籠の鳥.25




 どんな家でも人が住まなくなった家というものは、あっという間に朽ち果てていく。
 まるで誰もいなくなって一人きりになってしまった寂しさに、耐え切れなくなってしまったかのように…。
 けれど床も階段も軋んで…、埃が静かに哀しく降り積もっても…、その哀しみや寂しさは完全に崩れて消えてなくなっても止むことはないのかもしれなかった。
 久保田が住んでいた離れはまだ主がいなくなってそれほどたっていなかったが、すでにあらゆる所に埃が積もってしまっている。けれど、本当の持ち主である葛西は診療所の方が忙しいようで、この離れにまで掃除の手が回らないようだった。
 久保田の消息について何か情報がつかめたかどうか葛西に聞きにきた松本は、本当は母屋で待つように言われていたが、なんとなく足を踏み入れてしまった中庭にある離れの玄関で深く長いため息をつく。そして軽く手で埃を払って玄関の上がり口に座ると両手を胸の前で組んで、その上に軽く額を押し付けながら目を閉じた。
 
 「あの日も今もやはり俺は何も知らないままで…、ただこうして何もできずに呆然としていることしかできないのか…」

 松本はそう呟きながら、父親が死んだ日のことを思い出しながら唇を噛みしめる。けれど、突然に訪れた父親の死の理由は今もわからなかった。
 今、松本が勤めている病院で同じ医師として働いていた父親に、自ら命を絶つような理由があったのかどうか…、母親も首を横に振るばかりで何も答えてはくれない。そして、その時すでに同じように自分の父親を突然の事故で失ってしまっていた橘も、やはり松本の父親の死に疑問を持っていた様子だった。
 父親の死後、両親が離婚して父子家庭だった橘は、まだやっと小学校の高学年になったばかりの年だったため、父親の友人だった松本の家に引き取られている。それは母親も…、そして親戚の者達も橘を引き取ることを拒否したせいだった。
 そのことについて橘は何も言わなかったし、松本も何も言わなかったけれど…、
 なぜか松本は橘が自分の一歩後ろを歩くようになったのが、その頃からだった気がしてならなかった。

 「俺達は友達だろう…、橘…」
 
 その言葉は松本が何度も橘に向かって言った言葉だったが、恋人になってからは言うことがなくなっている。けれど、友達になっても恋人になっても、松本は同じ言葉を橘に向かって投げかけたかった…。
 同じ歩調で歩きながら…、幼かった頃のように横に並んで…。
 だが、きっと橘はいつもと同じように、静かに微笑んで何も答えてくれなくて…、やがて何も気づかせないままに、知らせないままに一人でどこか松本の手の届かない所へ行ってしまうのかもしれなかった。
 そんな風に想いながら、また深く息をついて額を手から離して視線を上げると、そこには湯飲みを二つ持って立っている葛西がいる。まだ白衣を着たままの葛西は、松本に湯飲みを一つ手渡すとその横にゆっくりと腰かけた。
 「何があったのかは知らねぇが、ずいぶんと辛気臭せぇ顔してるじゃねぇか?」
 「そういう葛西さんの方こそ、いつもより覇気がないように見えるが?」
 「なるほど、お互い様ってヤツか…」
 「ここにこうして座ってるのなら、そうかもしれん…」

 「だが、茶を飲みながら縁側で昔話をするには、お前も俺もまだまだ早過ぎるんだがな…」

 そう言った葛西は「堅っ苦しい茶飲み話は肩が凝る」と言って短く笑うと、ずずっとうまそうに熱いお茶を飲む。すると、その言葉に「そうだな…」と答えた松本も、ふーっと息を吐いて同じようにお茶を飲んだ。
 白く昇っていくお茶の湯気は、玄関の中に閉じ込められていた空気と一緒に開けられている玄関に向かって流れていく。けれど再びこの玄関を閉じてしまえば、主の戻らない離れの空気は行き場を失って、またこの中をさまよい続けるしかなかった。
 久保田が暮していた離れの居間には、テレビの前にゲームソフトや雑誌が散らばったままになっていて…、そこにいた久保田以外の誰かを連想させる。松本はここで少しの間だけ暮していたという時任に会った事はなかったが、時任に出会ったことで久保田が変わったことだけは実際に見て感じているのではっきりとわかっていた。
 叔父である葛西の所で暮すようになった経緯は知らないが、久保田は松本が出会った頃から乾いた冷たい空気をまとっていて…、友達らしい関係は築いていたものの、今も付き合いは深くなく表面上までに留まっている。
 けれど…、なぜか時任だけは違っていた…。
 その理由はいくら考えてもわかるはずもなかったが、この離れにいるとどうしても二人のことを考えてしまう。時任のことを籠の鳥だと言った久保田の瞳には…、憎しみと愛情が激しく深く入り混じったような色が浮かんでいた…。

