ひこうき雲.11




 目の前に見えるのは灰色の街で、その街をたださまようように歩いていくなら…、
 もしかしたら、すぐに行き止まりにたどりついてしまうのかもしれない。
 けれど、同じ行き止まりにたどりついてしまうということがわかっていたとしても、目の前に青い空が広がってるなら、そこから走り出して…、
 ただ…、君とどこまでもどこまでも行きたかった。
 どこまでもどこまでも…、君と一緒に…。
 大好きな…、君と一緒に…。

 どんな時でも…、いつの日にも…。


 まるでそこに残る想いが降り積もったかのように、埃がすべてを覆いつくした廃屋を出ると、久保田は香坂から聞き出した場所に向かって走り出す。
 けれど走るだけでは間に合わないから、途中で置き去りにされた自転車をひろって…、
 でも…、それでも間に合わないかもしれないことはわかっていた。
 ちゃんと守ると誓っていたはずだったのに、油断して少し目を離した隙にさらわれて…、
 いつもいつも一緒にいるばずだったのに…、誰よりも近くにいるはずだったのに…、こんな時に限ってそばにはいられなかった。
 だから早く手の届く場所までたどりつきたくて…、気持ちばかりが先へ先へと走って…、
 それに追いつこうとして、追い越そうとして…、きつい斜面の坂を上るために一気に思い切りペダルをこぐ。すると空から照りつける日差しが暑くて、まぶしすぎて…、けれど久保田は流れ落ちる汗をぬぐいもせずに時任のいる場所に向かっていた。
 
 『・・・・なぁ?』
 『うん?』
 『もしも…、俺が志島みたいに…』
 『なに?』
 『やっぱ、なんでもない…』

 目の前に続くアスファルトの道を眺めていると…、ふと、昨日の夜の眠る直前にに時任が言った言葉を思い出す。けれどあの時、本当は何が言いたかったのかわかっていたのに、久保田は毛布にくるまっている時任を抱きしめただけで何も答えなかった。
 けれどそれは…、この先どんなことがあっても何が起こったとしても…、時任を抱きしめてる今だけが久保田にとっての現実だったからかもしれない。
 だからもしもなんて考えるよりも、抱きしめてる今だけが大切だった。
 いくら抱きしめても抱きしめても…、時任がさみしそうな顔しかしてくれなくても…、
 
 時任といる今だけが…、すべてだった…。

 たとえ愛しい時間も日々も…、ただあの廃屋に積もる埃のように…、
 いずれはあの部屋をただ白く染めるだけのものでしかなくても…、失っていい日々も時間もどこにもなかった。だからそれを守るためになら、あの廃屋を燃やし尽くしてしまっても後悔はしないはずで…、
 けれどあの時、廃屋と一緒に燃やしてくれと言った香坂の前で、久保田の手からすべり落ちたライターは…、

 何も燃やすことなく…、志島のノートの上に落ちたのだった。

 落ちたライターはどこにでも売っているような100円ライターだったが…、実は少し前にそろそろなくなりそうだったからと言って、時任がコンビニで買ってきたもので…、
 そのプラスチックの安そうな青い容器に入った液体は、さっき使った分でなくなってしまっていて…、いくらこの廃屋を燃やそうとしても再び火をつけることはできなかった。
 久保田は落ちたライターを拾い上げて軽く振ると、それを見ながらまるでここにいない誰かに向かって微笑みかけるように…、口元に柔らかい笑みを浮かべる。
 そして、もう使えなくなったライターをポケットにしまうと…、何か言いたそうにしている香坂の方を見ようともせずに志島の部屋の出口に向かった。
 
 『い、居場所も知らないのに、ここから出てどこに!?』
 『・・・・・時任のいるトコ』
 『時任先輩のいるとこって…。居場所知ってるのは僕だけだし、絶対に見つからない場所だから、いくら探したってムダだって言ってるじゃないかっ!!』
 『ムダかどうかなんて、探してみなきゃわかんないっしょ?』
 『・・・・・わかるよ。ダメな時は、何をしたってダメだって決まってる。けど、もしも奇跡を信じてるっていうなら、願い事が叶うように神様に祈れってみればいいよ…』
 『そうすれば、願い事なんて叶わないことと、カミサマがいないってことがわかるから?』
 『・・・・・・・・そうですよ』
 『確かに願いゴトを叶えてくれるのがカミサマなら、そんな神様はどこにもいないかもだけど…、信じてるモノがカミサマだとしたら…』
 『・・・・・・・・』

