籠の鳥.28
『久保田君の居場所が…、わかりましたよ…』
そう橘から連絡が松本の携帯に入ったのは、朝起きて入れたコーヒーを新聞を読みながら飲んでいた時だった。
どこからそんな情報が入ったのかと飲んでいたコーヒーをテーブルに置きながら松本が尋ねると、橘は小さく笑いながら『知りたかったら当ててみてください…』と言って通話が切られる。松本は切れた携帯を耳に押し当てたままで、もしかしたら偶然に耳に入ったか見かけたのかもしれないと思おうとしたが、やはりそれは信じたい気持ちから出た都合の良すぎる考えなのかもしれなかった。
橘の知らせてきた場所に久保田がいるかいないかによって、また状況は変わってくるのかもしれないが…、WAという薬を中心にして何者かが動いている気がしてならない。とにかくWAの情報を持ったまま行方不明になっていた久保田がいるというマンションまで、急いで行くしかなさそうだった。
松本は同じように自宅の居間で新聞を読んでいた葛西に居場所を連絡すると、その後で午前中は急用で休むことを勤務先の病院に伝える。だが、もしかしたら今日は午前中だけではなく、場合によっては一日休むことになるかもしれなかった。
「俺が行くまで無事でいろよ…、誠人」
そう呟いて玄関のドアを閉じて鍵をかけると、葛西と待ち合わせしている場所まで早足で歩き始める。本当なら自分で車を運転して横浜まで行きたい所だったが、いつも橘が運転している車に乗るため、免許は持っているが車は持っていなかった。
待ち合わせ場所に行くと、しばらくしてあまり洗車されていないホコリだらけの車がすぅっと松本の横に止まる。そしてその車に松本が無言で助手席に乗り込むと、運転していた葛西は勢い良くアクセルを踏んだ。
久保田の居所がわかったと電話した時、葛西は情報の出所を聞かなかったが今もそれを尋ねようとはしない。それを不思議に思った松本が聞いてみると、葛西は苦笑して器用に片手で取り出したタバコを運転しながらくわえた。
「聞いてもいいってんなら聞くが、聞かれたくないから言わなかったんじゃねぇのか?」
「・・・・・・・すまない」
「別にかまわねぇよ。まぁ、誠人が無事だったら…、だがな」
「きっと誠人は無事だ…、無事に決まっている」
「あぁ…」
「そうでなければ…、俺は…」
松本は早い速度で流れていく景色を眺めながら、そう言うとひざの上に置かれていた拳を硬く握りしめる。久保田が無事だったとしてもWAのことや橘への疑惑が解決する訳ではなかったが、今はただ無事でいてくれることだけを信じていたかった。
久保田を狙う可能性があるのはWAの関係者だろうと予測されるが、やはり一緒にいるかもしれないという時任のことも気にかかる。時任が宗方の屋敷に本当にいたのかどうかはわからないが、もしも久保田が時任を強引に連れ去ったのだとしたら宗方が取り返そうする可能性があった。
WAと関係があるのは真田という男だと思っていたが、久保田は宗方の屋敷に向かった後で消息を絶っている。
WAと時任…、そして宗方…。
この三つがどう関係しているのかと色々と考えをめぐらせてみたが、やはり情報不足で何もわからなかった。松本は三つのつながりを考えることを止めて小さく息を吐くと、もっと別なことを葛西に尋ねるために口を開く。それは、WAでも時任のことでもなく、これから向かう先にいる久保田のことだった。
「葛西さん…」
「なんだ?」
「誠人のことで、少し聞いてみたいことがあるんだが…」
「それは別にかまわねぇが、俺に答えられることならな」
「それでかまわない」
「わかった…」
「では単刀直入に聞くが…、誠人はなぜ宗方の屋敷でひどい扱いを受けていたんだ?」
「はっきりとは俺にもわからねぇが、愛人の子だからだろう?」
「だが、愛人の子でも宗方の血を引いていることは間違いない…」
「それはそうだが…、他に理由が見つからねぇんだよ。愛人の子だからじゃなく誠人自身が気に入らなかったって言っても、人間らしい扱いをされてなかったのは物心付く前からっだったって話だからな」
「そんなに前から、あの屋敷で誠人は…」
