姫君にキスを.5



 
 久保田が台本の始めのナレーションの部分を読み始めたが、時任は俯いたまま久保田の方を見ようとしなかった。
 ただの芝居だからと言われてしまえば、それはそうなのかもしれないが、シンデレラの台本を読んでいる久保田を見てると、どうしても辛くなってきてしまう。いっそのこと感情にまかせて殴りつけてやろうかと思って拳を握りめるが、その拳を振り上げることはできなかった。
 久保田が何を言ったにせよ、藤原の名前を黒板に書いたのは自分だったからである。
 本当に嫌なら書かなければ良かったのに、久保田の言葉にカッとして思わず書いてしまったので今更、藤原相手にできないとも言えなかった。
 言えない以上、どうしてもやらなくてはならなかったが、久保田が見ている前で藤原に抱きつくことだけはどうしてもできない。
 久保田が見ているとただの演技なのに、まるで久保田を裏切っているような気分になって…。
 じっと見つめてくる久保田の視線に見られていると、浮気を責められているような錯覚を起こす。

 久保田の方は練習の様子を見て平然としているのに…。

 時任は練習の時のことを思い出しながら台本を読んでいる久保田をじっと睨みつけていたが、ふと何かを思いついたようかのように視線を再び久保田に向ける。
 そして、なぜか久保田のセリフを無視してシンデレラのセリフを言い始めた。

 「ゴメンナサイ、王子サマ。私の名前をお教えすることはできないのです」

 時任の言ったセリフは、最初の場面ではなく舞踏会の場面のものだった。
 演劇部の台本なのでセリフなどにアレンジが加えられているため、舞踏会の場面も通常よりも少し長くなっている。
 時任は黙ってしまった久保田の瞳をじっと見つめながら、執行部での練習とは比べ物にならないくらい女の子っぽくというより、熱っぽい色っぽさを含んだ表情でシンデレラのセリフを言う。するとセリフの方も自然に、熱っぽい想いがこもっていた。
 「私のことを知ってしまわれたら、きっと王子サマは私と一緒に踊ってなどくださならないでしょう」
 そう言いながら、時任はゆっくりと起き上がって久保田の肩に手をかける。
 そして、久保田の顔に自分の顔を近づけていった。
 目を閉じずにじっと久保田の瞳を見つめながら…。
 少しずつ近づいて、二人の唇が触れ合いそうな距離になってから、時任はゆっくりと目を閉じる。そして久保田に自分からキスしようとしたがその瞬間、時任の唇に当たったのは久保田の唇ではなく冷たい感触の何かだった。
 「えっ…?」
 時任が驚いて目を明けると目の前にあったのは久保田の顔ではなく、シンデレラの台本だった。まさかキスを拒まれると思っていなかったので、時任はそのままシンデレラの台本を見つめていたが、その台本が目の前からすっと下へと降ろされる。
 すると、さっきまで視界を隠していた台本ではなく、久保田の顔が見えた。
 「久保ちゃん…」
 時任は目の前に現れた久保田の顔を見ながら、小さく名前を呼ぶ。
 しかし、じっと時任を見つめながらも久保田はその呼びかけに返事をしなかった。
 黙ったままでいる久保田を見つめ返した時任は、自分を見つめる久保田の瞳の冷たさに思わず息を飲む。なぜそんな冷たい目を久保田がしているのか、時任にはわからなかった。
 「な、なんで…」
 時任は久保田の冷ややかな視線を受けて、わずかに後ろへと後ずさる。だがその瞬間、時任の身体は久保田の手によって床に押し付けられた。
 「うっ、痛っ!」
 音を立てて転がった時任は、軽く背中を打ち付ける。
 けれど久保田は時任を床に押し付けたまま、動けないように上から自分の体重をかけていた。そしてさっきは時任からのキスを拒んだのに、今度は久保田の方から時任の唇に自分の唇を寄せる。
 手を伸ばして指で時任の唇を軽く撫でてから、久保田は時任に口付けた。
 「ふっ、ん…」
 音を立てて唇が離れると、今度は久保田が口内を犯すように深く口付けてくる。
 時任は早急なキスに息を荒くしながら、強く久保田の胸を押した。
 「んんっ、うっ…」
 けれど久保田はその手を片手で捕らえて、時任の頭の上に押さえ込んだ。
 身動きの取れなくなった時任は、抵抗するのをあきらめて久保田のキスに答え始める。
 だが、時任が自分からキスし始めると、久保田は時任から唇を離した。
 「キスシーンの練習がしたいんでしょ?」
 「練習って、俺はべつに…、」
 「キスシーンしたら優勝できるかもしれないし、練習しといた方がいいかもね」
 「えっ…?」
 「けど、お姫サマは自分からはキスしたりしないから、そうやってじっとしてなよ。セリフがしゃべれなくなるくらいキスしてあげるから…。本番、ちゃんとできるように…」
 「久保ちゃ…、やめ…」
 久保田は言った通り、貪るように激しく時任に口付けてくる。
 その口付けに言葉と吐息を奪われながら、時任は横目で床に落ちているシンデレラの台本を見た。
 この台本にキスシーンは書かれていないのに時任はシンデレラのセリフを言って久保田にキスしようとしたのだが、それは練習を平然と見ている久保田への当てつけだった。
 藤原とキスするかもしれないとほのめかしたら、もしかしたら久保田が王子になってくれるのではないかと思ったのである。
 けれど久保田は、逆に本番にちゃんとキスできるように練習しようと言った。
 ちゃんと藤原とキスできるようにと…。
 時任は久保田にキスされながら、哀しい気持ちでシンデレラの台本ばかりを見つめていた。







