姫君にキスを.10




 『次の劇は、急きょエントリーしました執行部のシンデレラです。席を立っていらっしゃる方はご着席願います』

 体育館内に執行部の劇のアナウンスが流れると、集まっている生徒達の間にざわめきが走る。
 体育館にはいつもよりも多く人が集まってるように見えたが、それが執行部が出場するせいなのかどうなのかはわからない。けれどこの中に例の賭けに参加している生徒や教師が、複数混じっていることだけは確かだった。
 久保田がこの件について調査はしていたが、まだ最終的な処分をどうするかということについては生徒会本部は何も言ってきてはいない。おそらく犯人が何者なのかわかってから、処分を考えることにしているのに違いなかった。
 けれど直接的に今回のことに関わることになったのは、本部ではなく執行部である。
 本当ならば関わった執行部が公務を執行すべきところだが、今回に限り本部は執行部をこの件に関与させるつもりはないようだった。
 執行部の中で事情を知らされているのは久保田と、その久保田から話を聞いた桂木のみで、倉庫に閉じ込められた上に三宅に襲われるという事件にあった時任は未だ何も聞かされていない。
 今回の件について久保田が何も言おうとしないので、時任も何も聞かなかった。

 「顔色が悪いけど、大丈夫なの?」
 「ヘーキだっつってんだろっ」
 
 五十嵐に急いで化粧直しをしてもらいながら、時任は不機嫌そうにそう答えて舞台そでにある椅子に座っている。化粧直しをしている五十嵐が時任の泣きはらした顔を見て、なぜか時任ではなく久保田にその理由を聞きたそうにしていた。
 しかし、久保田は椅子に座っている時任の隣りに立って、さっきからずっと黙り込んだままで…。
 時任を抱き上げて運んできた理由も…、時任が泣いているワケも何も五十嵐には話そうとしない。これから劇が始まるというのに、時任も沈み込んだ表情で久保田と同じように黙ったままだった。
 元気のない様子で、さっきから時任は化粧直しをされながらじっと舞台の床を眺めている。
 けれどその瞳は、まだ憂いを含んではいたがもう泣いたりはしていなかった。
 化粧直しが終ると時任は、真っ直ぐ前を見つめたまま横に向かって手を伸ばす。
 すると同じように前を向いたまま、伸ばされた時任の手を久保田がゆっくりと握りしめた。
 
 「久保ちゃん…」
 「なに?」
 「自分で決めたことだから…」
 「…うん」
 「…行ってくる」
 「行ってらっしゃい」

 そう短く久保田と言葉を交わすと、時任は座っている椅子から立ち上がる。
 すると同じ舞台のそでにいる三宅の姿が見えたが、久保田の手を握りしめていると哀しみも怒りも消えたりはしなかったが、すぅっと気持ちが静かになった。
 久保田がなぜ舞台に上がれというのかわからなかったが、握りしめてくれる手はちゃんと暖かくて、がんばれって言ってくれているような気がする。

 だから今はそれだけを…、その暖かさだけを信じていたかった。
 
 すでに幕が上がった舞台から継母役の松原がシンデレラを呼んでいる声が聞こえてくると、時任は長いスカートをひらめかせて歩き出す。すると握っていた手がゆっくりと解かれていったが、離れていくのを惜しむように時任の指先が久保田の指先に絡みついた。
 触れ合っている指先から伝わるわずかな体温が名残惜しく感じられて…、乾いたはずの涙が再び時任の瞳を潤ませる。
 やがてその涙を振り切るように指先を離すと、時任はシンデレラの舞台に上がった。




 「さっきから呼んでるのにっ、何をぐずぐすしているのっ!!」
 「ごめんなさいっ、お母サマ。私…」
 「いいワケなんて聞きたくありませんっ!!」
 「は、はい…」
 
 シンデレラの劇が始まると松原は緊張というものとは無縁らしく、練習通りに怖いというより恐ろしい継母役を演じていた。女装した姿がかわいらしいだけに、シンデレラをいじめる迫力も数倍増している。
 そして同じように意地悪な姉役である桂木も、かなり張り切ってシンデレラをいじめていた。
 けれどそんな二人に圧倒されてしまって、相浦は怯えたような顔になってしまっている。
 特に桂木の方は、どう見ても普段のうっぷんを晴らしているようにしか見えなかった。