 「たった三週間で…、人はどれくらい人を愛して、そして憎めるものなんだろうか?」

 松本がじっと湯飲みの中で揺れる自分の影を見ながらそう言うと、葛西はお茶を飲むのをやめてポケットからタバコを取り出す。そしてそれを口にくわえてライターで火をつけると、湯気ではなく煙が二人のいる玄関を漂い始めた。
 葛西はその有害な煙越しに外を眺めると、わずかに目を細める。けれど、葛西の視線の先には、離れと母屋の屋根の間にある切り取られたような小さな空しかなかった。
 「どれくらいなんてのは俺にもわからねぇが、人によって時間の流れる早さってもんが違うのかもれねぇな…。もしかしたら、たった三週間でも誠人にとっては今まで生きた人生よりも長くて…、そして短すぎた…」
 「長くて短いとは…、葛西さんにしてはずいぶん曖昧な言い方をする」
 「曖昧…か…、それはたぶん俺があの二人の姿を見てたせいだろうな…。俺は誠人があんなに穏やかに優しく…、誰かに笑いかけてんのを見たのは初めてだった。一応、アイツの保護者ってヤツをしてたってのにな」
 「だが、今の誠人は幸せそうには見えない…」
 「・・・・・・だろうな」
 「それがわかっていても…、傷ついていく誠人を見ているだけで、このまま止めずに放って置くつもりなのか?」
 「そんなつもりはねぇよ。だが、それでも見てるしかねぇのは、ただアイツを止める方法がないってだけだ…」
 「・・・・・・・・」

 「愛とか恋とかってのは…、たぶん止めようとしても止らねぇもんだろ? クサくて鼻が曲っちまいそうだが、今の誠人を見てるとそう思うぜ…」

 苦そうにタバコの煙を肺の中に吸い込みながら葛西がそう言ったが、やはり松本にも久保田を止める方法はわからない。なぜ、久保田が籠の鳥に執着するのかわからないでいたが、葛西から二人の話を聞いてからは少しわかるようになっていた。
 あんなにも避けていた病院に医師として来た訳も、そしてせっかく掴んだWAという薬の情報を持ったまま消えた訳も…。
 今までの久保田の不審な行動のすべては、籠の鳥と時任というキーワードを元に動いていたのである。けれど、本当に宗方の所に時任がいたのかどうか、松本には確かめるすべがなかった。
 もしかしたら、橘は何か知っているかもしれなかったが、なぜかどうしても聞けないでいる。それは橘の持っている情報の出所が誰なのか、薄々わかっていたせいだった。
 今も橘は病院での診察が非番で仕事が休みなのにも関わらず、松本には何も告げずにどこかに姿を消している。けれど、何度か携帯電話を握りしめながらも、あの黒いスーツの男に抱かれる橘の姿が浮かんできてかけることができなかった。
 橘が気づいているかどうかはわからないが…、もう二週間以上も松本は橘と同じベッドで寝ていない。そしてそれだけでななく、橘の足は二人分の荷物が置かれている松本の部屋から、いつの間にか遠ざかってしまっていた。

 「止まらなくても止められなくても…、どんな想いもいつか消えて…」
 
 松本はそう言いかけたが、最後まで言わずに途中で言葉を切る。だが、その言葉が久保田や時任に向けられたものではないことを感じ取ったのか、葛西は何も言わずに黙ってタバコを吹かしていた。
 しばらく、そうして葛西も松本もそれきり口を閉ざしていたが、自分が言ってしまった言葉を消してしまおうとするかのように松本の方が久保田の消息について聞くために口を開く。すると、いつもは何もわからないと首を横に振るだけだったが、今日の葛西はゆっくりと煙を口から吐き出しながら横浜という地名を言った。
 「確実な情報って訳じゃねぇんだが、横浜で誠人らしき人物を見たってヤツがいる。そいつは、前に誠人と雀荘で卓を囲んだことのあるヤツだ」
 「確実ではないにしろ、誠人を間近で見たことがヤツが見かけたと言うなら探してみる価値はある」
 「俺もできる限り時間を取って、横浜近辺を洗って見るつもりだ」
 「だが…、探したとしても誠人がここには帰らないと言ったら?」
 「べつにかまわねぇよ、横浜だろうと新宿だろうとどこで暮そうともな」
 「なら、なぜ誠人を探しているんだ?」
 「そんなのは、言わなくても決まってんだろうがっ」
 「決まってる?」
 「直接、挨拶もせずにメモなんざ残しやがってっ、ああいうのは出ててったんじゃなくて家出って相場が決まってんだろっ」
 「誠人が…、家出…」
 「家出したら探すのが、保護者ってヤツだ」
 「それが保護者としての義務だと?」

