籠の鳥.27




 どうしても会いたかった…、ただ会いたくてそばにいたかった…。

 けれど、二人きりしかいない部屋の中でセッタの匂いを嗅いでいると…、なぜか哀しくて苦しくてたまらなくて…、
 こんなにも近くに、こんなにもそばにいるはずなのに…、まるで遠く離れているような気がして、切なくて切なすぎて心が壊れてしまいそうになる。久保田の後ろについてリビングに行くと、そこには外から見たあの明かりが灯っていたのに今は暖かく感じられなかった。
 目の前にある久保田の背中があまりにも冷たくて、その冷たさに暖かいはずの明かりも空気も何もかもが凍りついていく。
 その冷たさを感じながら…、時任はゆっくりとゆっくりと背中に向かって手を伸ばした。けれど、伸ばした手が背中に届く前に窓の外を見つめていた久保田が振り返る。
 時任の方を見る久保田の瞳は夜の暗闇を写したように沈んでいて、その瞳を見つめ返していると…、暗闇の深さに吸い込まれていくような気がして目眩がした。
 でも、どんなに冷たさに凍えて深すぎる暗闇の目眩を感じても、それでもここから…、久保田のそばから離れたいとは想わない…。

 けれど、お互いの瞳を見つめ合う二人の距離は切ないくらい近くて…、哀しいくらい遠かった…。

 時任は伸ばしかけて届かなかった手を降ろさずに、もう一度、久保田に向かって伸ばそうとしたけれど…、その手は久保田の冷たい視線に拒まれて下へと落ちる。ドアを開けてここに戻ってくることはできたのに、何も言わずに部屋からいなくなっていた時任を久保田は微笑んでおかえりを言いながらも許してはいなかった。
 でもそれがわかっていても、久保田の言いつけを守らずに部屋から外に出た理由を言うことはできない…。どんなに一緒にいたくても、そう願っていても…、それは久保田を危険な目にあわせるためじゃなかった…。
 だから本当は橘が言った通り戻らない方が、このまま消えてしまった方がいいとわかっていたけれど…、どうしてももう一度だけ会いたくて、もう一度だけ声を聞きたくて久保田の目の前に立っていた。

 「ただいま・・・」

 ようやく言うことのできた言葉は部屋の中に満ちている静けさと沈黙の中に消えて…、時任は唇を噛みしめながら哀しそうな瞳で久保田を見つめ続ける。言いたいことも伝えたいことも…、胸の中にいっぱいになり過ぎていて言葉にならなくて…、
 これから離れなくてはならないとわかっているから、声には出せなかった…。
 やっと…、やっと会うことができたのに…、一緒にいることができたのに…、
 まるですべてが夢だったように終わりは、あまりにも突然に唐突にやってくる。
 それはどことなく…、いきなり窓から入ってきた久保田に出会った時にも似ていた。
 大切な時間ほど早く早く過ぎていって…、その後には遠い日を写した古びた写真のように想い出だけが記憶の中に残る。時任は絶対に忘れたくない人の顔を…、大好きな人の顔をじっと見つめながら…、
 もう一度、降ろしてしまった手を伸ばして…、そっと久保田の頬に触れた。
 「あのさ…」
 「なに?」
 「今から、俺のコト抱いてくんない? もう飽きて抱きたくなくなっちまったかもしんねぇけど…、一回だけでもいいから…」
 「・・・・・・・」
 「久保ちゃん?」
 「ふーん、なるほどね。そう言えって言われて、逃げ出したのにわざわざ抱かれに戻って来たってワケね」
 「え?」

 「そんなに抱かれたいなら抱いてあげるよ…。一度だけじゃなくていくらでも…、朝日が昇らなくなるまで…」

 久保田は頬に冷たい瞳のままでそう言うと、両腕で時任の身体を抱き上げてリビングからベッドのある寝室に向かって歩き出す。それは自分の望んだことだったけれど、久保田の首にしがみつきながらリビングを見ていると…、二人でカレーを食べた暖かな日のことが想い出されて…、
 ただ身体の欲望を満たすためだけに抱かれることが、どうしようもなく哀しかった…。
 けれどそれでも、身体だけでも久保田と繋がることができるなら…、離れてしまう前に強く深く繋がれたかった…。
 胸の奥にある想いも気持ちも…、何も伝わらないとわかっていても…、
 心まで届きそうなくらい深く深く身体を繋げられたら…、そこに何かが残る気がした。
 