 「こ、この二人に恨みを買うのだけはやめとこう…」

 客席に聞こえないように相浦がそう呟いていたが、舞台を見ている誰もがそう思ったに違いない。生き生きと時任をいじめる二人は、まさに意地悪な継母と姉そのものだった。
 「何をしているのっ、シンデレラっ!」
 「ほらっ、グスグスするんじゃないわよっ!」
 これはシンデレラのはずなのだが、なぜか桂木の手にはハリセンが握られているし、松原の手には木刀が握られている。しかし、誰も恐くて突っ込むことができなかった。
 時任は二人に怒鳴りつけられながらシンデレラの役を演じていたが、楽しそうに自分をいじめている二人を見てムカムカしている。
 しかし今はシンデレラになっているので、二人に仕返しをすることはできなかった。
 「くっそぉっ、覚えてやがれっ」
 ボソッと時任がそう呟く目の前で、桂木と松原が不敵に笑っている。
 しかしそんな松原の継母ぶりを見ても、舞台そでで出番を待っている室田はボーっと松原の女装姿を眺めていた。どうやら可愛い女装姿に見惚れていて、演技の方はさっぱり見ていないようである。
 この場面での自分のセリフを言い終えた相浦は、ボーっと突っ立っている室田に気づいて深いため息をついた。

 「美女と野獣というより、女王様と下僕だったりしてなぁ…、なんて…」

 そんな風にシンデレラがいじめられるシーンが終ると、お城から招待状が来て意地悪な継母と姉達はお城の舞踏会に行ってしまった。
 次は三宅が王子役として出ている舞踏会のシーンなのである。
 時任はシンデレラのセリフを言いながら、次の舞踏会のシーンを思い浮かべていた。
 もう三宅に触られたくないと思っていたが、シンデレラをやる以上はどうしても抱きしめられて踊ることは避けられない。次のシーンをのことを考えて時任が沈んだ表情をしていると、目の前に魔法使いの室田が現れた。
 けれど室田は魔法使いというより、変な服を着た立派な体格の大男である。
 魔法を使ってシンデレラを舞踏会に連れて行くことが室田の役目だったが、
 『舞踏会に行くより、継母と姉をやっつけてもらった方が良くないか?』
と、いう突っ込みをしたくなるくらい室田に魔法使いは似合わない。
 しかし、いくら室田が強くても継母と姉は絶対に倒せないに違いなかった。
 魔法使いの室田に魔法をかけてもらった時任は、ドライアイスの煙に紛れて舞台そでに引っ込んで、五十嵐に手伝われて急いで用意されたドレスに着替える。
 時任が慌てて着替えながらふと視線を感じて後ろを見ると、そこには久保田が立っていた。
 さっきわかれた時のまま、時任が座っていた椅子の横に…。
 じっと見つめてくる久保田の瞳を見つめ返しながら、時任は無意識に久保田に触れていた指先をきつく握りしめる。するとまだそこに暖かさが残っているような気がして…、胸の奥がズキッと痛んだ。
 けれどその痛みは、久保田に責められている気がするからではなく…。
 自分の心を裏切っているから、感じた痛みだった。
 三宅とキスすることになっても、久保田は何も言ってくれないし止めてもくれない…。
 けれど久保田が止めてくれなくても…、時任は三宅とキスしたくなかった。
 倉庫のことが起きるよりもずっと前…、シンデレラをすることが決まった時から、ずっと誰ともラブシーンなんかしたくなかった。
 久保田が好きだったから、他の誰ともそんなことしたくなかった。
 たとえそれがただのお芝居でしかなくても…。
 だから、三宅に自分から望んでキスされてしまったら…。

 裏切ってしまうのは久保田ではなく…、久保田を想う自分自身の心だった。
 
 時任は着替えを終えると、久保田から視線をそらして再び舞台に上がる。
 すると、舞台を観客の間からざわめきが起こった。
 その理由は灰かぶりだったシンデレラが、本当に美しいお姫様に変わっていたからである。
 抱きたい男の投票に時任の名前はなかったが、前に演技したバレー部とバスケ部のヒロインの二人よりも、普段とのギャップが激しい分だけ時任の方が美人に見えた。
 印象的で綺麗な瞳が舞台ではなく観客の方に向けられると、男子生徒達の間からため息が漏れる。かよわくて優しい物語通りのシンデレラではなかったが、強い意志を感じさせる時任のシンデレラは十分に魅力的だった。
 時任は魔法使いに礼を言うと、王子様の待つ舞踏会へと向かう。
 場面が舞踏会のシーンに変わると練習した成果を発揮するように、時任は優雅な動作で舞踏会に登場した。
 
