姫君にキスを.9




 桂木が大熊という男子生徒に渡した封筒は、次々と複雑に人から人へとまるで伝言ゲームのように受け渡しされていった。どういう理由でこんなことが可能になったのかはわからないが、本当に元締めの正体を知っている人物はほとんどいないようである。
 そのためいくら賭けをした生徒達が執行部のことで騒いでも、どうにもならないというのが現状だった。

 「元締めってドコにいるんだ?」
 「さあ、俺もくわしくは知らないけど、藤堂先輩が知ってるらしいから聞いてみるよ」

 すべてがこんな調子なので、本当に元締めのところまで到達できるのかどうかは謎だった。
 元締めを突き止めるべく、セッタを吹かしながらじっと様子をうかがっている久保田は、気づかれないように距離を置きながら会話を盗み聞きしていたが、未だに何の情報はつかめないでいる。
 けれど今は封筒を追っていくより、他に方法がなかった。
 松本の考えが甘いとは思わないが、ここまで誰も元締めの存在を知らないとなると、執行部のエントリーが決まった時点ですべてを切り捨てた可能性も出てくる。相手が何の痕跡も残さずに消えるほど用意周到で頭が切れた場合、もう発見することはできないかもしれないが、さすがに今回の犯人が外部の人間だとは考え難いので今回の場合はその線は低いと見ていい。
 内部の人間の犯行なら、さすがに賭けで集めたお金を懐に収めるような危険な真似は、さすがにしないに違いなかった。
 そのため久保田は、まだあきらめたりせずに跡を追い続けている。
 だがそうしている間にも、シンデレラの始まる時間が迫ってきていた。

 「適当なのを犯人にしてもいいんだけど、ねぇ」

 そんな物騒なことを久保田が呟いていると、封筒を受け取った藤堂の前に仲間と思われる生徒が二人現れたのだが、その内の一人は荒磯の生徒であるにも関わらず制服を着ていなかった。
 着ているのはどうやら、今日の演劇大会に出場するための衣装のようである。
 二人は封筒を持った藤堂と目立たない場所に行くと、執行部の件について話し始めた。
 執行部の出番はまだだったが、すでに劇を終えたクラブやクラスもあるので三人ともあせっているようである。優勝するのがどこなのかはわからないが、執行部に賭け変えをしたい生徒が複数いるらしく、どうしても元締めに連絡を取らなくてはならないようだった。
 「…誰か連絡取れるヤツはいないのか?」
 「俺も詳しくは知らないが、このままじゃマズいのは確かだぜ」
 「連絡は後取るにしても、執行部をどうにかしないとな」
 「どうにかって、何をどうするんだよ?」

 「それはやっぱり…、劇に出られなくするとかだろ?」
 
 始めはどうやって元締めと連絡を取るかという話だったが、劇の衣装を着た男子生徒の一言で話の風向きが変わる。
 他の二人はそこまでは考えてしないようだったが、男子生徒の一言に心が動いたようだった。
 執行部が棄権ということになれば、エントリーは取り消しということなので何も問題がなくなる。
 三人は顔を見合わせると、小声で何かを話し始めた。
 さすがに聞こえないように注意して小声で話されると、久保田の所までは声が聞こえて来ない。
 だが話し合っていることが、ろくでもないことなのは確かだった。
 久保田は話している三人を目を細めてじっと眺めてはいたが、その話し合いを妨害したりしようとはしていない。しかし、話の内容が執行部への妨害なのは確かだった。
 おそらく三人は、確実に棄権させるためにヒロインである時任を狙ってくるに違いない。
 久保田は吸っているセッタを携帯用灰皿の中に放り込むと、話をしている三人の中でも目立っている劇の衣装を着た男を睨みつけた。

 「じゃあそういうことで頼むよ」
 「了解」
 「まぁ、それなら問題ないだろ」

 しばらくすると三人の話はまとまったようで、劇の衣装を着た男をのぞいた二人が体育館の方へと歩いて行く。その後に一人残された衣装を着た男は、劇に出るのだから体育館に行かなくてはならないはずだが、なぜか別の方向へと向かった。
 その少し後を久保田が歩いていたが、やはりそれに気づいている様子はない。
 男は機嫌良さそうに目立つ衣装を着たまま廊下を歩くと、なぜか今回の件とはまったく関係のなさそうな場所に入っていったが、その時、男の手には桂木の渡した茶色の封筒がいつの間にかしっかりと握られていた。
 「ふーん、なるほどね…」
 中に入っていた男が出てくると、久保田が何かを納得したかのようにそう呟く。
 そう呟いた久保田の視線の先には男の手があったが、そこにはもう封筒はなかった。
 男は体育館方面に歩いて行ったが、久保田はそれを追いかけずに男が出てきたドアを開ける。
 すると中から、聞きなれた二人分の声がした。

