姫君にキスを.6
生徒会室から出てセッタを吹かしながら久保田が歩いていると、大きなダンボールを持って走っている生徒達とすれ違った。その生徒達が忙しそうに見えるのは、文化祭がすでに明後日にせまっているせいに違いない。
けれど、久保田はそんなお祭り騒ぎとは無縁のような顔をしていた。
実際、クラスの準備も執行部の劇も当日参加しないので、あまり関係ないと言えばないのだが、それとは別に文化祭にしなくてはならないことが久保田にはある。
そのため、執行部の劇に参加することもできなかった。
べつに進んで文化祭に参加したいとは思ったことはないが、やはり今回はヒロインとして劇に出る時任のことが気にかかっている。
何も気にしていないフリをしてはいたが、やはりそれは久保田の本音ではなかった。
「機嫌が悪そうだな、誠人」
「おかげさまでね」
久保田が廊下を歩いて向かった先は、玄関ではなく生徒会本部だった。
それは文化祭のことで呼び出されたからなのだが、くわえタバコをしたままの久保田は松本でなくてもわかるほど雰囲気がいつもと違っている。
眼鏡の下の瞳はさっき藤原に向けた冷ややかさを、まだわずかに残していた。
だが松本はそれを気にした様子はなく、文化祭について話を始める。
本部の立派なディスクに座った松本の横には、やはりいつものように橘が控えていた。
「守備はどうだ?」
「何人かマークはしてみたけど、本体まではまだってトコ」
「やはりそう簡単にはわからないか…」
「思ったより複雑だってことだぁね。長年、見つかってないのがその証拠だし」
「本番でなんとかするしかないようだな」
「始めからそのつもりで執行部を許可したクセに、わざとらしいなぁ」
「なんのことだ?」
松本は久保田の言葉にとぼけて見せているが、今回のことを桂木に全部話していないに違いない。もし本当のことを知っていたら、桂木は参加することを少しは迷ったはずだった。
別に何も起こらない可能性もあるが、今、校内で行われていることを考えたら、やはり劇に参加することを当日まで伏せていることは危険である。
この危険度はつまり執行部が優勝するかしないか、どう思われているかの一種のバロメーターだった。
久保田が何もかも知っているとわかっていて、松本がポーカーフェイスを決め込んでいると、その横で橘がにっこりと微笑む。その微笑みは抱きたい男NO1にふさわしい妖艶な笑みだった。
「執行部に優勝してほしいと思ってますよ、僕も会長も…」
「どっちでもいいの間違いじゃないのかなぁ? 副会長」
「相変わらず食えない人ですね」
「誰にも食われるシュミないもんで」
久保田は橘に感情の読めない笑みを返しながら、執行部の劇の練習にも出ずに調べたことを思い浮かべてみる。
だが、まだ完全に今回の全容はつかめていなかった。
本番が来る前に本体を見つけることができればと考えていたが、どうしても尻尾を掴むことができない。そのため最初に言った通り、本当に劇に出場することはできないに違いなかった。
「今回の件は、相手に気づかれた時点でアウトだからな」
「承知してマス。けど、今回はちょっと後で恨んじゃうかも」
「…できれば、俺を恨まないでくれ。頼んだぞ、誠人」
「ま、努力してはみるけどね」
今回の文化祭についての話が終ると、久保田はセッタをふかしながら本部を出て行ったが、その後に残された松本は額に汗をかいていた。
それは恨むかもしれないといった久保田の言葉が、半分以上も本気だと感じていたからである。
中学からの付き合いではあったが、久保田に恨まれて無事で済むとはとても思えなかった。
「…やはり誠人に頼むべきじゃなかったかな?」
「こういう内密な仕事の適任者というのは、そうそういませんよ」
「まあ、それはそうだが…」
そう言ってから松本が置かれていたお茶を一口飲むと、橘は身を屈めて松本の耳元に唇を近づける。すると、それに気づいた松本の額に新しい汗が浮かんた。
「久保田君のことを信頼してらっしゃるんでしょう?」
「もしかして、また焼いてるのか?」
「僕も一度、浮気してみたいですね。相手は時任君とか…」
「・・・・・早死にするぞ」
「望むところです」
「・・・・・・・・」
本部でそういう会話が交わされていた頃、久保田は鞄を持って玄関まで来ていた。
時任はすでにもう帰ってしまっているので、久保田の隣りにその姿はない。
短くなってしまったセッタを消して携帯用灰皿の中に放り込むと、久保田は一人でマンションへと歩き始めようとした。
だが、そんな久保田を待ち構えていたかのように、呼び止めた人物がいる。
それはこの間、生徒会室の前で時任を呼び止めたテニス部の三宅だった。
「時任は一緒じゃないのか?」
「先に帰ったけど?」
「へぇ、最近一緒にいないって聞いたのはホントだったみたいだな」
三宅は久保田と時任が最近、別行動をしていることが多いと聞いてきたらしい。
そのことでからかおうとしているようだが、久保田は面倒そうに一言返事しただけで、後は三宅を無視して帰ろうとした。
「話はまだ終ってないぜっ、久保田」
