんな自分を哀れむ気持ちは微塵もなかった…。
 ガラスの向こうにある部屋に入った橘はそこにあった冷たい診察台の上で、時任の眠りを壊すのを恐れるかのように強く歯を食いしばっていたが、真田はそれを知っていてわざとひどく犯すように抱いて痛みを与えてくる。

 けれど橘は一度も非鳴も叫び声も上げずに、診察台が規則的に軋む音を聞きながら身体を揺さぶられ続けていた。




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