 
 忙しくしていると日にちが過ぎるのは早いもので、シンデレラの練習も始めてあっという間に七日たってしまっていた。始めは途中でストップしたりしていたのだが、さすがに三日前くらいになると完全に通しで出来るようになっている。
 特にシンデレラである時任の演技は始めよりもかなり良くなっていたが、なぜかそれとは逆に本番が近づくにつれて元気がなくなってきていた。
 おとなしくなるのはシンデレラをやるのでいいことなのだが、なんとなく元気のない時任を見ていると落ちつかない。桂木はうまくはないが無難に藤原とダンスを踊っている時任を見ながら、ふうっと軽くため息をついた。
 「確かに女の子らしくとは言ったけど、落ち込ませろとは言ってないわよ…」
 時任が元気がなくなり始めたのは、桂木が久保田に女の子らしくするようにと頼んだ次の日からだった。なぜなのか理由はわからないが、その日から久保田は練習に姿を見せなくなっている。
 そして久保田が来なくなった日から、時任は藤原とのシーンもなんとか無事にこなすようになっていた。やはりこれはどう見ても、二人の間に何かあったに違いない。
 桂木がなんとなく考え込んでいると、相浦が時任の演技を見ながら桂木の隣りにやって来た。
 「結構、まともな感じになったよなぁ」
 「まぁね…」
 「なに浮かない顔してんだよ?」
 「ちょっと引っかかるのよねぇ」
 「何が?」
 「何なのかはわからないけど」
 実は桂木が引っかかると言っているのは、時任の演技のことではなく別にある。
 引っかかるのは、昨日、終わりの部分がいまいちだというのでやり直した時、桂木が半分冗談でキスシーンしたら優勝できるかもしれないのにと言ったら、あっさりと時任がそれに了解を出したことだった。
 はっきり言って、どう考えても時任が藤原とのキスシーンに了解を出すとは思えない。
 なのに時任はなんでもないことのように、別にいいと言った。
 その時の時任がかなり沈んだ表情をしていたのが、かなり気にかかっていたのである。

 「時任…、本気でキスシーンする気かしら?」
 「さぁ、どうかわからないなぁ」

 桂木と相浦がそんな風に話している前で時任はシンデレラの演技を続けていたが、やはり結局、キスシーンの練習はやらずに終ることになった。
 その原因は、時任がキスシーンは本番しかやらないと宣言したからである。
 「やるのは本番だけでいいだろっ」
 「それは別にいいけど、本当に本気でする気なの?」
 「自分でやるっつったんだから、ちゃんとやるっ」
 「…ならいいけど」
 練習が終って桂木は時任に声をかけたが、やはりいつもとは違って沈んでいる様子だった。
 そんな時任を見てため息をついくと、桂木が書類を持って生徒会室を出て行く。
 すると、それに続くように今日の見回りをするために松原と室田が部屋から出ていった。
 やはり劇の練習があると行っても、公務は通常通り行わなくてはならないのである。
 そのため生徒会室には、ぼんやりしている藤原と、パソコンに向かっている相浦、そして窓から外を眺めている時任が残っていたが、その後しばらくすると相浦も何か用事を思い出したらしく、ちょっと教室に戻ってくると告げて部屋を出て行った。
 