 「あらぁっ、いらっしゃ〜い、久保田くぅ〜んっ」
 「く、久保田せんぱ〜いっ」

 男が入っていったのは別にあやしい場所ではなく、いつも五十嵐がいる保健室だった。
 ここで準備をするはずの執行部は、すでに準備室に行ってしまったのでここにはいない。
 けれど王子役として劇に出るはずの藤原が、まだ保健室に残っていた。
 もう準備が終ってなくてはならないのに、王子の衣装ではなく制服のままで…。
 王子の衣装を着ていたのは、ここに入って出て行った男だった。

 つまり封筒を持っていたのは、藤原の代りに王子役をすることになった三宅だったのである。

 久保田が無言で藤原の足に巻かれている包帯を指差すと、五十嵐が少し眉をしかめて藤原が何者かに階段から突き落とされたことを説明する。
 その説明を聞いているとケガをした藤原が涙を浮かべて、
 「突き落とされることなんて、僕は何もしてないのにぃぃっ」
と、抱きつこうとしたが久保田はそれをさりげなくすぅっと避けた。
 避けられた藤原が床に倒れて悲鳴を上げると、それ無視して五十嵐が久保田に近くに寄ってきたが、いつもと違って抱きつこうとしているワケではない。
 五十嵐は久保田に近づくと、真剣な顔をして藤原のケガの件について話を続けた。
 「詳しい事情は聞いてないけど、階段から突き落とすなんて穏やかじゃないわよねぇ?」
 「たぶん、そうしなきゃならない理由があったんじゃないかなぁ…、なんてね」
 「その様子だと、犯人はもうわかってるんでしょう?」
 「ま、後は証拠さえあればってトコだけど?」
 久保田はそんな風に言いながらも、何かを探すようにさっきから保健室の中を見回している。
 そんな久保田の様子を見た五十嵐は、意味深な笑みを浮かべて保健室に置かれているベッドを指差した。久保田が指差された方向を見ると、そこには誰かが置いた学ランが置いてある。
 だがその学ランは、ここで着替えた執行部員のものではなかった。
 「探しモノはそれでしょ?」
 「さすが五十嵐先生」
 笑みを浮かべている五十嵐に同じような笑みを返すと、久保田はベッドに置かれた制服の中を探る。
 するとそこには、その中に隠すように例の封筒と一冊のノートがあった。
 封筒は桂木が渡したものに間違いなかったが、ノートは初めて見るものである。
 そのノートはどこにでもあるような普通のものだったが、そこに書かれている内容は普通ではなかった。
 「…ビンゴってトコかな?」
 「でも、さっき急いで出てったから、まだこれで終りってわけじゃなさそうね?」
 「これで終らせるつもりもないし?」
 「何かするつもりなのね?」
 「ちょっと手伝ってもらえたら、うれしいんですけど?」
 「あらぁっ、久保田君の頼みなら先生なんでも聞いてあげちゃうっ」
 久保田がしてもらいたいことを五十嵐に話すと、その横で聞いていた藤原が驚いた顔になる。
 けれど久保田はそんな藤原に向かって、冷ややかな笑みを浮かべた。
 「やってくれるよね? 藤原」
 「…は、はい」
 藤原は久保田の笑みを見ると、凍りついた表情で返事をする。
 返事をしながらこの間のことを思い出したのか、藤原の手はまた少し震えてしまっていた。
 実は五十嵐に頼んだのは演劇部に頼んで一人借りて来ることだったが、演劇部員と同じように藤原にもやってもらわなくてはならないことがあったのだった。
 一通り演劇部の部員に頼むことを五十嵐に言い終えると、久保田は藤原が使っていたシンデレラの台本に印を入れる。どうやら、そこが演劇部員と藤原の出番らしかった。
 「じゃ、頼みます」
 やってほしいことを頼み終わった久保田は、それだけ言い残すと急いで封筒とノートを持って保健室を出ようとした。だが、保健室のドアを開けた瞬間に、五十嵐の呼び止める声がする。
 急いでいたのだが呼ばれたので仕方なく久保田が振り返ると、五十嵐は少し心配そうな顔をしていた。
 「知ってるとは思うけど…、時任、かなりまいってるわ」
 「・・・・・・・そうですね」
 「知ってるのに、どうして何も言ってあげないの? 本当にケンカしてる訳じゃないんでしょう?」
 「…って、ホントにケンカしてるだけなんですけど?」
 「じゃ、理由はなんなの?」
 「ワガママ」
 「えっ?」
 「時任に関しては、俺って結構ワガママなんで…」
 「でもワガママなのは…、好きだからなんでしょう?」
 「さあ?」
 五十嵐の問いかけに曖昧な返事を残して久保田は保健室を出たが、好きだからという理由は少しも外れてはいなかった。
 けれど本当は好きだから大切だから、傷つけたりしたくなくて…。
 自分の方に向かって伸ばされる腕を手を…、好きだと言ってキスしてくれる唇を信じたかった。
 なのにシンデレラを演じているのを見ていると、演技でもキスして抱きしめ合える時任が信じられなくなる。演技だからと誰にでも抱きしめられるなら、誰とでもキスできるなら…。
 もし好きじゃなくなっても、好きなフリをして抱きしめ合えるのかもしれない気がして…。
 あの日から演技でキスしようとする時任を責めて、ずっと一方的なキスばかりを重ねてしまっていた。
 時任からキスを受けていると、どうしてもその唇を疑ってしまうから…。
 練習だと言ってキスをしている内に、本当のキスができなくなって…。
 一方的に想いを綴るだけのキスを虚しく続けていると、胸がじくじくと痛んできてたまらないのに…、そんなキスしかできなくなっていた。
 好きだから許せなくて…、愛しいから信じられなくて…。
 哀しい瞳で見つめてくる時任を抱きしめて眠りたいのに、どうしても眠れなかった。
 時任の寝顔を見てしまったら、泣き叫んでも抱いてしまうとわかっていたから…。
 今よりももっと傷つけてしまうとわかっていたから、ソファーで眠るしかなかった。
 けれどそれでも…、抱きしめたいのもキスしたいのも時任だけで…。
 時任の言葉がキスが偽りでしかなかったとしても…、それだけは変わらない。
 好きだと言って、好きだと言われて…、抱きしめ合っていたはずなのに…。
 いつの間にか、一方的な想いばかりを綴って片想いになってしまっていた。

