籠の鳥.26




 なぜ医者である橘がいかにも胡散臭そうな黒服の男達を従えているのか、電話で呼び出されてここに来た時任にはわからない。
 けれど、目の前にあるマンションの明かりを眺めながらこの空きビルにいることも、そこで橘にメスを突きつけられていることも何もかもが現実だった。
 いつもなぜか夢であって欲しいことが現実で…、現実であって欲しいことばかりが眠りから覚めると儚く消えてしまう夢のようで…、時任はまるで幻でも見ているかのように、久保田と暮している部屋の明かりを見つめながらわずかに目を細める。
 こんな風に久保田から離れていると…、もしかしたら本当にすべては夢でしかなくて、今もまだあの屋敷の部屋の中にいるよう気がした。
 けれど、まだ熱い身体が久保田をちゃんと覚えている。白い天井を見上げながら哀しい気持ちで抱かれていたけれど、今はその痛みが頬を濡らしていた涙が…、久保田がいたという確かな証拠になっていた。
 強引にベッドに押し付けられて犯されて…、つらくて哀しかったのに…、
 久保田のそばから離れたいと思ったことなんてなくて…、目の前にある明かりを見つめていると早く帰りたくてたまらなかった。
 けれど、どんなに帰りたくても、どうしても後ろから回されている橘の腕の中から逃げ出すことはできない。背中にメスを突きつけられているのは時任だったが、ここから逃げ出した瞬間に冷たい銃口を向けられることになるのは…、時任ではなく久保田だった。

 「俺は…、俺はもうアキラともあの屋敷とも関係ない。だから、そんなコトしたって薬は手に入らねぇよ」

 背中にメスを付きつけられたまま、時任はじっと明かりを見つめ続けながらそう言った。だが、あの屋敷に時任の主治医として出入りしていた橘がそれを知らないはずがない。
 アキラに売られて、久保田に買われたことまで知ってるかどうかはわからないけれど、もしも橘の目的が薬を手に入れることだとしたら、今していることは考えるまでもなく無意味だった。
 橘が時任を人質にしたとしても、そのためにアキラが動くとは思えない。薬のことも屋敷のこともわからないことばかりだったが、それだけははっきりと感じていた。
 けれど、その事実を時任の口から聞いた橘はクスリと笑うと、後ろから回している片手で首を軽く絞めてくる。すると首を絞められた時任は少し苦しそうな顔をしたが、恐がったりおびえたりせずにじっとその場に立っていた。
 「貴方には貴方が思っている以上に価値があるんですよ…、時任君。人質という意味でも、そしてもっと別の意味でも…」
 「別のイミって…、どういうイミだよ?」
 「これから、僕と一緒に来てくださればすぐにわかります」
 「・・・・・・・・」
 「すでにわかっているとは思いますが、僕は貴方の主治医になるために、あの屋敷に行ったわけではなかったんですよ。本当はある人に会うことが、屋敷に潜り込んだ本来の目的でした。ですが、会う前に貴方があの屋敷からいなくなったので、当初の目的を果たせないままに出入りできなくなってしまいましたが…」
 「そんなてめぇの都合なんか、俺が知るかよっ」
 「そうでしょうね…」
 「俺は二度とあの屋敷には戻らない…、絶対にっ!」
 「貴方はそうおっしゃいますが、本当は戻らないのではなく戻れないの間違いでしょう? その証拠に久保田君の元にいる貴方を、元の飼い主である彼は監視も見張りもしていない…」
 「・・・・・それは」

 「だから、今の貴方は久保田君の所にいる…」

 そう言った橘がどんな顔をしているのか、後ろから首を絞められている時任にはわからなかった。けれど、橘が言ったようにあの屋敷にいられなくなったから…、アキラに売られたから久保田の所にいるわけじゃない。
 誰に言われたわけでも強要されたわけでもなく、ただそばにいたかったから…、
 好きな人のそばにいたかったから、久保田のそばにいただけだった…。
 だから、好きになってもらえなくても、一緒にいることが苦しくて哀しいだけだったとしても、行く場所も帰る場所も一つだけしかない。あの何もない鳥籠のような部屋から出たかったのは、そこから逃げ出したかったからではなく…、
 久保田に会いたかったから…、自分の力で意思で鳥籠を出たかった…。