 「バカ言ってんじゃねぇよ。たとえ紛い物でも、それが家族ってもんだろうよ」

 なぜか葛西の言葉を聞いていると、すでにこの世にはいない父親の姿が思い出される。松本の父親はいつも叱る時には思い切り叱り、褒める時には思い切り褒めて、自分の息子として松本と橘を分け隔てなく可愛がっていた。
 だから二人は友達でも恋人でもあり…、兄弟でもあるのかもしれない…。
 松本は子供の頃の穏やかだった日々のことを思い出しながら、飲んでいた湯飲みを持ったまま立ち上がると、葛西に礼を言って脇にあった靴箱の上に置いた。
 「忠告を聞かず首を突っ込もうとしてる俺に、何も言わず協力してくれて感謝する」
 「お前ぇはやめろって言っても、素直に聞くタマじゃねぇからな」
 「聞き分けが悪くてすまない」
 「だが、お前ぇのそういう所が誠人も気に入ってたのかもしれん」
 「・・・・・・・」
 
 「また、わかったことがあったら連絡するが…、くれぐれも周囲には気ぃつけろよ」

 いつもよりも少し低い声でそう忠告してきた葛西に頷き変えすと、松本は離れの玄関を出て診療所を出る。本当は久保田の居場所を聞くくらい電話で連絡すればよかったが、わざわざ会うことにしているのは盗聴されるのを恐れてのことだった。
 葛西の方はあまり心配はないかもしれないが、宗方が院長をしている病院に勤務している松本の身辺は安全とは言い難い。あと一ヶ月くらいすれば内科部長という身分だったが、だからこそどこかに危険が潜んでいるかもしれなかった。
 松本は携帯を取り出すとメモリーにある番号にかけようとしたが、それを止めて再びそれをポケットの中にしまおうとする…。しかし、その瞬間に着信音が流れてきて、松本はゆっくりと閉じられていた携帯を開いて自分の視線の前にディスプレーを向けた。
 すると…、そこに表示されていたのはやはり橘の名前で…、
 松本は通話ボタンの上で親指をさまよわせていたが、やはり胸の奥がざわざわして着信音がしなくなるのを待つことができない。もしもこの電話にでなかったら、本当に橘との間にある糸が切れてしまう気がして松本はゆっくりと通話ボタンを押した。
 「・・・・・もしもし?」
 『あまり着信音が長いので、電話に出てくれないのかと思いましたよ』
 「そう心配しなくても、俺がお前からの電話に出ないはずがないだろう」
 『そう言われれば…、そうでしたね』
 「それで、電話をかけてきた用件は?」
 『用件は…、ただ貴方の声が聞きたかっただけです…』
 「なら、電話などせずに直接聞きにくればいいだろう」

 『・・・・そうですね』

 電話越しに話をすればするほど…、何か違和感のようなものを感じて松本は眉をしかめる。声が聞きたくて電話をかけてきたと言うのが嘘だということはすぐにわかったが、あまりかけてきた本当の理由を考えたくないような気がした。
 今日、葛西に会うことを話してはいなかったが、行方を知った途端にかかってきた妙なタイミングの電話に嫌な予感ばかりが募っていく。おそらく、かかってきふたタイミングの良さは単なる偶然だろうという気はしていたが、偶然でも偶然でなくとも聞いてくる内容は同じに違いなかった。
 松本は耳に当てている携帯をきつく握りしめると、橘がこれ以上何も言わないことを祈りながら空を見上げる。けれど、短い沈黙の後で受話器の部分から耳に響いてきた声に、松本は空を見上げたままギリリと歯を噛みしめた。
 『そう言えば、貴方が久保田君の行方を捜していることは知っていますが…、その後、居場所について何かわかりましたか?』
 「それを聞いてどうするつもりだ? 橘」
 『いいえ、どうもしませんよ。元同じ職場に勤めていた人間で、貴方の友人でもある久保田君のことが少し気になっただけですから…』
 「そうか…」