 「信じられないのは…、自分のせいなのにね」

 そんな風に呟いていても、自分じゃない誰かに時任を譲ることなんてできるはずもなかった。
 信じられなくても…、たとえ時任が自分以外の誰かを見つめてしまったとしても…。
 だからといって、あきめられるほど簡単な想いなんかじゃなかった。
 好きだから愛しすぎるから信じらなくなったとしても…、同じように恋しすぎているから手放せない。
 こんな風に時任を試そうとしている自分を自嘲しながら、それでも時任が好きだった。
 たとえ嫉妬で醜く気持ちが歪んでいくのを止められなくて…。
 汚れていく想いに胸が痛く苦しくなっても…。
 
 「好きにならなければ良かったなんて、冗談でも言えないから…」

 久保田が体育館に向かいながら誰に言うでもなくそう言ったが、今はそんな自分の思いに捕まっている場合ではなかった。妨害しようとしているのが部外者ではなく王子役になっている三宅なので、何が起こるかわからないのである。
 だが急いで控え室に行くために久保田が走っていると、前方にさっき三宅と一緒にいた藤堂ともう一人の男子生徒が立っているのが見えた。
 三宅のことがあるので二人に構わずに行こうとすると、二人のしている会話が久保田の耳に飛び込んでくる。その内容は、黙って聞き逃せるようなものではなかった。
 
 「まさか、三宅が執行部の王子役になってるとは思わなかったぜ」
 「まぁ、そのお陰でうまく時任を拉致れたし…」
 「けどさ…、時任が主役で出るって啖呵切ってたらしいし、何も三宅まで入ることねぇのになぁ?」
 「あれっ、お前知らないの? 三宅って時任が好きなんだぜ?」
 「げっ、マジ? 確かに今日とかドレス着てて可愛かったけどよ」
 「そーいうワケで、たぶん今はお楽しみ中だろ?」
 「早く助けに行ったら、恨まれっかも?」
 「行ったら最中だったりしてな? 覗きに行ってみるか?」
 「それも悪くねぇよな。俺もちょっとヤって…」

