ひこうき雲.9
ひこうき雲の写真と…、そこに大切に挟まれていた紙切れ…。
その紙がまだ新しく真っ白だった頃に書かれたごめんなさいねという言葉には、どんな意味と想いが込められているのかはわからない。けれど、挟まれていた紙には一度ぐちゃぐちゃにした後、引き伸ばしたような痕跡があった。
それはもしかしたら、こんな風に写真集に挟み込むくらい大切なのに、この紙とこの言葉は…、志島によって一度捨てられかけたのかもしれなかった。
青い屋根の家に誰もいなくなった事情を香坂は知らないと言ったが、文字の書かれた紙のある場所を知っていることがその言葉を裏切っている。
じっと志島の制服を見つめる香坂の瞳は、いつもの明るさを失ってしまっていた。
もしも香坂の目に幽霊になってしまった志島が見えたとしたら、その理由を聞き出すことは簡単なのかもしれないが…、
やはり香坂には、時任に取り憑いている志島の姿は見えてないようだった。
「この家が消えてなくなったら、もう何も残らないんですよね…、たぶん…」
そう呟いた香坂はひと呼吸置いてから、また何かを言おうとする。だがそうしようとした瞬間に、まるでそのタイミングを狙ったかのように携帯の着信音が勢い良く鳴った。
鳴った携帯は流れているメロディーからもわかるように、久保田ではなく香坂の携帯で…、
その音はまるで傷つき壊れかけた廃屋の床や壁や天井を、その痛みに震わせるように鳴り響いていた。香坂はその音を少しの間、自分の携帯を握りしめたまま止めないで聞いていたが、小さく深呼吸すると通話ボタンを押す。
そしてそこから聞こえてきた声に、短く返事してからすぐに通話を切った。
「はい…、了解です」
聞こえてきたのはこの一言だけだったが、なぜか香坂を見る久保田の瞳がわずかに細められる。別に電話がかかってきたこと自体には不審な点はなかったが、何かを隠すように短くされた返事の仕方から、同級生や友達からの電話ではなかったことがわかった。
生徒会本部の人間からの電話という可能性もあるが、どうも香坂の様子がおかしい。
久保田は素早くポケットから携帯を取り出すと、メモリーの中に入っているある番号を押した。
トゥルルルル…、トゥルルルルル・・・・・・。
コール音が数回鳴ったが、いつもすぐに出るはずの人物の声は聞こえてこない。
二人きりのあの部屋に戻っているのなら、どこかに置き忘れているという可能性もあったが、今はまだ学校にいるはずだった。
けれど…、いつまでたってもコール音だけがむなしく久保田の耳に鳴り響き続ける。
携帯のディスプレイにうつっている文字は時任で…、それは久保田の相方であり同居人であり…、そして誰よりも大切に想っている人の名だった。
香坂は自分の携帯を切った後、コール音を聞いている久保田の様子を見守っていたが、待ちきれなくなったのか軽くお辞儀をして、
「すいません…。用事があるので、僕はこれで帰ります」
と、告げてこの部屋から出ようとする。
まるで、もう自分の役目は終わったとでも言うかのように…。
しかし久保田はコール音を止めて、逃げ出すように出て行こうとしている香坂を呼び止めた。
「デートの途中で、それはなんじゃないかなぁ?」
「えっ?!」
「なーんてのはジョウダンだけど…。ココから出る前に、さっき誰から電話がかかってきたのか教えてくんない?」
「・・・・・・教えなきゃならない理由はないと思いますけど?」
「教えなきゃならない理由はなくても、教えられない理由ならあるってワケね」
「そんなことはありません…」
「なら、教えても問題ないっしょ?」
「けど教えても問題ないなら、教えなくても問題ないってことじゃないですか?」
香坂はどうしても電話の相手のことを話したくないらしく、久保田の言葉を揚げ足を取るように利用してそう言うと口を閉じる。
どうやら久保田が言っている通り、何か教えられない事情がありそうだった。
だが、ただ何かありそうだと言うだけでは、ぎゅっと口を閉じている香坂から強引に事情を聞き出すことはできない。この状態でもしも暴力で聞き出したとしたら、逆に下級生を廃屋に連れ込んで暴力を振るったとして、久保田の方が訴えられる事になるに違いなかった。
そのことを知っているからなのか、まだ香坂は余裕の表情を浮かべている。
しかし、久保田がポケットから取り出したある写真を見せると、香坂の表情がわずかに曇った。
「その写真を…、時任先輩の写真を僕に見せて何のつもりですか?」
「べつに、見せびらかしたかっただけだけど?」