「何かしてやれるとか助けられるとか思い上がるつもりはねぇが…、屋敷で初めて誠人を見た瞬間、早く連れ出しに行かなかったことを後悔したよ…。そして、らしくねぇことに今も後悔し続けてる…」
「葛西さん…」
葛西に聞いたことは、屋敷にいた頃の久保田のことを教えられた時からずっと気になっていたことである。だが葛西もそうなった理由がわからないらしく、はっきりしたことは何も聞けなかった。
葛西は久保田の叔父で…、そして久保田の母親は葛西の妹…。
苗字が違うのは両親が離婚したせいで、再び母親と一緒に家を出て行った妹に葛西が再会した時にはすでに腹の中に宗方との子供がいた。その時に葛西は頼まれて一緒に産婦人科に行ったが…、結局、診察を受けただけで病院を出ている。
けれど、妹は表情を凍られたままで…、産みたくない怖いと繰り返していた…。
松本と話している内にその時のことを思い出した葛西は、別れ際に聞いた大丈夫という妹の言葉を信じてしまった自分に苛立ちと腹立たしさを感じている。それからしばらくして子供が産まれたとことを知らせるハガキが届いた後、わずか半年で葛西の妹は宗方の屋敷から姿を消して行方不明となった。
葛西は必死で妹の行方を探したが、今も手がかり一つ掴めていない。久保田は死んだと知らされているようだが、本当は死んだのではなく行方不明になっているだけだった。
それを松本に伝えておくべきかどうか迷ったが、結局、やはり何も言わないまま横浜に向かってアクセルを踏み続ける。今は目の前にいない妹のことを考えるよりも…、妹の子供であり自分の甥である久保田の無事を確認することの方が先だった。
連絡のあった場所にあるマンションは四階建てで、そこの401号室に久保田がいるらしい。駐車違反していることを承知でマンションの前に車を止めた葛西は、松本と一緒に401号室へと向かった。
「おいっ、誠人っ! いるならさっさと出てきやがれっ!」
目的地である部屋の前に着くと、玄関のチャイムをうるさく鳴らして葛西はそう怒鳴りながらドアを激しく叩く。しかし、中からは返事が返ってこないだけではなく物音一つ聞こえてこなかった。
あまりにも静か過ぎることに嫌な予感を覚えて、葛西は眉間に皺を寄せながら松本と顔を見合わせる。もしもこのまま誰も出てこなかったから、久保田の叔父であることを管理人に説明して、部屋のドアを開けてもらわなくてはならないかもしれなかった。
だが、葛西が試しにノブを回してみるとドアがカチャリと軽い音を立てる。どうやら不用心なことに、ドアには鍵もチェーンもかけられていないらしかった。
そのことで嫌な予感が的中していたことを確信した葛西と松本は、ドアを開けると一足だけ出してあった靴の上をまたいで急いで部屋の中へと入る。そして久保田の姿を探してリビングの方へと行ったが、やはりそこには誰もいなかった…。
「やはり遅かったのか…」
「ブツブツ言ってるヒマがあんならとっとと別な部屋探せっ、松本っ。玄関に一足、靴が揃えて置いてあっただろっ。だからさらわれてないなら、この部屋ん中のどこかにいるはずだっ」
「葛西さん…」
「どうした? なにかわかったのか?」
「葛西さんには医者ではなく、なんとなく刑事の方が似合っている気がする…」
「ははは・・・、確かにこういう時は警察手帳があれば何かと便利そうだな。だが、俺が刑事になったとしても、なれるのは優秀とは程遠い麻雀好きの不良刑事だ」
「麻雀好きの不良医者と不良刑事…、どちらも似たり寄ったりな気もするが…」
「けどな…、刑事になってりゃ良かったって思ったことはあるぜ…、何度もな…」
そう言った葛西の言葉の意味は、久保田の母親のことを知らない松本にはわからない。だが、少し沈んだ葛西の声には後悔と焦りが滲んでいた…。
葛西がリビングを調べている間に、松本は玄関からリビングへと続く廊下に戻るとトイレとバスルームのドアを開けて中を調べてみる。けれど、やはりそこにも誰かがいた形跡も気配もなかった。
すると、この部屋の中で調べていないドアは一つだけになってしまう。もしも…、このドアの向こうに久保田がいなかったら、やはり橘のことを葛西に話して再び行方を探さなくてはならなかった。