 「まぁ、あの方はどちらのお姫様かしら?」
 「なんとお美しい…」

 時任が登場すると、舞踏会で踊っているマン研部員の間からそんなセリフが次々と時任に向かって言われる。けれど、そのセリフは少しも空々しく聞こえたりはしなかった。
 王子役である三宅も観客と同じように時任に見惚れているらしく、セリフを言わなくてはならないのにぼんやりとしている。
 すると、三宅を横にいた桂木が観客に見えない位置からどついた。
 「なにやってんのよっ、早くセリフを言いなさいよ」
 「あっ…、悪い…」
 三宅は桂木にどつかれて正気に戻ると、ゆっくりと時任に向かって歩み寄る。
 そしてダンスにさそうために左手を伸ばし、にっこりと王子役らしく優しく時任に微笑みかけた。
 自分のしたことに罪悪感など微塵も感じていないのか、それともあれくらいのことは罪にならないとでも思っているのか、久保田に容赦なく蹴られた時の態度と違い時任の前でも堂々としている。
 そんな三宅を見た時任は王子である三宅の手に自分の手を重ねようとはせず、じっと三宅を鋭い瞳で睨みつけてた。
 「と、時任…、早く手を…」
 時任の態度に焦った三宅が小声で話しかけてきたが、時任はそれに答えようとはしない。
 けれど劇の台本では、舞踏会で出会った王子様とシンデレラは一目で恋に落ちるはずなのである。
 だが、今の状況ではとてもシンデレラが王子に恋したようには見えなかった。
 そばにいた桂木が何か言っていたが、三宅を睨みつけている時任には聞こえていない。
 周囲がハラハラとしながら時任の様子を見守っていたが、時任は三宅の手を取らずにその手を勢い良く払いのけた。

 「王子サマは私のことを何もご存知ありません。もし、私のことを知ってしまわれたら、きっと王子サマは私と一緒に踊ってなどくださならないでしょう。だからその手を取ることはできないのです」

 手を払いのけられて驚いてる三宅に時任が言ったのは、確かにシンデレラのセリフだったが、いくつか飛ばした上に少し違っていた。
 実はセリフを少し変えることで、時任は三宅と踊らないで舞踏会のシーンを演じようとしていたのである。けれどアドリブのくわえられた時任のセリフを聞いた三宅は、台本通りに強引に手を伸ばしてその手を取った。
 「そんなことはない。君が誰であろうとも、私は貴方にダンスを申し込むでしょう」
 舞台に上がる前に久保田の手に重ねた手に、そう言いながら無理やり三宅が手を重ねる。
 時任は重ねられた手をすぐに振り払おうとしたが、三宅はきつく握りしめてそれを許さなかった。

 「さっきのことはあやまる…、あれは出来心だったんだ。俺はずっと時任のことが好きだったから…」

 ダンスをするために時任の腰に腕を伸ばしながら、そう観客に聞こえないように三宅が謝罪の言葉を耳元に囁きかけてくる。
 時任はその声に触れてくる手に嫌悪感を感じながら、なんとか三宅の腕から逃れようとした。だが、さすがにシンデレラの劇で王子である三宅を殴り飛ばすことはできないため、抱きしめてくる腕から逃れることができない。
 そうしていると感じたくもないのに、三宅の体温が抱きしめてくる腕から伝わってきた。

 「くそっ、離せ…」
 「もうあんなことはしないから、機嫌直してくれよ」
 「誰が許すかよっ、ざけんじゃねぇっ」
 「俺はお前が好きなんだ…、久保田なんかに渡したくない」

 三宅に熱っぽい声で、好きだと言われても何も感じなかった。
 いくら何度も何度も好きと言われても、三宅を好きになんかなれなかった。
 逆に好きだから、自分のしたことが許されると思っている三宅が許せない。
 抱きしめてくる腕も触れてくる手も…、何もかもが許せなかった。
 ドレスの下にまだ残っている三宅につけられた痕跡が、それを久保田に見られてしまったことがつらくて仕方ないのに…。
 それを好きだから許せと言う三宅が、憎くて仕方がなかった。

