ひこうき雲.10




 さみしいという気持ちは…、悲しい気持ちにどこか似てる。
 そんな風に感じたのは、すごく懐かしいけれど肩が振るえてしまうほど、さみしい夢を見たせいかもしれなかった。けれどその夢は、目覚めてしまった瞬間にさみしい気持ちと一緒に心の中に溶け込んでしまったように消えてなくなって…、
 悲しさに似たさみしい気持ちの名残のような涙が…、時任の頬に伝っていた。

 「久保ちゃ・・・」

 伝い落ちる涙と一緒にまるで口癖のように、いつも誰よりもたくさん呼んでいる名前が口からこぼれ落ちてしまったのは無意識だった。
 朝、同じベッドで目覚めて…、そして学校に行って…、
 離れていた時間はまだほんのわずかなのに、もうずいぶん長い間会っていない気がして…、時任はぎゅっと目を閉じて右の手のひらをぎゅっと握りしめる。だが、目の前は目隠しをされていて真っ暗で、手も後ろ手でしばられていて自由がきかなかった。
 身体に感じる感覚で、なんとなくベッドのようなものに寝かされているのはわかったが、まるで霧がかかってしまったかのように頭がぼーっとしてしまっていて、自分の置かれている状況が判断できない。

 今の時任にわかってることは…、ここに久保田がいないということだけだった。
 
 夢の続きを見ているような気がして、頭を軽く振ってみたが頭がぼーっとしたまま治らない。少し気を抜けば、また意識を失ってしまいそうだった。
 目蓋が重くて開けているのがつらくて…、ここがどこかとか、なぜこんな風に縛られてるのかを考えようとするたびに波のように睡魔が襲ってくる。しかし、時任が意識を手放そうとした瞬間に、すぐ近くで聞いたことのある声がした。

 「今、また眠ればとんでもないことになるぞ」

 力強い口調でそう言われて、時任はハッとして目隠しをしたまま声のした方向を向く。すると目の前は真っ暗で何も見えなかったが、そこには何者かの気配があった。
 けれどそこにいるはずなのに、足音も息づかいも聞こえてこない。
 それは、時任のすぐ近くに立っている人物が幽霊だからだった。
 志島と名乗る幽霊は取り憑いているからなのか、時任が今いる場所まで一緒に来ているらしい。目隠しをされている時任には見えなかったが、さっきから志島は時任の寝ているベッドの横にずっと立っていたのだった。
 いつもと同じように…、じっと時任を見つめながら…。
 そうすることに何の意味があるのかはわからなかったが、志島のおかげでなんとか遠くなっていく意識をなんとかたもつことができた。
 「まさか…、ここが天国だとか言わねぇだろうな?」
 「言ってやってもかまわんが、ここが天国だったとしたら成仏したくなくなる」
 「…って、ここってドコだよ?」
 「天国に一番近くて、遠い場所」
 「近くて、遠い…?」

 「病院だ…。お前は学校から、車で病院に運ばれて来たんだ」

  階段から突き落とされてからの記憶はなかったが、この部屋から匂ってくる特有の薬臭い匂いから志島の言葉が真実だということがわかる。しかし頭を打ったから病院に運ばれたというのなら、こんな風に目隠しされて縛られている理由がわからなかった。
 だが、こんな真似をする相手が、頭を打ったからと親切に病院に連れてきてくれたとは思えない。学校で狙われていたのは香坂のはずだったのに、なぜか災難は時任の身に降りかかっていた。
 「なんで…、俺がこんな目に…」
 「しっかりしろっ」
 「わかってっけど…、頭ん中が…」
 「やはり、何か薬を使われてるな」
 「すっげぇ…、なんかねむくて…」
 「おいっ」
 また意識を失いかけている時任に、志島は必死で呼びかけていた。だが意識をいくら留めようとしても意識は遠く遠くなっていくばかりで、逃げ出す手段も何も考えることができない。
 かろうじて、自分の身に起こったことは思い出したが、やはりその記憶の中にも犯人の姿はなかった。
 屋上で志島と話していて、それから久保田の姿を見つけて…、そこから走り出して…、