「・・・・僕は男を見ても、かわいいとは思いませんから」
「本人はかわいいんじゃなくて、カッコいいんだっていつも言ってるけどね?」
「時任先輩がカッコ良くてもかわいくても、僕には関係ないです…」
いきなり本部に押収されていた時任の写真を見せられた香坂は、そう言って入り口の方に視線をそらせる。
だが、その瞬間に香坂を包んでいたのは罪悪感に似た息苦しさだった。
久保田は苦しそうな表情をしている香坂を見ていたが、電話のことを尋ねたようにどうしてそんな顔をしているのかを聞かない。
まるで、何もかもを知ってるかのように…。
写真をポケットにしまって持っていたライターに火をつけると、久保田はそのゆらゆらと揺れている炎を見つめながら、その炎に写真集に挟まれていた紙を近づけた。
「な、なにをするつもりですか?!」
「さぁ?」
「誠人先輩っ!!」
「さっき見せた写真って、知らない時に撮られたみたいなんだよねぇ」
「・・・・・・知らない時?」
「俺の知らない時」
「誠人先輩の知らない時って…、一日中一緒にいるわけじゃないんですから、そういう時だってあるんじゃないですか? 久保田先輩がいなくて、時任先輩が一人の時とか」
「時任が一人の時って、俺が生徒会本部にいる時しかほとんどないんだけど?」
「まさか、そんなことはあり得ないんじゃないですか?」
「ホントに一日の90%以上一緒だし?」
「あ…、あとの10%は?」
「風呂とトイレ」
「・・・・・・・・」
「だから、そんなにタイミング良く撮れないと思うんだけどなぁ。時任が一人だけ写った写真はね?」
久保田はそう言うと、更に揺れている炎を紙に向かって近づけていく。
すると白い紙は炎の先に触れて、ジジッと音を立てて煙を出し始めた。
何年もの間…、大切に写真集の中に挟み込まれていた紙は、久保田の手によって燃やして塵にされようとしている。
それを見た香坂は、紙に火がつく瞬間に久保田の手から紙を強引に奪い取った。
燃やされようとしたのはたった一枚の古びた紙だったが、香坂にとっては哀しいくらい必死な瞳で久保田をにらみつけるてしまうほど大切らしい。
もしかしたら誰もいなくなったこの廃屋に…、志島がかつて暮らしていたこの部屋に、たくさん詰まっているかもしれない思い出を香坂は抱えているのかもしれなかった。
しかし、そんな香坂の様子を見ても、久保田はまだライターの炎を消そうとはしない。
香坂はライターを消すように言おうとしたが、久保田と目が合った瞬間に凍り付いてその場から動けなくなった。
久保田の瞳には、勢い良く燃えているライターの炎が写っている。
口元にうっすら冷笑を浮かべた久保田の瞳に写った暗い炎は、この廃屋だけではなく…、すべてを焼き尽くそうとしているかのように見えた。
「鉢が上から落ちてきた時、屋上から鉢が落ちてきたって良くわかったよねぇ? 四階からかもしれなかったのに?」
「それは…」
「そして、俺が時任から離れている時間が正確に知ってるのは、本部に出入りしてる人間。そして俺をボディーガードっていう名目で、時任から引き離すことができたのはたった一人だけ」
「僕が時任先輩をさらった犯人だって、そう言いたいんですか?」
「時任をさらった犯人、ねぇ? べつに時任がさらわれたって言った覚えないけど?」
「・・・・・・っ!!」
「さっさと吐いちゃいなよ。その紙ごと、このウチを灰にしたくなければね?」
廃屋でも家を燃やしたりしたら、当たり前に犯罪になる。だが、久保田はそう言うと迷うことなく壁にかけられていた制服に、ライターで火をつけようとしていた。
それを着ていた志島は、すでにこの世にはいなかったが…、香坂は気力をふりしぼって久保田の視線の呪縛から逃れると、まるで志島を守ろうとしているかのようにその前に立ちはだかる。しかし今度は机に置かれていたノートに、久保田は火をつけようとした。
「そんなことしても無駄だよ。もう時任先輩は学校にはいない」
香坂は自分の悪事がばれていることを知ると、さっきまでの敬語と違って砕けた口調で火をつけようとしている久保田に向かってそう言う。生徒会本部書記でかわいい後輩という仮面の剥がれた香坂の表情は、やけに大人びていて悪事がばれたというのに落ち着いていた。まるで悪事がばれたことも…、何もかもどうでも良くなったとでも言うかのように…。
香坂はさっきまで家が燃やされるのを防ごうとしていたが、ゆっくりと志島の制服から離れると…、部屋に置いてあった埃だらけのベッドの上に腰かけた。
「時任の居場所は?」