 薬を打たれてベッドに繋がれたまま…、大好きな人の名前を忘れてしまう前に…、
 
 けれど、今はこんなに近くに久保田のいる場所が…、そこに灯った明かりが見えていても帰ることが出来ない。それは一緒にいたいと願うことと同じように、もしも冷たい銃口が久保田を狙っているというのなら…、その銃口から久保田を守りたかったからだった。
 時任は首を絞められて苦しい息を吐きながらも、ゆっくりと首を横に振る。
 そして…、綺麗に澄んだ瞳で久保田のいる明かりを真っ直ぐ見つめながら、はっきりとした口調で橘の言葉を否定した。
 「確かにあのマンションには自分で来たんじゃなくて連れて来られたんだけど、初めからドアにカギなんてかかってなかった。だから、いつでも逃げ出せたはずなのに…、そうしなかったのは俺が自分の意思で来たからだ」
 「それは単なる思い込みですよ。本当は保護してもらえるなら、守ってもらえるのなら…、自分を抱いてくれるなら貴方は誰でも良かった…」
 「違うっ!!!そうじゃないっ!!!」
 「貴方はあの屋敷でも目の前のマンションでも、毎日のように男に抱かれてよがっている。それは誰かを好きだからとかそんな感情からではなく、ただ貴方が淫乱…」
 「黙れっ!!!」
 「・・・・・・・・」
 「屋敷でのことはちゃんと覚えてるし、忘れてない。けど、俺が好きだって想ってるのは、抱かれたいって想うのは久保ちゃんだけだから…。だからこれから先もずっとずっと…、もう一回記憶がなくなったとしても久保ちゃんだけしか好きにならない…」
 「今、そんな風に貴方が言っていたとしても、その通りになる保障なんてどこにもありません」
 「でも…、それでもぜったいに久保ちゃんしか好きにならない…」
 「・・・・・・」

 「保障なんてなくても…、こんなに胸ん中にいっぱい詰まってるキモチがぜんぶ消えてなくなっちまうなんて…、そんなことあるワケねぇじゃんか…」

 胸の中が痛くて苦しくて…、どうしようもないほど哀しくて…、
 久保田を想うようになってから、そんな感覚ばかりが胸の奥に広がっていたけれど、それでも好きな気持ちは消えてなくなったりはしない。それがどうしてなのか、なぜなのかを考える余裕もないほど久保田が好きだったから…、いつも考えるよりも早く…、胸にいっぱいになりすぎている想いを言葉にするよりも早く…、

 そばに行きたくて…、会いたくて会いたくてたまらなかった…。

 なのに、一緒にいられたつかの間の日々も、橘のメスと冷たい銃口によって終わりを告げようとしている。あの屋敷のことも薬のことも何も知らなかったけれど、この危険な事態に久保田を巻き込む訳にはいかなかった。
 時任が唇を噛みしめながらぎゅっと拳を握りしめると、橘は身を屈めて時任の耳に唇を寄せる。そして時任が見ているのと同じ明かりに視線を向けて、なぜか哀しそうに寂しそうに微笑んだ。
 「そんなに久保田君のことが大切なら…、好きだというのなら…、おとなしく僕と一緒に来てくれますよね?」
 「・・・・・・・・・」
 「それとも一緒にいられるのなら、二人で死んでも構いませんか?」
 「そんなワケねぇだろっ。けど、もう一回だけ久保ちゃんに…、少しだけでもいいから会いたい…」
 「そんなことをしたら、別れがつらくなるだけなのに?」
 「それでも…、会いたい…」
 「・・・・・・なら、今夜一晩だけの猶予をあげますよ。ですが、もしそれを過ぎて朝日が登ってもここに戻らなかったら、久保田君の命はないものと思ってください。念のために水に溶かして飲ませる粉状の睡眠薬と、痺れ薬の入った注射器を渡しておきますから…」
 「わかった…」