「アンタの話聞いてるほど、ヒマじゃないんだけど?」
「時任がどこの劇に出るか教えろよ」
「さぁ、本人に聞いたら?」
「本人に聞いても言わないから、お前に聞いてるんだろ」
「あっそ」
そこで完全に会話を切ると、久保田は三宅が何を言っても相手にしなかった。
三宅は前々から時任にちょっかいをかけてきてはいたが、久保田が三宅を害虫として認識したのは、衣替えポスターに時任が抜擢された時からである。
実は最初、衣替えポスターのモデルだったのは、時任と久保田ではなく三宅だった。
その三宅が時任とモデルをやりたいと言ったのが、時任がポスターのモデルになることになったそもそもの原因なのだが…。
結局、撮影の本番の時に付き添いできていた久保田が必要以上に時任といちゃついたため、それを見ていた写真部がモデルを三宅から久保田に変更したのである。
三宅と時任の撮影内容も今と同じ二人がいちゃついているものだったので、久保田より自分の方が時任と並んで絵になると未だに思っているようだった。
「俺はぜったいにあきらめないからなっ」
何度聞いたか知れない三宅のセリフをなんとなく聞きながら、久保田は小さくため息をつく。
けれどそれは三宅のせいではなく、先に帰ってしまった時任のことを想ってのため息だった。
今回の文化祭の件で松本に頼まれたことは、誰にも漏らさずに極秘でしなくてはならなかったため、今の状況は一人で行動するのに好都合である。
だが、最初から時任に冷たく当たったりするつもりだった訳ではなかった。
「劇くらいなんともないって思ってたのは、ホントだけど…」
久保田はそう呟くと、ポケットから新しいセッタを取り出して火をつける。
そして煙を吸い込むと、久保田は自嘲するように薄く笑った。
劇に出ないことになったのは、劇を決める日の昼休けいに松本から仕事を頼まれたからだったが、その話を松本から聞いた時にはこんなことになるとは当然だが思っていない。
だから、王子役も簡単に他人に譲ることができた。
芝居だから本当のことじゃないと簡単に考えて…。
ただのお芝居を見て嫉妬に狂ったりはしないと、自分を過信していた。
たがいざ劇の練習になってみると、時任が自分以外の誰かと愛を語るのが、その手が腕が誰かを抱きしめるのが許せなくて…。
じっとシンデレラの演技している時任を見つめる視線が、いつの間にか自分でも気づかぬ内に時任を責めてしまっていた。
そんな権利など、自分にはないというのに…。
劇だから平気だと思ったのも、王子にならなかったのも自分のせいだった。
だから、そんな自分の独占欲や嫉妬を隠して起きたくて…。
無理やり平静を装って、劇の練習まで手伝って…。
なのに自分を相手に藤原とのキスの練習をしようとした時任を見た瞬間、感じたのは藤原とキスしようとする時任に対しての怒りだった。
自分でも矛盾してるとわかっているのに…。
劇でも自分以外の誰かとキスしようとする時任が許せなかった。
けれど藤原とキスしようとする時任を責めながら、実ははっきりわかったことがある。
それは王子役にならなかったのも、藤原とのキスの練習をさせているのも…。
時任に藤原を…、自分以外の誰かを拒んでほしかったからだということだった。
そんなのは時任の気持ちを試して確認して自己満足しようとしてるだけの、独りよがりで身勝手なことでしかなくて…。
なのにそうしてしまったのは、言葉で聞いても、身体で唇で想いを気持ちを確かめ合っても…、それでも時任を信じ切れない自分の弱さが招いた結果なのかもしれなかった。
いつも二人で歩く道を一人で歩いて久保田がマンションに戻ると、時任はソファーの上で眠っていた。
少し泣いたような跡が頬に残っていて、それを見ると胸が痛くなってくる。
けれど今はまだ、文化祭が終るまでは時任に何も言うことはできなかった。
自分の弱さが招いた結果とはいえ、誰にも気づかれずに自然に一人で行動するには時任とケンカしているのが一番だったからである。
今回、頼まれた仕事は松本が言うように気づかれたら最後なので、すぐに感情的に突っ走ってしまう時任には特に黙っていなくてはならなかった。
「信じてあげられなくて…、ゴメンね」
久保田はそう言うと、ソファーで眠っている時任の身体を腕で優しく抱えて抱き上げる。
すると目を閉じたまま時任の手が、抱き上げている久保田の腕を触った。
「…くぼちゃ…ん?」
腕を触った感触で抱き上げているのが久保田だとわかったのか、時任はうっすらと微笑んで再び手を下におろす。そんな時任の仕草を見た久保田は、愛しそうに時任の額にキスを落とした。
けれど誰にも触らせたくないくらい恋しているから、こんな時でも胸の隅に冷たい何かが揺らいでいる。
好きだと言って、好きだと言われて…、それだけ信じていられればいいのに…。
どうしても時々、そんなのは嘘だと囁きかけてくる声がしていた。
けれどその声は誰の声でもなく…、不安に揺れる自分の声に違いなかった。
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