 「抱いて…、久保ちゃん…」

 部屋に入ると乱暴にベッドに投げ落とされて、着ていた服も久保田の手に奪い取られて…、時任はまた白い天井を見上げる。そしてまるでうわ言のように抱いてと繰り返しながら、自分から腕を伸ばして久保田の身体を抱き込んだ。
 キスされる前にキスをして…、抱きしめられる前に抱きしめて…、
 久保田の欲望を受け入れて、感じさせられるのじゃなく感じようとして身体を揺らす。そんな自分のことがどんな風に久保田の目に写るのか気にならない訳ではなかったけれど、今はどんなに淫乱だと罵られても強く激しく久保田を感じてたかった。
 「はぁ、はぁっ…、あっ…」
 「自分から腰振っちゃって、そんなに…、気持ちいい?」
 「・・・・・・く、久保ちゃんは?」
 「それなりに…」
 「それ…、なり?」

 「欲望を吐き出すためだけの、カラダの快楽なんて…、そんなもんデショ?」

 欲望に身体を揺らして揺らされながら、近くにいるはずなのに久保田の言葉が遠くから聞こえてくる。それは身体のように繋がることのできない心の距離のようで…、時任は胸の痛みを、自分の中にある久保田の存在を感じながら、ギシギシと規則的に響くベッドの軋む音を聞いていた。
 たくさんたくさんキスをして身体を繋げ合って、どんなに抱き合っても…、久保田にとってはただ欲望を吐き出すだけの行為でしかないのかもしれない。でも久保田にとって意味がなくても、時任にとっては意味のある行為だった…。
 だから、これが快楽を求めるだけの行為でしかなくてもやめたくない。
 せめて約束の時が…、夜が明けるまでは久保田の熱を鼓動を感じていたかった。

 「くぼ…、ちゃん…、もっと、もっと強く抱いて・・・・・・」

 もっと強く…、もっと激しく身体を揺さぶられて意識が何も考えられないくらい白く白く染まっていく…。けれどそうしていなければ抱かれる激しさよりも、強く激しく泣き叫んでしまいそうで…、銃口が狙っていることを知っているのに、もう一緒にいられないとわかっているのに久保田から離れられなくなりそうで恐かった。
 過ぎていく時を止めたいけれど…、確実に夜は明けていく…。
 時任は何度目かの欲望が自分の中に注ぎ込まれるのを感じると、久保田の背中にしがみつくように伸ばしていた手を降ろして…、その手でシーツを握りしめるとかすれた声で喉が渇いたと久保田に言った。
 「喉が渇いたから…、なんか飲みたい…」
 「冷蔵庫にあるポカリでいい?」
 「うん…」
 「じゃ、持ってくるから…」
 久保田は床に落ちていた自分のジャーパンを拾って履くと、そう言って飲み物を持ってくるためにキッチンへと向かう。すると、その後ろ姿を見送った時任は久保田と同じように自分の服を拾い上げると、ポケットの中から橘に渡された粉状の睡眠薬を取り出した。
 さよならを言いたくも聞きたくもなかったから、朝が来たらさよならを告げずにいなくなるつもりだったけれど…、もし眠ったとしても久保田の眠りは常に浅い。だから、ここから出るためには睡眠薬を飲ませるしかなかった。
 時任はキッチンから戻ってきた久保田にポカリの入ったグラスを渡されると、今度は何か食べる物が欲しいと言って部屋から追い出す。そして、その隙に渡されたポカリの中に睡眠薬を入れて指で混ぜて溶かした…。

 「ごめん…、ごめんな…」

 そう呟いてみても、その声はキッチンにいる久保田には届かない…。
 時任が手に持っている睡眠薬の入っているグラスをじっと眺めていると、久保田が簡単な食べる物を持って戻ってきた。けれど、てっきり買いだめしてあるお菓子を持ってくると思っていたのに、戻ってきた久保田の手にある皿に乗っていたのはコンビニで買ったものではない手作りのおむすびだった。
 そのおむすびからうっすらと暖かい湯気が立ち上っているのを見ると、なぜか涙が零れ落ちそうになる。けれど手に持っているコップをぎゅっと強く握りしめると、その中に入っている睡眠薬入りのポカリを飲まずに口に含んだ。
 そしてベッドの脇におむすびの入った皿を置いた久保田に、ゆっくりと顔を近づけて少し震えている唇を重ねて…、それから睡眠薬を口移しで飲ませようとする。するともしかしたら飲むのを拒まれるかもしれないと思っていたのに、久保田は時任がするままにまかせておとなしく睡眠薬入りのポカリを時任の口から口移しで飲んだ。
 睡眠薬をすべて飲ませ終えると時任は瞳を硬く閉じたまま唇を離そうとしたが、久保田は離れようとする唇を追いかけるように深く何度もキスしながら時任の身体を抱きしめる。けれど、抱きしめてくる腕はベッドの上とは違って暖かくて優しかった…。
 それに気づいた時任はハッとして瞳を開くと…、久保田は時任を包み込むように抱きしめている腕は離さずに、唇だけを時任から離しながら優しく微笑む。そして切なくなるほど優しく哀しい微笑みを浮かべたままで、時任の柔らかい髪にそっと頬を寄せた…。