 ・・・久保田に会いに行く途中で、何者かに階段の上から突き飛ばされた。

 誰が自分を突き飛ばしたのかは、顔を見れなかったのでわからなかったが、どうやら災難はそれだけでは終わらなかったらしい。気力をふりしぼって手首をしばっている縄をはずそうとしてみたが、思った以上にきつく縛られてしまっていた。
 足が自由なら逃げ出すこともできたかもしれなかったが、やはり足の方も動けないように縛られている。叫んで助けを呼ぶという方法もあるが、意識が戻ったことを犯人に知らせてしまう危険性が高かった。
 時任が唇を噛みしめながら軽く頭を振ると、志島がそんな時任の肩に向かって手を伸ばす。
 けれどその手は肩をすり抜けて…、その下にある白いシーツまで届いてしまっていた。
 「すまない…」
 「なに…、あやまってんだよ?」
 「助けを呼べたらいいんだが…、この病院には俺のことが見えるヤツはいないらしい。だから、助けを呼べないんだ…」
 「・・・・・そっか」

 「幽霊になってずいぶん時がたったが…、今になってやっと自分が幽霊だということがわかった気がする…」

 志島はポツリとそう言うと…、それきりしゃべらなくなった。
 こんな風に黙っているのはいつものことだったが、今は静かすぎる空気がさみしい気持ちになって心にしみこんでくる気がする。
 幽霊になってしまった志島の声は、助けて欲しいと頼んでも誰にも届かなくて…、
 呼び止めようとしてどんなに手を伸ばしても…、どこにも届かなくて…、
 まだここにいるのに…、いくら呼びかけても誰も志島の方を振り返らなかった。
 志島は暖かさも冷たさも何も感じられない自分の手のひらを見つめると、まるで何かをつかむように指を曲げて握りしめてみる。
 けれど、かつては誰かの手を握ることができた手なのに、今は何もかもすり抜けて…、
 もしかしたら手のひらの中には、空気すら入っていないのかもしれなかった。
 そんな自分の手を志島がじっと眺めていると…、目隠しをされているはずなのに…、
 なくなってしまいそうな自分の意識と戦っている最中のはずなのに…、時任が志島の方を向いて笑った。
 「ありがとな…」
 「俺はお前を助けられない。だから、礼を言われる覚えはないんだ」
 「けど、助けてくれようとしたんだろ?」
 「・・・・・・・」

 「だったら…、ありがとうに決まってるじゃんか…」

 眠そうな声で時任がそう言うと、志島は悲しそうな瞳で笑って…、
 それから、そんな瞳のまま病院の窓の方に視線を向けると、そこから見える綺麗に澄み渡った青い空を眺めた。
 けれど、その青空にはやはりひこえき雲の姿はない。
 時任があきらめずに眠気と戦いながら再び縛られている腕に力を込め始めると、志島は何かを思い出そうとするかのように目を細めた。
 「あの資料室に…、あそこにいたのは探してる物があったからだったはずなのに…、探している内に何を探してたのか忘れてしまった…」
 「それって…、今も思い出せないのか?」
 「資料室でお前に会った瞬間…、忘れていた何かが見えた気がした。だから、お前のそばにいたら何か思い出せそうな気がしていたが、やっぱり何も思い出せない」
 「…志島」

 「すごく…、すごく大切なものを探してたはずなのに…、それを忘れるなんて、俺はなんのために幽霊になんかなったんだろう…」

 志島の静かな声が…、空気を悲しく切なく振動させる…。
 胸の奥から湧き上がってくるさみしさも、悲しさも…、誰かの手と手をつないでいたかもしれない手も…、今は明るすぎる陽の光に透けていくばかりで何も見えなかった。
 なんのために…、なぜ…。
 そんな問いを何回も何回も繰り返して…、今は痛みだけが胸の中にあった。
 志島がその痛みを感じながら拳を握りしめると、時任は再び縛られた手を自由にするために腕に力を込め始める。だが、そうしながらなんとか脱出の手段を考え始めた瞬間に、時任の閉じ込められている部屋のドアが開いた。
 「今回はずいぶん苦労したんで、料金は設定の三割増でお願いしますよ、先生」
 「ははは、相変わらずがめつい男だ」
 「すいませんね、根っからの商売人なんで」
 「まぁ、いいだろう。希望の商品が手に入ったことだしな」
 「時任稔…。荒磯高校の中でも、橘遥と並ぶ特Aランクですからね」