 『今日の貴方はまるで、僕を他人のように言うんですね…』

 そう言った橘の声は、憂いを含んでいて寂しそうに聞こえる。だが、他人みたいに冷たく言ったつもりはなくても、疑っている気持ちがどうしても言葉を声を凍り着かせていた。
 本当なら久保田の行方を話して一緒に居場所を探したいのに…、離れていた時間が二人の間に深い溝を作ろうとしている。そしてその溝は今出来たものではなく、橘が松本の一歩後ろを歩くようになった日から存在していたのかもしれなかった。
 過ぎてしまった日々も時間も戻らないように、松本も橘も昔には戻れない…。
 けれど、橘の嘘を感じていながらも、松本はゆっくりと重い口を開いた…。
 「誠人を…、横浜で見かけたという男がいるらしい…」
 『意外に近いですね、横浜ですか…』
 「葛西さんが近辺を洗って見るといっていたが、俺もその周辺を探して見るつもりだ…」
 『なら、僕も横浜に行った時は久保田君がいないかどうか注意してみます』
 「人手は一人でも多い方がいいから、そうしてくれると助かる…」
 『もし、久保田君を見つけたら連絡しますよ』
 「すまないが、頼む…」

 『・・・・・はい』

 結局、どこで何をしていたのか聞けないままに、松本はすでに切れてしまっている携帯の通話を切る。そしてそれから久保田の携帯の番号に電話してみたが、番号を変えてしまったらしくやはり繋がらなかった。
 確実に久保田が横浜にいるとは決まっていないが、なぜか横浜の街は久保田に似合う気がする。松本は少し立ち止まって診療所の方を振り返ったが、すぐに踵を返して再び歩き始めた。
 
 「すまない、誠人…。俺はまだ…、橘のことを信じていたいんだ…」

 もしも…、そう呟いた声が届いていたら、橘は走り始めていた足を止めて松本の方を振り返ったのかもしれない。けれど、その声は車道を走る車のエンジン音に掻き消されて行くだけでどこにも届かなかった。











 「おかえり…、久保ちゃん…」

 明かりのついたマンションの窓に知っている人物の影が写ると、時任は哀しそうな瞳でそれを見つめながらそう呟く。だが、時任のいる場所は久保田と暮しているマンションではなく、わずかに離れた場所にある入居者募集中の空きビルの中だった。
 あのままベッドの中で久保田が帰ってくるのを待つつもりだったのに、なぜかこんな場所まで来てしまっている。それは久保田からだと思い込んで、部屋にかかってきた電話に出てしまったせいだった。
 ここまでは自分の足で歩いてきたが、別にこんな場所に来たかったわけじゃない。けれど…、電話から聞こえてきた言葉を聞いたら、どうしても来ずにはいられなかった…。

 「すいませんが、話が終わるまで逃げ出したりしないでください…。もしも逃げ出したら久保田君がどうなるか…、想像がつかないほど貴方は馬鹿ではないでしょう?」

 妖艶に微笑みながら時任の隣で同じ明かりを見つめている人物は、そう言うと背中に細いナイフを付きつけてきた。だが、それはどこにでも売っているナイフではなく、医者が手術用に使うメスである。
 時任の背中を狙っているのは、電話をかけてきた相手で宗方の屋敷での元主治医…。あの屋敷内の人間の名前はアキラ以外は知らないが、その主治医の名前だけは今もはっきりと覚えていた。

 ・・・・・・・・・橘遥。

 それは時任に久保田に会わせる代わりに、打たれていた薬をすり変えて渡せと持ちかけてきた人物である。けれど、今はあの時と違って薬だけではなく、背中に突きつけたメスで時任の命を狙っていた。
 時任の命は橘の鋭いメスが狙っているが、もしも時任がここから逃げ出させば目の前にある明かりの元にいる久保田の命は、もっと大勢の人間に狙われることになる。時任と橘を取り囲むように立っている黒服の男達は、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら拳銃を握っていた。

 「貴方の逃げ場なんて、最初からどこにもありはしなかったんですよ…。どこにいても貴方がいるのは…、籠の中なんですから…」

 橘はそう言うとメスを突きつけたままで、時任を後ろから抱きしめるような仕草でトレーナーの襟を軽く引っ張る。すると橘や男達の視線の前に、久保田に付けられた無数の痕跡があらわになった。
 急いでシャワーを浴びては来たものの、時任の身体からは気だるい甘い空気が漂っている。それは、まだ身体中に久保田に抱かれた時の感覚と熱さが残っていたせいだった。
 けれど今いる場所が籠の中だったとしても…、零れ落ちる涙が止まらなくても久保田のそばにいたい…。どんなにひどく抱かれても好きだという気持ちがズキズキと胸を痛ませて…、その痛みが止まらないから離れたくなかった。
 なのに、時任が籠の中に囚われながらも夜の帳の中で腕を伸ばして背中を抱きしめて…、久保田に向かって伸ばし続けている想いの糸を…、

 橘のメスと男達の向ける冷たい銃口が…、無残に切り裂こうととしていた…。




                前   へ          次   へ