 「好きだよ、時任…。たぶん出会うよりも前から…、ずっと誰よりも…」

 小さく囁かれた言葉と一緒に腕が力を失って下へと落ちて…、久保田の身体がぐらりと揺れて横へと倒れていく…。時任はとっさに崩れ落ちていく久保田の身体を必死で支えながら…、強く強く抱きしめながら…、部屋に満ちている暗闇を見つめていた…。
 久保田の言葉が胸に突き刺さって…、胸が苦しくて痛くて張り裂けそうでうまく呼吸ができない。抱きしめた身体の暖かさが、抱きしめ続けていた想いが…、哀しみと切なさに代わって瞳から涙になって…、睡眠薬を飲んだために意識を失っている久保田の頬に零れ落ちた。
 
 「うっ、あぁぁっっ…!!!」

 叫び声にも泣き声にも聞こえる時任の悲痛な声は…、止まらない涙と一緒に両腕で強く抱きしめている久保田の頬を濡らして…、
 冷たい暗闇だけが満ちていた部屋に、哀しみと痛みが広がっていく…。
 こんな風にここに連れて来られて…、だから好きになんてなってもらえないと想ってた…。だから、どんなに背中を抱きしめても好きだと言えなかった…。
 なのに、離れていかなくてはならない今になって久保田の言葉が暖かさが…、会いたいと願った数だけ、一緒にいたいと想い続けた深さの分だけ胸に突き刺さる。
 本当は好きだと言ってくれたように…、それよりもたくさん好きだと言いたかった。

 言葉にならない想いを…、強く強く抱きしめながら身体中で叫びたかった…。

 けれど、どんなに胸の奥の思いを抱きしめても叫んでも、背中に突きつけられたメスが冷たい銃口がそれを許さない。残酷に時は確実に過ぎて夜が明けて、別れの時が近づいて…、腕の中にある暖かなぬくもりから離れなくてはならなかった…。
 時任は零れ落ちる涙を拭おうともせずに頬に唇に何度もキスを繰り返しながら、近くにあったシャツを久保田の肩に着せかける。そして、キスを止めてまるで心臓の鼓動を聞かせるように久保田の頭を優しく胸に抱き込むと眠るように静かに瞳を閉じた…。

 「好きだよ…、久保ちゃん…。たとえ何もかも忘れても、ココだけはちゃんと覚えてるから…、ずっとずっと久保ちゃんだけが好きだから…」

 鼓動と一緒に胸に刻み込まれた想いは…、絶対に消えたりしない…。
 時任は少しの間そうやってじっとしていたが、部屋にある窓のブラインドの向こうが明るくなり始めているのに気づくと…、ゆっくりと抱きしめていた腕を離して久保田を壁を背中にして座らせた。
 そして乱れたままのベッドに移動して下に隠していた薬瓶と銃弾を取り出すと、銃弾だけを自分のポケットに仕舞い込む。屋敷のことも薬のことも知らなかったが、薬瓶に入っているこの薬のために橘や黒服の男達が動いていることはわかっていた。
 だが、それだけではなく薬が危険なものだということは身を持って知っている。時任は薬が橘に渡らないように、急いで書いた手紙と一緒に薬瓶を部屋にあるクローゼットの奥のスニーカーが入っていた箱の中に仕舞い込んだ。
 この隠した小さな薬瓶と手紙を久保田が見つけるのがいつになるのかはわからなかったが…、もしかしたら、このまま見つからない方がいいのかもしれない。けれど何かあった時、この薬が証拠になることがわかっているので捨てることはできなかった。
 時任は薬を隠し終えると、まだ眠ったままでいる久保田に近づいて正面にひざまづく。そして、もう一度だけ別れを惜しむように久保田を抱きしめると…、右手で涙をぬぐって立ち上がった。

 「俺のことなんて覚えてなくていいから、好きになんてならなくていいから…、絶対に死ぬな…、久保ちゃん…」

 時任が久保田から離れるのを待っていたかのように…、二人で暮すマンションのある横浜の空が赤く朝焼けの色に染まり始める。けれど、一日の始まりの空がとんなに明るく穏やかに明けていっても、時任の心は久保田のことを想って恋しがって泣き続けていた…。
 久保田と暮したマンションの部屋を出て時任が見上げた空は、朝と夜が入り混じったような色をしていて…、
 そんな空を眺めていると、止まりかけていた涙が頬を一粒だけすべり落ちる。
 時任がその涙を再び拭って視線を空からマンションの前に移すと、黒服の男が運転している同じ色の車が止まっていた。この車に乗ってどこに連れて行かれるのかはわからなかったが、時任は車の止まっている場所まで行くと迷うことなくその車に乗り込む…。
 すると車はゆっくりと走り出したが、時任はバックミラーに写っている朝焼けの色に染まっていくマンションを見えなくなるまで…、
 
 涙に濡れた瞳でじっと見つめ続けていた…。




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