松本は久保田の無事を願いながら、この件に橘が無関係であることを祈りながら最後に残されたドアを開ける。するとドアの向こう側からリビングと同じ静けさが流れてきて、その静けさを感じた松本はきつく唇を噛みしめたが…、
ドアの横の壁を背にして、瞳を閉じたまま座り込んでいる久保田の姿が目に入った。
「ま、誠人…っ!!」
松本は名前を呼んで慌てて駆け寄ったが、久保田はそれでも眠るように瞳を閉じたまま開かない。けれど久保田の口元に手をかざしてみると、胸がわずかに上下していることからもわかる通り呼吸をしているし、手首にある動脈の上に親指を乗せてみると心臓の鼓動も
正常だった。
松本は恐る恐る久保田に向かって手を伸ばすと、再び名前を呼びながら頬を軽く叩く。すると、久保田の瞳がうっすらと開いた。
「誠人っ、しっかりしろっ」
「・・・・・・・」
「俺が誰だかわかるか?」
「まつ…、もと?」
「そうだっ、松本だ…。良かった…、本当に良かったお前が無事で…」
久保田がうつろな瞳で松本の名前を呼ぶと、松本はほっとしたように細く長く息を吐いて床に座り込む。どうやら久保田は気を失ってはいたものの、ケガもなく無事のようだった。
松本の声を聞きつけた葛西も同じ部屋にやってきたが久保田の瞳はうつろなままで…、自分のことを心配してくれている松本でも葛西でもなく、部屋にある乱れた白いベッドだけを見つめている。そして冷たい床に触れていた右手を持ち上げると…、夜の匂いのするベッドからその手の方へと視線を移した。
「あれ・・・・・、死んでない…? あったかくて気持ち良くて…、だから天国にいた気がしたのにヘンだなぁ…」
かすれた声で小さくそう呟いた久保田の瞳からは、ゆっくりと涙が零れ落ちていく…。けれど、それに気づいていないのか久保田は頬を流れる涙を拭おうとはしなかった。
見てはならないものを見てしまった気がして松本が久保田から視線をそらすと、葛西がタバコを吹かしながら静かに部屋から出る。久保田以外の誰かがいた気配の残る部屋は夜の匂いと…、久保田の流す涙の色に良く似た哀しみの色に染まっていて…、
乱れたベッドを見つめていると、なぜか哀しみの色がもっと深く深くなった。
松本が部屋の中に満ちている哀しみに耐え切れなくなって、葛西と同じように部屋を出ようとすると久保田は自分の肩にかけられているシャツを掴む。そしてこの部屋にいたもう一人の人物の名前を…、胸が痛く苦しくなるほど優しく愛しそうに呼んだ…。
「・・・・・・・・・時任」
久保田の腕の中には抱きしめた感触がまだ残っているのに、時任はもう戻っては来ない。抱きしめた時のあたたかな記憶をどんなに抱きしめつづけても、あとに残るのは切なさと痛みだけだった…。
どんなに抱きしめても、やはりあの日のように籠の鳥は籠に帰って行く…。
それを時任が無意識にアキラの名前を呼ぶたびに感じていた…。
部屋を出た時任が誰に何を言われたのかはわからなかったけれど、あんなに嫌がっていたのに自分から抱いてと言った瞬間、さよならの言葉が聞こえた気がして…、
ただ…、もうこのまま終わることだけしか考えられなくなった…。
このまますべてを終わりにして…、あたたかな夢だけを抱きしめて眠りたかった…。
幻だったかもしれない二人で微笑み合っていた…、あの日々だけを…。
だから、もう二度と戻らない日々を抱きしめるように時任を抱きしめながら、口移しで飲まされたポカリを飲んだけれど…、夢から覚めて瞳を開くと目の前に時任がいなくなった現実と哀しみと失った痛みだけが続いていく…。深い深い口付けの後で感じた優しくあたたかく抱きしめられた感触と、夢の中で聞いた時任の声が耳の奥に残っていて…、
その夢をずっとずっとこの部屋で見続けたかったけれど…、愛しい人を抱きしめながら飲んだポカリはあたたかな記憶と涙だけを残して…、
・・・・・・・・久保田を天国へと連れて行ってはくれなかった。
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