「無駄だから教えない。時任先輩の居場所がわかったとしても、もう手遅れだから…」
「・・・・・・」
「今、僕を殺したいって顔してるよ、先輩」
「ボランティアで、人殺しはしてないけどね」
「じゃあ…、僕の方は死にたそうな顔してるんだ…」
「さぁ?」
「僕をこの家と一緒に燃やしてくれたら…、居場所を教えてもいいよ」
微笑みながらそう言うと…、香坂は深く息をついてゆっくりと眠るように瞳を閉じる。
そんな香坂の様子を見ている久保田の手には、まだ火のついたライターが握られていたが、その熱さのために指が火傷をしたように赤くなり始めていた。
時任がさらわれてから、どれくらい時間がたってしまっているのか予想がつかなかったが…、手遅れかもしれないからとあきらめて立ち止まっていることはできない。
どんなことになっていたとしても…、時任が待ってくれているはずだから…、
だから…、何があってもどんなことをしてでも迎えに行かなくてはならなかった。
たとえ恋し合うことが…、罪でしかなかったとしても…。
指を赤く焦がしていく炎が…、じりじりと心までも熱く焦がして…、
そしてその熱は…、昨日抱いた時任の身体の奥の熱さを思い出させる。
昨日の夜、ベッド゙の上で切なく声をあげていた時任は…、涙のたまった瞳を閉じたままで何度も何度も久保田の名前を呼んでいた。
久保田は時任に触れていた自分の手をじっと見つめると…、その先にあるライターを掴んでいる指から力をゆっくりと抜いていく。
ライターが落ちていく先には…、志島と書かれたノートがあった。
「みんなで手分けして、徹底的に探すわよっ! いいわねっ!」
ハリセンを握ってそう叫びながら、校内での時任の捜索を執行部員達に指揮していたのは、久保田からの電話を携帯で受けた桂木だった。
しかし、聞いた内容は時任が行方不明になったことと…、校内を探すのは念のためだということだけである。なぜ行方不明になってしまったのかはわからなかったが、校内にはいない可能性が高いらしかった。
久保田が生徒会本部から頼まれて何かしていることは知っていたが、こんな事態になるとは当たり前だが予想はしていない。桂木はこの件で事情を問い正すために本部に行ったが、なぜか本部は生徒会長や副会長だけではなく全員が出払ってしまっていた。
どうやら思っている以上に、自体は最悪な方向に向いているらしい。
それを感じ取った桂木は、久保田に言われた通りに執行部全員で、校内をくまなく時任を探すことに決めた。
「私にできることがこれくらいしかないのって…、なんかくやしすぎるじゃない…」
桂木はそう呟きながら、ペアになった相浦と一緒に校内を時任を探してまわり始める。けれど良くいる屋上にも教室にも、どこにも時任の姿は見当たらなかった。
何が起こっているか知らなくても、見つからないことに気分があせってくる。
だが校内にいるのなら探しようがあるが、校外なら探す当てがない。持っていたハリセンをきつく握りしめると、桂木は険しい顔をしてこれからどうするべきかを考え始めた。
しかしさっきから久保田の携帯に電話していたが、いくら電話してもでないのでこれ以上は動きようがない。
その事実に桂木はくやしそうに唇をかむと、ハリセンで壁を叩こうとする。
けれど、そのハリセンを横にいた相浦が止めた。
「大丈夫…、時任なら見つかるさ」
「・・・・・けど、そんな保障どこにもないじゃないっ」
「そんなことないだろ、保障ならちゃんとあるさ」
「保障って、どこによ?」
「久保田が時任を探してる…。それだけで十分だろ?」
「・・・・・相浦」
「久保田が時任を探してるなら、ちゃんと見つかるさ…、だろ?」
「そうね…、そうだったわ…。久保田君が時任を見つけないワケなんか…、ないものね」
・・・・・久保田が時任を探しているから、必ず見つかる。
無理やりそう納得するのではなく、桂木も相浦も本当に久保田が見つけると信じていた。
桂木は肩から力を抜いてハリセンを下に下ろすと…、相浦の肩を軽く叩いて念のためにもう一度、時任を探しに行こうとする。
だが二人が開かずの資料室の前を通りかかった時、なぜか資料室の前に保健医の五十嵐が立っているのが見えた。五十嵐は何かを手に持ってドアの前で何かを考えている様子で、どうやら中に入るかどうか迷っているようである。
なぜ開かずの資料室という珍しい場所にいるのか不思議に思った桂木は、時任の捜索を中断して相浦と一緒に五十嵐に声をかけた。
「こんな所で何してるんですか? 五十嵐先生」