 「なんか…、静かになりましたね」
 
 生徒会室に時任と二人きりになった藤原は、そうぽつりと言って時任の方を見る。
 すると時任はいつも久保田が座っている椅子に座って、パラパラとシンデレラの台本をめくり始めた。
 けれど内容を読んではいないようで、めくられていくページはすぐに最終ページまで到達する。そして台本をめくり終えると、時任はらしくなく憂鬱な表情で小さく息を吐いた。
 いつもが元気すぎるくらい元気で騒がしいだけに、そんな沈んでいる様子を見るとやけに気にかかる。藤原は台本を見つめている時任の横に立つと、その手から台本を奪った。
 「台本返せよっ」
 「台本なんか見てないクセに」
 「うっせぇっ」
 「そんなことより、ため息ばかりついて何かあったんですか?」
 「・・・・・べつに何でもねぇよ」
 「そんな顔してないですよ?」
 「今は話す気分じゃねぇから、話しかけんなっ」
 元気がないのを心配して藤原は声をかけたのだが、時任は藤原の言うことを聞く気もないようだった。
 時任にこんな風に言われるのは日常茶飯事だったが、さっきまでシンデレラと王子として会話をしていただけに、なぜか今日は冷たくされたことが妙に腹立たしく感じる。ただの演技だとわかってはいたが時任に見つめられて抱きしめると、どうしても鼓動が早くなってしまっていた。
 そのため久保田のことを好きだと思っていたはずなのに、藤原は時任とラブシーンを演じている内に、まるで時任が恋人になったような錯覚を起こしかけている。
 相手役の王子として何度も時任を抱きしめていると、その身体や腰の細さをいつの間にか腕が覚えてしまっていた。
 自分でもそんなはずはないと思いながらも、時任に男としての欲望を抱いてしまっている。
 藤原は自分を無視している時任の腕をつかむと、強引に腕を自分の方へと引っ張った。
 「て、てめぇっ、なにしやがるっ!」
 「今からアンタともう一回、二人で劇の練習しようかと思って」
 「練習ならさっきしただろっ!」
 「あれくらいじゃ、優勝なんてできませんよ? キスシーンの練習もまだですしね?」
 そう言うと自分の方に引っ張って立たせた時任の身体を、藤原は後ろにあるテーブルへと押し付けようする。力は時任の方が強いはずだが、まさか藤原に押し倒されると思ってなかったらしく、時任は以外にあっさりとテーブルの上に転がった。
 「な、なにしやがるっ!!」
 「キスの練習するんですよ、今から」
 「誰がてめぇなんかとするかっ!」
 「優勝したくないんですか? 優勝したいなら、おとなしくキスされてください」
 「やっ、やめっ…」
 「時任…先輩…」
 時任が必死で迫ってくる藤原の唇を避けようと身体をひねったが、テーブルの上に押さえつけられている上、足が完全に浮いた状態なので身動きが取れない。
 藤原はじたばたしている時任に向かって微笑むと、抱きしめた時にキスしたいと思っていた唇に自分の唇を重ねようとした。
 だが、唇があと数ミリで触れるという瞬間、藤原の耳に聞きなれた声が届く。
 その声に驚いて藤原が顔を上げると、生徒会室の入り口に久保田が立っていた。
 「もしかして、まだ練習中だったりする?」
 「く、く、久保田先輩…っ」
 「シンデレラって王子サマがお姫サマを強姦する話だったっけ?」
 「これは、その…」
 いきなり現れた久保田に藤原が慌てて時任の上から退けようとしたが、そうする前に時任が藤原を蹴り飛ばす。すると、その衝撃でテーブルの藤原が上から見事に床に落ちた。
 「うがっっ!!」
 「俺様をやろうなんてな十億年早ぇんだよっ、バーカッ!」
 時任は藤原に向かってそう言うと、鞄を持って久保田の方へ歩いていく。
 けれど久保田を見た時任の表情は、助けられたにも関わらず沈んだままだった。

 「・・・・・・・先に帰る」

 時任は久保田に帰ることを告げると、本当に久保田を置いて廊下を走り出す。
 普通ならその後を久保田が追いかけるはずなのだが、今日はなぜか久保田は時任の後を追ったりはしなかった。
 そんな二人の様子を藤原が不審に思っていると、久保田がまだ床に座り込んでいる藤原に向かって冷ややかな笑みを浮かべる。するとその冷酷な笑みを見た瞬間、藤原の表情が恐怖を浮かべて凍りつき、肩がビクッと大きく揺れた。
 恐怖を感じて手のひらに滲んでくる冷たい汗を藤原が感じていると、久保田がポケットからセッタを出して火をつける。久保田は煙を吸い込んでふーっと吐き出すと藤原を見たまま、すうっと目を細めた。
 「そう言えば、本番まであと一日しかなかったよねぇ?」
 「えっ、あ…、はいっ」
 「ま、がんばって練習しなね?」
 「ありがとう…、ご、ございます…」
 久保田は凍り付いている藤原にそれだけ言い残すと、セッタを吹かしながら生徒会室を立ち去っていく。
 生徒会室から久保田がいなくなると、藤原は床に両手をついて大きく息を吐いた。
 久保田がいなくなって張り詰めていた緊張が一気に抜けたが、久保田と目が合った瞬間、時任へ抱いてしまっていた欲望は恐怖にすり変わってしまっている。
 さっきは欲望にまかせてあんな真似をしたが、今はもうとても時任を襲おうという気分にはなれなかった。
 藤原はやっと床から起き上がって、まだ少し震えている自分の手を見ると、

 「と、時任先輩とキスなんて…、そんなの出来るはずないじゃないですか…。俺はまだ死にたくなんかありませんよ…」

と、誰もいなくなった生徒会室で一人呟いていた。



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