 『青くて手の届かない空じゃなくて…、もっと近くに…、手の届く場所にいるのかもね?』

 信じたいって願うのじゃなくて…、信じようって想うのでもなくて…、
 ただ見つめ合って…、手をつなぎあっていられればそれで良かった…。
 信じてるのは変わるかもしれない恋する人の気持ちじゃなくて…、自分の中にある愛しさと恋しさが本物だってことだったから…、
 それだけを知っていれば良かったから…、道を迷うことも間違うこともない。
 いつだってどんな時だって…、胸の奥の抱きしめるように細い身体を抱きしめることができるなら、それでだけで良かった…。
 
 ただ…、それだけだった…。

 久保田が床に積もった埃を踏みしめながら再び歩き出すと、その後ろから時任の居場所を告げる香坂の声が聞こえたが振り返らずに廃屋を出る。それから走り始めた道は思った以上に遠くて…、流れ始めた汗がシャツの背中を濡らしていた。
 けれど張り付いたシャツを気にしている余裕なんてあるはずがなくて…、久保田は香坂の告げた病院の前に到着するとその場に自転車を乗り捨てて…、
 時任がいるかもしれない病院の中に、さっきまでの汗が流れるほどの暑さをわずかも感じさせない凍りつくような表情のまま入っていった。 
 久保田が白い廊下を歩いていくと一瞬だけ、患者でひしめきあっているロビーが静かになる。すると受付にいた髪の長い女の事務員も、いきなり辺りが静かになったので驚いて、その原因になっているらしい久保田の方をじっと見つめていた。
 けれど久保田が声をかけると、自分がじっと見つめていたことに気づいたのかビクッと肩を震わせる。久保田の口元は感情の読めない笑みを浮かべたが、凍りつく冷ややかな色を浮かべた瞳がそれを裏切っていた。
 「スイマセン」
 「は…、は、はいっ」
 「ちょっと、ヒト探してるんですかけど?」
 「ほ、放送でお呼び出ししてみましょうか?」
 「なら、男子高生襲うのが趣味のヘンタイ医者って呼んでくれない?」
 「えっ?!」
 「…ってのは冗談だけど、この病院で使われてない病室の場所教えてくれる?」
 「そ、そんな場所…、聞いてどうするんですか?」

 「・・・・・・・そこに、ウチの猫がいるもんで」

 事務員は久保田の迫力に押されて、使われていない病室のある階と部屋番号を言う。
 すると久保田は礼を言ってから、一番上の方にある使われていない病室を目指した。
 そうした理由は、その病室が使われていない訳が他の病室と違っていたからである。実はその四階の一番端にある病室はだけは、幽霊が出るという噂があって、どんなに病室が満室でも使われないことになっていたのだった。
 開かずの病室になっていて、患者や看護婦の中では通りかかった時…、病室内から不気味なうめき声がもれてくるのを聞いたという者もいる。だが、荒磯高校の開かずの資料室は本当に幽霊がいたが、この病室には志島のような幽霊はいなかった。

 部屋から漏れる不気味なうめき声と…、何者かが中にいるような気配…。

 どうやら、もこの病院の医者は幽霊の噂があるのを良いことに、それを利用して悪事を働いているらしい。久保田は部屋の前にたどりつくと、ドアに鍵がかかっているかどうかを確認するまでもなく右足で勢いよくドアを蹴破った。
 するとその音は病院の廊下に大きく響き渡ったが、中にいる人物は少しも驚いた様子もなく身動き一つしない…。時任を連れ去った犯人の男と医者…、二人の男は細い身体にのしかかったまま、まるで時を止めたように動かなくなっていた。
 そしてその横には…、荒磯高校の制服を着た見覚えのある男子生徒が一人立っている。

 それは…、時任に取り憑いていた志島だった。

 志島はゆっくりとドアの方へと鋭い視線を向けると、責めるような瞳で久保田の方を見る。
 この状況を作り出したのが志島なのかどうなのかはわからなかったが、今、この部屋の中で動けるのは志島だけのようだった。
 声は久保田の耳まで届かなかったが、時任の頬に流れた涙の跡を触れられない指先でたどりながら志島の口元が言葉を綴る。
 その言葉は…、やはり瞳と同じように久保田を責めていた。

 『みんな、お前のせいだ。こいつがこんな目にあわなくてはならないのも、こんなに哀しい瞳で泣いているのも…、全部…、すべてお前のせいだ』

 志島はそれだけ言うと、窓から見える青空の中に溶けていくように消えていく…。けれど、この部屋から消えたのは志島の気配だけではなく…、もう一つの別の気配も消え去っていた。
 そして、それと同時に何事もなかったかのように部屋の中の時間が動き始め、時任の身体にのしかかっていた医者が自分の欲望を満たすための行動に移ろうとする。
 だが、時任を犯そうとした瞬間に…、その身体がカエルのような無様な格好で宙を舞った。
 「・・・・っ!!!」
 「お前はっ、く、久保田っ!!!」
 あまりの痛みに蹴られた腹を抑えてうずくまった医者のそばで、時任をさらった男が恐怖に引きつった叫び声をあげる。けれど久保田は容赦なく、その男をゴキィッと妙な音がするくらいの勢いで蹴り倒すと、その顔面を靴底で踏みつけにした。