 そんな気持ちを押し殺してまで踊っている自分が、どうしても嫌でたまらなかった。

 時任は唇を噛みしめると、本気で三宅に抵抗し始める。
 するとさすがに舞台を見ている観客も、周囲で踊っているマン研部員も、そして桂木や相浦もシンデレラと王子の様子がおかしいことに気づいた。
 始めはそんなことはなかったが、今はどう見てもシンデレラが王子と踊るのを嫌がっている。逆に王子の方は、シンデレラと無理やり踊ろうとしているようにしか見えなかった。
 「ちょ、ちょっと時任…」
 慌てた桂木が、後ろから小声で時任に話しかける。
 だが時任はそれには答えず、三宅の足をガラスの靴で思い切り踏みつけた。

 「うっ、痛っ!!」
 「ヤることしか考えてねぇ、ヘンタイ王子なんかと誰が踊ってやるかよっ!」
 「な、なにを言ってるんだっ!!」
 「おととい来やがれっ、強姦魔っ!!」
 
 時任は足を踏まれてひるんだ隙に、三宅を殴り飛ばして走り出す。
 するとそれを見計らったかのように、十二時の鐘が体育館中に響き渡った。
 シンデレラのストーリーと同じように、王子である三宅がシンデレラ役の時任を追いかける。
 階段の途中でガラスの靴を落すことになっていたが、時任は靴を落すつもりなどなかった。
 だが、はきなれない長いスカートとかかとの高い靴をはいていたため、そのスカートに足を取られて時任が階段の途中で転ぶ。するとその拍子に台本通りにガラスの靴が片方だけ階段に落ちた。
 時任はそれを拾おうと立ち上がろうとしたが、転んだ瞬間に足をひねったので痛くて立ち上がることができない。
 時任は小さく舌打ちをして、痛む足に力を入れてなんとか立ち上がろうとしたが、その瞬間、セットで作られた階段の上から三宅の声が聞こえてきた。
 
 「手を貸して差しあげましょうか?」
 
 足をくじいて動けなくなっている時任に向かって、階段の上から三宅が微笑みを浮かべながら降りてくる。このままでは、また三宅の腕に捕まってしまいそうだった。
 時任はなんとか歩き出そうとしたが、やはり立ち上がることが出来ない。
 どうにかして逃げようとしていたが、そうしている内に三宅がゆっくりと近づいて来て、動けない時任の前にゆっくりとかがみ込んだ。

 「…俺に触りやがったら、ぶっ殺す」
 「あの時、ちゃんと俺の手にカンジてたんだから、そんなに邪険にするなよ」
 「誰がてめぇなんかに…」
 「劇が終ったら続きやらないか? 実は倉庫で写真もとらせてもらってるんだ」
 「なっ?!」
 「バラ撒かれてたくないだろ? 写真。こんな手段使いたくなかったけど、時任があんまり聞き分けないから悪いんだぜ」

 微笑を浮かべながら小声で言った三宅の言葉が、本当か嘘かどうかはわからなかった。
 けれど写真を撮られた覚えはなかったが、もしかしたら高い所についている小さい窓かどこからか盗み撮りされていた可能性はある。
 倉庫に閉じ込められている時、時任は三宅に気を取られていて周囲にまで注意はしていなかった。
 
 「足をくじいてしまわれたようですね? 私が途中までお送りしますよ」
 
 そう言いながら三宅の腕が、床に座り込んでいる時任を抱き上げるために伸ばされる。
 時任は優しく微笑みかけてくる三宅を睨みつけていたが、動けないのでどうすることもできなかった。
 自力で動くこともできなくて、またあの時と同じようにどうすることもできず三宅に捕まって…。
 許したくないのにその腕に抱きしめられてしまうのかと思うと、くやしくて苦しくてたまらない。
 無理やり抱きしめられて、キスされて…。
 身体にたくさん痕をつれられて…、強引に欲望を暴かれた感覚がよみがえってきて吐き気がした。
 倉庫でのことを思い出して手で口元を抑えて吐き気を堪えていると、三宅の手が抱き上げようとして時任の身体に伸ばされる。
 三宅の手に再び触られるのがたまらなく嫌で、時任は思わず目を伏せて俯いた。
 
 鳴り響く十二時の鐘がもうじき鳴り終わろうとしているのに、シンデレラはまだお城の前で歩くことも出来ずに哀しみに暮れていた。




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