 時任とやりたいと言おうとしていた藤堂は、最後までそのセリフを言うことはできなかった。
 それは最後まで言う前に、話を聞いていた久保田の蹴りがわき腹に入ったからである。
 なんの予告も無しに腹を蹴られた藤堂は、声を上げることもできずに廊下に転がった。
 うめき声さえ藤堂の口から漏れていないのは、容赦のない蹴りだったので一時的に呼吸困難を起こしているからである。もう一人の男子生徒が驚いて身構えようとしたが、そうする間もなく久保田の拳が頬に突き刺さった。
 「ごがぁっ…」
 「あ、もしかして歯折れちゃった?」
 久保田に殴られた男子生徒の歯が、廊下に小さな音を立てて落ちる。
 けれど久保田は痛みに顔を歪めた男子生徒を見ても、冷笑を浮かべているだけだった。
 藤堂と男子生徒は恐怖を顔に張り付かせて、その場から動けなくなってしまっている。
 久保田はそんな二人を、少しも笑っていない凍りつくような瞳で見つめた。

 「倉庫のカギを渡してくんない? 渡してくんないと、腕の一、二本じゃすまないかもよ?」

 久保田が本気で言っていることを悟った藤堂が、持っていた倉庫のカギを震える手で差し出す。
 男子生徒の方は立ち上がることができないらしく、床を這うようにして逃げ出そうとしていた。









 「時任…」
 「うっ、くうっ…、やめろっ!!」
 耳元から三宅の荒い息が聞こえていて、それを聞いているとますます気分が悪くなってくる。
 ドレスの中に伸ばされた三宅の手が、時任の敏感な部分をまさぐっていた。
 こんなヤツにいいようにされて…、そんなヤツの手に感じ始めている自分の身体が疎ましくて…。
 時任の瞳に、うっすらと涙が滲み始めていた。
 「あっ…、あ…」
 「気持ちいいだろ…?もっとしてやるよ…」
 負けたくないから、泣きたくなんかなかった…。
 なのに久保田のことを考えると、涙が次第に視界を歪ませていく。
 久保田としかしたくなかったのに、強引に三宅にキスされて…、身体を触られて…。
 それがくやしくて哀しくてたまらなかった。
 いつもは久保田とするキスはあんなに気持ちいいのに、三宅にされたキスは気持ち悪くて嫌なだけで…、吐き気がして気分が悪くなっただけだった。
 「久保ちゃ…ん…」
 「あいつの名前なんか呼ぶなっ!」
 久保田の名前を呼ぼうとすると、三宅は怒って平手で時任の頬を叩く。
 そのせいで時任の頬はさっきよりも、もっと赤くなってしまっていた。
 けれどどんなに叩かれても、呼びたいのは久保田の名前だけで…、それ以外の名前は何も浮かんで来ない。三宅に組み敷かれたこんな姿は見られたくなかったが…、会いたいのは久保田だけだった。
 久保田にキスしたくて…、キスされたくて…、好きだと言って抱きしめかった。
 好きだと言って抱きしめられたかった。
 
 「久保ちゃん、久保ちゃん…、久保ちゃーんっ!!」
 「くそっ、呼ぶなって言ってんだろっ!!」

 叩かれても叩かれても久保田の名前を呼ぶ時任に、三宅が切れて平手ではなく拳を握りしめる。
 だが、自分に向かって振り上げられた拳を見ても時任は久保田を呼んだ。
 どうしてもその名前しか呼びたくなったから、久保田だけを呼んでいた。
 それを忌々しそうな顔で見た三宅は、拳を時任に向かって振り下ろそうとする。
 しかしその瞬間、薄暗かった倉庫の中に外からの明るい光が差し込んだ。