「あら、ちょうど良かったわ。通りかかったついでに、二人ともアタシと一緒に資料室に入ってくれないかしら?」
「資料室って…、ここは開かずの…」
「知ってるわ。だから入りたいのよ」
「・・・それって、どういう意味ですか?」
そう桂木が資料室に入りたいと言った理由を尋ねると、五十嵐は手に持っていた一枚の写真を桂木と相浦の前に差し出した。すると差し出された二人は一瞬、お互いの顔を見合わせたが…、その後すぐに五十嵐の手にある写真をのぞき込む。
二人の見た写真にはどこか見覚えのある高校生くらいの男と、まだ小学校性学年くらいの少年…、そして二人の母親らしき女性が写っていた。
家族写真のようなその写真に写っている三人は…、どこかの家の縁側で楽しそうにスイカを食べていて…、
その写真はどこにでもあるような写真だったけれど、古びた感じがそこに写った思い出までも色あせさせてしまっているようで…、見ていると少し寂しい感じがした。
「アタシが荒磯に高校生として通ってた頃は、ここは開かずの資料室なんかじゃなくてちゃんとした普通の資料室だったのよ。だから昔は授業の準備のために、ここに入る事も結構あったのよねぇ」
「じゃあ…、先生もここに入った事あるんですか?」
「もちろん、あるわよ」
「そうなんですか…」
「けどね…、三年くらいの時だったから? 同級生が事故にあって亡くなってから、ここに幽霊が出るって騒ぎなって…、それから開かずってことになったのよ」
五十嵐はそこまで話し終えると、桂木の横に立っている相浦の方を見る。
そうしたのは、相浦が写真を見たまま固まっていたからだった。
相浦は写真を見てかなり驚いているようで、口をパクパクさせている。
何かを言いたいらしいのだが、どうやら驚きのあまり声が出ないらしかった。
「もうっ、しっかりしなさいっ!!」
「いっ、いてぇっ!!」
固まっている相浦を桂木がハリセンで叩くと、やっと相浦の口から声が出る。
相浦は一回だけ大きく深呼吸すると、写真に写っている高校生を指差した。
「こ、こいつが志島っ! こいつが開かずの間の幽霊なんだよっ!」
「それは本当なの?」
「何度も見てんだから、見間違いなんかじゃないっ」
「だったら…、開かずの資料室で幽霊してたのは、五十嵐先生の同級生ってこと?」
桂木はそう言うと、五十嵐に時任が志島の幽霊に取り憑かれていることを話し始める。
その話を聞いた五十嵐は驚いていたが、幽霊がいると言った桂木の言葉を否定したりはしなかった。
五十嵐は桂木の話を聞きながら、志島の写っている写真を見ると…、
哀しそうに微笑んで、軽く手のひらで古びた写真を撫でた。
「志島君が交通事故で亡くなったのは…、私が資料室に落ちてたこの写真を拾った翌日だったのよ…。だからこの写真は家族の誰かに渡したかったんだけど、渡せないままでいて…、そうしてる内にどこに置いたのか忘れてたわ…。でもこの間、本棚の掃除をしてたら本の間から出てきたのよ…、偶然にね」
「あの…、先生」
「なぁに?」
「志島君って、どんな人だったんですか?」
「うーん…、そうねぇ。あまり印象には残ってないんだけど、優しそうな人だったわよ?」
「先生好みの?」
「あらぁ、アタシの好みは久保田君に決まってるじゃなぁい」
「はいはい」
「でも…、資料室で写真を拾った日に廊下で偶然すれ違った時は…、すごく寂しそうだったわね。今も記憶に残ってるくらいに…」
「だったら、もしかしたらそんな気持ちのまま…、志島君は幽霊になったのかもしれませんね…」
色あせてしまった写真の中では、志島は少年と楽しそうに笑い合っている。
この時の志島の表情からは…、寂しさは欠片も感じられなかった。
夏らしい青い空と庭に植えられているヒマワリの花と…、そして母親らしき女性と…。
明るい太陽の日差しの中にいる三人は…、本当に楽しそうに笑っていた。
いつまでもいつまでも…、こんな日が続いていたらと思わずにいられないくらいに…。
五十嵐は桂木達と一緒に開かずの資料室に入ると、その写真も資料室の机の上に置く。
すると…、写真が白く窓からの光を反射した。
志島の顔は五十嵐も相浦も見覚えがあったが、実はその横いる少年の顔も見覚えのある誰かの顔の面影を残している。
そんな二人の頭上に写っている青空にも…、写真集に載っていたものと良く似た…、
真っ直ぐに空に向かって伸びていく…、白いひこうき雲が写っていた。
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