 「あの写真で見た、綺麗な瞳が見れないのは残念だが…」

 そんな会話をしながら、ベッドに横たわっている時任に二人の男が近づいて来る。
 その気配を感じた時任は、腕に力を入れたままで身体を少し硬くした。
 会話の内容からも何か良くないことが、これから自分の身に降りかかることが十分に予測できる。時任は周囲の気配をうかがいながら、じっと二人の会話に聞き耳を立てていたが、その二人の内の一人の声に聞き覚えがある気がして眉をひそめた。
 聞き覚えがあるのは…、先生と呼ばれる人物ではなく先生に時任を売り渡した人物。
 しかし…、時任が知っているその人物、もやはり先生と呼ばれる立場の人間だった。

 「てめぇっ、体育の平塚・・・っ!!!」

 目隠しをされたままで相手の正体を悟った時任はそう叫ぶと、自分の方に手を伸ばしてきた医者らしき男の気配を感じて、縛られたままの足で男のわき腹を蹴る。
 すると男は、時任に触れる寸前でうめき声をあげて床にうずくまった。
 「・・・・・ううっ、こんなに凶暴だとは聞いていなかったぞ」
 「心配しなくても、すぐにおとなしくさせます」
 「それなら、別にかまわない。しかし、どうやら君の正体がばれているようだが?」
 「なぁに、サツにしょっぴかれるようなヘマはしませんよ」
 荒磯高校の体育教師で時任のクラスも教えている平塚は、そう言うと暴れている時任の腹に拳を食らわせる。その拳は手加減されていなかったので、時任は呼吸困難を起こして身体を小刻みに震わせた。
 「うっ…、あ…」
 「生徒は先生の言うことを、おとなしく聞いてなきゃだめだろう?」
 「だ、誰が…、てめぇの言うことなんか聞くかよっ」
 「前からお前のことは、執行部なんかやってて生意気で気にいらなかったんだよなぁ。いい機会だから、素直でいい生徒になれるように個人的に教育し直してやるよ、時任」
 「ざけんなよっ!! ヘンタイ教師に教育なんかされてたまるかっ!!」
 「優しくしてやろうと思ってたのに、ヒドイ言われようだ」
 「それ以上、俺に近づいたらぶっ飛ばしてやるっ!」
 「できるものならな?」
 「・・・・・・っ!!」
 平塚は下に落ちてしまっていた枕を拾い上げると、暴れている時任の顔に押し付ける。すると、もう一人の男が呼吸できなくて身動きの取れなくなった時任の足と腕の縄を切ってから、再びペッドのパイプに縛り直した。
 相手が一人ならこの隙をついて逃げ出すことができたかもしれなかったが、意識が朦朧としている上に二人が相手では手も足も出ない。
 枕から開放されて時任が激しく咳き込むと、そんな様子を見ていた平塚が時任の顎に手をかけて満足そうに笑った。
 
 「なぁに、やることは簡単だ。いつも久保田に向かってやってるように、ただ両足開いて寝転がってりゃいいんだよ」

 その言葉を聞いた瞬間に感じたのは、底知れぬ悪意だった。
 けれど…、おそらくそれは時任一人に向けられたものではない。強引に着ているパーカーを脱がされそうになりながら、時任は体育の時間になぜか平塚と久保田がにらみ合っていたのを思い出していた。
 いつのことだったのかは忘れてしまったが…、体育の時間に平塚が執拗に時任の身体に障ってきていたのは確かである。
 その時は久保田がにらんだのが効いたのか、それからはそんなことはなくなってしまったが…、胸の辺りを平塚の手が…、ズポンのベルトに医者らしき男の手がかかった時、その時に触られた時の気持ち悪い感触がよみがえって来た。
 「俺にさわんじゃねぇよっ、ヘンタイ野郎っ!!気色悪ぃんだよっ!!」
 「久保田が良くて、俺がダメということはないだろう?」
 「久保ちゃんをてめぇなんかと一緒にするなっ!! 久保ちゃんは俺の相方で…、それから…」
 「それから、好きだとでも言うつもりか? 同じ男である久保田を」
 「・・・・・・・」
 そう平塚に問いかけられたが、時任は黙ったまま答えない。けれどそれは答えを迷っていたのではなく…、こんな男に答えてやりたくなかっただけで…、
 抱きしめられてもキスされても…、さみしくてさみしくて…、
 胸の中がさみしい気持ちでいっぱいで…、苦しくて…、
 でも…、それでも変わらない気持ちを…、抱きしめていたい想いを伝えたい相手にしか、その答えを言いたくなかったからだった。
 けれど、そんな時任の気持ちをあざ笑うかのように、平塚はくくっと耳ざわりな嫌な声を立てて笑う。そして時任の首に両手を伸ばすと、今の自分の立場を思い知らせようとするかのように軽くしめた。
 「ヘンタイはどっちだよ? お前だって俺と同類だろ? だったら、おとなしくよがってりゃいい」
 「くぅ…っ、なにすん…」