 「シンデレラを暴力でモノにしようしてる王子サマなんて、最近のおとぎ話はカゲキだねぇ?」

 聞きなれた声のした方を見ようとして差し込んだ日差しに時任が目を細めると、開かれた扉の前に誰かが立っているのが見える。光が目に痛すぎてその人の顔を見ることは出来なかったが、それは間違いなく時任の会いたい人だった。
 どうしても会いたいと思っていた…、誰よりも一番大好きな人だった。
 「くぼ…、ちゃん…」
 時任がかすれた声でそう呟くと、時任を押さえつけていた重さが軽くなる。
 それは時任の上にのしかかっていた三宅が、久保田に蹴られて後ろに吹っ飛んだせいだった。
 三宅は何も言う余裕すら与えられずに蹴られたため、跳び箱に背中を打ち付けてその痛みにうめいている。しかし久保田はそんな三宅を見もせずに、半分くらいドレスを脱がされて白い肌をさらした姿の時任に近づいた。
 時任は近づいてくる久保田の視線が、自分の鎖骨や太ももに注がれているのを知って、身体をよじってなんとかドレスで隠そうとする。だがそうしようとしても、やはり縛られているのでうまくいかない。
 久保田の視線の先には、三宅に付けられた赤い痕が散っていた。
 「久保ちゃん…、おれ…」
 劇の練習の時と同じように…、見つめてくる久保田の視線に責められている気がして、時任は哀しそうに瞳を伏せる。
 どうしても会いたくて…、だから会えてうれしいのに…。
 久保田の瞳に見つめられると、三宅とキスしてしまった唇で久保田にキスできなかった。
 縛られている手が足が痛くて、抱きつくこともできなかった。
 「頬が赤くなってる…」
 「た、叩かれたから…」
 「他にケガない?」
 「…うん」
 腕と足首をきつく縛った縄を久保田に解かれながら、時任はこぼれ落ちそうな涙を必死に耐えながら久保田と短く会話をかわす。そうしながら縄を解いて…、ドレスを着せ直してくれる久保田の手は優しかったが…、抱きしめても、キスもしてくれなかった。
 優しく拒絶されているような気がして、時任は頬を流れかけた涙をゴシゴシと手でこする。
 すると五十嵐にしてもらった化粧が…、少しだけ崩れてしまった。
 時任が涙を止めようとしていると、そんな時任の肩に手を置いて久保田が涙が頬を伝い始めた顔を覗き込んでくる。
 じっと見つめてくる久保田の瞳を時任が見つめ返すと、久保田は少しだけ目を細めた。
 「もうじき執行部の出番だから…」
 「え?」
 「シンデレラの劇が始まるから、行かないといけないでしょ?」
 「そ、それはそうだけど、王子役が…」
 「王子役なら、ちゃんとソコにいるし?」
 「く、久保ちゃ…」
 王子役がいないと言おうとした時任が、淡々とした久保田の返事に哀しそうに顔を歪める。
 久保田が指差したのは、背中を痛そうにさすっている三宅だった。
 さっきの現場を見ていたはずなのに、久保田は時任の相手役を三宅にやらせようとしている。
 時任の瞳からは止めようとして止められなかった涙が、頬から顎を伝って…、さっきまで三宅に組み敷かれていたマットの上に落ちた。
 「桂木ちゃん達が準備してると思うし、遅れないように行かなきゃね?」
 「どうして…」
 「舞台まで連れ行ってあげるよ、シンデレラ」
 「・・・・・・・・・っ!」
 久保田はドレスを綺麗に整えると、ゆっくりと時任の身体を両腕で抱き上げる。
 優しくまるでお姫様を抱き上げるように…。
 そうしてから、久保田は三宅に向かって冷たい視線を投げた。
 「王子役をするって言ったの、ウソじゃないよねぇ?」
 「そ、そ、それはもちろんウソじゃないっ」
 「あっそう、なら舞台に急ぎなよ?」
 「わ、わかった」
 三宅は視線を合わせないようにしながら、久保田と時任の横をすり抜けて体育館の方に走っていく。
 その後ろ姿が弱気で強引に組み敷かれていた時とあまりにも違い過ぎたので、その背中を見ているとますます時任の嫌悪感が深くなった。
 まだ身体に残る三宅の感触が気持ち悪くて、時任は吐き気を感じて口元を抑える。
 こんな状態では、三宅の相手役はとても出来そうにもなかった。
 なのに自分を舞台に連れて行こうとしている久保田が信じられなくて、時任は腕を伸ばして久保田の首にしがみ付きながらその背中を叩く。
 けれど久保田は、舞台に向かう歩調を緩めようとはしなかった。
 時任が哀しくて…、声もなく泣いていても…。
 
 そうして…、不安と悲しみを抱きしめたまま、執行部のシンデレラは幕を開けた。
 



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