 「その猫…、うちの子なんで返してもらえます?」

 久保田がそう言うと、ベッドの上で熱くなっていた医者と男の身体が凍りつくように冷えていく。普段はいつも浮かんでいる笑みが久保田の口元から消えて…、瞳も暗く冷たく沈んでいた。
 志島が時任を犯そうとした二人に浮かべた殺意とは比べ物にならない…、視線だけで人を殺そうとしているような凄まじい殺意。
 その殺意を感じた医者と男は、肩だけではなく全身までガタガタと震え出す。
 医者は震えの止まらない手で、ポケットの中に入っている携帯電話で色々と世話をしている暴力団関係者の番号を押そうとしたがうまくいかなかった。
 携帯の存在に気づいた久保田は、軽く医者のみぞおちをわざと靴の爪先で蹴る。
 すると、医者はあまりの痛みと苦しさに、床に胃袋の中のものを吐き出した。
 「うーん、まだぜんぜん足りないなぁ。ココって病院だし、せっかくだからアバラ全部逝っとく?」
 「た、頼む…、金ならいくらでも払うから…、もうカンベンしてくれっ。金額無記入の…、こ、小切手を渡すから…」
 「お金、ねぇ?」
 「き、きちんと全額払う…」

 「けど、命ってお金で買えないんじゃなかったっけ?」

 時任を犯そうとした医者は、久保田の言葉を聞いて次第に顔が青ざめていく。しかし、もう一人の男の方は震えながらも久保田に襲いかかる隙をうかがっていた。
 時任の足と手を縛っている縄をほどいくと、久保田は赤くなって縄ですれてしまった手首と足首を優しくなでる。そして瞳をかくしている目隠しを取ると、肩口に顔を埋めながら力の入っていない時任の身体を、ごめんねっていつもみたいにあやまることもなく、ただ優しく包み込むようにぎゅっと抱きしめた。
  けれと゜、ゆっくりと手を伸ばして髪を撫でても…、軽く涙の跡に唇を落としても…、やはり時任の身体はピクリとも動かない。
 やっと手の届く場所までこれたはずだったのに…、時任はすでにここにはいなかった。

 まだ暖かなぬくもりの残った…、身体だけを残して…。

 久保田は傷ついて赤くなった手首に、手のひらで触れてキスすると…、そっと時任の身体を抱き上げて空に溶けていなくなってしまった志島の跡を追おうとする。
 だが、そんな久保田の背後から病室に置かれていた花瓶を持った男が近づいていた。
 男は平塚という荒磯高校の体育教師で、久保田には時任のことで痛い目に遭わされたことがある。しかし、それでも平塚は時任のことがあきらめられなかったようだった。
 平塚の手で花瓶が勢い良く振り下ろされ…、時任を抱えて動きの鈍い久保田の急所を直撃しようとする。
 しかしその時…、何かが飛んできて平塚の顎に勢い良く当たった。
 久保田が飛んできて床に落ちた何かに視線をめぐらせると、そこには一足の靴が落ちている。
 靴が飛んできたのはどうやらドアが破壊されてしまっている入り口からのようだったが、そちらの方を見る前に靴の持ち主がすぐにわかった。
 いつも久保田や時任に向かって振り下ろされる白いハリセンと…、歯切れの良い口調。
 執行部を裏でも表でもまとめている、執行部の紅一点。
 久保田に言われて学校で時任を探していた桂木は…、なぜか部員達と一緒にここに来ていた。
 自分の教えている生徒達の姿を見た平塚は、大きく目を見開いて固まっている。
 ぐったりとしたようすで久保田に抱き上げられている時任を見た桂木は、怒りに満ちた表情で平塚をにらみつけた。
 「学校では後ろから花瓶で人を殴ることや、監禁して暴行することを正しいって教えてたのかしら? ねぇ、先生?」
 「か、桂木…」
 「あんたの体育の授業なんて、受けるんじゃなかったわっ。だって、教えてもらうことなんて一つもないしねっ」
 「これには…、ちょっと事情があって…」
 「事情?! 生徒を強姦するのに何か事情があるとでもいうつもり? 言い訳なんて見苦しいだけだから黙んなさいよっ!!」

 「く、くそぉっ…!香坂の野郎が裏切って密告しやがったなっ!」

 誰も知らないはずのこの場所に久保田だけではなく執行部まで来たことで、平塚は香坂が裏切ったことがわかったらしい。だが、相手が一人なら口封じをすることもできるかもしれないが、これだけの人数が相手ではもうどうにもならないに違いなかった。
 平塚はまだ床にうずくまってうめいている医者を置いて、とにかくこの場を乗り切るために部屋から逃げ出そうとする。
 しかし、そんな平塚の頭に桂木のハリセン、そして身体には松原の木刀と室田の拳が炸裂して…、最後に一番の急所である股間を相浦の足が蹴り上げた。