 「今から最高に気持ちよくしてやるぜ。二度と久保田の元に帰りたくなくなるくらいに…」
 
 平塚はそう言うと、時任の敏感な部分に手と舌を這わせている客である医者の手助けをするように、縄をほどこうとあがいている足を押さえ込む。そしてきつく唇をかみしめている時任の鎖骨に唇を落とすと、自分のものであることを主張するかのようにそこにつけられていた赤い痕に軽く歯を立てた。
 目隠しをされて状況の見えない時任は、平塚と医者の二人から与えられる刺激に翻弄されて…、反応したくないのに身体を小刻みに震えてしまっている。こんな理不尽な真似をされて、久保田以外の誰かに触られても気持ち悪いだけなのに、身体が心に逆らって次第に熱くなっていたた。
 けれど今は熱くなればなるほど、心の中は冷たく凍っていく…。
 立ち上がったモノが包まれている生暖かさに反応して、腰が情けなく揺れてしまっても…、
 自分から腕を伸ばして抱きしめたいと思うのは、たった一人だけだった。
 「うっ、あぁっ…!!久保ちゃ…、久保ちゃん!!」
 「いないヤツの名前なんか呼ぶなよ、時任。 今からお前を抱くのは久保田じゃない」
 「…っ! や、やめろっ!」

 「もうガマンできないみたいなんで…、入れてやってくださいよ、センセイ」

 後ろの部分に何かが押し当てられる濡れた感触を感じて、時任はそれを避けるようにずり上がりながら身体をひねったが、両足を捕まれて身動きが取れない。手を伸ばしてベッドのパイプを握りしめたが、それ以上は逃げられなかった。
 けれど時任はあきらめずに縛られた手に力を込め続けながら…、どうやって逃げるかということとだけしか…、久保田の元に帰ることだけしか何も考えていなかった。
 それは帰りたい場所も…、帰る場所も…、

 何があっても、何が起こっても…、久保田のそばだけだったからだった。
 
 自分に触れている手が…、自分を犯そうとしている誰かが…、久保田だと思い込むことができたら、少しは楽なのかもしれない。けれど、何度もキスした唇も抱かれた身体も…、久保田と誰かを間違えるなんてあり得なかった。
 抱きしめて抱きしめ合って…、心で身体で覚えた久保田の感触は…、たとえ瞳が暗く閉ざされていたとしても忘れることなんてできない。
 けれど、いくら久保田の名前を呼んでも…、暖かい手のひらに触れたくて腕を伸ばしてもここからは届かなかった。
 「気のせいではもう済まされないが、今度の診断書はなんと書いた方がいいと思うかい?」
 「死亡届けだけはさすがに避けたいですが…、状況次第ってとこです」
 「…今度、学校を移ると聞いたが?」
 「そろそろヤバそうなんで、舞台を代えようと思いましてね。香坂には偵察のために先に転校させる予定ですよ」
 「香坂か…。料金をはずむから、あの子もまたココに呼べないか?」
 「それを聞いたら、よろこんで来るでしょう。香坂は無類の金好きなんでね」
 「なるほど、金好きなのはいいことだ。私とシュミが合いそうだよ」
 「それなら、俺もお仲間ってことで」
 「では…、この元気のいい子猫を仲間らしく、一緒にかわいがってみるってのはどうだい?」