 「わかったのなら、さっさと久保田君の所に行ってください…。メスを握った僕の手が、貴方の背中を切り裂いてしまわない内に…」
 
 ゆっくりと時任を開放しながら橘がそう言うと、橘の手からメスが床へと落ちる。すると、まるでそれが合図だったかのように、時任は久保田のいる明かりの元へと向かうために走り出した。
 橘は時任が戻ってくることを確信してはいたが、なぜそんなことを許したのかはわからない。だが、それはもしかしたら男に抱かれながらも澄んだ瞳のままでいる時任に向けている憎しみに似た感情が…、本当は時任でも他の誰でもなく…、
 愛してもいない男達に抱かれ続けてきた自分自身に向けるべきものだと、心のどこかでわかっていたせいかもしれなかった。けれど、どんなに後悔した所でその事実は消えてなくならないし、後悔するつもりもない。
 探し続けている真実を知るまでは、そして探し続けている目的を果たすまでは一歩も後ろには引けなかった…。

 「僕のすることもしたことも何もかも…、いつも貴方のせいばかりにしてすいません…。けれど、僕が誰よりも貴方のことを愛してることだけは…、お願いですから疑わないでいてくださいね…」

 周囲には聞こえない声でそう呟くと、橘は男達にマンションを見張らずに朝までビルの中で待機するように命じる。そして、部屋の片隅に置かれていたイスの埃を軽く払ってそこに腰を降ろすと、片手で顔を覆いながら疲れた表情でゆっくりと瞳を閉じた。












 「はぁはぁ…、はぁ・・・・・・っ」

 橘のいる空きビルを出ると、時任は荒い息を吐きながらマンションを目指して休まずに走り出す。けれど、マンションに戻っても部屋のカギを持っていないので、久保田が開けてくれなければ中には入れなかった。
 部屋から飛び出した時は慌てていて、何も考えていなかったが…、
 何も言わずに部屋からいなくなったことを、久保田は怒っているかもしれない。でも時任が本当に一番恐れているのは久保田の怒りではなく、いらないと言われて部屋へと入れてもらえなくなることだった…。
 もうそばにいられなくなるとわかってはいても、もう一度だけ二人きりの部屋に戻りたくて…、明かりを見つめながらひたすら走って階段を駆け上がる。そして、胸を抑えて息を整えながら部屋の前に立つと、ゆっくりとチャイムに向かって手を伸ばした。
 拒絶されることが恐くても…、チャイムを鳴らさなければ中には入れないし…、もしも部屋に入れたとしても一番伝えたかったことを伝えることはもうできない。
 時任は背中に押し付けられたメスの冷たさを思い出しながら、人差し指で久保田のいる部屋のチャイムを押した。
 
 ピンポーン…、ピンポーン・・・・・・・。

 祈るような気持ちでドアの中から聞こえてくるチャイムを聞いていると…、やがて廊下を歩く足音が響いてくる。そしてその足音の刻むリズムは、時任が良く知っている人物の足音だった…。
 足音が止まって聞こえなくなるとカギを開ける音がして…、時任の目の前にあるドアがゆっくりとゆっくり開いていく。すると、時任は再び閉じられるのを恐れるかのように、無意識の内に開けられていくドアに向かって手を伸ばした。
 
 「・・・・・・久保ちゃん?」

 時任が名前を呼ぶと開かれたドアの向こうにいる久保田は、優しい穏やかな微笑みを浮かべる。けれど、それを見た時任の肩がビクッと震えた。
 ドアの中の玄関から廊下へと続く暗がりは、窓の明かりのように暖かさが少しも感じられない。それはまるで久保田の心の中に広がる暗闇のように…、二人で暮している部屋の中を冷たく満たしていた。

 「おかえり…、時任」

 ドアを開けて微笑みながらおかえりを言ってくれた久保田に、同じように微笑みながらただいまを言いたかったのに…、その言葉は胸の奥で凍りついて出てこない。けれど、時任は瞳をそらさずに…、久保田の暗く冷たい瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら…、

 ドアの向こうにある暗闇の中に向かって、ゆっくりと足を踏み出した…。




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