 「悪のあるところに正義ありっ!校内の治安を守る私立荒磯高等学校執行部参上よっ!」

 医者と同じように床に倒れてうずくまった平塚の前に、そう言いながら腕に腕章をつけた桂木が立つ。事件を公にしたくない理由で、事件は生徒会本部が犯人を捕らえようとしていたが…、
 やはり犯人を捕らえたのは、校内の治安を守る執行部だった。
 久保田が廃屋からいなくなってから、香坂がすぐに時任の居場所を執行部や生徒会本部に連絡するために携帯で電話したのだが…、
  電話の内容が真実かどうかを考えていた松本よりも、時任を心配して無事であることを祈っていた桂木の方が動きが速かったのである。

 「久保田君…、時任は・・・・・」
 
 桂木は平塚の方から久保田の方に視線を移すと、この騒ぎにもピクリとも動かない時任の方に近づく。けれど、桂木がすぐそばで時任の名を呼んでも、時任の瞳は開かなかった。
 顔色もだんだんと悪くなっていっているように見えて、桂木は心配そうな顔を久保田の顔を見上げる。すると、久保田は抱える手に少し力を込めながら、身体を残してどこかに行ってしまった時任の涙の跡の残る哀しそうな顔を見つめた。
 「ココには時任はいなかったから…、また探しに行かなきゃね」
 「い、いないって…、時任ならちゃんとここに…」
 「これは抜け殻…。時任のココロも魂もここにはないよ」

 「そんな…。ココロも魂もここにはないって…、それって…」

 そう言いながら時任の顔を久保田と同じように見つめながら、桂木の瞳が不安に揺れる。
 目立った外傷はなかったが、まるでその存在が薄くなっていくように顔色が紙のように白くなっていく様子は…、見ているとよくないことを想像して鼓動が早くなって…、
 桂木は自分の不安がただの取り越し苦労だということを確認するために、縛られた跡のある時任の手首に指を当ててみたが…、
 やはり指先からは…、時任の鼓動は伝わってこなかった…。

 「早くっ!! 早くお医者さんにっ!!!」

 桂木はそう叫ぶと廊下に走り出そうとしたが、そんな桂木を久保田が呼び止める。
 そして近くに立っていた室田に時任の身体を渡すと、ゆっくりと目を閉じながら冷たくなっていく時任の手を持ち上げて、その手のひらを自分の頬に押し当てた。
 すると…、そこからはまだ残っている時任の体温が伝わってきて…、
 その暖かさになぜか懐かしさを感じながら…、久保田の瞳がわずかに開く…。
 けれど、その懐かしさは思い出になったから懐かしいのではなく…、いつも感じていたいぬくもりだったから…、こんな風にゆっくりと胸に心に染みていくくらい懐かしくて…、
 いつかの日に笑い合いながらそうしたように…、久保田は自分の額を時任の額にくっつけた…。
 「桂木ちゃん…」
 「・・・・なに?」
 「今度こそちゃんと迎えにいくから…、時任のこと頼むね」
 「それは、それはいいんだけど…、でも…」
 「大丈夫だから…、きっとまた目を開くから…。だから時任の目が覚めたら俺のかわりにおはようって…、そう言ってやってよ」
 「久保田君…」

 「いつもと変わらない日が、見えない明日が…、当たり前にやってくる今日の日になるように…」
 
 久保田は頬に感じているぬくもりを暖かさを惜しむように、ゆっくりと顔をあげて頬に当てていた手を離すと…、時任の耳元で何かを囁きかけてから再び走り出す。
 鮮やかな空の青の中に溶けて消えた志島と…、その志島と一緒に消えた時任を探すために…、
 病院を出る瞬間に入ってきた松本と橘とすれ違ったが、名前を呼ばれて呼び止められても、久保田は振り向くことも立ち止まることもなかった。
 暑い日差しの中を走り始めた久保田の後ろ姿を見送るしかなかった松本は、病院の入り口で上空に広がる青空を見上げながら…、
 「自販機の前で10円貸した日は寒かったが…、今日は本当に泣きたくなるくらい暑いな…」
と、隣にいる橘に言ったのか、それとも去っていく久保田に言ったのかわからない口調でそうつぶやいた。そんな松本のつぶやきを聞いた橘は、そうですねと答えただけで同じように青い空を見上げると…、その青のまぶしさに思わず眼鏡の奥の目を細める。
 もしかしたら二人の間の距離は…、こんなに手が届くほど近くにいるのに…、
 今は離れ離れになってしまっている久保田と時任よりも…、

 ずっと…、遠いのかもしれなかった。




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