 「・・・・・・よろこんでご一緒させて頂きますよ、もちろん仲間としてね」

 握りしめすぎた時任の手が白く白くなってしまっていても、それを平塚も医者も気になどしていない。欲望を満たすために目の前にある細い身体に手を伸ばしながら、二人はお互いの動向をさぐるように不気味に微笑み合っていた。
 平塚の手で舌を噛まないように口の中にタオルが突っ込まれて…、もう久保田の名前を呼ぶこともできなくなって…、
 けれど、時任は助けてくれと誰にも…、そばにいる志島にも泣いてすがったりはしない。
 手が白くなっているのはこれから起こる衝撃にそなえているのではなく…、あきらめずに腕や足に力を込めて自分の力で縛られた縄を切ろうとしていたからだった。
 あの放課後の青空の広がる屋上から階段を駆け下りて走った時のように…、
 想いのある場所まで…、久保田のいる所まで…、ただ真っ直ぐに走って行くために…。

 『・・・・・・・・久保ちゃん』

 時任の声にならない声が久保田を呼んで…、一筋だけ涙がさみしい夢を見た時のように頬をすべり落ちる。すると、その涙を見た志島は白くなってしまった時任の手に、触れられるはずのない自分の手を伸ばして触れようとしながら…、
 歯をギリリと噛みしめながらきつく硬く瞳を閉じた。

 「誰かを憎めば…、誰かを恨んで幽霊になれば、こんな想いをしないですんだのか…。この手で、誰かを助けることができたんだろうか…」

 その志島の呟きは誰の耳にも届かず、伸ばした手のひらもやはりすり抜けていくだけで…、時任の手を握りしめてやることすらできない。志島は痛みに満ちた顔で再び瞳を開けて時任の涙をぬぐってやろうとしながら…、
 いつだったか…、こんな風に誰かの涙をぬぐおうとしたことがあるような気がしていた。
 けれど…、やはりその記憶もおぼろけではっきりと思い出すことができない。
 大切だった思い出も…、涙をぬぐいたかった大切だった誰かも…、

 いつか見た…、ひこうき雲の彼方に消えてしまっていた。

 志島は痛み始めた胸を抱えながら、時任の上にのしかかろうとしている医者と平塚を止めようとしたが…、二人とも霊感がないのかなんの影響も与えることができない。
 二人にとって志島の存在は…、この部屋に満ちている薬の匂いの混じった空気と同じだった。
 志島は幽霊になってから始めて、時任の自由を奪って犯そうとしている二人に殺意を感じて…、無意識の内に部屋全体にその殺意を伝染させ始める。
 けれどその時、つながってしまっている魂の部分から…、時任の声が聞こえた。
 『なにもできなくっても…、恨んで憎んで幽霊になったよりか何倍もマシじゃんか…』
 『・・・・・時任』
 『だって、そうだろ?』
 『・・・・・』

 『どうせ幽霊になるんだったら…、恨んで憎むよりも…、会いたいヤツに会いにいきてぇじゃん…。恨んでるヤツのトコよりも誰よりも好きな…、大好きなヤツのトコに…』
 
 時任の言葉を聞いた瞬間…、もう何もかもなくなってしまっていたと思っていた志島の心の中に…、ある風景が浮かんできて…、
 その中で笑っている自分と…、少年の姿が見えてくる。
 忘れてしまっていたと思っていた場所も…、大好きな人の顔も…、
 陽の光の差す庭で鮮明で鮮やかで…、そんな遠き日の思い出がなによりも愛しく胸の奥を熱くさせて…、
 乾いてしまっていた志島の瞳に…、暖かい涙があふれ始めた。

 「俺は…、俺は帰りたかったんだあの庭に…、みんながいるあの場所に…」

 志島はそう呟くと…、窓から見える青空を見上げる。けれど、その青空にはこの部屋で起ころうとしている惨劇も…、志島の悲しさもさみしさもうつってはいない。
 だが…、志島は近づいてくる車の急ブレーキを聞いて痛みとともに意識が遠くなった…、もう指きりして約束したことが守れないと悟った遠い昔のように…、
 もう会えないと知ったあの瞬間のように…、両手を青い青い空に向かって伸ばした。

 『頼むから…、たった一秒だけでもいいから・・・・・・・、カミサマ』

 いくら手を伸ばしても…、いくら祈っても…、声も願いも届かない。
 遠い日に見た空も…、今見た空もこんなにも青く澄んでいるのに…、

 届かない手のひらの冷たさだけが…、あの日と同じだった。




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